六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

赤かぶの酢漬けが好きな女性

2016-11-30 15:33:07 | ひとを弔う
 赤かぶの酢漬けが好きな女性とつい最近まで一緒に暮らしてきました。
 
 11月19日、雨がそぼ降るなか、滋賀県は湖北の紅葉の名勝、鶏足寺を訪れましたた。彼女はお留守番。
 帰途、訪れた道の駅で、野菜をお値打ちにゲットしました。
 ネギ一束、日野菜一束、唐辛子一束、それに赤かぶの中玉二個で500円でした。とてもお値打ちですね。
 ネギはともかく、唐辛子は干して鷹の爪として用いるつもりで吊るしました。
           
 日野菜はネットを参照しながら、少しばかり凝った漬物にしました。
 21日、彼女は、「ちょっと変わった味だねぇ」といいながらそれを食べました。
           
 赤かぶは時差をつけて遅らせ、11月22日に漬けました。
 当初、少し意地悪をして、「今度は塩漬けにしようかな」というと彼女はムキになって「嫌だ、酢漬けがいい」といいつのります。
 もとより、こちらもそのつもりでしたから、「わかった、わかった。酢漬けにするよ」といいました。

 彼女の好みはあまり酸っぱくはなく、千枚漬けのように甘口のほうだと心得ていましたから、そのつもりで作りました。いつもより甘みが強すぎたかもしれません。
 「今日はまだだめだから、明日になってから食べ始めようね」といいました。「楽しみだよねぇ」と彼女。

 その後、19日に撮ってきた紅葉の写真、何十枚かをスライドのように見せました。
 「きれいだねぇ、きれいだねぇ」と幼子のように見入っていました。一巡して最初に戻っても飽きることなく見ていました。
           
 赤かぶは、酢に入れた瞬間から赤味を増し、どんどん鮮やかな色になってゆきます。
 夜になって点検し、味見をした頃には、既に全体が真っ赤に染まっていました。そして、これは彼女の好みの味だと確信がもてました。

 しかし、彼女はそれを味わうことができませんでした。
 赤かぶが、これ以上赤くはなれないというほどに赤く染まった頃、彼女は急逝してしまったからです。

 できあがった赤かぶの酢漬けの一部は、ラップをして彼女の棺の中に入れました。せめて、冥土への旅路で味あわせてやりたかったからです。
 私には、もうその声は聞こえませんが、きっと、「こんどは少し甘かったよねぇ」といっているのではないでしょうか。

 息子夫妻にその物語を告げ、かなりのぶんを持たせてやりました。娘も食べました。私も箸をつけました。気づいたら、大きなガラス鉢にいっぱいあったのが、こんな小鉢におさまるほどになっていました。
           
 あったもがなくなるということは寂しいものです。
 時間とはあったものがなくなり、なかったものがあるようになることだといわれていますが、私の年齢になると、あったものがなくなるということのほうがはるかに多くて、私自身がやがてなくなる身だということを痛感するのです。

 赤かぶの酢漬けが好きな女性は、いまごろ、どこを旅しているのでしょうかねぇ。










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お知らせとお詫び

2016-11-23 18:39:28 | 日記
 いつも、拙ブログをご覧いただき、ありがとうございます。
 この22日から23日の夜半、つれあいに急逝されてしまいました。
 ショックやら何やらで、当面は書き込みもできませんし、皆様から頂いたコメントにも対応いたしかねます。
 ご無礼の面が数々あろうかと思いますが、なにとぞ、事情ご賢察の上、ご寛怒くださいますようお願いいたします。
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滋賀県湖北地方へ 雨をついての紅葉狩り

2016-11-22 14:59:07 | 旅行
 昨年は何やかやで紅葉狩りには行けないままだった。
 今年こそはと思っていたところ、今年はこの地区のクラブ活動の一環として、滋賀県の湖北方面の石道寺、鶏足寺(旧飯福寺)へ行くことができた。
 しかし、11月19日(日)は何度天気予報を見直しても90%の確率で雨。まあ雨中の紅葉もいいかと覚悟を決めはいたが、最近の天気予報はなかなかの的中率、やはり当日は雨。
 
 ひと様の運転は楽だ。前夜の睡眠不足もあって、うつらうつらの往路。ところどころで目を開けたが、気がつくと幹線道路とは外れて、対向車とすれ違うのが困難なほどの曲がりくねった田舎道。
 ん?ここはどこ?と思っているうちに車が止まり、ここが目的地という。
 
 着いたのはいいが雨は土砂降り一歩手前の激しさ。古い雨合羽をもってきてよかった。駐車場から少し登ると石道寺とある。どうやら鶏足寺とは境内が続いているようだ。
 こんな雨中にもかかわらず結構な人出。私が知らなかっただけで、紅葉の名所として知られたところらしい。
 
 観光バスも客を吐き出している。中国か台湾からの団体もいる。せっかく来てくれたのに、雨はいくぶん気の毒だ。
 しかし、私の勝手な感想からいうと、雨の紅葉もなかなかしっとりしていて良いものだ。それにその雨も次第に小降りになってきた。
 
 肝心の紅葉の方だが、これがいい。これまで観たうちでは(といってもそんなにあちこちへはいってはいないのだが)、ベストスリーには固い。
 紅葉の密度がすごいのと、樹齢が適しているといおうか、紅葉の広がり感が半端ではない。紅葉のなかにすっぽり包み込まれた感じで、対象として紅葉を観るというよりそのなかにいるという感じがする。
 
 木々の紅葉もだが、ややピークを過ぎたのか、地上に敷き詰められた錦織の絨毯が素晴らしい。上下左右から紅葉の集中砲火を浴びている感がある。
 それらを堪能し、それまでは比較的緩やかだった階段や坂道が、やや急峻な石段の辺りまで来ると、鶏足寺本堂まで900メートルの表示が。
 
 時刻を確認すると、集合時間までにあと一時間を切っている。ここまでに既に1キロ近くを歩き、さらに一キロ近くを往復して時間内に戻る自信はない。雨降りの階段、足を滑らせたりしたらと、今年の私のメインエベントだった左手の骨折を思い起こす。
 
 そこで、その石段だけは登って、これまで来た参道を見下ろす地点で写真を撮り、駐車所へと戻ることに。
 当たり前のことだが、風景というのは見る視点や方向によって変わるもの、帰りは帰りで結構撮影スポットがあり、それらを撮しながら帰ったら、ちょうど集合時間ぐらいだった。
 ちなみに、雨はほとんどあがっていた。
     
 昼食は途中の道の駅のようなところで摂る。かき揚げそばと鯖寿司がセットになったお勧めランチを注文。
 そばはたぶん冷凍の戻しで、熱湯で10秒ほどのところ、多忙で戻しすぎたのだろう、伸び切っていた。ちなみに、冷凍のそばでも、戻しをちゃんとすれば、そこそこコシがある。
 
 鯖寿司の方は、小浜からこの辺りを通って京へ向かう鯖街道の名にちなんでいるだけあって、鯖にはまだ赤味が残っていてそこそこ美味しかった。鯖寿司定食というのがあったからそちらにすればよかったと悔やんだが後の祭り。
 写真は撮り忘れた。早朝出発で朝飯抜きで、がっついていたからである。
     
 続いてやはり湖北の在原集落を訪れる。ここはその名の通り、「伊勢物語」の主人公、在原業平の終焉の地といわれ、その墓所もあるというが、史実としてはしかとは確認されてはいないようだ。
 業平ときくと、百人一首に精通していらっしゃる方は、「ちはやふる 神代もきかず 竜田川 からくれなゐに 水くくるとは」の歌を思い起こされることだろう。なお、この歌の解釈をめぐる落語が文字通り「ちはやふる」である。
  
 ちょっと変化球を好む人には、「やわやわと 重みのかかる 芥川」の江戸古川柳が面白いかもしれない。
 芥川とは平安時代の色男、在原業平が二条后を盗み出し、背負って渡ったという川の名前。絶世の美女の柔らかさを堪能したことがうかがえる結構エロティックな句である。
    
 ここでの見どころは、いまなお残る茅葺きの里。ただし、ほとんどはトタンなどでカバーされていて、茅葺きが露呈されている家屋は少ない。茅葺きを維持するには大変な苦労を伴うことからして、これはやむを得ないであろう。
     
 最後は、高島市マキノ高原のメタセコイアの並木に立ち寄った。
 この頃にはすっかり雨も上がって、訪れる人たちも数多い。中にはマナーの悪いのがいて、片側一車線の並木のど真ん中に停車している馬鹿のせいで、その付近で時ならぬ渋滞が起こっている。
      
 ここはこれで4度目で、この紅葉の時期は好まれるようだが、私は一度だけ訪れた新緑の時期の光景が忘れがたい。
 すくすくと伸びるこの樹の生命力を象徴するような新緑、それをまとった樹々は誇らしげに天を目指してそそり立っていた。

 晩秋の日は落ちるのが早い。曇りがちの4時ともなれば、車のライトがつく時間だ。
 そこを最後に、帰途についた。
 

 一日、家を空けたみかえりに主夫の勤めとして、道の駅での野菜の買い物。ネギひと束、日野菜ひと束、赤かぶ2玉、唐辛子ひと束、合わせて500円。
 日野菜は漬物に、赤かぶは酢漬けに、唐辛子は乾燥させてここ半年ぐらいは使えそうだ。

 紅葉狩りの話が、結局所帯じみてしまうところに私はいる。
 



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若い人に観てほしい 『この世界の片隅に』

2016-11-18 00:51:09 | 映画評論
 名古屋へでての会合の後、映画を観る。
 本当はこの映画を予定していなかったのだが、会合が早く終わったのと、諸般の事情で私自身も早く帰りたかったので、時間を繰り上げて観たのが『この世界の片隅に』(監督:片渕須直 原作:こうの史代)というアニメ映画。
 これが予想以上に良かった。
 以下その感想だが、ネタバレはないと思う。

             
 素朴でほのぼのとした画風で、戦前(一部戦後)の庶民の日常をその喜怒哀楽とともに描きながら、それらの人たちにとっては、外部であるかのようにじわじわっと侵入してくる戦争という黒い影。
 しかし、それは事後的にそれを見ている私の視線で、その登場人物たちはいつの間にかそれらへと誘導されるのであり、それを観ている私もまた、それを彼らとともに体感しているかのように受容することとなる。

          
 この主人公より一世代ほど下の私にとっても、そうだった、そうだったとうなずける日常が衣食住にわたるしっかりした時代考証とともに繰り広げられる。とりわけ、代用食の部分では、そうそう、そんな風にして飢えを満たしたといちいち納得させられる。

          
 それらが極めて自然に入ってくるのはどうしてだろうかと考えるに、上にも述べたように、事後的な、あるいは第三者的な視点を排し、あくまでもそれを現実に生きた人の視点から描かれているからだろうと思う。
 だからここには、「反戦」とか「平和」とかいった言葉はでてこないにも関わらず、平凡な庶民の生活を破壊するものを直視する視線がある。
 そして哀しみや悲惨があるにもかかわらず、どこか、それを越えて明日がほのみえるような優しさも伝わってくる。

          
 私の評価は以下の点にある。
 絵のほのぼのとした明るさ、日常生活全般の時代考証の確かさ、事後的な第三者によるお説教や命題の排除。そして庶民の生活への温かい寄り添い。

          
 声優陣は「あまちゃん」の能年玲奈改め「のん」など。彼女の声質はとても自然に内容にマッチしていたと思う。

【おまけ】念の為に他の人の評価をみたら、概して評価が高い中、ほぼ零点をつけている人がいた。彼(?)にとっては、これら戦時中の話も、広島の原爆(この映画に出てくる)も、そして日本の敗戦も、すべて反日分子の歴史改竄だというのだからもはや何をかいわんやだ。
 彼の幻想の世界では、大日本帝国はいまも勝ち続けているのだ。これを笑って済まされないのは、政権筋にも似たようなアナクロ・イデオローグがいるからである。
 




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最近の身辺雑記から どうでもいい話

2016-11-14 14:08:51 | 写真とおしゃべり
わが家の隣の造成工事
             
 次第にピッチを上げつつあり、さまざまな工事が行われている。もともと、田んぼだから、一メートル弱も掘れば水が現れる。
          
 この風景との間に4軒の家ができるから、長年続けてきた田んぼウオッチングも、岐阜の中心部を臨むこの眺望も今年限りとなる。

「ありが鯛」プレゼント
                    
 土曜日、ある会でのお知り合いから午後7時過ぎにお電話。釣りの帰りに通りかかったからおすそ分けとのありがたいお話。鯛とハマチ。
 何時間か前まで海で泳いでいたもの。ただただ感謝あるのみ。久々に、大きな魚をさばいた。刺身はもちろん、あらは骨煮やぶり大根用に整理した。
 これがまずかろうはずがない。海無し県で、座して文字通りの鮮魚が味わえるなんて、ありがたすぎて涙がでる。

変な虫
          
 ふと気づくと目の前に小さな虫が。カトンボに似ているがそうではない。
 全長で二センチ強だが、そのうち尾の部分が半分を占める長さ。
 もっと鮮明な写真をとカメラをいじくっている間に何処かへいなくなってしまった。狭い室内、探しても見当たらない。
 私の生涯のほんの点のようなできごと。これも一期一会というのだろうか。

手身近な紅葉
          
          
 これらの紅葉はどこか山に近い場所のものではない。
 日曜日、名古屋へ出かける際、JR岐阜駅のバスターミナルのサークルの中にある木立。みんな、忙しげに通り過ぎるが、けっこう良い風情である。
          
 来年、岐阜は、信長が井ノ口村といったこの辺を岐阜と名付けて四五〇年とか。そのキャンペーンのフラッグが垂れ下がっていた。
 岐阜市の市章はその古名にあやかり「井」の字を図案化したもの。
          
 なお、岐阜のいわれは《「岐山」(殷が周の王朝へと移り変わる時に鳳凰が舞い降りた山とされ、周の文王はこの山で立ち上がり、八の基を築いた)の「岐」と、「曲阜」(学問の祖、孔子が生まれた集落があった魯国の首府にして儒学発祥の地)の「阜」を併せ持つ「岐阜」》ということで、かつて岐阜の子は学校でみんなそれを習ったが(私も)、今でもそう教えているのだろうか。

名古屋の会では、声楽家(ソプラノ)の藤田恵梨子さんの講演で、声楽家たちが、聴衆が心地よく聴くことができるために、どんな呼吸法、どんな息遣いをしているかなど、彼女自身の発声や歌そのものを混じえて、興味深く聴くことが出来た。
 彼女自身は、ソプラノ・コロラトゥーラで、モーツァルトの歌曲を一曲と『魔笛』の中から「夜の女王のアリア」のさわりの部分などを歌ったが、劇場ではない普通の部屋では、それらの声がまさに朗々と響いた。
             
       偶然、今年も11月18日は金曜日だが、今年のものではないからご注意
 
 最後に、参加者も混じえてやはりモーツァルトの合唱曲、「アヴェ・ヴェルム・コルプス」のレッスンとなったが、この淡々として静謐ななかにも味わい深い名曲が、その魅力を失わずに表現されるためには、どれほどの注意点や気配りが必要になるかを体感することが出来た。 
 これからは、ジャンルのいかんにかかわらず、歌手の表現の背後にあるそうした「アヒルの水かき」にも似た日頃の鍛錬を思って聴くべきだろうと思った。
 
秋の風情を活ける
             
 上記の名古屋での集まりの帰途、岐阜駅からの最寄りのバス路線は30分待ち。そこで少し離れた路線のバスに。そこから自宅へは田んぼの脇を通る。夜目にススキを発見。手折って帰る。
 今朝、咲きかけのわが家の菊と合わせて投げ入れ。もとより華道の心得など微塵もない。我流の出たとこ勝負。でも、テーブルが明るくなった。 


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アメリカ大統領選挙に私がみたもの

2016-11-11 01:01:48 | 社会評論
        

 文章化しない箇条書きのままであることをお許し下さい。

 ■トランプ当選が示すアメリカ民主主義の面白さと限界
  政治経験ゼロでも、世論を喚起すればトップになることができる
  ただし誰でもがなれるわけではない 地盤、看板、鞄(資金)が必要
   トランプは大富豪だからと言うのは間違い 選挙資金は民主党のほうが多かった
  二大政党制の弊害 他の候補者は話題にもならず、有権者に伝わらなかった

 ■メディアの世論調査が最後までつかめなかった隠れトランプ派
  「トランプ支持!」と大声で言えなかった人々
  既存の政治家は所詮特権階級でわれわれの向こう側の人
  トランプの政治経験の無さこそが評価と支持を生み出した
   クリントンのメール問題 政治は彼女と私的メールを交わしうる人びとのもの

 ■これを単に衆愚と決めつけるのは間違い
  声なきわれわれ、分前なきわれわれを代表してくれるのではという期待(=幻想) 
  クリントンにはそうした期待値がなかった

 ■総得票数でクリントンが上回ったことに希望をもつのは誤り
  まさにそこにこそ代議制、代表制のもつ限界と問題がある
  どれほど合理的に仕組まれても不合理は出てくる  cf.日本の選挙制度

 ■結論 彼に寄せられた期待や幻想になにがしか応えようとして彼が動こうとするとき、そこに何か既存のものとはちがったものが生まれるかもしれない その可否をも含めて注視したい 何も生み出すことができなければ、彼は四年で消える泡沫大統領で終わるだろう

 アメリカにも強固な官僚性があるから、彼の個性はそこで、いい意味でも悪い意味でも薄められることであろう

 以上思いつくままに・・・。
  
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川は陽の目を見たがっているのでは 都市の下の暗渠

2016-11-10 11:52:29 | よしなしごと

 岐阜は、奥美濃に発した長良川が、美濃の里山を縫うようにして流れ、一挙に平野へと放たれる箇所に位置する。濃尾平野のひとつの突き当りでもある。

 ここで平野にまみえた長良川は、人々の営みにより、多くの分流を生み、この平野を潤す。それらは地域の田畑を潤し、実り豊かな大地を生み出しながらその末流は自らの下流、ないしは南を流れる木曽川と回収される。

             
      上の太い流れが長良川本流 その下の水路のほとんどが暗渠と化している

 したがって、現在の岐阜市と称される場所には、それら分流の水路が縱橫に走っていた。それらは古地図によって確認することができる。岐阜市の繁華街(であったというべきか、あゝ)柳ヶ瀬も、その名が示すごとく、かつてはそうした水路沿いの柳の名所であった。

 しかし現在、それらの流れを目撃することはあまりない。
 そのほとんどが暗渠になっているからである。上記の柳ヶ瀬も、かつての水流のほんの一部を、暗渠の蓋を排除してアクアージュ柳ヶ瀬として披露しているが、暗渠から出てすぐさま暗渠へと消え行く様はどこか哀れな感がある。

                
                アクアージュ柳ヶ瀬の一部

 岐阜の街を、徒歩か自転車で散策していると、それら暗渠と思われる箇所に行き当たることがある。
 それが目に見えて分かる場所が、橋の欄干が残っている場所や、なんかそれらしい蓋が敷き詰められている場所。

 また、聴覚でそれとわかる場所もある。それは、大雨の後など、歩行中の足元からふいに水流と思しき音が聞こえる場合である。時としてそれは滔々として響いている場合がある。
 「お!お前ここで健在であったか」という思いが湧き上がる。

 闇の中を流れる水流はどこか哀しい。それが10キロ以上にも及ぶとなるとなおさらである。
 昔読んだSF小説で、ある都市の暗渠の川に、捨てられたペットの魚類や両生類、爬虫類などが住みつき、彼らは何代も経て、目が退化し、それぞれが真っ白な個体となって、なお、ひとつの共同体をなして生存しているという話を読んだことがある。

 わが岐阜市の暗渠にも、真っ白な鮎、鰻、鯰、鯉、鮒、泥鰌、山椒魚、井守、諸魚、鮠、目高、亀、蛙、などが一緒になって共同体をなしているのでは幻視することがある。

           
           
道路に残る欄干 川や橋の名前は削られている この車の置いてあるあたりはすべてかつての水路だった

 しかし、やはり暗渠を流れるこれら水流も大空のもとを流れ、陽の目を見たがっているのではないだろうか。
 それを塞いでいるコンクリートの蓋を引剥して、それら流れを昔日のように自然な流れにすることはできないのだろうか。

 もし、それが実現すれば、岐阜はいたるところに清流が微笑み、白く退化する前の水性動物たちも遊び、季節ともなれば、街中を蛍が飛び交うことも可能なのだが、誰かそれを発議しないのだろうか。

            
 岐阜駅南のこの川、この橋から下流がオープンで、そこまでは暗渠 私の子供の頃はもっと上流までオープンで、そこで小魚を追いかけたりしたことがある あちこちで自噴する文字通りの清水川で、近くには酒蔵もある

 実は10年ほど前、岐阜市内の居酒屋でその話をしたことがある。その場には当時の市会議員もいたが、老人のたわごととしてまじめにはとりあってはくれなかったようだ。たしかに、それら暗渠の上は道路になっていたり駐車場になっていたりするので、そんなに簡単ではないだろうとは思う。

 しかし、私は繰り返したい。
 岐阜市には、街の足下に実に多くの水流があり、それらは暗渠としてある。それらの蓋を引剥して清流の街を再現することはできないのだろうか。
 それをしたら、私たちの足下でたむろする「白い水性動物」たちの楽園を奪うことになるのだろうか。

 






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隣の造成工事 私が景観に保守的である理由

2016-11-05 02:10:57 | 想い出を掘り起こす
 私の周辺での居住環境がどんどん変りつつあることを何度も書いてきた。
 これまでは、それらは少し離れた場所での出来事だったが、今年のそれらは、私の家に隣接する箇所で展開されつつある。
 
 ひとつは、道路を挟んだ向かい側に田んぼ数枚を潰してのドラッグストアの開店がある。
 夜十時までの営業時間、それに伴う店舗や駐車場の灯りは、周辺の景観を一変させた。
 もちろん、便利になった側面もある。最近のドラッグストアは、青物野菜や鮮魚類以外の食料品はほとんど揃っているから、足りないものは、調理の途中でも火を止めて買いに走ることができる。

 もうひとつの変化が始まった。今度は道路を挟まない、まさに私の家の隣の土地においてである。ここは長い間休耕田になっていたが、そこが売れたようで、埋め立てて4軒の建売住宅が建つという。
 その向こうに残された田(ここは毎年、私が田植えや稲刈りのウオッチングをする田で、最近、このアングルからを見納めという画像を載せた)の稲刈りが終わって、さっそく造成が始まった。

           

 隣だから音や振動もすごい。そちらを向いて、トイレや風呂場、台所の窓があるが、それもいままでのように開放的にしておくことはできない。
 何しろ、工事は写真にあるように、台所に立つ私のわずか2~3メートルのところで行われているからだ。
 迷惑至極だが、向こうも仕事、それによろしくお願いしますという挨拶のタオルを一本もらってしまった以上、いまさら文句も言えない。

 現在は、私の家に隣接し、各住宅への行き来を可能にする道路が作られている。
 人々が居住する建物は、この道路を挟んで向こう側で、若干の距離が置かれるのは不幸中の幸いだが、当初は田んぼの中の一軒家でスタートしてのこの現状、これで完全に包囲されてしまったという閉塞感は免れがたい。

           

 都市郊外というロケーションで、いずれはこうなることがわかってはいたが、私の閉塞感はもっと長いものもある。それは、ものごころついてすぐ、戦争のために田舎に疎開し、そこで数年を過ごした折の、原風景のようなものがしみ付いているからかもしれない。
 
 そこは集落のハズレで、すぐ西には田畑が広がり、また大きな灌漑用の池があり、人々はそれを「玉池」と呼んでいたが、おそらく「溜池」がなまったものだろう。
 その池の向こうは、なだらかな山稜へと続く雑木から針葉樹林の広がり。その森林の奥は、子どもにはいくぶん恐怖を覚えるような暗さで、そこにまた小さな池があったりして、何やら幻想的でもあった。

           

 その池に何かがポッチャンと飛び込んだりすると、「古池や・・・」の風情というより、得体の知れないものの気配が感じられていっそう恐れおののいたものである。
 ここは、人々によって単純に「林」と呼ばれていて、それが一般名詞であるとともに固有名詞でもあった。「ちょっと林へ」というとそれがどこかはちゃんと通じた。

 敗戦直後、米軍が伊勢湾から上陸し、北上しつつある、男は殺され、女は犯され、財産は奪われるというデマが流れ、一部の人達が大八車に家財を積んで逃げ込んだのもこの林であった。
 思えばこのデマは、まさに日本軍が大陸などで行ってきた残虐行為の反映であったわけだ。

               

 話は横道にそれたが、山から滲み出た水が、川や溜池を通じて扇状地の田にくまなくそれを行きわたらせ、山林は、人々が入り会う一部の雑木林を残して、建材用の針葉樹に置き換えられる、それがいわゆる里山の自然であり、更に大きくは各々の平野の「自然」であった。
 私たちを包む自然は、こうして、自然そのものと人間の営為とが織りなしたひとつのハーモニーだったわけである。

 だから、田舎の自然の風景が、人懐っこく郷愁をそそるのは、それがもはやむき出しの猛々しい自然ではなく、人間との共労共存によるものだったからだといえる。
 都市にはもはやそれがない。自然を駆逐したテクネーの荒ぶる競い合いがこれでもかこれでもかと自己更新をしながら私たちの感受性を馴致しようとする。

 それを嘆くのはある種の偏執的なノスタルジーであることは重々わかっている。しかし、いまさら私の領域に暴力的に参入してきて、わがもの顔に私をねじ伏せようとする趨勢に屈服するのはあまりにも口惜しいではないか。
 
 だから、周辺の景観に関しては、私は保守派であり続ける。



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田んぼから宙吊りで救出される軽トラ 見ている野次馬(私)

2016-11-01 11:25:35 | 写真とおしゃべり
 歯科医から出てきたら、何やらパトカーが赤色灯をつけたまま停車している。

          
 
 何ごとかと思ってその先を見やると、どうやら交通事故らしい。幹線道路から100メトルもない場所の住宅と田んぼが混じったような場所のちょっとした交差点が現場。乗用車と軽トラの出会い頭の事故らしい。

          

 どうやら大したけが人もいなかったようだが、軽トラのほうが田んぼへ転落していた。
 私が目撃した頃は、もう大半の事故処理が終わって、レッカー車がこの転落した軽トラを引き上げる段階だった。

          

 4輪部分に綱を付け、それをクレーンにつけた竿に引っ掛けて持ち上げるのだが、その手際は実に鮮やかで、わずか5分ほどで軽トラは道路へ戻された。

          
 
 ガラケーしかもっていなかったので、その作業を動画風に連続して撮影してみた。

          

 それを見た段階で帰途についたのだが、早く済んで良かった。私の野次馬根性からして、作業の開始を見た以上、その結果を見届けるまではその場を去ることはできないからだ。だから、作業が長引けば長引くほど、私の老い先短い時間がいたずらに浪費される。

          

 思えば、昨日、運転免許や老人の事故についての思いを記したばかりだ。
 この当事者たちは、乗用車の方はサラリーマン風の若い人、軽トラの方は50代から60代の男性であった。たぶん、老いゆえの・・・ということではなかろうと思う。
 どちらに過失があったのかはわからない。

          

 まあ、このケースは、大したことはなくてよかったが、この道はしばしば車で通ることもある箇所、いずれにしてもわが身のことに置き換えて、自戒の念を強くした次第。

          

 

 
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