六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【おしまいのおまけ】ふゆこさんの句のこと

2012-12-31 14:30:38 | よしなしごと
      

 私がここで12月20日に取り上げたオランダ在住モーレンカンプふゆこさんの句集、『定本 風鈴白夜』が、『朝日新聞』の今年の最終の「天声人語」で紹介されていました。
 そして、私もその記事を書いた際、注目した句
   
     寒灯火曲がってしまった曲がり角
 
 が取り上げられていました。

 こうして、友人の作品が注目されることはとても嬉しいことです。
 ただし、この句をひと通りに解釈した後、さらに拡大解釈してご政道向きの話に結びつけているのはこの欄の特色として致し方無いだろうととは思うのですが、実際には、この「曲がり角」は「民主党から自民党」といった世俗性をはるかに越えて人間実存の問題に迫るものであることをいい添えたい気も致します。

 何はともあれ、今年最後の快事ではあったことは事実です。
 ふゆこさんがこちらよりはるかに寒いオランダの地で、いいお年を迎えられますよう祈ります。

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【今年もおしまい】門松と国語教科書の中の「日本」

2012-12-31 01:47:44 | 書評
 写真は私が作った門松です。片田舎に住んでいるおかげで何とか素材は揃います。わかりにくいでしょうが、一応、松竹梅が揃っています。それだけでは締りがないので我が家の紅葉したナンテンを添えたらなんとか格好がつきました。
 高さは70センチほどで片側だけです。


          

   ==================================

 石原千秋の『国語教科書の思想』の続編ともいうべき、『国語教科書の中の「日本」』を読了しました。
 正直いって、前著のリフレインも多く、この人の語り口もだいたいわかってきたので、それほど驚くような刺激はなかったのですが、それでもいろいろ考えさせられたり勉強になるところもありました。

 この書は題名に見るように、小中の国語の教科書がどのように日本を描写し、もってどんな日本像を子どもたちに内面化させようとしているかにあります。

 2008年、教育基本法が改正となり、そのひとつのキーワードは「伝統の重視」でした。
 これらがどのように教科書に反映しているかについて著者は、その教材においての「昔話」と「思い出」の多さ、しかも相変わらず「田園風景の挿絵」が多いことを見出し、そうしたノスタルジーは、もはやその7割が都会生活を送っている子どもたちとの間に著しい齟齬をきたしていると指摘します。
 総じていって、それらは「古き良き日本が肥大化され独り歩きする仕掛け」だというのです。

 またそうした伝統重視はともすればテクノロジーそのものへの情緒的な否定に陥りがちで、高度成長期のテクノロジー礼賛と表裏をなすことが指摘されています。
 さらに日本語(国語)については、他言語との比較立証を欠いたままでその「豊かさ」を強調し、根拠なき「豊かな日本語」の称揚に満ちているとします。

 子どもたちは、氾濫するITテクノロジーのまっただ中にあり、効率本位の都会ぐらしやそれに準ずる生活を送りながら、一方では道徳的説教を伴った「古き良き日本」という価値基準を与えられ、その間で引き裂かれているというわけです。

 これらの裏付けとしての実際の教科書からの引用は、なるほどという説得力のあるものが多いのですが、反面、著者のないものねだりではという箇所が数多く見受けられます。
 例えば、小1の『じゃんけん』という教材からの連想で、「グー・チョキ・パー」が否定的差異の記号でしかないところからソシュール以降の言語論的転回との関連を指摘したりするところです。
 言語論的転回とは世界がまずあって、それを言語が描写するのではなく、言語が(物自体的な)世界を分節化することによって初めて世界が立ち現れるということなのですが、それをこの段階で云々することはさして意味があるようには思えません。

 さらに小2の教材『お手紙』からは、ジャック・ラカンの「手紙は届く」から、ジャック・デリダの「手紙は必ず正しい宛先に届く」という精神分析と哲学の融合のような話が展開されるのですがこれも同様です。
 また、「他人の痛みをどうして知ることが出来るか」というヴィトゲンシュタイン的な設問についても触れられたり、同じくヴィトゲンシュタインの「家族的類似性」という概念への言及に及び、別の箇所では、フロイトのいう「不気味なもの」についても触れられます。

 いってみれば一昔前の現代思想ブームのような観を呈するのですが、これらはそれ自身、著者である石原氏の「読み」であって、現実にそれを教えることは(氏もほのめかすように)無理というものです。小中の教室で、そうした哲学的テーマを咀嚼して子どもたちに教えることは不可能なのです。
 おそらくそれらを教材として採用した側も、そこまでの深読みはしていないはずです。

 話が逸れました。
 著者の主張は、前著同様に「国語教育はどんな教材を選び、どんな教え方をしても思想教育たることを免れ難い」というところにあります。しかし著者は、だからといって国語教育そのものを否定するのではなく、むしろ、だからこそその内容を考えなければならないのだといいます。

 そのとおりだと思うのですが、そしてまた、現在の国語教科書が(古き良き日本という)内面の共同体を作る装置に化しているという主張には十分同意できるのですが、ではどうすべきなのかはとても難しい問題だと思います。
 確かに平和教育も環境教育も、ひとりひとりの内面の問題に還元されて歴史的社会的広がりから閉ざされたお説教に終わっているのは著者の引く例証から明らかなのですが、そこからの脱却は容易ではありません。

 著者も指摘するように、ものごとを自由に見ることができる子がいて、そうした教科書の欺瞞とは違う見解を持ったとしても、その子にはさらなる難関が待っています。
 それは上級学校への入試という関門です。
 それら入試は、教科書の示す「思想」をどれだけ内面化しているかをテストします。したがってそのパラダイムから外れた子は、その関門の前で拒否されてしまうのです。

 こんな風にしてまとめてしまうとミもフタもないのですが、国語は決して日本語を習得させるにとどまらず、それ自身がある種の思想やイデオロギーからなっていて、それらの内面化と日本語(国語)への招請が同時的な事象であることを気づかせてくれる点でこの書は一読の価値があると思います。


この一年、いろいろ右往左往しながらの文章を綴ってきましたが、今年はこれで幕を閉じます。
 それでもお読みいただいた皆さん、ありがとうございました。
 暮れの選挙による政変は、既にじわじわっとした変化をもたらしつつありますが、来年はもっとドラスティックな変化があるやもしれません。
 そんな中ですが、皆さんがいいお年をお迎えになることを祈ります。
 来年もよろしくお願いいいたします。




 
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「国語」は子どもたちに何を教えているのだろうか?

2012-12-27 01:05:14 | 現代思想
 この秋以来の日本語についての興味から始まり、その日本語についての教育はどうなっているのだろうかと写真のような二冊の本を読み始めました。
 その二冊とは、以下です。
 
   『国語教科書の思想』『国語教科書の中の「日本」』 
                  石原千秋(ちくま新書)


 これがなかなか面白いのです。
 正直にいってまだ前者しか読んでいないのですが、面白くて一気に読み上げたものですから、まあ、中間報告のようなものを書きます。
 著者は、国語教育は本来、リテラシー(広い意味での読解力にくわえて記述能力)と文学の享受で成り立っているはずなのに、近年、後者の文学の側面が次第に希薄になり、前者の情報リテラシーの側面のみが強化されてきたことを指摘しています。

 そして、そのリテラシー自身が、道徳的説教やある種のイデオロギーをも含んだものになっているというのです。ようするに、「こう読むのが正しい」という結論の中に凡庸で陳腐な道徳への誘導が巧妙に織りこまれているというのです。彼はそれらを、現在使われている教科書の内容を具体的に検証しながら見てゆきます。

      
 
 とはいえこれは、いわゆる「偏向教育」とは少しくレベルを異にする問題なのです(そこへ結びつく要因ももちろんあるのですが)。いってみれば、いわゆる「左翼」「右翼」にかかわらず、あるいはむしろ進歩的と自称する向きほど、陥りやすいトラップのようなもので、それが「国語」の名で子どもたちに押し付けられているといいます。
 
 たとえば、小学校の教科書に見られるそれらのメッセージを大別すると、以下のようにまとめられるといいます。
    1)自然に帰ろう  2)他者と出会おう
 これだけですと、それぞれもっとも至極で、それのどこが悪いのといえそうです。しかし、それらを詳しく見ると、やはりいろいろと問題があるようです。
 
 たとえば、この自然回帰については、教材に頻出する動物の話が象徴的です。動物の純粋さを賞賛するそれらの記述を、筆者は、まるで「進化論に逆行」しているかのようだといいます。
 「動物化するポストモダン」という言葉がひと頃流行ったのですが、筆者同様、私もそれを想起しました。ようするに、動物は自然で(素直で)いいのだという繰り返しは、「動物化」することで与えられた環境に従順な受動的人格へと誘導することにほかならないと筆者はいうのです。

 環境保護への呼びかけが繰り返しでてきますが、それらも過去への回帰が主として語られているようです。それらのほとんどが、大部分の子どもたちの住む都市部とはもはやかけ離れた昔ながらの山村や田園風景をモデルとして語られるのです。
 「昔はよかった」「自然に帰ろう」「動物に戻ろう」というメーセージのリフレインは、大部分の子どもたちが住む都市部、そのうちのかなりの部分の子は鉄筋コンクリートの団地やアパートという箱のなかに住んでいるのですが、そうした子たちのリアリティがすっぽり抜け落ちたところで、いわば「田舎はいいが都会は悪い」かのように語られているのです。

 「鉄筋コンクリートの校舎のなかでカラー印刷の教科書」を使い、やはり鉄筋コンクリートの箱の家でゲームにいそしむ子らに、そうした後ろ向きの自然回帰を教えることにどんな意味があるのかを著者は問います。
 それれは、「自分の顔を見ないで他人の顔を批判する」ような欺瞞ではないかというわけです。

 もう一つのテーマ、「他者と出会おう」にも似たような問題があります。
 サバンナで、ライオンの赤ちゃんが生まれ育ち、またシマウマの赤ちゃんも生まれ育つことが「共生」の名で語られますが、それらが、喰うか喰われるかの「共生」であることは語られません。
 また、ほとんどの「共生」が、「みんな違っていいだね」のレベルにとどまっていて、その違いを前提にした「共生」を具体的にどう実現するのか(現実の社会ではそれが求められるのですが)には踏み込まれません。また、自然との共生もよく読んでみると、人間による自然の一方的な利用に帰するのみで、人間のエゴの肯定ともいえるようです。

 これらの問題点のひとつは、それらのフィクションに気づいた子が、「先生、私たちのところにはもう、兎を追うような山もないし、小鮒を釣るような川もありません。大切にしようという自然がもうないのです。それに、ゲームを持っている子とそうでない子とは一緒に遊ぶことは難しいのです」といったとすると、その子は確実に読解力がない子とみなされてしまうのです。
 逆に、それらのフィクションの欺瞞性をどこかで感じながらも、「環境を大切にしましょう。自分とは違うものとも仲良くしましょう」と答えた子は良い評価をもらえ、内申書も良くなるのです。
 これはやはり、一種の強制を背後に伴った刷り込みといえるようです。

 もちろん、自然を大切にしたり、異なるものとの共生をはかることが必要ななことには違いないのですが、それをどのように進めるのかというところで、これら教科書の最大の道徳的欺瞞が露呈します。
 教科書はそれを、「私たち一人ひとり」の課題だというのです。
 「私たち一人ひとり」でなしうることはあるし、またそのための努力を否定するものではありません。しかし、環境にしろ人々の共生にしろ、「私たち一人ひとり」の努力で決して解決しない歴史的社会的な広がりをもった問題であることは改めていうまでもなく明らかなのです。
 ましてや、ここまで広がった環境破壊や、共生が困難なほどの格差の拡大は、子どもたち「一人ひとり」の責任ではまったくありません。

 にもかかわらず、教科書はそれについては全く触れません。それどころか、それらを「私たち一人ひとり」の問題に内面化させる道徳的なお説教によって、それらを真に解決するための社会的な眼差しそのものを閉ざす役割を果たしているのです。

 これがこの本の趣旨です。そして、こうした教科書の読みが、それ自身筆者によるひとつのリテラシーをなしていることはいうまでもありません。そしてこれはまた、それに対する私の読みでもあります。


なお、「国語」というのはほとんど日本のみで通じる言葉で、たとえばイギリスでは、英語のことを National language などということはないようです。これは、国家と民族と言語がそれぞれ単一で対応している、ないしはすべきだという日本特有な偏狭な意識のなせるところで、それ自身が問題含みであることはいうまでもありません。
 「日本人の大半は、《日本語》を用いている」というのが現実であって、それ自身もグローバル化のなかで変わりつつあります。たとえば、リービ英雄が日本語で小説や評論をかくのを、彼は「国語」で書いているとは決していわないのです。

もうひとつ、著者の重要な問題提起に、現行の「国語教育」を広い意味での読解と記述表現にかんする「リテラシー」教育と、文学の享受とに分離すべきだというのがあるのですが、また、稿を改めます。
 

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私がその街へ行ったわけ

2012-12-24 02:42:25 | ひとを弔う
      

 この街へ来るのは何年ぶりだろう。
 街といってもどこか離れた街ではない。
 私がいまもなお往来する名古屋の一角にある街なのだ。
 しかも地下鉄でわずか二駅手前の「川名」には、十数年前に脳梗塞を患った折に入院した病院があり、退院してからも数年は通い続けた。しかし、この街「八事」まで足を伸ばすことはなかった。

 この街へ来た最後は、まだ地下鉄などはなかった頃だから、数十年前かもしれない。もっとも、その地下鉄でこの街の下を通り、世界屈指の自動車メーカーのある街ヘは何度も行ったことはあるのだが、どういう訳かここで降り立つ機会はなかった。

 地下鉄で降りたとき、正直いってどちらへ歩を進めていいかわからなかった。
 なんでも、尾張徳川家の祈願所だったという広大な寺院の境内にそれはあるというのだが、その寺院への行き方がわからない。
 そうこうしていると、明らかに私と同じ目的地へ行く顔見知りの人とバッタリ出会った。
 「六さん、こっちのようですよ」というので同行することになったが、彼もとりたてて詳しいわけではないようだ。しかし、心強いことには間違いない。

 地下鉄の出口からしばらく行くと山門と思しきものがあるのだが、それは閉鎖されていて、境内への入り口はさらに向うと矢印がある。それに沿って歩くと、いかにも結婚式場といった白亜の殿堂がある。
 かつて訪れたかすかな記憶からしてこれもその寺院の一角だから、直営かどうかはともかく、その寺院の経営意図のうちだろう。

 さらに歩くことしばし、横断歩道を渡ったところにやっと境内への入り口があった。
 まっすぐに歩を進めれば寺院の中心部らしく、5時を回ってすっかり暮れなぞんだ先に五重塔や本堂らしきものが見えるのだが、そちらへ行っている余裕はない。
 私たちはやや左手の葬儀場へと向かった。

 幾分離れているとはいえ、同じ境内に結婚式場と葬儀場があるのはなんだかなぁと思わないではないが、広大な敷地を持て余しているこの寺院にとっては賢明な経営方針かもしれない。
 そういえば、名古屋の私学の雄、中京大学名古屋校舎の敷地もこの寺院からの借り地らしい。

 ほかならぬその大学でずっと教鞭をとっていた少し年下の友人が亡くなった。
 私が出かけたのは、その彼の通夜のためだった。
 知り合って半世紀来の古い友人である。
 初対面は、学生時代に彼がバイトをしていた居酒屋のカウンターごしにであった。

 その後いろいろあったが、今となっては何をいっても虚しい。
 黙々と進む儀式に従った後、生前親しかった知己十人ほどの献杯の集いに参加し、帰宅した。
 帰り着いた岐阜の街は、電線を鳴らすような木枯らしが吹きつのっていたが、幸いにも自転車で南へ向かう私にとっては追い風になるのだった。
 歌いたい気分に駆られた。
 口をついて出たのは「アカシヤの雨が止むとき」だった。
 特に選んだわけではない。ほんとに偶然思いついたのだ。
 彼とともに過ごした時代のなせる技だろうか。

 今度は明るいうちに、彼が愛したというあの広大な寺院を散策してみようかと思う。
 私の友人が連載しつつある小説の主人公、「サダ」にヒョッコリで逢えるかもしれない。
 寺院の名は、八事山興正寺。
 亡くなったのは堀田英毅君。               合掌

 
 

 

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白夜に鳴り止まぬ風鈴 モーレンカンプふゆこ句集『定本 風鈴白夜』を読む

2012-12-20 17:35:41 | 書評
 最近、日本語という言葉の周辺をめぐって、それを内部のみならず、外部からも見るようなものを読んだりしています。ようするにごく自然に、日本語で話し日本語で書くということを70年以上にわたって続けてきたにもかかわらず、それについて一度複眼的に捉えてみようということなのです。
 
 そんなわけで、バイリンガル、ないしはマルチリンガルな人たちの書いたもの、水村美苗さんだとかリービ英雄氏だとか、あるいは、多和田葉子さんの書いたものなどをぼちぼち読んでいるのですが、そうした私の日本語への関心を最初に揺り動かしたのがここに紹介するモーレンカンプふゆこさんなのです。
 
 彼女は、22歳で単身、海外に出て、アメリカで国連職員と勤務した後、オランダに渡りそこでオランダの男性と結婚し二児を育て、ライデン大学などで教鞭をとったりした人です。
 20年近くの母語との離別のあと、彼女が出会ったのは日本の「うた」や「句」でした。日本語のそれらは何かを意味するという言葉の機能をも超えて直裁的であると思われます。加えて、その七五調は日本語に内在するリズムであり日本人の感性ときわめて親和的といえましょう。

 こうして彼女は、朝日歌壇や朝日俳壇へ投稿を繰り返す内、押しも押されぬ常連となり、それのみか「うた」と「句」の両部門にわたって年間最優秀作品に選ばれるに至ります。おそらくこの両部門を制したのは彼女のみだろうと思います。
 日本語と隔離されているがゆえに、あるいはそれにもかかわらず、単純な郷愁では測れない日本語へのアプローチの熱い姿勢が選者たちの琴線に触れたのでしょう。

 その「うた」の方をまとめた書は昨年早春、『定本 還れ我がうた』として出版されました。そしてそれについては、私も痛く興味を覚え、このブログにも掲載いたしました。
 
 「モーレンカンプふゆこさんの歌集を読む」
  http://pub.ne.jp/rokumon/?daily_id=20110412

       

 今回出版されたのは、それとは双頭をなす「句」集の方です。
 『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』がそれです。
 「風鈴白夜」は帯にも引用されている「黒鉄(くろがね)の風鈴白夜鳴り止まず」によりますが、これはまた、金子兜太氏が朝日俳壇で巻頭に選んだ句でもあるようです。

 彼女の句集は掛け値なしに面白いと思います。
 折々の主観的情感による句を羅列したものというより、それらを貫いて彼女特有の物語がどの句にも通奏低音のように鳴り響いているからです。
 この句集は、そうした特徴をよく生かして編集されていると思います。
 第一章 過ぎし日のうた 第二章 風鈴白夜 第三章 旅日記 第四章 水平線のこちらで という大きな枠のなかで、さらに分節化された小見出しがあり、それらの句を読み進めるうちにいつの間にか「ふゆこワールド」取り込まれてゆくようです。

 それは22歳の折、まだ船便で渡米してさらにはオランダに住み着くまでの、そして何よりも「うた」や「句」を見出すことによって「行ったっきり」になることなく過ごしてきた彼女の往還運動の記録ともいえます。それらを通じて再び得られた母語の調べ、そして新しい知己との出会い、などなど、それらが絡まりあったところで口をついて出る詩句の集大成がこれだといってもいいでしょう。
 それらはまた、句集に挟まれた短いエッセイ風の散文によって、ひとつの有機的な流れとして実感することができます。

    寒灯火曲がってしまった曲がり角

 という句には、女性が重要な決断をしたあとの思いが込められているのですが、それに付された短い文章には、その決断を凛として生きることへの思いが覗えて寒々とした情景にもかかわらず、むしろ清々しいものを覚えます。

    自由愛す熟れし葡萄の木の下に

 の句は、1992年度朝日俳壇賞を獲得した句ですが、それに付けられた文章は、その自由が政治的なそれなどによって条件付けられたものではなく、もっと深く生そのものに呼応するものであることをよく示しています。

       
 彼女の写真と作品、そしてその英訳のコラボからなるカードの一部 本書には含まれていません

 第三章の「旅日記」には日本も出てきます。彼女にとっても来日はやはり旅なのです。しかし、
    
    不規則動詞全部忘れて天の川
    日本語は亡びやしないさ鰯雲

 という句には、やはり外つ国であらためて日本語に出会った人のみがもつ言葉への感受性があるように思います。

 第四章には、六〇歳になってソウルメイトと再婚する句、その結婚式の模様を詠んだ句がかなり出てきます。

    冬曙婚礼の日の白き塔

 と、凛としたものがあるかと思うと、

    ドレスのシミ幸せになるのがなぜ怖い

 という句も混じります。
 思わず吹き出しそうになったのが、これらの句に添えられた次の一節です。
 「式後、奇妙な経験をする。芸術家と称する写真家が撮った写真をみて怒りがこみ上げてきた。あの美しい瞬間をわざわざ歪めたような写真ばかりだった。この女の人には写真を頼まないように、とくれぐれも頼んでおいたのだが。」

 死を身近で見たり、自分自身がそれを意識する句もあリます。

    大根をつるりと飲みて癌の友
    生き死にのことなど同胞(とも)よ暖炉燃ゆ
 
 しかし、彼女の死生観はある種、颯爽としています。
 「自分の死を考えるとき、私は心が優しくなる。どうか皆、あとは仲良く幸せにやってくれ、と。裸木も春になれが緑に満ち、鳥も巣に帰ってくることだろう。」

 この句集の最後を飾るのは、

    糸の切れた風船白夜の今いずこ

 という句です。この「糸の切れた風船」は、母国から離れた彼女の客観的な生きようと、同時に自分自身の主観をも表しているようです。
 前の『定本 還れ我がうた』の時も書きましたが、糸の切れた風船のように自由に飛び回るふゆこさんであればこそ、「定本」などと収まりきらずに、さらに今後共、風船爆弾ならぬことばの爆弾を私達のところへ届けてくれたらと思うのです。
 それこそまさに「白夜に鳴り止ま」ない風鈴が含意するものではないでしょうか。

       
              前著『定本 還れ我がうた』といっしょに

 なお、巻末に、朝日俳壇を中心として彼女のの入選作、どの選者がどの句を選びどう選評をつけたのかを含めた資料が100句近く載せられています。句を作る人にとって面白い資料であると同時に、私のような素人でも「そうか、なるほど」と思って読むことができます。

 『モーレンカンプふゆこ句集 定本 風鈴白夜』
     冬花社 〒248-0013 鎌倉市材木座 4-5-6
         ? 0467-23-9973 FAX 0467-23-9974
         URL http://www.toukasha.com
          2,300円+税
   なお、昨年出版の『モーレンカンプふゆこ歌集 定本 還れ我がうた』
   に関しても、上記と全く同じです。

  

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ある自己診断

2012-12-19 14:52:11 | インポート
 






 気がつけば、ここのところ毎日、日記を書いている。
 しかも、そのほとんどが駄文の部類だ
 どうも、選挙を前後して躁状態のようだ。

 私の場合、躁状態は不安への対応の仕方だといえる。
 大きな状況への不安、自分自身へのさまざまな不安。
 たくさんの課題を抱え込見すぎて極めて多忙なのだが、
 その忙しさの中に不安を埋め込んでしまおうという算段だ。

 しかし、こんなことがうまくゆくはずがない。
 その反動がすぐ追いかけてくるに決まっている。
 メランコリーのモヤがもう迫ってきたようだ。
 少し立ち止まろう。
 そしてもっとエゴイストになろう。

 パソコンの中から複数の項目を消去した。
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年末の簡潔な(?)日記

2012-12-19 02:38:17 | よしなしごと
 縁あってまた忠節橋を渡る。
 戦後日本で最初にできたという鋼鉄製の橋はどっしりと重々しい。
 毎日ここを渡った高校生の頃の思い出が一瞬、去来する。

        

 
 この前行った古書店で、ギリシャ神話やギリシャ悲劇関連をまたまた3冊程買った。

 夕刻から高校時代からの友人たち4人で忘年会。
 柳ヶ瀬の街は人影もまばらでさみしい。
 かつて、人と肩を擦れ合うことなくして歩けないといわれたあの繁華さはもはや夢幻の彼方だ。

           

 一次会は手堅く居酒屋。
 しかし、今風のそれと違ってちゃんと手造りの料理を出す。
 入れないのではとの心配は全く無用で、私たちが帰るまで、満席になることはなかった。

 二次会は、このメンバーで年に3、4回行くスナック。
 マスターに、「どうですか、この暮は?」と尋ねたら、「は?暮ってなんですか?」との答え。
 お陰でカウンターは私たちの独占状態。

 ここのママは歌が上手い。
 リクエストで、ちあきなおみが歌った昭和の匂いがプンプンする「紅とんぼ」を歌ってもらう。
 「新宿~、駅う~ら~、紅とんぼ~」のくだりで、自分が閉店したときを思い出し、少しうるうるする。それくらいこのママは歌が上手いのだ。

 しかし、本当はこんな歌をリクエストするのは禁じ手だ。
 だって、今日で店じまいをするって歌なのだから、店によっては縁起でもないと塩を撒かれる。
 この店は、マスターもママも気にしないといってくれた。

 私は、「赤色エレジー」と「ときには母のない子のように」を歌った。
 

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【フィクションという名のフィクション】

2012-12-18 03:06:25 | ポエムのようなもの
    

    幻燈機のナイアガラは
    落下しながら吠えたものだ 
      ここに世界がある
      お前のいるところはフィクション
    大陸横断鉄道の驀進は
    身をくねらせて挑発し続けた
      ここに世界がある
      お前のいるところはフィクション

    でも昭和の戦争は終わったばかり
    ほら焼け跡からは煙が燻っている

    居酒屋でうたた寝をするオヤジは
    座敷わらしの淡い嘆きをを夢見る
      世界に呼ばれても出て行けない
      縁側の日溜りにも出て行けない

    ナイアガラに虹がかかるとき
    その弧は大陸横断鉄道の軌跡
      ここに世界がある
      お前のいるところはフィクション

    そのフィクションの縁側辺り
    昭和のネコが大あくびをする
    幻燈機のくすんだ映像が揺れ
    大陸横断鉄道はもはや赤い矢
    ナイアガラヘと垂直に落ちる
 
    オヤジが酔い覚めてしまうと
    座敷わらしは当惑を袖で隠し
    昭和のネコは思わず爪を研ぐ
      世界はどこにある
      フィクションでも構わないのだが

    オイ、誰か別の幻燈機を持って来い!
 

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「幸福シンドローム」とくっつき虫

2012-12-17 17:26:14 | よしなしごと
 この時期、うかつに草むらへ踏み込むとこんな結果になります。

          
 
 昨日、自民党が大勝している頃に撮った写真です。
 このくっつき虫は、ヌスビトハギの実。
 おそらく最後から二番目の木漏れ日に光る小さな紅葉を撮りに草むらに踏み込んだ時のものでしょう。

   

 

 帰宅すするまで全く気づかず、泣きながらとりました。
 情けないことがいろいろ続きます。
 私自身の自業自得なのだろうとも思います。たぶん。

 

 

 昨日の日記に「幸福シンドローム」という私の造語をご披露しましたが、そうした即物的な「幸福シンドローム」が、「無用の用」を単なる無駄としていとも簡単に切り捨て、その後に不毛な「消費ゴッコ」がはびこっているようです。
 今回のご政道むきに関するイヴェントでも、そうした矮小化された欲望が赴くところを示唆しているように思います。

 私は、「ことば」の力について真剣に考えている人たちに寄り添いながら、現実になびくことなく、思考や表現の場で、何がなしうるかを考えてゆきたいと思っています。
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私たちがが思考するということについて

2012-12-16 22:40:00 | インポート
 女性が思考をするということについての、またしても多和田葉子さんからの引用です。
 「日本で女に生まれると、理屈でものを考えることを楽しむ場所があまりない。理屈が出ると官能から切り離されてしまうようで、哲学的なものはすべて生活とは関係のない、子供っぽい、ばかばかしいことのように見えてきてしまう。それは必ずしも、社会が女性に哲学を禁止しているようなことではなく、魅力が感じられないように仕組まれているような気がする。ものを考えることに快楽を覚えるのはある種、子どもじみたことではあるけれど、一方、考えることで、生活そのものが変えられる場合は、考えることの意味も変わってくる。」

        

 ここで述べられていることは微妙です。
 というのは、後述するように確かに女性が歴史的に背負っているハンディはあるものの、そうした性差にかかわらず、哲学や思考そのものがいまや問われているからです。
 
 近年では、哲学や思考それ自身が人間のひとつの生きようであることが一切考慮されず、まるでそのへんに転がっている道具のように、「それは何の役に立つのだ」という問いがつきつけられています。
 その場合の「役に立つ」はたいてい、「生産」とか「幸福」を指標として語られています。前者はいわゆる「生産力至上主義」ですし、後者は私の造語でいえば「幸福シンドローム」*というべきもので、いずれも近代以降の「症状」です。
 
 一見、そんなものがなくても人は生きることができるかのように思われます。しかし一方、それがどのように等閑視されようと、実際にはそれと接しながら生きている多くの生があることも事実なのです。
 これはいささか遠慮したいい方で、実のところはそうした無用の用のようなものの存在が人の生き方に大いに関連しているのですす。

 それがなければ、人は生産と消費をする動物としての生(ゾーエー)を生きるに過ぎなくなります。実はそうした無用の用のようなものとの関わりが人の生をまさに人としてあらしめている(ビオス)ともいえるのです。
 これに関しては、ディオニソス的な裸の生(ゾーエー)が理性的な生(ビオス)を食い破ってそれを更新してゆく逆の側面もあるのですが、煩雑になるのでそれは割愛します。

 さて、冒頭の女性が思考することに戻りましょう。
 またしても多和田さんからの孫引きですが、アメリカのある日本文学研究者は以下のようにいっているそうです。
 「日本の女性の文学に出てくる家は、住む場所としての家ではなく、そこから出てゆく場所としての家であることが非常に多い。」
 これはフロベールのノマや、イプセンのノラを思わせるいい方ですが、はたして今なおその段階なのかどうかは、私には判断不能です。いずれにしても「家」の拘束力は女性の思考することの桎梏である場合が多いとはいえるでしょう。

 総じて、男女ともに思考することからの隔たりは大きくなっているのだろうと思います。前項で引用した、やはり多和田さんの言葉のように、思考の代わりに感性を対置したところで、感性そのものが思考抜きにはありえないものであり、その感性を研ぎ澄ますのはまさに思考の力なのだといえます。

 人倫に対する態度でも同じことがいえます。他のところで述べたことがありますが、ユダヤ人数百万の殺戮に関わったアイヒマンは、当時のドイツの法に忠実であっただけだという弁明に終始するのですが、それに対するハンナ・アーレントの判決はこうでした。
 「なるほど彼は上司や法に忠実でなおかつ明敏ですらあった。しかし、彼に欠如していたのは思考するということだった」と。

     自民党圧勝のニュースを聞きながら・・・・。

「幸福シンドローム」
 私の造語ですがこんな意味を考えています。
 人は幸福であった方がいいに決まっていますが常にそうであることは出来ず、それは僥倖なのです。だからかつて人びとは幸福な瞬間を「有り難いこと」と表現しました。
 しかし今や人びとは、あらゆる瞬間において幸福であるべきだと考え、そうでない場合はルサンチマン(怨恨)に溺れたり、果ては幸福への短絡をもとめて卑しい行為や犯罪にすら至ります。
 まさに幸福症候群のなせる技です。

 

 

コメント (3)
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