六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

わが母校は城のなか、そして石垣の貌たち

2017-03-31 15:20:32 | 写真とおしゃべり
 しばらく前の日についての記述である。正確にいうと3月22日。
 フリーライター歴が20年近くになるが、もちろんそれで食べて行けるほどの収入はなく、年金外の収入としての小遣い程度である。それもそろそろ足を洗おうと思っている。
 仕事柄、何人かの人にインタビューをしてきた。その数、100人近くにはなるだろう。

          
 
 しかし、インタビューをされるのは少ない。今回その数少ない機会に遭遇した。
 なんのことはない、私自身が10年以上にわたって連載を執筆してきたその当のミニコミ紙にゲストとして登場するというわけだ。
 インタビュアーは旧知の同紙編集長だったH氏。だったと過去形で書いたのは、この3月、編集長を卒業して彼自身がフリーのライターになったからだ。

 私自身、いわゆる著名人ではないからパッとした業績もエピソードもない。H氏もまとめるためにけっこう苦労するのではと思うが、まずはお手並み拝見だ。
 インタビューを受けたのは名古屋市役所近くの「ウィルあいち」のロビー。ここは正式には、愛知県女性総合センターというらしい。

          

 その対面には、今は名古屋市市政資料館となっている旧名古屋控訴院地方裁判所区裁判所庁舎(ようするに、名古屋地裁、高裁)があり、このレンガ造りの風格ある建造物は重要文化財となっている。
 ちなみに、1960年当時の安保闘争のデモで、道交法違反でパクられた仲間の裁判の傍聴に来たこともある。判決は罰金5千円であった。みんなのカンパで払った。

          
          
 
 話を戻そう。
 インタビューは順調に終わった。インタビューをする方もされる方も手慣れているから、聞きたいツボ、聞かせたい事柄などを要領よく取り交わした結果だろう。
 予備も含めて予定していた時間よりもずいぶん早く終わってしまった。この後映画を観ようと思っていたのだが、それまでの一時間余をなんとか埋めなければならない。
 そこでこのあたりを散策することとした。
 じつはこのあたりはとても懐かしい場所で、私の青春時代のピークはこのあたりを外しては語れない程ほどなのだ。

          
          
             
          
 
 学生時代の私の母校は二つに別れる。ひとつは昭和区滝子の旧第八高等学校で、教養部の頃はここで過ごした。すべて木造で、男子校の名残りでトイレも男性用、女性用が一緒といういまでは考えられないような環境であった。
 しかし、ここにも思い出がいっぱい詰まっている。昨秋、同人誌でご一緒のYさんから当時の写真を頂いたのだが、そこには18歳の(つまり60年前の!)Yさん、亡くなった連れ合いや私などサークルの仲間が何人か写っている。しかし、そのうちすでにかなりのひとが故人であることに胸を衝かれる思いがしたものだ。写真というものはある意味残酷だ。18、9歳という花の時期と現実とのめくるめくようなこの落差。

          
          
          

 私の話は散漫でいけない。上に書いた場所は今回訪れたところではない。
 今回訪れたのは名古屋城内の旧第六連隊兵舎があった場所で、今は毎年7月に大相撲名古屋場所が行われる愛知県体育館が建っている。
 そこに、学部時代の学び舎があった。
 当時、私が行っていた大学は、通称「タコの足大学」といわれ、名古屋市内や郊外に学部が分散され、それが本山近くに統合されたのは私たちが卒業する頃であった。

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 したがって私などは、統合された場所へ行ってもほとんどなんの感慨を覚えることもない。むしろ、郷愁をそそるのは犬山にある「明治村」である。
 なぜなら、ここの正門は、先にみた旧八校の正門をそのまま移築したものだし、学部へ入ってから学んだ旧第六連隊の兵舎は、やはり明治村の中に移築されているからだ。
 「昭和は遠くなりにけり」などといわれるが、私たちは明治の息吹が残る場所で学んでいたことになる。

          
          

 で、今回訪れた学部時代の建造物だが、それらはすべて撤去され、先に述べた愛知県体育館がドカンと居座っているのみで往年の風情を偲ぶべくもないが、ただひとつ、変わらぬものがあった。
 それは、私たちの学び舎を取り巻いていた名古屋城の石垣群で、今回はそれらを見て歩いた。当時は、当たり前の日常風景としてそれをちゃんと見ようともしなかった石垣だが、今回、改めて眺めてみて、こんなに表情豊かで素晴らしい歴史的建造物に取り巻かれていたのかといまさらながら感慨を新たにしたのだった。
 ようするに、石を積んだだけのものなのだが、その積み方に、あるいは積まれた石にそれぞれの個性があって、結果として部分々々で異なる豊かで多彩な表情を見せてくれることとなる。そして最終的には、今を去ること400年前にそれらをかくも表情豊かに積み上げた当時の石積み職人たちの技に、敬意を覚えることとなる。

          
             
          

 さきにも述べたが、石垣にとどまらずこの付近位には思い出が多い。今は空堀になっている箇所を通っていた通称・瀬戸電(名古屋鉄道瀬戸線)、市役所や県庁のレトロで重厚な庁舎、一本五円の串カツとキャベツ食い放題だった今はなき「外堀かつ」、城内から通った柳原温泉という名の銭湯。
 まさに、「腰に手ぬぐいぶら下げて」の青春であった。

          

 そしてそれら私の青春の日々をを見つめ続けてきた石垣たち、それをじっくり眺めていると、何やら崇高で荘厳な気配すら感じられるのであった。

 
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ケン・ローチ『わたしは、ダニエル・ブレイク』(I, Daniel Blake)を観る 

2017-03-24 01:19:09 | 映画評論
 ケン・ローチの映画にもって回った表現はない。そのテーマにズバリ、内角をえぐるストレートで迫る。余分なメタファーを排除した映像もまた明快そのものである。
 だからといって決して凡庸でつまらないわけではない。それどころかその普遍性をもったリアリズムが私たちをグイグイ惹きつけてやまない。そして何よりも、そこには社会の片隅で懸命に生きる人たちへの温かい連帯の眼差しがある。

          

 私が子どもの頃、イギリスは福祉の先進国で「揺りかごから墓場まで」といわれたりした。しかし、それは今や面影もない。恐らくサッチャーリズムにみられる新自由主義の導入のなかで、そんなものはすっ飛んでしまったのだ。
 病気、それは自己責任。貧困、それは自業自得。これが当たり前の世の中になってしまったのだ。

 もちろん、これはイギリスのみのことではない。私たちの国においても、片山さつきの反生活保護キャンペーンなどによって、本来機能すべきセーフティネットは針のむしろに転じ、それを受容するためには引き換えに人間としての尊厳を手放せと強要されるに至っている。
 もちろん、そうした格差が何によって生じ、それを払拭するために何が必要なのかは不問に付されたままである。

          

 いきなり硬いことを書いたが、ケン・ローチの映画はそうした理不尽な仕組み、排除を旨とするような窓口の対応に自己の尊厳をかけて立ち向かうベテランの大工職人を描いてある種爽快である。
 彼の腕前は、時折描写される彼のちょっとした細工物によく表れている。

          

 彼の被る理不尽は例えば次のようなものである。
 彼は心臓発作のため医師から就労を止められている。したがって未就労の手当を求めて申請するのだが、そのためには、就労をしようとしてもできないことを証明するために、履歴書を作り就労活動をすることが求められる。彼はあたう限りそれに従うのだが、時折は切れる。
 切れればこんどはシステムに従順ではないとして懲罰的に排除される。
 それに不服申立てをしようとすると、それはネットを通じてしかできないといわれる。IT がアナログ人間を排除するアイテムとして機能する。

          

 彼と同様にセーフティネットから排除される2児をかかえたシングルマザーが登場する。この一家も悲惨である。ベテラン大工は、自分自身の困窮も忘れて一家の面倒を見る。
 ケン・ローチの目線はいつもながら弱者たちとともにある。そして、彼の映画においては、弱者に寄り添うのもまた弱者なのである。
 隣室のヤンキーのような青年たち(BL?)も、当初は得体が知れないが、正規労働の枠からはみ出たがゆえにネットを使って怪しげな商売をしているようなのだ。しかし、アナログ人間の主人公にもっとも親切にパソコンを教授するのは彼らなのである。そして、「困っているならなんでもいえよ」という泣かせるセリフまでいってのける。

          

 これ以上はネタバレになるから書かないが、私たちは、排除を旨とするシステムに登場人物とともに憤りながら、どこかでホッとした温かみを感じるのは、こうした弱者相互に情感として伝わる連帯意識のようなものがあるからである。
 そんななかで、彼が「英雄」になるシーンがあるが、それは書かないでおこう。

 この映画のシチュエーション、どこか既視感があったが、それはクリント・イーストウッドの『グラン・トリノ』であった。
 しかし、似ているだけで中身はまったくちがう。ケン・ローチは冒頭に書いたようにはるかに地味で堅実であるが、それだけにリアリティがある。たぶんそれは、ケン・ローチがあくまでも庶民の目線を手放さないからだと思う。

          

まったく私的なことだが、この映画を観ようと入った映画館、なんと至近距離の座席に旧知の女性二人がいて、しかもこの二人も相互に知り合いとあって、映画が終わってもただで済むはずはない。三人揃って居酒屋へ直行。
 一人は20年以上前、市民派として参院選に立候補したMさん。もう一人は、かつて一緒に雑誌づくりをしてきたTさんで、ラジオの台本作家のほか、映画好きが高じてついに昨年、監督として映画を作ってしまった人。
 この女傑に囲まれて、年老いていることのみを唯一の武器として両手に花の桃源郷に遊んだひと時。

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【Nさんを迎える】「僕の兄貴の連れ合いの従兄弟の会社の上司のお孫さんの家庭教師をやっていた人の斜め向かいに住んでいた

2017-03-22 00:13:37 | 日記
 先般の三連休の初日(土曜日)、東京からわざわざ逢いに来てくれたNさんと名古屋の街で過ごした。
 Nさんとは、あとで述べるように、彼女にとっても私にとっても、エポックメーキングなある事件を通じて、近親感は持っていたが、それはネット上でのことであり、リアルに逢うのははじめてだった。

 ところで、そうしてわざわざ逢いに来てくれるNさんと私の関係であるが、これをちゃんと説明するのはなかなか骨が折れるのである。
 よく漫才や落語などで、「僕の兄貴の連れ合いの従兄弟の会社の上司のお孫さんの家庭教師をやっていた人の斜め向かいに住んでいた人のところへ居候していたAさん」などというわけがわかったようなわからないような人物紹介が出てくる。
 以下にNさんとの関係をかいつまんで述べるのだが、それが上のようにかなり煩雑なのである。

          

 私の友人に、中国は山西省の山村に住まい、そこをベースにすぐる日中戦争経験者(80代から90代の人が対象)からの聞き取りを冊子にまとめている人がいる。いわゆる、オーラルヒストリーともいうべきものだが、正史には書かれないそこで生きた人たちの生の記録として貴重なものだと思っている。
 彼女・Oさんは私の旧知の人なのだが、なぜそんなところに居を構え、そんなことをしているのかに関しては、これまたとても面白いエピソードがあるのだが、この際は割愛せざるを得ない。

 いまから8年近く前になるが、その彼女がそれまでの聞き取りの結果をまとめた本を出版することとなった(『記憶にであうー中国黄土高原 紅棗がみのる村から』未来社)。
 その書評を依頼されたのが私だった。私の紹介文は「図書新聞」に掲載された。それを読んでくれた図書新聞取締役相談役であった矢口進也氏(2011年没)が、その本をフィラデルフィア在住の大連中学時代の同級生トーマス・ソン(宋)さんに紹介し、トーマスさんはそれを読み、著者のOさんのブログにコメンテーターとして登場するようになった。

 そのブログは、旧知の私もまた常連としてコメントを付けており、いつしか横レスでトーマスさんと私という関係が出来上がっていった。私はまた、トーマスさんのブログの常連にもなった。
 トーマスさんが私を気に入ってくれたのは、私が年の功で戦中戦後の状況をある程度リアルにわかることだった。「そうか、君はこれをわかるんだ」と何度もいわれた。
 それは上に述べた大連中学時代の同級生、矢口進也氏を失って以後の、日本における彼の格好の話し相手として私が登場したということだったのかもしれない。

          

 ところで、このトーマスさんという人が大変な人だった。朝鮮王朝の末裔の一人で、日本による併合後に生まれ、東京、大連などでで少年時代を過ごした後、日本の敗戦で一度は朝鮮半島へ帰るのだが、やはりそこが安住の地ではないと判断した両親の勧めで単身渡米し、以降、アメリカの市民権を取得し、大学図書館の管理者などを経由し、老後はフィラデルフィアで過ごすというそれだけでゆうに一冊の書をなす数奇な生涯を送ったひとだった。

 ところでそのトーマスさんだが、メールのやり取りだけでは物足りないのか、よく私宛に電話をくれた。そのそれぞれが30分前後という長電話であったが、そこで語られた彼の経歴はとても面白く、時にはメモをとったりもした。そして、とても残念で劇的だったのは、トーマスさんは私とのそうした電話中に発作を起こして倒れ、それから幾ばくもしないで亡くなってしまたのだった。2014年12月のことだった。
 私は、トーマスさんが電話で話してくれたこと、そのブログを読み返して知ったことなどなどに私自身の感慨を加えて、翌15年の春に、トーマスさんの小伝を同人誌に書いたことがある。

          

 ここで、私を訪ねてくれたNさんに話を戻そう。このNさん、お連れ合いやご自分のお仕事の関係でアメリカへはよく出かけ、フィラデルフィアに滞在中にトーマスさんとお知り合いになり、親交を深められたとのことで、もちろん私よりもずっと古くから、深いお付き合いをしてこられた人である。
 そんな関係で、トーマスさんが亡くなられた折、その葬儀に有志で供花を捧げようということとなり、その取りまとめをしてくれたのがNさんだった。

 そんな関係で、私が上に書いたトーマスさんに関する小文を綴った同人誌を彼女に送ったのをきっかけに、FBでも知り合ったりしてお付き合いは継続してきたのだが、そのNさんがわざわざ名古屋まで来てくれるということで、驚き、かつ感激した次第なのだ。

 これがNさんと私の関係であるが、冒頭近くに書いたように、漫才や落語でいわれるような複雑な縁での知り合いだから、私の拙筆でその関係が了解してもらえたかどうかは不安である。

          

 さて、当日のことだが、せっかく名古屋まで来てくれるのだから、ある程度ちゃんとエスコートしようとする私の目論見は始めっから外れた。
 先ず、名古屋駅のタワーのてっぺんの展望台から名古屋の全貌を観てもらおうと、エレベーターを探して51階まで登ったのだが、ガ~ン、その展望台がないのだ。かつて、360度名古屋を見ることができたスポットは、各店舗が立ち並ぶ「普通の階」になっていて、なんにも観ることができないのだ。

 諦めて、基幹バスに乗ろうとしてバスターミナルに向かったのだが、これがない!またしてもガ~ンだ。
 JRゲートタワービル建設に伴っていまはそれ自体がなくなってしまっているのだ。
 なんのことはない、私自身が名古屋駅前の再開発に完全に置いてゆかれているのだ。古い情報による記憶はことごとくに外れた。

              

 しかし、このバスのりば探しは結局、名古屋市内の観光スポットをガイド付きでめぐる、その名も「メーグルバス」に出会うことになり、結果良ければ全て良しということに。
 あちこち行くよりもと選んだ行き先は徳川美術館。常設展の他には史上最高の嫁入り道具展、並びに雛飾り展。その華美な道具の数々、そしてその精巧なミニチュア。
 いい意味でのスノビズムが満開だ。実用性を超越したこの装飾過多は人間の存在そのものがひとつの余剰であることを示して余りあるようだ。

 ひと通り観たあと、園内の宝善亭で季節限定の雛御膳をいただく。ちょうどいい量で、美味しい。しかも価格はリーゾナブルだ。
 その後、名古屋の中心街へ出てお茶をしながら話したあと、Nさんを名古屋駅へ送って別れた。

 トーマスさんを巡る話題も多かったが、お互いネットで知る限りの間柄だから自己紹介的な話も多く、それらに枝葉がついて話題が尽きることがなかった。
 せっかく来てもらったのに稚拙な案内で申し訳なかったが、私にはとてもいい時間だった。

 その後、土曜日のみ営業している今池の店に立ち寄り、かねてからの顔見知りたちと出会い、情報交換などけっこう話し込んで帰宅。
 よく歩いたもので、歩数計は11,250歩を示していた。


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脱出不能!『The NET 網に囚われた男』

2017-03-17 18:15:03 | 映画評論
 小説であれ映画であれ、主人公が窮地に陥って、そこから抜け出ようとしていろいろ試みる言動が、その目論見を裏切って、ますます、より深い窮地に追い込まれてゆくというシチュエーションはよくある。
 それらは、喜劇であったり悲劇であったりするのだが、それを読んだり観たりしている私たちは、全体の状況を俯瞰できる立場にいて、その主人公の陥った罠についても予め知っているから、「あ、それはダメだ」とか「こっちを選ぶべきなんだよ」とつい心の中で声援したりするのだが、もちろんそれは彼女、ないし彼には届くことはなく、その言動は悪あがきのように危機を膨らませてゆく。

 もっともなかには、何かの拍子でその罠から抜け出すことができ、ハッピー・エンドで終わる場合もある。
 しかし、いずれにしても私たち観客は先に見たようにその状況の全体や主人公が陥った罠について予め知っていて、優越感に似た立場からそれを観たり、あまつさえ、その主人公に心のうちでアドヴァイスすら送ることができる。

          

 しかし、この映画においての主人公のそれ、つまり彼が陥った罠、ではなくてThe net=網に関しては、私たちの観客としての視座(=ある種の超越的な視点)をもってしても、主人公の思惑や言動を超えて起こる事態に対して、どんな回答をも用意することができず、ただただともに立ち尽くすしかないだろう。
 この映画が前提としている「歴史的、地理的事実」の前には、もはや私たちには、「こうすればいいのに」などと安易に語れない厳然たる事実が存在する。

 具体的な点についてネタバレにならない限りで、この映画を紹介しよう。
 主人公は分断された朝鮮半島の境界線付近の北側に住む一介の漁師。愛妻と一人娘の家庭をこよなく大切にしている。
 漁に出る朝、夫婦のマグワイがある。微笑ましいような状況であるが、これがラストシーンにつながるひとつのポイントとなる。

          

 船を出し網を上げる。魚がかかっていてもう逃げることはできない。そしてその姿こそこの映画の題名そのものなのだ。『The NET 網に囚われた男』。
 
 もう少し書いてもいいだろう。
 彼はその船の故障により、南の領域に流れ着いてしまう。しかし、家族思いの彼はそのまま脱北しようなどとは夢にも思わない。懸命に船を修理して戻ろうと思うのだが南側に見つかってしまいソウルへ連行される。
 そこには、彼をスパイではないかと疑う熾烈な取り調べが待っていた。その過程は息詰まるようだが、その疑いから逃れようとすればするほど、その言動が彼を更なる深みへと突き落としてゆく。

          

 監視つきでソウルの中心街でいわゆる「泳がせ」が行われたりもする。
 彼はそこで、金のために体を売り、故郷へ仕送りをしている女性などに会い、豊かで自由なはずの南の現実にも直面する。
 
 何やかやで結局北へ帰ることができる。
 しかしこんどは、北へ帰されたこと自体が北当局のスパイではないかとの疑惑を生み、またもや徹底的で熾烈な取り調べを受ける羽目になる。
 ここで瞠目すべきは、北での取り調べが、南でのそれときっちり相似形であることだ。

 彼はひょんなことで釈放されるが、南北双方での取り調べや経験は、彼の精神はむろん、その肉体にまで目に見えるトラウマとなって貼り付き、癒えることはない。
 そして、これが最後の悲劇を生む。

          

 こう書いてくると、かなり具体的に映画の内容を語ったネタバレのように思われるかもしれないが、しかし、実際に映画をご覧になればこの記述を遥かに上回る内容やシーンが連続して登場し、これぞ映画の表現だと納得されるだろう。

 彼がひっかった網(Net)は、一時的には南北双方での具体的な取り調べの過程で、彼が弁明すればするほど絞られてくるそれであるが、さらにマクロな視点で見れば、あるいはその網を網たらしめている状況を見れば、それはこの半島が分断されてあるという事態そのものなのである。

 『嘆きのピエタ』や『レッド・ファミリー』などを監督したキム・ギドクの作品であるが、韓国サイドのみならず、南北への相対的な目配りが効いているといえよう。もっとも象徴的なのは、その取り調べのシーンで、先に述べたように南北のそれはほとんど同一なのである。
 北は貧しいが、一方の南では自由のうちに格差が広がりつつある状況もちゃんと捉えられている。

          

 さて、これを観る私たち(この場合日本人ということにしようか)が、どっちもどっちだなぁという感想に終わるとしたら、それはある意味、無責任といえるであろう。
 上で、彼が囚われたNetはさまざまな具体的できごとであると同時に、南北分断という事態そのものであると述べたが、なぜこの半島が分断されたのかの歴史そのものに、この国・日本は深く関わっているのだ。
 1910年以降、この半島は日本に併合され、日本の植民地となった。そして45年の日本の敗戦。東西冷戦の初期の段階での陣取りゲームにとっては、日本の占領地であったこの半島をどちらがどう取るかは相互に格好の獲物だったわけである。

 かくして50年に始まった朝鮮戦争は、独立した一つの国を夢見た半島の人びとの夢を無残に打ち砕き、分断国家が出来上がったのだった。
 日本の敗戦時、この半島が日本の支配下ではなく、独立した一つの国としてあったとしたら、その体制がどうであれ、今日のように分断されることはなかったろうとはじゅうぶん考えられる。
 だから、主人公は南北分断という地理的なNetと同時に、日本支配に始まり、分断へと至った歴史的なNetにも絡め取られていたというわけだ。私たちが上から目線で、「どっちもどっち」といった感想で済ませることはできないと思う所以だ。

          
   
 彼が絡め取られた網=Netは、敵と味方を峻別し相互に憎悪の応酬がなされる状況のなかに張り巡らされたものだった。
 そしてそうした憎悪と排除の体制はいま、欧米においての排外主義者・極右政党の伸長、さらにはこの国においての極右・安倍政権下での教育勅語拝跪のカルト思想の蔓延のなかで、一般化しようとしている。 
 従っていつなんどき、私たちもこうしたアポリアであるNetに絡め取られるかも知れないのだ。いま、強硬に成立が目指されている共謀罪も、そうしたNetたりうるからこそ危険なのだ。

 まあ、そんな屁理屈はさておき、十分ひきつけるものをもった映画である。いささか疲れていて、途中で眠ったりするかもという状態で観たのだが、それは杞憂で、最初から最後まで、身を乗り出すようにして画面に釘付けにされたのだった。

 繰り返すが、ネタバレをあまり書かない主義の私にしてはまあまあ書いたほうだ。しかし、ここで書いたようなことはほんの取っかかりに過ぎず、実際の映画はさらに具体的で強烈なシーンを映像化していることをいい添えておこう。

 
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【私の春三題】幼なじみ・桜の新葉・土筆

2017-03-15 15:01:52 | 日記
 寒がり屋の私は、もうそろそろ寒さは退散してほしいものだと思っている。

 過日、名古屋に住む女性と逢って、ある美術展と昼食をともにした。
 彼女の方からの招待だ。
 実はこの女性、私のもっとも古い友人の一人で、なんとはじめて出会ってから72年が経過している。

 彼女は、私が疎開先の大垣の郊外で、国民学校へ入学した折の同級生なのである。
 しかし、数ある同級生のなかで、いまなお行き来があるというのは、彼女が名古屋で就職し(高校教師)、名古屋の人と結婚し、同じく名古屋で居酒屋をやっていた私の店にも顔を出してくれたことによる。
 なお、彼女の娘さんも私の店へ来てくれたが、なんということか30歳になるやならずで急逝してしまい、愛娘を失った彼女の嘆きはひと通りではなかった。
 その折、二人を知る私としては、つたない言葉で彼女を慰めたものだった。

          <

 今回は、そのお返しのようなもので、昨年、連れ合いに先立たれた私を慰め激励してくれるというのだ。
 甘んじて受け入れることにした。

 長年の付き合いとはいえ、互いにすべての経歴を知るわけではないので、お互いに経過してきた生き様などを話しあったが、彼女の経歴にもさまざまなドラマがあったようだ。
 今はすっかり落ち着いた一人住まいで、名古屋都心近くのマンションに居を構え、結構多彩な趣味の世界で生きている。
 
 さしで長時間話し合うのははじめてだったが、次第に打ち解けて、次回は彼女の親しい別の同級生も呼んで逢おうということになった。
 なお、彼女は、私が加わる同人誌の読者でもあり、けっこう私が書いたものについても憶えていてくれて、その点でも話が弾んだ。
 なかなか楽しい出会いであった。

     

 話はまったく変わるが、私が鉢植えで種から育てていた桜んぼの木、昨年、直植えにしたので、ひょっとして今年あたりチラホラでいいから花をつけないかなぁと思っていたのだが、どうやら花はお預けで新葉が出てきた。
 これがまたとても初々しくて、けっこう華やかで綺麗だ。写真は、それぞれが1センチほどの葉をつけたものを接写したのだが、その輝くような美しさがわかっていただけるだろうか(って、写真がうまくなきゃ伝わらないわな)。
 来年あたりにはぜひ花をつけてほしいものだ。
 もともとあった桜んぼの木が、もう寿命でアプアップしているので、その種から育てたこの2代目への期待は大きい。

          

 またまた話は変わるが、つい最近、同人誌の仲間でFBでの友人でもあるYさんが、お友だちから土筆をもらったと書いているのを読み、すわと私の秘密の場所へ行ってみたが、まったく見当たらなかった。誰かが採った形跡もない。
 ここは建物の北側で、ほとんど陽が当たらないので、「まさかこんなところに」と誰もが気付かず、それで私の秘密の場所になっているのだが、その日照の件でまだなのかなとも思う。すぐ近くなのでまた来てみようと思った。
 でも手ぶらで帰るのもシャクだったので、その周辺の陽当りの良いところを探してみたら、こちらの方はもう開ききっているものも含めて、ある程度のものを採ることができた。

          

 いつまでも寒い寒いとぼやいているが、春はたしかに来ているようだ。精神的には幼なじみとのほのぼのとした久々の出会いで、そして周辺の自然としては、その体内時計でもって確実に季節の到来を告げる身近な植物たちの営みを通じて、鈍感な私も、さすがにいま、春を実感しはじめている。

 
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【祝祭と鎮魂のアンビバレンツ】大阪フィル・岐阜定期演奏会

2017-03-12 12:59:57 | 音楽を聴く
 大阪フィルの第40回岐阜定期演奏会に行ってきた。
 10年ほど前から、この岐阜定期演奏会を聴きに行っているから、40回のうち1/4は行っていることになる。
 40回といえばアニュアルな回数だが、もうひとつ記念すべきは、大阪フィルが当初、関西交響楽団として発足したのが1947年だから、今年は創立70年に当たるわけだ。

 そんなわけで、アニヴァーサリーなムードが漂う演奏会だったが、一方、鎮魂の意味をも併せもったちょっと変わったムードでもあった。
 というのは、演奏会が3月11日に開かれたとあっては、お祭り気分に浸ってのみでは済まされぬというわけだ。

         

 そうしたアンビバレンツな様子は、プログラムにも表れていた。
 前半はテナーとソプラノを伴ったオペラ絡みのもので、ヴェルディの「運命の力」序曲に始まり、マスネ「ウェルテル」から“オシアンの歌”(テノール)、グノー「ファスト」から“宝石の歌”(ソプラノ)、そしてプッチーニの「ラ・ボエーム」から“冷たい手を”(テノール)、“私の名はミミ”(ソプラノ)、“愛らしい乙女よ”(二重唱)の三曲。
 そして前半の締めは、祝祭ムード一杯のヴェルディ「椿姫」から“乾杯の歌”といった具合。

 ここまでは、惚れた腫れたの浮き立つようなもので、このコンサートの祝祭の部分を表現していた。
 テノールは岐阜県出身で加納高校(私んちから徒歩10分)・音楽科卒で18歳にしてオペラ歌手デビュー、その後東京芸大へ進み、本格修行という逸材・城 宏憲。
 ソプラノは、小林沙羅。「フィガロ」のスザンナ役、「カルメン」のミカエラ役などといったらそのイメージが掴めるだろうか。
 いずれにしても二人ともまだまだ伸びしろのある歌い手として、今後の活躍が期待できる。
 
   http://www.jvf.gr.jp/01jo-hironori.html

   http://sarakobayashi.com/biography

 とりわけ、城 宏憲はご当地のテナーとして熱い声援を受けていた。途中の休憩時間に、ロビーで支援者たちに取り巻かれてる姿を見かけたが、舞台上で見かけた感じほど長身ではなかった。それだけ大きく見せたのは芸の力か。そういえばむかし、藤圭子を至近距離(1メートル以内?)で目撃したが、TVの画面で観るのとは大違いで小さい人だと驚いたことがある。でも、眼力は強くて圧倒された。

 後半はガラッと雰囲気が変わってチャイコフスキーの第6番「悲愴」。地の底から聞こえてくるようなファゴットの音色から次第に他の楽器を巻き込んで重層な音色へと成長してゆく。
 
 いつもながら感じるのはチャイコフスキーの音楽の饒舌さである。時として装飾過多を思わせるこのてんこ盛り感は、ある意味でドストエフスキーの小説の饒舌に通じるものがあり、19世紀末の来るべき大転換の予兆、あるいはそれに対する不安を解消するための、これでもか、これでもかという力説のようなものかもしれない。

 なお、この第6番はライブで効くのは3度目だが、いつも第三楽章の終わりで少なからざる拍手が起こる。指揮者が全身を震わせて終わる激しいこの楽章の終わりに、それが起こるのは無理もない。
 実際の終楽章は、ファゴットの低音から始まったそれへと収斂するようにフェイドアウトとして静寂のうちに終わる。
 これを3月11日の鎮魂歌として選んだのはわかるような気がする。

 アンコールは同じくチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ」の第三楽章“エレジー”だった。これもまた3月11日への気配りだろう。

         

 大阪フィルは、持ち前の重厚な音色を聞かせてくれた。
 指揮者の尾高忠明は今春から大阪フィルのミュージック・アドヴァイザーに就任し、18年からは音楽監督に就任予定とか。
 この人、1947年生まれの70歳。大阪フィルと同い年ということになる。

 この人の指揮ははじめて見たが、膝や腰の関節を柔軟に使い、リズミカルな指揮をしていた。楽曲を高揚に導くときも、また、フェイドアウトのように静寂に導くときも、いずれもその感触を全身で表現していて、とても明確な指揮だと思った。

 演奏が終わって外へ出たらブルブルッとするほどの寒さ、いつも岐阜の春を告げるこの定期演奏会、今年はまだまだ寒いままだ。
 かつては、このコンサート(ずっと3月に行われている)に自宅から自転車で来たのになどと思うのだが、よく考えてみれば、その頃は私自身がまだ若かったということだ。

 いいコンサートだったと思う。10回ほど来ているせいか、大阪フィルとは相性がいいようだ。生きていたら来年も行きたいものだ。
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「教育勅語」という妖怪が大手を振って現れた!

2017-03-09 03:35:49 | 日記
 森友学園絡みでいろいろなものが見えてきているが、いちばん驚いているのが、いまや教育勅語がなぜ否定されたのかが曖昧になり、それを肯定する連中が政権の中枢を担っているという事実だ。
 8日の国会で、稲田防衛相は教育勅語を全面的に評価すると臆面もなく述べている。

          

 彼らが曖昧にしているのは、教育勅語にいうところの天皇は、新憲法下の象徴天皇とも違って、「神聖にして侵すべからず」という絶対的権力者として、また「現人神」としてあったということ、したがって何者もそれに抗うことができなかったという歴史的事実だ。
 
 だから、教育勅語のいう、「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」は、天皇のために死ねということであり、実際に3百万という人間が「天皇陛下万歳」を強要されて死んでいったのだった。
 その時代を生きてきた私は、少年ながら、天皇のためにこの命を捧げるのだと決意していた。そう刷り込まれてきたし、そういうと大人たちが「いい子だ」と褒めてくれた。
 いまの森友学園の塚本幼稚園と同じだ。

   
 
 それを、前半の家族兄弟仲良く暮らしましょうという部分(それ自体「親に孝、君に忠」を導くというアナクロ道徳観なのだが)のみを強調して、「これのどこが悪い」(稲田の答弁はまさにそうであった)と居直るのは、ある種の欺瞞である。
 それをつらぬく価値観が、まさに朝鮮民主主義人民共和国なみの世襲制君主制に拝跪しすべてを捧げよというに等しいという事実を隠蔽している。
 あえていうならば、朝鮮民主主義人民共和国自体の体制そのものが、かつての宗主国であった「大日本帝国」のリフレインともいえるものなのだ。

             
 
 森友学園なんぞはドブネズミに過ぎないが、その「教育勅語」を中心とした教育を高く評価するがゆえに、あからさまな利益供与を行い、それが明るみに出てもなおかつそれをかばい、真実を闇に葬ろうという連中が政権中枢を担っているという状況こそが本当に恐いのだと思う。

 国内のメディアは、ヨーロッパにおいて極右政権が成立する可能性を伝える。ただし、この国において、すでにそれが成立していることを決して伝えない。
 その首領のお供をして寿司や中華料理のご相伴に預かっている情けないメディアの姿がそこにある。
 
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野菜を買って花売り場へ

2017-03-04 15:05:18 | 日記
 早起きして(といっても私の早起きは知れている)農協の野菜売り場へ。
 早く行かないと売り切れるものが出てくるのだ。
 土曜日は特に客が早いように思う。
 そう思って、洗濯物を乾すのも早々に出かける。
 
 先週などは開店直後には駐車場に入れないほどであったが、今週はそうでもない。
 おかげでいろいろな葉物などがまだまだ残っていた。
 
・白菜 ・ほうれん草✕2束 ・菜の花 ・わけぎ ・ねぎ ・菊菜 ・水菜 ・里芋
・きゅうり5本 ・しいたけ ・小玉カブ✕2 

 ちょっと買いすぎたかなと思ったが、全部で〆て1,430円だから、ほぼ一週間分としては高くはあるまい。
 最後の小玉のカブは葉っぱもろとも漬物にした。

 野菜売り場の前には花売り場がある。仏花を始め、色とりどりの花が置かれている。
 その中から、春らしいものを撮してきた。
 以下はそれら。



          

               
         
          

          

          
 
 
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【瑞浪】「研究だけ」が本番に横すべり!?

2017-03-02 13:35:22 | 社会評論
 前回は、岐阜県の瑞浪市に全国の原発からでた使用済みの核燃料棒の最終処分場が出来るのではないかという問題を書きました。つまり、トイレなきマンションといわれた全国の原発の、共同トイレを一挙に引き受ける最終処分場(といっても穴を掘って埋めるだけという原始的なものですが)になる可能性があるということでした。

 その根拠は、瑞浪市の地下には、巨大な立坑と地下1,000mの地点に、4万本の使用済みの核燃料棒を保管する空間がすでに作られているということです。前回載せたその写真をもう一度載せましょう。
 でもこれは、現段階ではその実現の可能性に過ぎません。というのはこの巨大な施設は、日本原子力研究開発機構の超深層研究所が、実際に使用済みの核燃料棒の最終処分場を設置した場合の諸条件についての「研究を行っているだけ」の場所なのです。

          

 岐阜県(当時の知事は梶原拓)と瑞浪市は、「研究だけ」という条件付きで20年間の土地使用を認めました。その着工は2003年で、2022年には「研究」を終了し、すべてを埋め戻して瑞浪市へ返還することになっています。      
    
 でもここへ来て、何やら雲行きが怪しくなってきているのです。
 まずは、2022年の返還に対して、その延期が申し入れられているようなのです。それとこれはオフレコ発言ですが、資源エネルギー庁の長官は「先のことはわからない」と本音を漏らしているようなのです。

             
            同様計画が進む幌延でのトラクターデモ
 
 ここから見えるものは、「研究だけ」とはいえ、現実に4万本の使用済みの核燃料棒の保管スペースが作られているのだから、そのまま本番の貯蔵所にしてしまおうとする方針です。
 これに対し、岐阜県と瑞浪市は(表面上は)あくまでも20年を経過した後の返還を求めているのですが、どこまでが本気なのかわからないのです。
 
 というのは、この「研究だけ」の施設のために、2002年以降、地方振興交付金の名ですでに総額にして280億円の金額がばらまかれているのです。
 内訳は、瑞浪市に年5.3億円、隣接の土岐市に3.5億円、恵那市に1.9億円、御嵩町に9千万円などなどと10箇所の市町村に及んでいます。
 研究のためだけなら、なぜ近隣の市町村にまで交付金が行き渡るのでしょうか。

          
           
 ここには、各原発が、札束で横面を張るようにしてできてきたのと同じ構図が見られます。
 地方自治が財政難の折から、いま支給されているものが停止されるのも痛手ですが、そうしたなか、現在支給している額を2倍、3倍、あるいはそれ以上にに増額するといわれたとき、はたして「No!」といえるのでしょうか。

 「研究だけ」が「本番」に横滑りする可能性が大きいし、フクシマの被害者目線からの報道などがドンドン減ってきている現在、その危惧は次第に真実味を帯びつつあるといわねばなりません。
 ようするに、すでに外堀が埋められているといってもいいのです。

                

 私がこれらの事実を赤裸々に知ったのは、青森県の六ケ所へ12年間住み込んだ写真家、映画監督の島田恵さんの第二作ドキュメンタリー、『チャルカ』の上映会と監督自身のトークを通じてでした。
 映画は大上段から原発の是非を断じるものではなく、瑞浪同様に最終処理場の候補地になっている北海道の幌延に暮らす人々、フィンランドですでに建設が進む最終処理場の洞窟の模様、フランスにおけるそれの賛成派・反対派の各意見をほぼニュートラルに捉えて、現在の世界で原発がどんな相貌で表れているのかを示し、私たちにその判断を委ねるものでした。

            

 ところで、使用済みの核燃料棒が無害になるまでには、何十万単位の年月の埋蔵が必要です。すでにその地下貯蔵庫が作られつつあるフィンランドのオンカロの状況などがその内部の映像とともに紹介されますが、ここの地層は、全てが太平洋プレートの先端にあり常に大変動が予測される日本と違って、何億年もの間地殻がまったく変動していない岩盤地帯なのだそうです。
 それでも、その施設担当者自身が不安を示しています。

          

 その一つは、笑い話のようなことなのですが、何万年もさきの人類に、「ここは危険だから掘り返してはいけない」ということをどうやって知らせるかということです。
 私たちの言葉や記号はどんどん変化してゆきます。その結果として、何千年か前のことばや記号、アイコンなどが意味するものを理解することができないのです。
 日本で言うなら、縄文式の土偶やその後の弥生時代の銅鐸の用途などもわかっていないのです。

 この話は、現今の科学技術で解決しないものを無責任に採用し、そのツケを未来の人類に丸投げにするという事実を象徴しています。

 フクシマは、いわゆる安全神話を覆しました、その教訓は、自然の異変は人の想像力を常に凌駕するということです。どんなに緻密に計算された事態でも、自然自体は人類がいまだ知らない別の基準によって変動しうるのです。

 それらを念頭に置くとき、幌延ともども、瑞浪の核の集合かつ共同トイレ化に賛成するわけには行きません。そして、そうした現今の人の知恵の及ばない側面を多分にもつ原発というシステムについて再考すべきだと思うのです。
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瑞浪あたりがなんだかきな臭い!?

2017-03-01 22:17:52 | 社会評論
 岐阜県は本州のほぼ中央にあって、その地図は、お多福のような形状をしている。
 このおたふくの上部は飛騨地方で、下部の下ぶくれの部分が美濃地方である。この美濃は、大きく分けると東濃と西濃になる(中濃もあるが)。県都の岐阜市はどちらかというの西濃域にある。

 これは私の感じたところだが、この東濃と西濃というのは同じ県下にありながらそれほど交流が密ではないようなのである。お互いのことをあまり知らないのではないかと思われる。別に仲が悪いわけではないがやはり幾分疎遠な気がする。

          

 その要因はその地理的な距離にもあるが、主として交通上の問題、とりわけ鉄道事情があるように思う。
 東濃の多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川の人たちは、西濃との行き来より、中央線を使っての名古屋との往来のほうが遥かに多い気がする。
 同様に、岐阜や大垣の西濃圏の人たちも、東海道線を使って名古屋へ出る機会が圧倒的に多い。
 それぞれの通勤形態がそうなのである。

          

 だから東濃・名古屋・西濃はトライアングルをなしていて、物流や情報の流れもその影響下にあるような気がする。かくいう私も、高校生ぐらいまでは東濃との接点はまるでなく、名古屋の大学へゆくようになって以降、東濃の人たちとの交流を持つに至ったのだった。
 現在も付き合いのある東濃や東濃出身の人たちは、全て名古屋を介して知り合った人たちである。

        

 なぜこんなことをいい出したかというと、これは私なりのある言い訳なのだ。
 間もなく、あの東日本大震災とフクシマから6年が経過しようとするが、話はこれと関連する。
 愛知県にも岐阜県にも原発はない。だから安心だといってばかりはいられない状況が実は東濃の瑞浪で進行中だということなのだ。
 それについて私は、何やら瑞浪できな臭いことが進行しているようだぐらいの認識しかもっていなかった。
 しかし、どうもそれは座して看過できないようなことだと知ったのはつい最近のことであり、しかもそれを、現在ドイツに住んでいる東濃出身の友人K氏からのメールを介してであった。
 冒頭から書いてきた岐阜の地理的事情が私のいい訳であるというのはこうした事情による。

 よく、原発はトイレのないマンションなどといわれるが、原発が存続する以上、高い放射能を含んだ使用済み核燃料が排泄され続けるのであり、それらはどこかに廃棄されなければならない。その廃棄は、今のところ、地中深くに何万年も埋めておくというある意味とても原始的な方法しかない。

          
 
 だから原発を維持し推進する側は、その廃棄場所を必死になって求めている。
 そしてその場所に、東濃の瑞浪市が有力候補として挙がっているというのだ。トイレのない各原発の、共同トイレとしての「準備過程」が進行中だというのだ。

 先にみた、東濃・西濃・名古屋のトライアングルは数十キロの間隔を持つ。しかし、火山王国日本に埋蔵される予定の4万本にも及ぶ核燃料棒に万一のことがあれば、そのトライアングル全体に被害が及ぶ可能性はきわめて高い。
 地理的状況が云々(デンデンではありません)とはいっていられないのだ。

 いつも前置きが長いという私の悪癖のせいで、本論に至るまでに十分の長さになってしまった。
 いま瑞浪に何が起ころうとしてるのか、その具体的な事実については、次回に譲ることとする。
 とりあえずは予告編ということで・・・。





 
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