六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

ファンタジックなラブロマンスなのだが・・・・ハンガリー映画『心と体と』を観る

2018-04-29 11:24:40 | 映画評論
 ハンガリー映画である。ハンガリーは私が行ったことがある数少ない国のうちの一つ。それに、高校生の折に遭遇したハンガリー革命(1956年)は、当時のいわゆる既成左翼に対する私の批判的マナコを開かせる契機となったという事情もある。
 もっとも、その約半世紀後にハンガリーを訪れた際には、ソ連圏崩壊後15年しか経っていないにも関わらず、ここがかつて「社会主義国」といわれた痕跡はどこにもなく、ましてや56年革命の記憶もほとんど失われているかのようだった。

           

 などという私的な回顧はさておき、映画の話をしよう。といっても、上の前置きのような歴史的、政治的な問題と直接絡む映画ではない。
 邦題は『心と体と』。原題は『Testrol es lelekrol』(「心のテスト」といった意味のようだ)。
 
 舞台はブタペスト郊外の食肉処理場。そこへ休職者の代理で臨時雇用としてやってきた検査職員の女性マーリアは、寡黙でどこか神秘的な美しさをもつが周辺からはほとんど浮いた存在である。
 そんな彼女に注目する左手が不自由な上司の中年男性アンドレ。しかし、どうやらそれは彼の片思いではないようで、マーリアの方も彼を意識している。

          

 しかし、不器用な二人はすれ違うばかり。
 そんなときに起こったのがこの処理場での盗難事件。盗まれたのは牛に発情を促す薬品。しかし、早とちりは禁物、この薬品は二人とは関係ない。この事件が関係するのは、真相解明のために派遣された心理分析家の女性(高島礼子似の濡れた感じの女性。私が容貌にこだわるのではなく、それが映画の中身とも関連するから?)の従業員全員に対する聞き取り調査の方だ。

          

 この調査で、判明した驚くべき事実は、マーリアとアンドレが毎夜みる夢の共通性である。それが、冒頭から現実の映像に差し込まれる夢のシーンで、二人は、夢の中では、冬の森で寄り添うように生きる鹿の雌雄なのである。
 もっともこのシーは最初から食肉工場の現実にしばしば差し込まれていて、私たち観客にはそれが二人の夢だということが示唆されている。それが二人の共有のものだということを相互に知るのがこのシーン。

 食肉処理場で、生きた牛を麻酔にかけ、処理し解体し肉塊にしてゆく気の弱い人なら目を背けたくなるような映像(FBやTwitterなら掲載不可かも知れない)と、冬の森でゆったりと寄り添う鹿のカップルのロマンティックでファンタジックな映像との対比はとてもシュールである。一方は騒音のなか床に流れるおびただしい鮮血の赤、もう一方は静謐のなか森に降り積む真っ白な雪。

          
 
 共通の夢という接点をもとに二人の仲は急速に・・・・といいたいところだがそうはゆかない。その心理テストで示されたマーリアの抜群の記憶力、潔癖症などは同時に彼女の接触障がいをも示すものであった。
 彼女は、それを克服すべく、人知れず努力をする。その過程は痛々しくも微笑ましいものがある。なぜなら、それは彼女の明日へ向かっての意志の発露なのだから。

          

 ようするにこれは、人生を諦めたかに見える中年の男性と、周辺との接触、とりわけ特定の相手との接触がうまくゆかない女性との自分との葛藤の物語なのである。
 ここまでは映画前半の概要だが、その後のことはいうまい。ただし、後半ではこれらの前提をもとに事態が推移し、ラストに向かってはサスペンスまがいな緊張感溢れるシーンも出てくる。

          

 「他者」との触れ合いは人間にとっての永遠のテーマなのであろう。そしてそれには、心も体も慣れなければならないのだ。それについて、もっといいたいことがあるのだが、それをいうと完全なネタバレになるので残念ながら控えたい。

 他者との触れ合いのためには心も体もそれに備えなければならないといった。その意味では、この映画の邦題、『心と体と』はむしろ原題の直裁的ないい方よりは適しているのかもしれない。
 
 

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南北首脳会談の重み それは私たちとも関連する

2018-04-27 18:12:23 | 日記
 やっとここまで来た。
 いろいろ思惑絡みだとシニカルに見る人たちがいるが、そんなことは外交上当たり前のことなのであって、ともかくは戦後七〇年以上にわたって分断されていた人たちの代表がこうして同じテーブルに着いたことを素直に評価すべきだろう。

 その成果は、消極的には、少なくともここしばらくは互いに軍事的な面での衝突はあるまいということであり、積極的には、これを契機に一挙に話し合いが進み、戦争状態の解消と平和協定、相互の平和的共存への前進が期待できるということである。

          

 これとて、南北統一からいったらその途上に過ぎないが、まずは両者が相互に相手を否定し排除し合う関係から脱却でき、相対的に平和な関係のうちに位置づけられることが今後の礎として大きな一歩だろう。

 私たち日本人は、最も近隣というべきこの両者がそうした安定した状態へと至ることを、自らの安全をも含めて祈らずにはいられないのだが、さらにいうならば、この分断には私たち自身がある種の責任を負っているがゆえに、いっそう真摯にその帰結に関心をもつべきなのだ。

 朝鮮半島はなぜ分断状況にあるのか?それは朝鮮民族自らの選択では決してない。
 1945年日本の敗戦時、この折、北から進むソ連軍、南から北上する米軍との間で暫定的な境界をもって始まったのがこの分断の始まりとされる。
 それがその後、50年に勃発した朝鮮戦争をもって南北間の激しい戦闘となり、53年の終結までに、南北合わせて300万人超といわれる死者を出すに至った。この数は、当時の朝鮮半島の人口からして、数人に一人の犠牲者ということになる。

          

 こうした事態に至ったのにはこの朝鮮半島が日本の敗戦時、国家を持たない空白地帯になっていたことに依る。というのは、1910年以降、日本の侵攻により朝鮮半島全体が日本の領土となっていたため、日本の敗戦とともに、当時の東西冷戦の余波を受けて、この半島が双方による支配権争奪の焦点になったからである。朝鮮戦争が、東西陣営の代理戦争といわれたゆえんである。

 つまり、日本が朝鮮を併合せず、それが独立した国家のままであったとしたら、かくも悲惨な事態は起こらず、そして以後今日まで続く民族分断も起こり得なかったということである。これは自虐史観でも何でもない。歴史を冷静に見ればその流れはよく分かるはずだ。
 だから、今日の分断には日本の大きな関わりを持っている。だとしたら私たちは、少なくとも、南北の分断がほぐれ、平和な状況が訪れ、さらなる展望として統一への道のりを最大限支援すべきだろう。

          

 しかし、トンチンカンな安倍外交は、南北の対話が急速に進み、トランプまでが直接対話に乗り出そうとしているにも関わらず、今なお「制裁、制裁」と叫び続け、一連の流れからは完全に蚊帳の外である。
 このままで行くと、かつて米中が突如友好関係を結んで日本が置いてけぼりになったニクソンショックの二の舞いになる可能性もある。

 なお、トンチンカンは更に続き、「最重要課題」である拉致問題(そういう割に何もしてこなかったばかりか、それに逆行するような動きばかりしてきた)の解決を、南の文大統領やトランプ大統領に預ける始末である。
 しかし、こんな醒めたことをいって、拉致被害者のご家族の方には申し訳ないが、この話題は、南北の平和会談や、トランプ氏の最大課題である北側の非核化などの重要課題の「ついでによろしくお願いします」といったような問題ではない。
 ほんとうに「最重要課題」だというならば、自らの行動でそれを示さねばならない。安倍氏はトランプの忠実なポチであるが、トランプは安倍のご都合で動くようなことは一切ない。文大統領にそれを依頼するのも筋違いだ。

 南北首脳の二人が手を携えて境界線を越える映像にはある種、万感の思いがある。冒頭にも書いたように、感動してばかりではいられないのも現実ではある。それほど70年にわたる分断、さらにそれ以前の35年にわたる日本統治時代のミッシング・ヒストリーのもたらしたものは大きく重い。ようするに、通算100年の歴史を背負った今日なのだ。
 それだけ長い年月で積み上げられた問題は、やはり長く継続する努力を要するであろう。
 今日はその端緒が開かれた日であることを朝鮮半島全ての人、在日のすべての人たちとともに噛み締めたい。
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居ながらにしての躑躅(つつじ)三昧

2018-04-22 15:53:06 | 花便り&花をめぐって
 この時期、わが家はツツジがこの世を謳歌している。
 玄関先には赤いツツジが燃えるように咲き誇っているし、一階の居間の南側はガラス戸越しに白いツツジがまばゆいように咲いている。
 その同じ木の高い部分はなんと私の2階の居室からも窓越しに見えるのだ。

             
          これは一階の居間からのもの 緑と白のカーテンになる

 この白い方は樹高は4mを越える。樹齢は40年以上である。
 玄関先の赤い方も、樹齢は同様であるが、こちらの樹高は2m強である。玄関先はバス通りに面しているため、あまり伸び放題にすると自転車などの妨げになるため、適度に刈り込んできたせいでその差ができたのだろう。

          
          

 白い方は、まったくの放任で、植えっぱなし、刈り込みもしなかったので、いまや下方で5m強の幅、高さは4mを越えることは既に述べた。
 ところで、一階では爛漫の咲きっぷりを見ているのだが、2階からはまだそれを見ることはできない。

           
             
            双方とも、下は満開なのに上方はまだつぼみ
 
 というのは、ツツジの開花は下方から始まって上に至るため、下方ではもう爛熟期も過ぎて茶色に変色する花もあるというのに、上方ではまだ蕾のままなのだ。写真で見ていただくとおわかりになると思うが、赤い方もその習性に従っていることからして、それがツツジの開花の順序であることがわかる。
 その事実は、その開花をしばらくの期間にわたって楽しめることを示している。


              

 もうひとつ面白いのは、白い方は基本的なは純白なのだが、毎年そのどこかに赤い花が何輪か咲くことである。
 花桃の木はそうした花をつけることで知られているが、ツツジはそれほど顕著ではない。毎年、赤い花が付く場所が違うのも面白い。なかには一輪の中にハイブリットな様相を表すものもある。


            
 
 もっと不思議なのは、既に述べたようにうちには紅白の2本の木があるのだが、この現象は白にのみ現れ、赤の方は全て赤いままなのである。たぶん、遺伝子の優性・劣性と関係があるのだろう。


             

 これだけの花をつけると、虫たちがやってくる。
 どういうわけか今年は蝶の仲間が少ない。やってくるのは蜂の仲間だ。アシナガバチ、小蜂、クマンバチなどがやってくる(ん?今年はミツバチも来ないな)。
 彼らは、その漏斗形の花の奥にまで頭を突っ込んで、懸命に蜜を吸う。それでは絵になりにくいので、そこから離れた瞬間がシャッターチャンスだ。


            

 もうひとつの不思議は、ここ数十年ツツジと付き合っているが、その種が拡散して新しい代をみることがまったくないことだ。ナンテンや他の木は、あちこちに知らない間に顔を出して、可哀想だがそれを伐ることが多い。しかし、ツツジではそんな例はまったくない。
 
 ネットで調べたら、ちゃんと実をつけ、拡散するのだが、自然の条件下では他の雑草などに負けて芽吹くことはないのだという。
 自由奔放に放置してきたにも関わらずとても強靭で、年々歳々、私の目を楽しませてくれるこのツツジが、反面、そんなデリケートな繁殖の条件をもっているとはつゆ知らなかった。


            

 私はいま、ある種の敬意をもってわが家のツツジたちを眺めている。かれらは自然という奇跡のうちでもかくも美しい姿で現れ、中途半端な生物である人間の端くれのこの私を、かなりの期間にわたって慰めてくれる。
 そこには、ぱっと咲いてぱっと散る桜とはまた違った趣の華やかさがある。

 これを書いている二階の部屋の前では、やっと膨らみ始めた蕾を付けた枝が風に揺れている。今月いっぱい、いや、もっと先まで楽しめそうだ。

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伸びしろのあるスケールの大きさ 辻彩奈さんのリサイタル

2018-04-21 12:04:19 | 音楽を聴く
 20日、地元岐阜出身のヴァイオリニスト・辻彩奈(あやな)さんのリサイタルへ行った。
 2016年、モントリオール国際音楽祭で第一位をとったほか、併せて、バッハ賞、パガニーニ賞、カナダ人作品賞、ソナタ賞、セミファイナルベストリサイタル賞をとったというから、なんかとった賞が多すぎるのではないかとすら思ってしまう。

          

 プログラムは、ベートーヴェンの「クロイッェル」のほかは、ポピュラーなものも含めて割合短めな曲で構成されたいた。
 
 演奏に関しては、弓使いが伸びやかでくっきりしていて、滑舌のいい人の朗読を聽くように説得力のある演奏だと思った。

 私のお気に入りはバッハの無伴奏パルティータ第2番ニ短調「シャコンヌ」で、ヴァイオリン一丁を感じさせないほど華やかな音色を醸し出していた。大家のくぐもった演奏に比べ、こんなに開放的な無伴奏もあったのかと、改めて感じ入った次第。

             

 圧巻はやはり、モントリオールで賞をとった折の演奏曲で、サン=サーンスが名ヴァイオリニスト・サラサーテのために作ったという「序奏とロンド・カプリッチョ―ソ」。
 華麗さと繊細さがない混ぜになったこの曲は、それ相当のテクニックと、細やかな表現力を要請するもので、辻さんはそれを完全に手中のものとしていた。
 これなら、モントリオールで、聴衆がスタンディングオーベーションで絶賛したのもわかる気がする。

 まだ弱冠20歳、まだまだ伸びしろがあるヴァイオリニスト。今年5月には、ズビン・メータ率いるイスラエルフィルハーモニーとの共演で、シベリウスの協奏曲を弾く予定とか。
 世界に羽ばたくことができる人だと思う。
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日曜日の私的出来事二題

2018-04-16 12:00:22 | よしなしごと
今季初、たけのこを買って湯がいた。
 会席などに使う小さくて品のあるものではなく、地上にドッかと姿を表したものだ。そのうちでも小ぶりではあったが。
 米ぬかひとつかみと、鷹の爪二本を入れて湯がくこと二時間。うまくアク抜きができたようでエグ味はまったくない。

        
 
 薄皮の部分は、少し生姜を利かせた薄味の出汁で、おひたし風に食べるとほんのり甘みがあっておいしい。
 生わかめも買ってきたので、若竹煮をつくるつもりだが、もちろん竹の子ご飯も予定のうち。

前後するが、朝から夕刻までは、孫の結婚式で名古屋金城埠頭近くへ。

        

 今時の結婚式は演出が至れり尽くせりであるが、ほんとうの意味でのサプライズや出来事はない。と文句を言う立場でもないが。

          
 
 もらってきた花束や写真、それにお菓子を、生きていたらもっとも喜んだであろう彼女の霊前に供えた。
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これが現代ロシアの一面? 映画『ラブレス』を観る

2018-04-12 18:00:19 | 映画評論
 『ラブレス』とはなんと直裁的なタイトルだろう。
 ひとつの家族の崩壊を描いている。ボリスとジャーニア夫妻は離婚を前提にしていて、既にそれぞれの恋人がいる。そしてその両者ともに、自らの新しい生活の「邪魔」になる12歳の息子、アレクセイを引き取ろうとせず、相手に押し付けあっている。
 そのことをアレクセイは知っている。知って泣いている。

            

 お互いが新しい相手ととのセックスシーンを演じて家を空けている間に、少年は行方不明になる。
 ここから、映画の対象はガラッと変わり、失踪した少年の捜索シーンが展開される。それも警察などではなく、民間のボランティア団体によるそれが中心だ。この組織の手慣れた捜索活動は一つの見ものではある。

 カメラは捜索の模様を舐めるように追い、このシーンは結構長いが退屈はしない。ロシアの森、廃墟、森の中の軍事基地らしい施設、それらを追い続ける映像は、それ自身がサスペンスの要素を醸し出すからだ。
 その捜索の結論はいうまい。

          

 なお、息子の失踪を契機に夫妻の仲が戻るというほど甘い映画ではない。むしろ、その過程で二人のギャップが生理的なものといっていいほど一層鮮やかになる。

 ラストシーン、夫妻はやはり別れ、それぞれの新しい相手と結ばれている。しかし、そこに新たな希望、新たな安らぎが得られたようにはとてもみえない。相変わらず、ルサンチマンに囚われた生活であるかのようだ。

          
 
 ボリスの方は新しい相手との間にできた子どもを邪険に扱う。ジャーニアは新しい相手と会話もないままに、けだるげにルームランナーでのトレーニングを始める。
 そのトレーナーの胸にくっきりと書かれた「RUSSIA」の文字。あ、これはロシアの映画だったのだと改めて思い起こす。そして、このシーンにも、そして、映画のなかでもときおりテレビやラジオのニュースとして伝えられる中東やウクライナ情勢のニュースが・・・・。
 そうこれは紛れもなくプーチンのロシアの時代を撮した映画なのだと改めて納得させられる。

          

 『ラブレス』とは、夫妻や親子をこえた、まさにこの時代のロシアを捉えた痛烈なリアリズムでもあったのだ。新自由主義的なエゴイズムが私生活全般にまで根を下ろす時代。
 アンドレイ・ズビャギンツェフ監督の手並みは鮮やかだと思う(この監督の作品は『父帰る』しか観ていない)。

 なお、この夫妻はまさにスマホ世代といってよい。私が観たなかではスマホがこれほど頻出するは映画も珍しい。
 私たちの国でも、スマホ世代がが親となりつつある。国の政治も醜く歪んできている。
 そうした中で、「ラブ」が喪失することなく保たれる保証などというものはあるのだろうか。
 
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私が若い頃には見たこともないハナミズキの歴史物語

2018-04-09 02:01:47 | 花便り&花をめぐって
 ソメイヨシノを追いかけるようにあちこちでハナミズキが咲いている。
 この土曜日に行った岐阜県図書館の中庭では、ちょうど見頃の紅白のハナミズキが咲いていた。

             
 
 このハナミズキは、いまや公園で、街路樹で、あるいは個人の庭園で、若い人たちには当たり前の光景になっている。しかしである、私のように古い人間にとっては、これほど多くのハナミズキを目にするようになったのは、せいぜい3、40年前からなのである。
 私の10代、20代の頃には、それを見かけたことはなかった。おそらくそれを意識したのは40代の後半だったのではと思う。

             

 この花の別名が、アメリカヤマボウシといわれるように、原産地はアメリカ大陸だからである。
 それがどのようにして渡来したのかは、教科書にも載った時期があったようだから、知る人ぞ知るである。1912年、当時の東京市長(東京は市であった)が、友好の印としてアメリカにソメイヨシノの苗木を贈った。それが今に至るワシントンはポトマック河畔の桜である。

          

 で、その返礼としてアメリカから贈られたのがこのハナミズキであった。その本数は、白40本、赤20本といわれる。麗しい花の交換物語である。
 しかしながらそれから30年を経ることなく、日米は戦火を交えることとなったのも周知の事実。花を仲立ちとした友好を、政治的、経済的、軍事的国益が無惨にも蹴散らした歴史があるのだ。

          

 この木がアメリカヤマボウシといわれる理由は、その花が日本の在来種、ヤマボウシに酷似しているからである。それもそのはず、両者ともにミズキ科の植物。
 その違いはというとヤマボウシの花は白のみで、ハナミズキより遅れて花をつける。そのせいか、ハナミズキは葉よりも先に花をつけるが、ヤマボウシは葉がけっこう出揃ってから花をつける。

          
             画面中央付近にキジバトが・・・・

 一番の違いはその実だ。ハナミズキは花の後にそれぞれ独立した実を4個つけるが、ヤマボウシはまんまるな赤い実を一個付け、その中に4個の種子を蓄える。なお、この実はマンゴウに近い味がするというが、食したことはない。今度見かけたら試してみよう。

          

 さて、話を戻そう。このハナミズキ、渡来して60年ほどしてから急速に全国に広まったようだ。そして今では、この時期を代表する花であるかのようである。
 これを、政治、経済、文化、軍事における対米従属の象徴と見ることもできるかもしれない。しかしながら、できうるならば100年以上前の、友好交換のシンボルとしての意味合いをとりもどしてほしいものだ。状況はどう変わっても、花には罪はない。花は「なぜなし」に咲く。
 「花ぞむかしの香に匂いける」だ。

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月見寺、隠れ城からの絶景に酔う 木曽三川紀行の最終章 

2018-04-03 01:37:03 | 写真とおしゃべり
 桑名紀行の帰途であるが、養老山脈沿いに北上し、岐阜県は海津市へと至った。目指すはその養老山脈の中腹にある臥龍山行基寺である。
 ここは、奈良時代、東大寺の大仏造営などに関わった高僧、行基入寂の地とあるが、主要な説では生駒山の近くで没したとあるから、これは異説の方であろう。ただし、木曽三川の洪水に苦しむ民のため、この地に寺院の造営を進言したのが行基であったということは事実のようである。

              
                川燈台ならぬ山燈台

 もうひとつ時代にかかわる説明としては、美濃高須藩藩主松平氏菩提寺とあるが、これは間違いのないところで、寺内にも徳川家外戚を示す葵の紋が随所に見られる。なお、高須藩と言うのは現海津市の中心、高須町のことである。
 しかし、私のような下衆な現代人にとっては、この寺の別名が「月見寺」ないしは「隠れ城」であることの方に関心がある。事実、その別名はじゅうぶん納得できるものであった。

            

 「水郷街道258」と名づけられた国道から山手に逸れて、看板が指示する通りに車を駆る。やがて未舗装のガタガタ道が現れ、この道が続くのなと覚悟を決めたのもつかの間、今度は簡易舗装はしてあるが、とてつもなく急な坂を登ることとなる。こんなに急な坂道は、30代から40代にかけてアマゴやイワナを追っかけて山間の林道や、谷あいの道なき道を走って以来のことである。

            

 オートマのD(ドライブ)ではとても登り切れない。2速に落としてもなおきつい。L(ロー)でやっと登りきるぐらいだ。
 どこへ行っても古刹などはこうした山中にあるものが多いが、それにしてもこんなところに寺院を造るためにどれだけの人力をもってその資材等を運び上げたのか想像もつかないものがある。

            
  
 山中の寺院といっても、高野山や比叡山と違って、行き着いた先は鬱蒼とした深山という感じではなく、眼前に濃尾平野の西南端が一大パノラマとして開ける、まさに絶景ポイントなのであった。
 それらは写真を参照していただきたい。

              

 駐車場の端には、珍しい「御山の燈台」が建っている。
 いわゆる川燈台は、木曽三川の各河川で見ているが、山燈台ははじめてだ。しかし、その機能は川燈台と変わらないという。ようするに、平行して眼下に流れる揖斐川、長良川、木曽川を、夜を徹して上り下りする船人たちに、その位置を知らせたのである。

            
                 高須藩 藩主の部屋

 「蛤のふたみに別れゆく秋ぞ」という言葉遊びに満ちた句を残して、「奥の細道」終焉の地、大垣をあとにした芭蕉翁はこの灯台を見ただろうか。旧暦の9月6日に発ったとはあるが時刻までは書いてない。
 大垣を早く発って、明るいうちにここを通り過ぎていればそれを目にすることはなかっただろう。遅く、例えば午後に発ったのなら、新暦でいえばもう晩秋、日が落ちるのは早いから、燈台には灯が入っていたかもしれない。

            
          手前から揖斐川、長良川、木曽川、そして名古屋市街

 山門(1820年の建立)をくぐり、本堂で案内を乞うと、何がしかの金額でお抹茶とお菓子がいただけ、本堂やそれに連なる建造物、そこからの景観を楽しむことができる。本堂以外の建屋は意外と広い。
 漆塗りの廊下は鏡のように輝き、藩主が訪れた場合の居室は最も景観の優れた箇所に置かれ、そこからお庭越しに見る濃尾三川の景観はまさに絶景である。

            

 名古屋駅前の高層ビル群はどれがどれかを判別できるほどにくっきり見える。午前中、桑名から遠望した御岳は気象条件が変わったせいもあって姿を見せなかったが、それさえ良ければ、恵那山、御岳、更に北方の北アも臨めるかもしれない。


            

 この寺の別名が「お月見寺」というのもよく分かる。こんな場所で東の空からポッカリと月が出るのを眺めたらまさに値千金であろう。ましてや、地上の人工の灯りなどほとんどなかった時代のそれは、凄まじいほどの美しさであっただろう。
 月の出る頃まで粘れる時間的余裕もなかったし、あの急坂を夜間に下るのもという思いもあったので、明るいうちに山を降りた。

            

 桑名を起点に養老山脈沿いに北上する小紀行は以上だが、それらはいずれも木曽三川の災害とその恵みが、禍福をあざなう如く絡んでいることを実感するものであった。
 しかし、それらの痕跡は、仮想現実の希薄なリアリティの中では、もはや折りたたまれてしまった古層として、人々の記憶から消えてゆくものであるのかもしれない。
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「西郷どん」にまで及ぶ薩摩義士と多度大社の動物虐待?

2018-04-01 00:59:40 | 歴史を考える
 先般の桑名訪問の続きだが、昼食に桑名名物蛤のうどん御膳を頂いてから、次に向かったのが海蔵寺だった。
 
 ここは知る人ぞ知る宝暦治水事件の一つの最終地点である。
 宝暦治水事件の詳細は以下のWikiを見ていただく他はないが、宝暦三年、幕府は、最大の難工事といわれた木曽三川(木曽、長良、揖斐)各河川の改修工事を薩摩藩に命じたのであった。その背景には、次第に力を付けつつあった薩摩藩に対する警戒もあり、その力を削ぐという目的もあったという。どうもはじめっから無理難題の工事だったようだ。

            
             上部の幕の紋 左が平田家、右が薩摩藩
 
 この海蔵寺については、桑名の観光案内によると次のように書かれている。
 「宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。宝暦5年工事は完成されたましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負は自刃しました。これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、ここ(海蔵寺)には平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっています」

                    

 宝暦治水事件につき更に詳しく知りたい方はこちらを参照されたい。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%9A%A6%E6%B2%BB%E6%B0%B4%E4%BA%8B%E4%BB%B6

            

 ようするに、難工事中の難工事で、傷病死がでるなどするなか、加えて、幕府から派遣された役人の嫌がらせや妨害工作があり、それへの抗議の割腹、工事の遅れや経費の拡大の責任をとっての割腹、などなど後世の人びとによれば、薩摩藩士殉職者は平田靱負以下85名を数えるに至っている。

               
                薩摩藩家老・平田靱負の墓

 彼らの業績を賛美し、その犠牲の大きさを最も悼んだのは、その事業によって度重なる洪水の被害が軽減された地元300か村の人々である。具体的にはいまの海津市を中心とした岐阜県南濃地方の人たち、三重県北勢地区の現在の桑名市を中心とした一帯人たちである。
 したがって、彼らの墓所はこれらの地域に散在している。そのうち、三重県側でもっとも著名なのはこの海蔵寺だろう。

            

 墓碑は平田靱負を始め21だが、境内に建てられた掲示には24名の割腹とその日時が記されている。それによれば、上にみたようなさまざまな事情もあって、それぞれの割腹日はまちまちだが、その最期は、責任者だった平田靱負である。一連の動静を見極め、すべてが終わってから自らの責任を全うしたのである。
 「私たちは指示もしなければ関わりももっていません」としれっといいぬけ、「◯川が、◯川が・・・・」と言い立てる連中とは雲泥の差である。

            

 もうひとつ比較したいものがある。それは、薩摩藩士がやってのけた治水事業と、前回もちらっと述べたあの醜悪な長良川河口堰の違いである。前者はまさに身を削り、わが身を犠牲にしてまで民百姓の苦難を救ったのに対し、後者は、膨大な税をゼネコンの懐に運び込んだのみで、その結果は周辺の環境を悪化させることでしかなかった。
 この二つが、時代を隔つとはいえ、ほぼ同じ地域での出来事であることに、建設当時、その反対運動に若干関わった者としては、やはり感慨を覚えざるを得ない。

            
        石段の右側が上げ馬の坂道 その右側は神事検分のための桟敷席か

 桑名市の締めは、多度大社だった。
 この神社の大祭は、「上げ馬神事」と称されるもので、30度以上の急坂を馬に乗った若者が駆け登り(計十数頭という)、その成否の数でその年の吉凶を占う勇壮果敢な祭りとして知られている。

            
 
 ただし何年か前、登坂する前の馬を興奮させるため、その馬体をやたら叩いたり、酒類などを興奮剤代わりの飲ませたりするのは動物虐待ではないかという告発があり、全国的な話題になったことがある。ようするに、伝統的なものと今様の価値観の衝突のようなものである。

               

 どのように折り合ったかは寡聞にして知らないが、この神事、6つの地区から3頭ずつの馬が出て行われるようで、しかもその結果がその年の吉凶を占うとしたら、各地区とも必死になってなんとか上げ馬を成功させようとする気持ちもわからぬでもない。

               

 写真に白い馬があるが、これは境内で飼われている神馬で、この馬が上げ馬を行うわけではない。これは、あのオグリキャップと同様、芦毛が老化したもので、かなり老いた馬だと思う。この馬に、あの坂を登らせたらそれこそ虐待かもしれない。
 それにしても、馬という動物は優しい目をしている。

            

 以上が桑名市(多度はかつては桑名市ではなかった)に関する紀行である。
 その後、県境を越えて岐阜県側で絶景地に立ち寄るのだが、また機会を改めたい。

 
    
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