六文錢の部屋へようこそ!

心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

【散歩道から】あんな風にはなれないだろうけどなりたいな!

2013-09-29 12:08:17 | よしなしごと
 病み上がりで、まだまだ気温の上下にやたら敏感で、ちょっと暑いと汗をかき、ちょっと冷えるとガタガタ震えが来る有り様で本調子ではないが、喉と鼻に多少の違和感がある程度で、体温は平常、気分もさほど悪くはない。
 そんなわけで、家に引っ込んでばかりでもと思い、ちょっとした用件にかこつけて散策をしている。

 季節は確実に秋に向かっている。
 休耕田にはられた水が、なにやら名を知らない植物の影を宿して秋色の空を写している。ここはいつから休耕田になったのだろうか。

         

 退院以来、何度も彼岸花を目撃したが、なんだか今年のそれはくすんだような、あるいは淀んだような赤で、どこか鮮やかさがない。毒々しい深みもないように思う。夏の天候のせいだろうか。それとも、それを眺めるこちらの主観のせいだろうか。いずれにしても、カメラを向ける気になれないのだ。

 その代わりに、白い彼岸花を見かけたので、こちらの方を撮る。こちらは例年に変わりないように思う。

 

 わざわざ遠い方の郵便局(こちらの方が、往復の自然が豊か。もう一方は市街地のみ)へ手紙などを出しにいっての帰途、優雅に釣りに没頭している人を見かけた。
 その出で立ちがいい。着物姿に角帯、足元は雪駄、なんという粋。
 これで太公望を決め込むのだからなんか唸りたいほどだ。

         

 しばらく静かに見ているうちに大小2尾ほどを釣り上げた。大といってもいわゆる白ハエだからさして大きくはない。
 10分ほどいたろうか、こんな優雅な風景とは離れがたいものがある。

 しばらくすると、知り合いらしいおばさんが通りかかって、「どやな?釣れるかな?」と気さくに声をかけた。
 くだんの釣り人、「まあ、こんなもんだわ」と白い布を日除けにしていたバケツを見せてくれる。
 私もすかさず覗き込むと、そこにはかなり型のいいものを主として十数匹が。
 「結構型のいいものが釣れましたね」と声をかけると、「まあ、白ハエだからこんなもんさ」と、笑顔が溢れる。

 

 いいなあ、あんなふうに無心になれたらいいなあ、と呟きながら帰途につく。どこかで、自分はああはなれないだろうなという諦めの声もする。

         

 新しい休耕田を見つけた。
 私がいつか、稲刈り後に、UFOが降り立ったような痕跡があると写真に撮った田圃だ。あのUFOはその後どうしたんだろう。もうここへは2度と降りないんだろうな。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【ある思考実験】琉球独立論の根拠と可能性について 

2013-09-27 10:35:52 | 歴史を考える
         

 詩誌「あすら」拝読いたしました。
 ご送付へのお礼、ならびに感想などのご返事が遅れましたのは、よんどころない入院のせいですから何卒ご容赦ください。以下、感想のようなものですが、状況が状況だけに粗雑なものにとどまります。
 
 ただし、内容については本土の私たちが知っておくべき点を多々含むように思いますので、本来は貴姉への個人的な返信ではありますが、それを同時に拙ブログで公表させて頂きます段、何卒お許し下さい。
 また、問題の性格上、詩誌での論者各位との正面からの応答というより、それに触発された愚見の陳述に終わっていることもお断りいたしておきます。

 この詩誌の【特別企画】<琉球の帰属について・・・・>では、尖閣諸島の帰属問題が沖縄=琉球の帰属問題をも浮び上がらせているという共通認識のもと、その歴史を回顧しながら問題の所在を見出そうとする二つの論文がが紹介されています。
 前者は、以下に述べるような歴史的事実を顧みることなく、冷静な対応を欠いた日本社会の行く末の危うさを指摘し、後者は、やはりそれらを隠蔽したまま「国民国家を形成する民族」という概念が跋扈することを危惧し、国民国家の境界を越えること、そしてそのために国家という枠組みそのものの再検討をすること自らの課題として提示しています。

 さてここで語られている歴史上の共通認識とはなんでしょうか。
 それこそ、本土の私たちや、ある意味では沖縄の人びとからも隠蔽されている歴史的事実だと思います。
 それは19世紀の末まで、琉球は当時の清国や日本から冊封を受けるという東アジア的な意味での帰属関係にあったものの、この冊封という制度そのものは相手を独立した国家とみなしたうえで成立するものですから、したがって琉球は独立した国家として存在したということなのです。
 この関係が打ち破られるのが1879(明治12)年、清国の衰退につけ込み、日本が軍隊を派遣し、琉球王朝にピリオドをうち、沖縄県として日本への武力併合を強行した時点なのです。
 ようするに、明治12年までは、沖縄は連綿として独立した琉球という国家だったということなのです。
 ここが肝心なところです。

 <Wikipediaより>明治政府は、(琉球に対し)廃藩置県に向けて清国との冊封関係・通交を絶ち、明治の年号使用、藩王自ら上京することなどを再三迫ったが、琉球が従わなかったため、1879年3月、処分官松田道之が随員・警官・兵あわせて約600人を従えて来琉、武力的威圧のもとで、3月27日に首里城で廃藩置県を布達、首里城明け渡しを命じ、4月4日に琉球藩の廃止および沖縄県の設置がなされ、沖縄県令として鍋島直彬が赴任するに至り、王統の支配は終わった(琉球処分)。

 
          

 以上が沖縄併合の様子ですが、この「琉球処分」というのはその当時から日本側によって用いられた言葉です。 

 ところで、1945(昭和20)、日本の敗戦に伴い、日本が明治以降併合したり実効支配をしていたすべての地域や国家は、日本の支配から解放され、それ以前の状態に戻されました。台湾も朝鮮半島も、中国大陸の一部、それに千島樺太などもそうでしたが、沖縄=琉球のみが戻されぬまま、アメリカの統治下に置かれました。
 
 さて、以上述べた経緯のなかに琉球独立論の根拠があります。
 ようするに、琉球の独立というのは、日本の一部が独立するということではなく、もともと独立した国家であった琉球がその主権を回復するということなのです。私は若いころ(1960年頃)、こうした考えを持った沖縄からの「留学生」(まだ米国の管轄下にあったのでそう呼ばれていました)と知り合ったことがあります。
 彼は琉球の独立を主張し、当時、本土では右から左まで一致してやみくもに叫ばれていた「沖縄返還」とか「本土復帰」というスローガンにはそっぽを向いていました。
 
 しかし、結果として沖縄は、日本がアメリカの占領下から脱した1951年のちょうど20年後、1971年、アメリカから日本へと引き渡されたのでした。
 それ以来、沖縄の日本への併合史は前期の1892~45の63年、後期の71年から2013年の42年間になりますが、1429年からの長い琉球王朝の歴史から考えると、簒奪された歴史はそれほど長くはありません。
 
 沖縄=琉球はなぜ他の地域のようにその主権を回復されることなく、日本に引き渡されたのでしょうか。それはやはり日米間に安全保障条約という軍事同盟とそれを巡る地位協定などがあり、米軍の東アジアでの最大の基地を維持するためには日本の領土にとどめておいた方が何かと都合が良かったからだと思います。なおアメリカは1854年、黒船来航時には琉球を独立国家とみなし、琉米修好条約を締結しています。
 
 こうして琉球の主権回復問題と米軍の基地網の存在とは当初から密接に絡み合っていたのだと思います。その証拠は、後に明らかになったように、1971年の日本への引き渡しに伴なっても、沖縄の人びとを愚弄するかのような日米間の密約が幾重にも付されていたのですが、その詳細は割愛します(いわゆる西山事件として有耶無耶にされたものです)。

 ところで、琉球が沖縄県として再び日本に統合されてから40年が経過したいま、独立論を論じるのは唐突かもしれません。
 しかし、再併合の際、それが日米間の取引として行われ、琉球の主権回復が具体的選択肢としてちゃんと提示されないまま終わったことを考えるとき、今一度、沖縄の人たちの間で議論があってもいいように思います。
 もちろん、具体的な選択は沖縄の人びとによってなされるべきことはいうまでもありません。

         
 
 さて、独立の困難性にも触れておきましょう。
 もちろん、日米両国の最後には軍事を伴う弾圧があることは当然予想されますが、それはさておくとして、独立を選択することに伴う問題点です。
 それは沖縄もまた日本本土と同様、いわゆる、グローバリゼーションの波に洗われてしまっているということです。この場合のグロバリゼーションとは、各種欲望の普遍化、肥大化、そしてそれによる生産力拡大への飽くなき追求の過程に組み込まれてしまっているということです。
 したがってもし、沖縄が独立するとしたら、現在よりもはるかに低い生産力のもとで、つまり、はるかに少ない諸欲望の充足に踏みとどまりながら、新たなバランスの回復の上に生活を構築して行けるかどうかが試金石になります。

 しかし、実はこの問題はこと沖縄に関するにとどまらず、極めて普遍的な問題なのです。
 今や、一九世紀に端を発する産業革命とそれを推進した資本主義というシステムは、膨大な商品群を生み出し、それらを貨幣として回収するために、それら商品への欲望を地球規模で拡散・拡大させます。それがグローバリゼーションの実態であることはすでに述べたとおりです。
 この無際限で無政府的な商品の大海は、もはや人びとに何が適切な消費であるかを考える余地すら与えず迫り続けています(その典型例が現今の中国です)。

 沖縄というと私たちは海に囲まれた恵まれた自然、オバアたちの伝統としきたりや自然との調和に満ちた豊かな生活、などなどをイメージします。
 しかし、それらがあえて強調されるのは、それらは残存してはいるものの、次第に失われゆくもの、ないしは痕跡として記念碑的にとどめおかれているものだからではないでしょうか。

 こんなことは書きたくはありません。
 しかしこれが全国の津々浦々で、高度成長期以来起こってしまったこと、そしていくつかの民俗風習を闇のなかに葬ってきたことの実際なのです。
 沖縄諸島が中央からの距離が遠いだけ、かつての自然とのバランスをもった文化が今なお残っていることを祈りたいと思います。
 そしてそれらが維持されているようなら、琉球独立はまったくの夢物語ではなく、いつの日にか、琉球独自の文化をもった自治の島として可能性につながるものがあるような気がします。

 少なくとも沖縄は、すでにみた武力併合の歴史から見ても、そしてその後の地上戦の体験からしても、さらには現状の基地でがんじがらめの状況から見ても、日本の中の特異点であることは間違いありません。
 そして、それは同時に、沖縄を「特異点」とすることによって生き延びてきた「本土」の私たちが思考すべき問題をも突きつけているといえます。
 
 以上はささやかながら、頂いた詩誌の所収論文に対する私の反応です。
 まとまりのないものになってしまって申し訳ありません。


なお、ネット上では、中国が沖縄を狙っているという書き込みがけっこうあります。上の私の取りまとめは、もちろんそれに与するものではありません。むしろ、ここまで蹂躙されてきた沖縄の可能性の条件のようなものについてのひとつの思考実験です。
詩誌でありながら、掲載された貴姉のお作などへの感想が後になりました。
 こちらの方は貴姉宛の別便にて送らせていただきます。



 

コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

アンダー・コントロールという傲慢さではなく

2013-09-25 11:22:40 | よしなしごと
 ここ二回ほど一週間にわたった私の入院について書きました。
 そして前回は、「私がいなくも世界は動く」と書きました。
 もちろんこれは当然のことで、私が誕生によってこの世界に参入する以前から世界はあったのであり、どうやらこの分で行くと、世界の終わりよりも私の終わりのほうが早そうですから、私がいなくなっても世界は続くわけです。

         
                 久々のスズメの大群

 私が隔離されていた一週間、世界は動いたといいましたが、表沙汰になったニュースだけからいうと、実はそんなに変わっていませんでした。
 シリアに関する事態は膠着状態ですし、フクシマに関しては安倍氏がきっぱりいい切った「アンダー・コントロールにある」という言明にもかかわらず、汚染水は相変わらずダダ漏れで、この場合の「アンダー・コントロール」は、「漏れてることは承知しています」という意味でしょうね。

         

 ヤクルトのバレちゃんがあっさりと王氏の記録を塗り替えたのは快挙でした。
 記録は破られるためにある、これは原則ですが過去2回ほど、これを人為的に妨げてきた歴史が澱のようにつっかえていただけに、今回はそうしたフシがなかったことはいいことでした。
 加藤コミッショナーといういるのかいないのかわからないような人が急に今季限りの辞任などということを言い出したのも、飛ぶ球を提供した結果、王氏の記録が破られたことへの責任をとったのでしょうか?
 え?誰に対する責任?もちろんナベツネグループへの責任です。
 彼が、選手やファンの方を向いて仕事をしてこなかったことは歴然たる事実ですから。

         

 入院中に著しく変わったといえば、私の家の周辺で育つ稲です。
 入院前はまだ穂の色も青く先がすこし曲がっているくらいで、白いキラキラした花をつけていました。
 入院したのが台風18号が来るといわれる前日でしたから、被害がなければと思っていました。

 退院して初めて近所へ徒歩で出た22日のことでした。家から50メートルのところで久々にスズメの大群に出会いました。私が歩を進めるとおおよそ二百羽ほどはいいたそれがさっと二手に分かれました。それでも私の周辺には百羽ほどのスズメが残ってかしましく鳴き立てます。
 一般にも報じられていますが、近年、スズメが減っていて、私のような片田舎でもこれほどの群れを見かけることはまれなのです。
 「おう、お前たち健在であったか」と歓迎はするものの、農家の方は大変です。集まれば集まるほど被害も大きくなるわけですから。

         

 ということで、これだけスズメたちがはしゃぐということは稲も一回り成長したのだろうと足元を見やると、果たせるかな入院前はまだ突っ立っていたような稲穂が完全に頭を垂れています。熟してきた証拠です。穂の色も黄金色に近づきつつあります。

         

 しかし、これでもう刈り取りかと思われる向きがあるとするとまだまだといわねばなりません。この地区のお米は遅場米の代表格「はつしも」で、文字通り、霜が降りるような頃になってやっと刈り取られるのです。
 一番下の写真が3年ほど前の10月12日のものですが、現状との違いはおわかりいただけるでしょう。おそらくこれから一週間か10日後に刈り取られたはずです。ということは今年も10月の第二週か第三週の週末まではこうした黄金色の風景を楽しむことが出来るわけです。

         
               これは3年ほど前の10月12日

 岐阜の「はつしも」美味しいお米ですよ。
 米粒一粒一粒がしっかりしていて、歯ごたえと適度な粘度があって、寿司に用いても好適米とされています。

 さて、入院というアクシデントに見舞われたものの、なんとかシャバへ戻ってきました。これからも身辺雑記や観念的なことなど取り混ぜて記してゆく所存ですゆえ、何卒よろしく。
 



コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【病院のうた】21日午後、模範囚として釈放さる

2013-09-21 22:30:49 | よしなしごと
                       
             6人部屋の病室 左側の真ん中に私はいた

 
 標題のように、無事退院いたしました。
 とは言え完治状態ではなく、病院にいる必要はなくなった程度ですから、まだ微熱はあり、グスングスンいっております。来週は通院です。
 
 1950年代になって、ストレプトマイシンなどの抗生物質が普及するまで、結核は不治の病とされ、病死者も多く、またその治療などは長期化するのが常でした。
 富裕層は高原のサナトリウムなどでゆっくり治療できましたが、そうではない人たちは日常的な空間のなかでその回復を待つしかなかったのです。
 映画や芝居などでは、日当たりの悪い長屋の一室でゴホゴホといいながら臥せっている父のために、特効薬といわれる朝鮮人参を手に入れようと、娘が身売りをするいう話がよく登場したものです。
 (この場合、父←→娘ですが、その他の対応、父←→息子、母←→娘、母←→息子はあまり出てこないのは一考の余地がありそうです。)

 また多くの文学者が身近なものとして結核を描いたため、「結核文学」というわが国独自の分野が形成されたりもしました。実際のところ驚くほど多くの文学者がこの病の犠牲になっています。正岡子規、高山樗牛、国木田独歩、樋口一葉、滝廉太郎(音楽家)長塚節、石川啄木、竹久夢二(画家、詩人)梶井基次郎、堀辰雄(「風立ちぬ」)新美南吉などなど。
 
 結核ではなかったのですが気管支炎で一週間ほど入院していました。
 その間、最初の3日ぐらいは高熱や喉の痛みで全く余裕がありませんでしたし、快方に向かってからも色々課題があってさして暇でもありませんでした。目覚めるとパソコン相手にポニョポニョと文章を書いたりしていました。
 しかし、どこへも出かけないというのはやはり楽なものです。私たちはどこかへでかけ、何かをして帰ってくるという過程で、かなりのエネルギーと時間を要しています。それだけに、出かける場合、その行程を含めて楽しく豊かなものでありたいものです。
 
 話がそれました。
 病室でのつれづれに若干のうたなどを詠んでみました。
 短歌などは百人一首か啄木しか知らない私の、はじめの一歩です。
 むろん、「気管支炎文学」などと名乗るつもりも毛頭ありません。

 
   ・名月や点滴の玉煌めきぬ
    (9月19日 限られた病室の窓から月は見えませんでした)
    ====================================
   
   ・熱高し第25番ト短調 エンドレスにて頭蓋を巡る
  
   ・地底から突き上げるごと咳激し 抗う術なく老躯が揺れる
  
   ・落下する点滴の玉 玉玉玉 時間と命かくて連らなる
  
   ・赤白は食後 緑は食間と 作用も知らず薬分けたり
  
   ・検査とて吸い上げられしわが血潮 いつ頃どこでできたものやら
  
   ・わたくしを囲む家族にみるデジャ・ヴ かつては囲む側にいたのに
  
   ・どこへでもいつでも一緒深い仲 点滴棒と同行二人
  
   ・経口食なく五日目の朝迎う われは水耕栽培人間
  
   ・怒れることあり病室に帰り来て そを反芻しひとり虚しき
  
   ・病室にこもりてよりの一週間 私がいなくも世界は動く
     (ただし、重くて暗い世界。 Do you think so?)

 
  今日の日記は支離滅裂。病み上がり途上のうわ言としてご容赦。

 







 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【闘病記】多治見にも熊谷にも四万十にも勝った!

2013-09-19 12:18:44 | よしなしごと
          

 ちょっとのどが痛いかなと思ったのは12日のことで、早速、近くのクリニックへいって、風邪薬など一式をもらってきた。15日には遠来の友人と会う約束があったのでそれまでには治したいと思った。13日は大過なくすぎた。
 容態が急変し始めたのは14日の夕方からだった。
 これはまずいと早寝を決め込んだのだが、明け方になっても事態は悪化する一途だ。
 夜が明けるのを待って友人にお詫び方々キャンセルのメールを出した。
 
 その後が修羅場であった。体がどんどんけだるくなる。何かをしようとする気力も体力も完全に失われた。それでも生理現象はある。ふらつく足で手洗いに入った。さて出ようとしたとき、まさにその場、つまり手洗いのなかでヘナヘナと崩れ落ちたのだ。
 ひとは起き上がろうとするとき、床に手をつくなどしてそれを支えに身を起こす。しかし、その支えとすべき手に力が入らないで、またもや崩れ落ちてしまう。それを2、3度繰り返したあと、変な話だが、便器にしがみつくようにしてやっと腰が浮いた。
 しかしまだ立ち上がれたわけではない。老後のために用意した手すりの棒がある。そこまで手が届きさえすればとにじり寄るように迫った。やっとそれを掴むことができた。普通ならそれでエイヤッと立てるのだがそうはいかない。握った棒を後生大事に要領の悪い猿の木登りのように上へと辿り、やっと立つことができた。
 チャップリンの手にかかれば、これだけで短編の喜劇が一本できそうなありさまだ。

 さて、二階の私の部屋へ戻らねばならない。階段をイグアナのように這いずって登った。これは尋常ではない。早速、体温を計ったら、な、な、何と41.5℃もあるではないか。
 これはやはり医師の治療を受けねばなるまい。しかし、15、16日はあいにく連休である。ネットで緊急治療をしてるところを探したが、緊急医療の説明やら何やらゴタクが書いてるばかりで肝心のそれがどこにあるのかはまったく出てこない。この役立たずめが。

 しかたがないので、モチは餅屋だと119に電話をしてそれがどの場所かを尋ねた。この時はまだ、自分で車を運転してゆくつもりだった。
 「どんな具合ですか?」という問いにカクカクシカジカと答えると、「そんな状況で車を運転してはいけません。われわれが出動します」とのことでまもなくサイレンも高々とやってきた。正午に近い時間だったと思う。「そんなに熱がある?」と救急隊員が念の為に計ったときは39.8℃だった。

 そうして緊急受け入れの病院に連れてゆかれたのだが、その時もまだ、必要な処置と薬などもらって帰るつもりでいた。
 しかし、当直医は非情にも「即、入院です」と告げるのだった。
 「な、何日ぐらいですか?」と尋ねる私。
 「今日明日は休日ですから明後日に検査をします。それ次第です」

 とにかく喉が痛く、咳や痰が出るとき悲鳴が出そうなくらい痛い。固形物はもちろん、水を飲んでも痛い。声が出ない。熱は下がらず、頭痛がし、体はバラバラの感じだ

 うちへ電話をして必要な物を持ってきてもらうにも必死だった。声がまったく出ないのだ。それでも休日で娘がいたため何とか通じて着替えなどが届いた。2日目の夜には、幽霊のような声なら出るようになったので、同人誌の仲間に電話をし、次回会議には出られそうにないのでと、私のパートについての必要なデータを伝えた。

 これを書いているのは入院3日目、各種検査を済ませた後だ。
 「で、検査の結果は?退院の日取りは?」咳き込むよう(これは比喩でもなんでもないな。実際に咳き込んでいるのだから)に尋ねる私に、「そんなに簡単に結果は出ません。ある程度回復がみえたら、退院前でも外出許可を出します」とのことだ。ところで入院してからまる3日間、点滴ばかりで食事はない。出ても食欲はないし、空腹感もない。

 その後、医師から気管支炎だと告げられた。前にももっと軽い症状のものを経験しているのでやはりそうかと思ったが、年齢とともに症状がひどくなるのではと今後のことも心配だ。

 話は変わるが、日本の病院というのは、どこもネットへの接続はできないのだろうか。せっかくパソコンを持って来てもらったのだが、ワープロ代わりになるのみだ。いま書いているこれも、退院か外出許可が出た折、うちから発信するつもりだ。

 私の発熱は、多治見も熊谷も四万十も超えた。
 しかし、そのせいで、ただでさえ少ない脳細胞のかなりの部分が死滅したように思う。
 熱が最高点に達した折、頭のなかで数の子が潰れるような、プチプチプチという音がしたのはそのせいに違いない。

《付記》二日目には名古屋の息子夫妻も来てくれて家族が揃った。わざわざ名古屋くんだりから来るようなことでもあるまいと憎まれ口は叩くが、内心悪い気はしない。
 しかし、それを見ていて強烈に思ったことがある。
 それはある種の既視感を伴うものであった。
 20年ほど前に父親を送り、10年近く前には母を送った。

 その時、私がいた位置は、そう、今、子どもたちがいる場所だった。
 世代交代とは、そういうことなのだろう。
 私はもう、こちら側に来てしまったのだ。

 

 お読みいただきました皆さんへ
 上記は9月19日に一時帰宅を許された折にオンしたもので、夕刻には病院へ戻ります。
 従いまして、これにコメントを頂きましても、正式退院後にしかご返事をさし上げることはできません。ご了承ください。
 









 
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

些細が「些細」で終わらない愚かなイタズラ

2013-09-13 16:31:37 | 社会評論
 写真は内容とは関係ありません。題して「傘のラプソディ」。 

             

 飲食店などでバイトをする若者が、その店舗の食品管理や製造上の機器、あるいは食材を弄んだりして、その店舗の衛生状態や食品のイメージを大きく損なう写真などをとくとくとネットに公表し、結果としていわゆる炎上状態に陥り、店舗側がお詫びの広告を出したり、そのイタズラの対象になったりした機器を取り替えたり、あるいは店舗そのものを改装したり、ひどい場合には店そのものが閉店に追い込まれたりしている。

 長年、飲食店の営業に携わってきた私にとっては対岸の火事ではない。とりわけ、それによって閉店に追い込まれた店舗を思いやるとき自分の身を切られるような思いがする。

          

 私の店でも、人が入れるくらいの大きな冷蔵庫や冷凍庫を備えていた。そして定期的な清掃では、内容物を全て出し、板場さんがそれ用の白い長靴を履いて実際に中に入って清掃をした。
 また、ビール・ストッカーは水冷式で、ひと一人が入れる浴槽ぐらいの大きさであったが、これも何日かで内容物を全て出して掃除をした。この場合は中へ入る必要がないので、身を乗り出して洗った。
 そうした清掃の様子は、たとえその場に顧客が来合わせても、不快感を覚えるどころか、「あゝ、この店は清掃に心がけているな」と安心してもらえるものであったと思う。

 しかし、最近ネットで見るいたずら映像は、まさに食を冒涜するもので、たとえその店そのものの責任ではないにしろ、それをみた顧客はそれを潮に来店しなくなったり、少なくとも、しばらくは来店を差し控えるであろう。
 飲食業界は今厳しい状況に置かれている。それにより何ヶ月か売上が低迷したり、改装のために休業し、おまけに改装資金を捻出せざるを得ないとしたら、たちまち厳しい状況に立たされる。
 したがってそれをもって閉店を選択せざるをえない場合もあるわけだ。

          

 こうした若者のイタズラは、昔もあったものだというが、確かになかったとはいわない。
 しかし、以下の2つの点で現在、進行中のものとは違っている。

 その一つは、結果に対する効果や見通しの違いである。
 かつては、そのイタズラの効果への期待は他愛もないものであった。
 学生時代、私の友人は酩酊して、その帰路、夜間も店頭に置かれていた不二家のペコちゃん人形を寮の自分の部屋に持ち帰ってしまった。盗むというより、朝、店の人がそれがなくなっているのに気づいて驚く様子を想像したということだろう。
 しかし、翌朝、酔いが冷めるに従ってやはりこれはよくないと気づき、ひとりでは勇気が出ないので、友人たちとそれを返しに行った。
 店のひとは、若者が何人か、ペコちゃん人形と一緒に現れたのを見て怪訝な顔をしていたが、事情を聞いてやがて笑い出してしまった。
 その後しばらく、私たちはその店でお菓子を買うことにしていた。
 もちろん、これがいいことであったと強弁するつもりはない。

 もう一つの違いは、昨今のそれは、悪戯をするばかりではなく、それを広く不特定多数に吹聴するということである。もちろんそれには、昔はなかったネットの普及が背景にあるのだが、投稿する方はそれが広範囲に広がり、それを受けた人がまた面白半分に転載する結果、幾何級数的にその情報が拡散されることを知るべきだ。
 いや、知らないのではなく、知っていながら、むしろ自分の発信したものがどれほどウケるかを競うように発信するのだから、それによる被害もあっという間に拡散することとなる。

          

 情報社会の恩恵をこうむって自己表現ができるということは、それだけまた影響力も拡散するということである。この当然の帰結をわきまえないところに、今回の「イタズラ」の過酷な側面がある。
 当初はささやかな動機であっても、それを些細なままで終わらせないところにネット社会の怖さがある。
 閉店に追い込まれた店主が、民事訴訟に踏み切ると報じられているが当然だろう。

 ついでに、もうひとつ付け加えるならば、こうしたことが起きると必ず模倣犯と思われる類似の事件が起きる。こうした連中は心底、オツムが薄いと思わざるを得ない。二番煎じ、三番煎じで、その被害のみが拡散されるとしたら、そこにどんな快楽があるというのだ。
 
 どうせ悪戯をするなら、もっと独創的なものを考えたらどうだ。
 中小零細の飲食店をいじめるのではなく、権勢を誇るものたちを揶揄するようなイタズラでも考えだしてみろといいたい。
 そうしたら、私も拍手をしてこの欄に紹介してやってもいい。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静岡県知事の不適切な教育現場への介入と大阪市の公募校長

2013-09-12 00:55:17 | 社会評論
         

 静岡県知事は正常な思考力を欠いているといわざるを得ない。
 今年4月に実施された全国学力・学習状況調査(全国学力テスト)で、同県の小学校の正答率が全国最下位だった国語A(知識を問う問題)について、下位校10校の校長名を公表すると主張している。
 
 校長の名を公表するということはその学校も公表するということであり、学校間格差を公にすることでその下位校に携わるすべての教職員、そして何よりも在校生たちに対する差別を助長するものである。
 それに校長に責任があるわけでもあるまい。学力というのは地域や教育環境などなど様々な要因によって生じるもので、校長個人の問題ではない。ましてや校長は常に移動し、今年の4月に赴任した人もいるはずだ。

 問題は、校長の名を公表したら学力が上がるかということで、それが期待できるとしたら、校長がその圧力を受けて教員を締めあげ、教員は生徒を締めあげるということで、これはもはやいじめの構造とほとんど変わらない。
 さらにいうなら、ワーストテンは絶対になくならないのだから、つねに下位10校は晒しものにされるということである。

 県知事たるもの、もし自分の県の学力の問題があると認識しているならば、教育現場の責任として処罰的にそれに対するのではなく、教育現場や地域、保護者を交えた意見交換のなかで、子どもたちにとって何が必要な教育環境なのかを自ら考えなければならないはずだ。
 それをサボって、結果だけを現場に押し付けるとしたら、かつての全国統一テストで行われたように、当日は成績の悪い子を休ませたり、その子たちの答案用紙を統計に加えなかったりする歪んだ結果を生み出すだけだろう。

 教育現場を知らない、あるいは知ろうともしない権力者が、強権でそこに介入するとき、現場は混乱しろくなことは起きない。
 折しも、この静岡の恥ずかしい事態を伝える報道と同時に、大阪市の橋下市長の思いつきで今年の4月から始まった民間から公募の学校長が、セクハラで解任されたことを伝えていた。こうしたスキャンダルで辞めた公募校長は半年もしない間に二人目だという。

 公権力をもつ者は単なる思いつきで教育現場に介入すべきではない。
コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020 東京五輪についての雑感

2013-09-09 17:47:35 | 社会評論
         

 2020年の東京五輪が決まった。
 これを待ち望んでいた人たちにはまたとない朗報であろう。
 私も各種スポーツは嫌いではない。
 競技経験は殆どないが観戦は好きである。
 だが地方都市に住む私にとって、五輪観戦の機会はない。
 ただ、同一の生活時間帯で行われるのでTV観戦は可能かもしれない。

 ただし、無邪気に喜んでばかりはいられない事情もたくさんある。
 まずは、東北の復興、原発事故の収拾などとの関連である。
 推進の論理は、五輪招致によりこれらが進むという。
 その辺がよくわからない。
 五輪やその関連で使われる巨額な費用を考えると、それを直接被災地復興に振り向けたほうがと思うのだがどうだろう。五輪でしこたま稼いで、そのおすそ分けで復興ということなのだろうか。
 原発事故との関連も不透明だ。
 招致の際に、盛んにいわれた、「東京は大丈夫です」「200キロ以上も離れているのです」という口ぶりは明らかに被災地差別を含んでいた。

 日本の国土全体にしても、東京を中心としたインフラの高度化などが進み、地方との格差が一層広がることだろうと懸念される。

 それと関連して、どうもスポーツには余り関心のないような人たちが、それ以外の関心、ようするに利害、もっと率直にいえば「金儲け」のために手ぐすね引いているのが実状だろう。ニュースなどを見ていても、スポーツ関連の話よりも、何兆円単位の経済効果について嬉々として報じられるのが実状である。かつて長野五輪が開催されたとき、開催県の知事が、「スケート競技というのはミズスマシのようにクルクルまわっているのみでどこが面白いかわからない」とのたまわったことがる。
 今回もまた、どうもそんなたぐいの人たちが鵜の目鷹の目で利権あさりをするのだろう。

 五輪は平和の祭典だという。
 そうあってほしいものだ。
 しかし現実には、政治的駆け引きやテロルの場でもあった。
 1972年のミュンヘン五輪では、五輪の場そのものがテロルによる血で染められたし、1968年のメキシコでは、黒人差別に抗議した選手のメダルが剥奪された。
 
 その他冷戦期には、東西のそれぞれが他方の開催をボイコットするという二.五輪として行われたこともある。また、ナチス・ドイツが、聖火の通ってきた道を逆に進撃してヨーロッパ各地へ侵略したことも語りぐさになっている。

 2020年、世界がどんな状況になっているのか予測はつかないが、冷戦体制後のかえって複雑さを増した国際情勢のなかで、果たして大国の意志のみに添うのではない、公正で平和な五輪が実現できるだろうか。
 そうあって欲しいしそうでなければならない。

 五輪に関してもうひとつ気をつけねばならないことがある。
 それは各種規制や統制が強化されることである。
 1964年の東京五輪の際は、諸外国に恥ずかしいからという、それ自身恥ずかしい理由から、屋台がすべて廃止された。世界中の都市で、屋台や路上の活用によって活気を生み出しているところが無数にあるなか、この国は、道路に看板が出ているだけで規制されるようになったのだ。
 もちろん規制は屋台などの施設にとどまらない。
 私たちの立ち居振る舞いまで規制の対象になる可能性がある。
 警備に名を借りた情報収集や各種統制も強化されるであろう。

 五輪がそうしたなかで行われることは覚えておいていいであろう。
 その上でそれが、平和裏に世界の若者たちが集う場になればそれはそれで良いことだ。青少年たちにスポーツの素晴らしさを伝えるという五輪本来の目的外の雑音を排除しながら静かに見つめてゆきたい。

 為政者たちは、原発事故の収拾を始め、東北の復興をそれまでに成し遂げると世界に約束したのだから、ぜひそれを守るべきだし、私たちもまた、それを五輪ほしさのリップサービスに終わらせないようしっかり監視しなければならない。






コメント (14)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

雪に乗って飛んでいったクヌート 多和田葉子さんの小説を読む

2013-09-06 18:01:05 | 書評
            

 多和田葉子さんの小説『雪の練習生』(2011・1月 新潮社)を読んだ。
 ほかのことで忙しい折なので、その合間とか、不眠対策とかそんな読み方だったので、作者には失礼だがあまりいい読み方ではなかった。
 そのせいで感想もうまくまとまらないが、それはこうした私の読み方ばかりのせいではないかもしれない。

 これまでの多和田さんの小説には、アフォアリズム的なエピソードの積み重ねのようなものが多かったが、この小説は大河ドラマを思わせる親子三代の物語である。といって特別に長いわけではない。全体が250ページで収まっている。

 冒頭、これは動物の話だなということが分かる。同時に、「ん?」と思う。その動物自身の一人称で書かれているのだが、それがさらにその動物による地の語りとその動物が書いた手記とに分かれているからだ。ようするに、手記を書いている動物が、その過程を自ら物語っているのだ。
 先ほど、これは親子三代の話であるといったが、その三代とは何とサーカスや動物園で過ごしたホッキョクグマのことで、そのうち初代の「わたし」と三代目の「クヌート」については完全に一人称で書かれ、二代目の「トスカ」についても後半はこのトスカによる叙述ということになっている。

           

 とりわけ、初代の「わたし」は、自伝を書くクマとして自他ともに認められ、何と人間も同席する会議にまで出席することとなる。言葉も二度にわたる亡命などを通じて、ロシア語、英語、ドイツ語とマルチリンガルなクマなのである。
 この第一章には、とくに度肝を抜かれる。この「わたし」は完全に人間たちの間で生活し、すでにみたように、亡命を企て実行しさえするのだから。

 第二章からは人間とクマとの関係は安定する。人間の社会と動物の世界がそれなりに分離して叙述されるようになるからだ。
 第二章は、「わたし」の娘、トスカと名付けられたクマが登場するが、どちらかというと、そのトスカと名コンビを組む女性調教師、ウルズラの物語である。ほとんどがそのウルズラの一人称で語られるが、章の後半はやはりクマのトスカが語り手となる。

              

 第三章はその息子、クヌートの物語で語り手はクヌート自身である。もう第一章のような手記という周りくどい手法はとらず、その叙述としてストレートに進む。
 しかし、特定の人間や周りの動物たちとのコミュニケーションは登場する。クヌートの朝の散歩で出会うパンダはこんなふうに声をかける。
 「あんたもなかなか可愛いね。でも気を付けた方が良い。可愛いというのは絶滅の兆しかもしれない」
 
 またこの章には、親が育児を見放した動物(まさにクヌートがそうである)は、不自然な生涯を送らねばならないのだから安楽死させるべきではといった話が唐突に出てきたりするが後述するようにこれにも理由がある。
 この小説は、クヌートが折から降りだした雪を見つめながら、こんなふうに述べることで終わっている。
 「わたしは雪に乗って、地球の脳天に向かって全速力で飛んでいった。」

 その他、この小説には第一章でのソ連時代の抑圧の体制、第二章のベルリンの壁の存在、第三章のその残滓などといった時代背景もチラホラと出てくる。

 さて、以上がこの小説の極めて大雑把な枠組みだが、私が実に不明だったのは、この小説は多和田さんの創作によって紡ぎだされたものだとはいえ、その下敷きにはちゃんと実在のクマがいたことである。

             
 
 少なくとも、クヌートとその母トスカは実在したのであり、その有り様はこの小説に書かれた事柄とパラレルである。したがって、上に述べた「不自然な飼育」論争もドイツにおいて実際にあったものである。
 とりわけクヌートは、その可愛さによってドイツ全土の、あるいは国境を超えて世界中のアイドルになり、アメリカの雑誌の表紙を飾るほどであった。

 その人気のため、彼がいたベルリン動物園の入園者は急増し、それによりその株価は一躍倍増したという。
 また、09年には、クヌートの父、ラルスを貸し出したノイミュンスター動物園がその分け前を要求し、約43万ユーロ(約5600万円)を支払うことで和解が成立したというから驚きだ。

 さて、この小説の試みが成功したかどうかは問うまい。多和田さんの巧みな筆により、よどみなく読み進む事ができたことは事実である。疑問が残るとすれば第一章の叙述であるが、ただし、これを第二章以下と同じにしたら、この小説全体が平板になってしまったかもしれないとも思う。

 ここで、作者の多和田さんも知らなかった事実を述べねばならない。多和田さんがこの小説を上梓した2ヶ月後の2011年3月19日、クヌートは急死したのであった。
 多和田さんがその終章で述べたようにクヌートは「雪に乗って、地球の脳天に向かって全速力で飛んでいった」のであった。



このクヌートの死を、献身的に彼を育てた飼育係デルフライン(小説中ではマティアス)も知ることはなかった。これは小説でも書かれているが、彼もまた、その飼育の途上で急死していたからである。

なお、本の写真以外はすべてクヌートの実像。
 






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

逆流する川を見つめて(2)

2013-09-04 17:43:37 | よしなしごと
         
          写真は内容とは関係ありません。最近見かけた廃屋(2)

 前回、見慣れた川が逆流しているのを目撃したことを述べた。
 今回はその原因などについて述べよう。
 
 かってこの川は、この辺り一帯の田に水を供給する農業用水の役割を担い、ここから分岐した水が小川となって田の間を流れていた。
 谷から出た水が、扇状地状に田を潤し、それらが再び川に集約され、その繰り返しで海に至るのが日本の田園風景の一般的な様子だったが、この川もそうしたものとして機能していた。

 ところが、1980年頃だろうか、この辺りの田圃はこの川からの給水によるのではなく、ところどころに掘られた井戸からポンプで必要なときにのみ水を汲み上げ、U字溝を使って田に水を送るようになった。
 そのポンプの威力たるや強力で、うちから100mほどにあるものは直径30cmもあろうかという蛇口からドバーッとばかりに水が溢れだしている。

 この井戸の煽りを食らってうちの井戸が枯れてしまった。
 蛇口をひねると不吉な音がして、わずかばかりの水と砂を吐き出すのだ。
 業者を呼んで相談したら、やはりあの井戸に負けているという。
 しかたがないので、ン十万を払いもうひとつ深い水脈へと井戸を掘り直した。

 別に恨みつらみがいいたいのではなく、かくして田圃への給水は私の馴染んだ川からではなく、ところどころに掘られた強力な井戸水に依存するようになったということである。
 近所の農家の人に聞くと、そのメリットはその時折の気候などに左右されることなく、必要なときに必要な水を田に引けるということであり、さらには、良質の地下水のせいで、米がうんと美味くなったというのである。
 ようするに生産性が向上し、おまけにその生産物の質が向上したということである。

 かくしてこの川は、給水という任を解かれたのであるが、それに伴う変化を書き留めておくべきだろう。
 この川から取水し、かつて小川を形成していた流れは不要になり、より合理的に水を運ぶU字溝に取って代わられた。そして、ポンプが稼働しない間は全く水が枯れたコンクリートの溝になってしまった。
 だから、かつてそこに住んでいたフナもドジョウもメダカもゲンゴロウもタガメもミズスマシもアメンボも、ザリガニすらも姿を消した。

 これらについての論評は控えよう。
 世の中、すべからく合理化や生産性の向上が叫ばれるなか、米作りの農家がひとり、旧態然とした生産方式を守るべきだとはその米を日々食している私たちが安易にいうべきことではないからである。
 
 さて、川の逆流に戻ろう。
 その原因は、私が目撃した地点のやや下流に流れ込んでいる支流にある。
 この支流の近くにも強力な井戸があり、周辺の田圃に給水しているのだが、折からの雨で水が余り、その余った分がその支流に放水され、支流の水量が増え、その合流点で下流に吸収されない分が逆流しているのである。

 かつて、給水源であったこの川は、今や排水路になってしまっているという事実がこの逆流という現象となって現れているのだ。

 繰り返しになるが、これをもって今の米作りを批判したり、それが招いた環境破壊を告発しようとしているのではない。そしてそんな資格は私にはない。
 これは私たちが希求し、欲望してきたひとつの結果にしか過ぎないのだから。

 いささか大げさにいえば、これらは19世紀中頃から、主として西洋に発する私たち人類の文明の姿なのだ。その意味では、あらゆる公害、あらゆる人災、そしてその最たるものとしての原発事故も同列上にある。
 この無際限に広がってしまっている事象に、私たちはどう向き合えばいいのだろうか。
 まさに人間の「思考」が動員されるべきところにさしかかっていると思う。
 
 とりあえず私にできることは、そうした事象を記述し続けることのみである。
 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする