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心に映りゆくよしなしごと書きとめどころ

この国の殺人事件の推移と草食系男子の謎に挑む

2015-05-28 18:06:08 | 社会評論
 最近読んだ複数の論文を集めた本の中のひとつに、最近のこの国の殺人事件についての面白い考察が載っていた。

 この国の殺人事件の犠牲者は年間千数百件(ただしこれには未遂も含む)で、10万人あたりにすると1.1人に相当するという。これに対し、独仏英は約3倍、アメリカは約5倍となるようだ。
 瞠目すべきは中南米諸国では、日本に比べて50倍、つまり、10万人に50人が殺されていることになるという事実だ。その要因は様々だろうが、いずれにしても数が多すぎるので新聞記事にさえならない程だという。

 その加害者の方であるが、どこの国でも男性が多く、年代別の分布では20歳前後がもっとも多い。これを縦に発生件数、横に加害者の年齢を表す折れ線グラフにすると、10代後半から20代前半が圧倒的に多く、それ以後は漸進的に減少するため、「ヘ」の字型、しかもピークが鋭角的な形になる。

 この傾向に普遍性があることを示す面白いデータがある。というのは、殺人事件発生率が異常に高いアメリカのシカゴと、世界で最低レベルのイングランド=ウェールズのデータで、上に述べたようなグラフを作成するとどちらもなぞったように同じ「ヘ」の字になるということなのだ。

 ここからはこの国の話になるが、ここでもまったく同様の傾向を示していた。「いた」と過去形で語るのは、それが1950年代の終わり頃までのことであり、それ以降はこの「へ」の字の頂点がだんだん下がってきて、現在はほぼフラットに近づいているというのだ。ようするに、殺人加害者の年代別の差異が少なくなり、いってみれば、どの年代も同じように殺人に関わっているということになる。
 
   

 ここに挙げた二つのグラフは、直接それを示すものではないが、上の折れ線グラフでは最近凶悪な少年犯罪が増えているというメディアの強調にもかかわらず、10歳から19歳の少年犯罪は確実に減少しており、20代前半の現象と相まって、上に述べた「ヘ」の字の頂点を抑えこむ役割を果たしていることがよく分かる。

 下の棒グラフは、年代別の構成比を表しているが、スタート時点が平成元年(1989年)であってみれば、すでにして若年のピークはとっくに過ぎ去った後であるが、それにしても平成23年の時点で、その年齢層がほぼ均等になっていることが分かるであろう。

   

 ところで、上に述べた、10代後半から20代前半がピークを示す「へ」の字傾向についてのこの論文の説明では、思春期にあたって男性は、動物界の雄同様リスクを賭けて成人の雄としての自分をアピールしようとするからだといわれている。これはもちろん、「雌の獲得のために」という明確な目的意識ではなくとも、例えば誇りやつまらない見栄、メンツ、他者との軋轢、自己顕示、といった情感の高ぶりとして、無意識のうちにこの時期の衝動として埋め込まれてきたものだという。

 だとすると、先にみたこの国の傾向はどうしたことだろう。そのように埋め込まれてきた動物的本能の名残りとしての生殖期の雄の資質が劣化してきたということだろうか。あるいはそれだけ、動物からテイクオフして進化の新しい段階を迎えているということだろうか。しかし、それにしても、それがほかならぬこの国において生じたということはなぜなのだろう。それがわからない。まあ、この事実が、いわゆる「草食系男子」の増加と関連するだろうことは想像できる。

 いろいろ検証すべき点もあるが、「へ」の字グラフの説明として採用されていた、繁殖期を迎えた雄の衝動説もひとつの仮説としてあるに過ぎなく、それに還元してしまっていいかも問題であろう。思春期は確かに動揺が激しい時期ではあるが、同時に、社会的経験の浅い時期でもある。その未熟さが周辺とのトラブルを円滑に解消する、あるいはやり過ごすスキルをもっていないがゆえに、極端な行動に走るということも考えられる。
 確かに人間は、動物との連続性をもってはいるが、同時に、社会的な存在として形成される側面が強いからだ。

 そう考えてくると、この国の若者たちが人を殺す比率が低下したのも、動物からのテイクオフというよりも、この国の状況から説明されるべきだろう。なお、ちょっと違う角度からであるが、若者たちの動物化ということがいわれたりもしていたのだから(例えば、東浩紀等による)。
 私なりに考えた仮説は以下のようだがどんなものだろう。

【仮説・1】憲法9条の存在とそれによる70年の無戦争状態の継続。
 これはその第一項にあるように紛争のために武力を用いないということと関連する。これは曲がりなりにも、守られてきた。少なくとも、戦争という事態のなかで直接殺し合うということは回避されてきた。
 今の若者達は、そうした殺し合いを目の当たりに経験しないできた。いい意味での「平和ボケ」状態ともいえる。

【仮説・2】理不尽な状況に憤り抗うという能力の減退。長いものには巻かれろ主義。
 社会的にしろ政治的にしろ、理不尽で抑圧的なものに反抗するのはかつては若者たちの特権であった。今なお、世界的にはそうであろう。
 しかし、この国では若者たちはもはや怒ることはない。「怒れる若者」自体が稀有な存在である。かつてなら暴動が起きそうな事態に対しても、われ関せずである場合が多い。これもある意味での「平和ボケ」かも知れない。

【仮説・3】大衆社会の普遍化により、各個人はバラバラの原子状態にされている。こうしたなか、一部の個人は、現状の説明原理を求め、陰謀史観的なものにかぶれて「過政治化」し、エキセントリックな政治行動に走る(その象徴は在特会。彼らは在日に特権があろうがなかろうが、そんな「事実」とはかかわりなくそれを信じ、それによってアイディンティティ・クライシスを収集しようとする)が、他方では、膨大な無党派層、無関心層を生み出す(この辺りは丸山理論のパクリ)。これは若い人たちの投票率にダイレクトに現れている。
 こうした無党派、無関心で、エキセントリックなものとの接触をできるだけ避けようとする層の増加は、人生にとってもう一つのエキセントリックなシーンである恋愛やそれによる他者との軋轢を避けることにもつながるのかもしれない。
 
 したがって、この時期の雄の衝動は出口のないままに内面化され、ルサンチマンとして渦巻いているのかもしれない。これは、ニフティ通信やMixi、Facebookなどの他者との広がりを一応はもっていたコミュニケーション・ツールが、Lineという閉鎖され、限定されたものに収束されてゆく傾向とも関連があるかもしれない。

 まあ、これはどれも思いつき的なものにすぎないが、それぞれ目下の政治状況に関わる。何にせよ、若者による殺人事件が減ったのは悪いことではないが、上の三つの仮説が当たっていて、若者の感性が鈍化し、他者への関心が行き届かず、何のリアクションもない間に、現在国会で審議されているような軍事法案が通り、戦争が出来る国になってエキセントリックな武力行使が日常的になったとき、またしても若者による殺人事件の増加をもたらすことがないことを祈るばかりだ。



もっとも、戦時期にあっては殺人事件が減少するという。それは殺人衝動が、戦場での殺戮によって代行されるかららしい。しかし、国内での殺人事件が減っても、かつての戦争のように300万の国民が犠牲になり、2,000万の近隣諸国を巻き込むようではなんとも致し方がない。これもまた、メガサイズの殺人事件なのである。
 

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【写真とおしゃべり】桑の実が熟する頃

2015-05-24 17:39:19 | よしなしごと
 この週末を利用して、この辺りの田起こしがほぼ一斉に終わった。
 都市郊外で兼業農家が多いからだろう。
 この時期、うちの桑の実も収穫期を迎える。
 今日、第一回の収穫を行った。
 黒ずんで甘く熟した実は、学童保育のおやつに供される。

          

 玄関先の隅っこに、この木が生えているのを見つけたのは何年前になるであろうか。ひょろっとした10センチを越えたぐらいだったが、田舎育ちの私にはそれが桑だということはすぐ分かった。
 こんなところにあっても仕方がないから引っこ抜いてしまおうと思ったが、田舎でお蚕さんを飼う手伝いなどをしたことを思い起こし、日当たりの良い南側、私が住む二階の眼下に植え直した。

          

 その成長は実に早い。途中で一度伐ったのだが、そこからまた枝が張り出してきてあれよあれよという間に、うちでもっとも大きな木になってしまった。
 あの食欲旺盛な蚕の餌になるのだから、この木の生命力も強いのだろう。
 でもお陰で、2階のベランダから実を収穫することができる。というより、ここからしかもはや収穫できないのだ。ここから届かない大半は鳥のとり分(洒落ではない)となる。

          

 もちろんはしごを登ればもっと採れなくはないが、落っこちたりしたら寝たきりになることは必定だから、無理はしない。
 お陰で鳥はよく来る。
 雀はむろん、ムクドリ、ヒヨドリ、などでみんな騒々しいほどだ。多分歓喜のはしゃぎ声だろう。
 黒い大きな影がバサバサと現れて、小鳥たちは今度は恐怖と警戒の声を上げて逃げ出した。体長50センチもあろうかというカラスのお出ましだ。

          

 見た目には赤い実のほうが綺麗だが酸っぱくてダメだ。黒ずんできてもまだ十分ではなく、手に触れると引っ張ったりしないでもポロリと落ちるぐらいが甘くて美味しい。まさに「触れなば落ちん」である。

          
 
 桑の実で思い出す歌に童謡の「赤とんぼ」がある。
 桑の実がでてくるのは2番であるが、この歌の1番、「負われて見たのは」を私はず~っと「追われてみたのは」と思い込んでいた。それだけ自分を赤とんぼと同化していたということか。

          

 なお、文字は「紅とんぼ」と違うが、ちあきなおみが歌うこの歌が好きだ。
 彼女の歌そのものも素敵だが、それと30年間やっていた店をたたんだ折の自分の経験を重ねあわせるからだろう。
 おっと、これは桑の話からは完全な脱線であった。 
 でも、時間があったら聴いてみてほしい。

    https://www.youtube.com/watch?v=jMPzaueVXKI


 






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廃屋ウオッチングと硫黄島の玉砕

2015-05-21 18:11:27 | フォトエッセイ
 陽気が良くなったので、車は控えて、近隣の要件は徒歩か自転車にしている。車では入れなかった小路や、駐車ができなかったところでも、いろいろウオッチングができる。

          

 フェチというほどディープかどうかはともかく、廃屋があると立ち止まり観察し、カメラに収める。かつて、山村に渓流魚を追っていった頃には、高度成長期の地域格差のなかで、集落ごと廃墟になっているところもけっこう目撃した。

          

 最近は、都市部においても廃墟が増えているという。人口減少による、いわゆる跡継ぎのない場合もあるが、どうやら日本の固定資産税の仕組みにも問題があるらしい。住む人がいなくなった場合、すぐ更地にして有効利用や転売ができればともかく、そうでない場合、家屋を取り壊して更地にすると、地上に建造物がある場合よりも固定資産税が上昇するというのだ。だとしたら、次の用途に投資可能なまで、廃墟のままにしておいたほうがいいことになる。取り壊し費用をかけて、わざわざ多い税金を払うことはないということだ。

          

 まあ、それはどうでもいいが、うちの近くにもうかなり前から時折観察している廃墟がある。写真が失われてしまっていて残念だが、当初は人が住んでいないけれども、建造物の様相はちゃんと残っていた。
 しかし、それらも崩壊し、もはや人家があったは思えないほど崩落してしまった過程がここに載せたものである。

          
 
 最初のものは2008年12月で09年春、09年秋、11年12月、本年の5月と続く。
 その中間での写真もあったのだが、PCを買い替えて移行するときのミスで消えてしまったものもある。

          

 なお、以下は、4年前に廃屋と硫黄等玉砕との関連に思いを致し書いたものである。10代の少年兵を含む20,000人が、「米軍の本土への進行を遅らせるべく、戦況のいかんにかかわらず、死ぬまで戦え」という大本営の命令のもと(これは沖縄の地上戦はなぜあれほど悲惨であったのかと同じである)、ほとんど全員が玉砕したのは70年前の3月半ばだった。
 それが、なぜ廃屋と関連するかは以下をクリックして参照されたい。

          

  http://blog.goo.ne.jp/rokumonsendesu/d/20111210
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名古屋伏見界隈 マイ・フェイバリット・プレイス

2015-05-20 02:38:24 | よしなしごと
 久々に歩数にして11,000歩以上を歩いた。18日のことである。
 歩行時間、2時間と20分、移動距離6.3キロ、消費カロリー369.5Kcal、脂肪消費量52.7g だそうである。

 どうしてこんなに歩いたかというと、三重県の若い友人に、名古屋は地下鉄伏見駅界隈の、マイ・フェイバリット・プレイスを案内して回ったからである。

 まずは地下鉄を出て南へ歩き、白川公園に至る。
 今でこそ都心の公園として整備されているが、私がはじめて名古屋へ出た頃は、アメリカ村といって占領米軍の家族住宅地であった。周囲は頑丈な金網で囲われ、広い敷地内にいかにもヤンキー好みの住宅が立ち並んでいた。
 芝生の前庭をもったそれらの佇まいは、当時は映画でしか見たことはなかったから、私のような田舎者は、柵にしがみつくように見とれていた。
 すると、時折、銃を持ったMP(憲兵)が巡回してきて威嚇するように睨みつけるのだった。

 返還されたのは1958(昭和33)年のことだった。
 その後、ここは整備が進み、今やけっこうな大木がそびえることとなり、歴史を偲ばせる。
 ここにあるのは、市の科学博物館、同じく市立の美術館などであるが、中央には大きなグランドがあって、各種行事のほか、デモ行進の出発地点になったりしている。

          
         一昨年の反原発デモの出発前の集会 背後は科学博物館

 この公園には、もう一つの歴史がある。かつてはこの公園、ならびに周辺の道路の中央分離帯などは、名古屋でのホームレスの人たちの一大メッカで、あちこちに青テントがあったのだが、愛知万博を機に一斉に撤去された。
 その後も、一部残っていたり、再建されたものがあったが、数年前、機動隊を動員しての行政代執行が行われて姿を消した。その人たちは今どうしているのだろう。

          
            この辺りに住んでいた人たの痕跡(数年前)

 月曜日で、あいにく公の施設は休館であったが、とりあえず場所や雰囲気の確認ということだったからこれでいいのだろう。ついでいわゆる100メートル道路を渡り、大須地区の名古屋アメ横丁の一部を紹介。
 そこから、江戸時代の名古屋のメインストリート(名古屋城~熱田神宮)だった本町筋を少し歩き、もとの伏見地域に。

 「しらかわホール」というコンサートホールを経て、電気文化会館へ。ここは電気に関する博物館だが、地下二階には室内楽向きの「ザ・コンサートホール」がある。ここも休館日。

          
               チェロ・ソナタのコンサートの前に

 さらに少し離れたキャノンのショールームに併設されたフォト・ギャラリーへ。ここは開いていて、写真を観る。今様の演出された結婚式や披露宴ではなく、いわゆる昔ながらのお家結婚式(それも全国各地)を集めたもので、とてもほのぼのとしたものが多かった。

 その後、私がよくゆく映画館「伏見ミリオン座」を案内し、最後の締め、百年の伝統を誇る日本有数の居酒屋「大甚」で杯を酌み交わす。
 ここは、10年ほど前に、キリンビールのレポーターをしていた折に取材に訪れ、パンフ風の写真入りのものを書いたのだが、それが今なお、一階にも二階にも貼られていた。ライター冥利に尽きるというものだ。
 疲れたが心地よい時間であった。天候が心配されたが、なんとか曇りのままで持ちこたえてくれた。

 同行した友人も満足してくれたようでよかった。
 岐阜へ帰り着いたら、雨が降りだしていた。


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これは何の花? カラスノエンドウもどき。

2015-05-18 11:33:21 | 花便り&花をめぐって
 いつも通る道すがらにこんな花が咲いていた。
 葉の形状や花の色からしてカラスノエンドウだと思っていたが、よく見ると花の形が違う。
 カラスノエンドウはその名の通りエンドウと同じで単独の花をつけるが、これは房状の花になっている。


 
 それにここは人様の敷地で、去年は他の花が咲いていてから、自生したものではなく、明らかに園芸種として人為的に植えられたものだ。
 ちなみに、葉の形状は上に述べたようにカラスノエンドウと同じだが、やや大振りだと思われる。
 植物図鑑でカラスノエンドウ、ならびにそれの仲間を検索してみたが見当たらない。
 別に綺麗なら名前など知らなくてもいいのだが、なんだか気になる。
 人という動物は、名づけたり、名前を知って自己が所有したかのように安心する動物なのだろう。「はじめに言葉ありき」だ。
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ハチクをゲット! (付)フキの葉のキャラ煮風レシピ

2015-05-17 03:07:03 | よしなしごと
 農協の野菜売り場にハチクが出ていた。まさに旬の味。40センチほどのものが3本で200円。これを見逃す手はない。すかさずゲット。

          

 うちへ帰ってすぐ湯がく。ハチクはモウソウほどエグみがないから普通に湯がけばいいというが、前に手抜きをしてやはり駄目だったことがあるので、モウソウ同様、米糠をひとつかみと鷹の爪を入れて1時間ほど湯がく。
 そのまま自然に冷めるまで置いて、その後、皮を剥いて水に浸し、そのまま一晩置くことにする。試験的に、少しだけ煮てみたがまあまあだ。
 明日(17日)が楽しみだが、夕方から町内の自治会の総会がある。
 それとの兼ね合いで調理の時間が限定されるが、なんとかなるだろう。

          

 
 ところで、最近、フキの煮付けを作ったが、その葉が青々として新鮮だったので、それでキャラ煮風の一品を作ることにした。

          

 フキの葉は扇状をしているが、それをまず繊維に添って縦方向に3センチほどに切る。それを束ねて今度は横方向に1センチほどにザクザクと切る。

          

 それをそのまま鍋に入れて煮てもいいのだが、時間がかかってまだるっこしいので電子レンジで4分ほど過熱する。すると、水分も飛び、かなりの部分が黒くなってくるので、それを火にかける。

          
 
 できるだけ水分を使わないようにし、顆粒のカツヲだし、酒、味醂を入れて、鍋底や鍋肌にこすりつけるようにしながら炒り煮風にする。その他の調味料は砂糖、醤油だが、最初はごく控えめにする。容積が、ざく切りにしたものの10分の1ほどになるので、ここで入れ過ぎると味が濃すぎることとなる。

          

 味醂、砂糖、醤油が入っているのですぐ焦げそうになるから、途中で火を弱め、気長に撹拌しながらひたすら水分を飛ばす。黒焦げになると駄目だが、多少、鍋底に焦げ目が残ってもあとで水と金ダワシで落ちるから構わず水分を飛ばす。

          

 色が黒ずんできて、全体にさらっとした感じになったら、ここで砂糖、醤油で最終に味を整える。
 水分がなくなったところで、器に移し、しばらく置くとさらに水分が飛び、色もいっそう黒くなる。これで出来上がり。

 用途は、酒のつまみに最適。その他、温かいご飯に振りかけ風に乗せても美味しい。
 ただし、ほろ苦いのが苦手の方にはお勧めしない。
 私の場合は、ず~っとほろ苦い人生を送ってきたので、相性が良いようだ。
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明治維新以降の半分を生きて・・・

2015-05-14 18:02:55 | 歴史を考える
 日本が近代国家としてデビューしてから約150年、私はその半分を生きてきた。ものごころついた時には先の戦争の終盤、疎開をし、その疎開先でも爆撃に見まわれ、広島と長崎に「特殊爆弾」が投下され、玉音放送なるものがあって戦火が止んだ。

          

 自国民300万、近隣諸国2,000万の犠牲を踏まえて不戦の誓いがあり、その精神のもと現行憲法が施行され、この国は戦争をしない国として生まれ変わった。だから、自衛隊ができたとき、人びとは「逆コース」ではと批判した。思えば、憲法はこの頃からじわじわと侵食されながらも、「戦力なき軍隊」などという奇妙な論理のもと、自衛隊はかろうじて憲法の支配下に置かれていたかにみえた。
 しかし、この戦争なき70年の歴史は憲法をも飛び越えた軍事法案によって今やピリオドが打たれようとしている。戦争をしないという稀有なこの国は、いつでも戦争をしうる普通の国に生まれ変わろうとしている。

          
 
 はじめの数年を戦争に支配されながらも、その後の70年間、戦争のない状況下で生きてこられたのはきっと僥倖なのだろう。これから生きる人たちは、プレ戦時状態、あるいは戦時状態そのものを生きねばならないだろう。
 想定されている戦争のひとつは、アメリカが主導する2001年来のテロとの戦いだ。この闘いは宣戦布告もないし戦線そのものもない。その戦いの担い手として名乗りを上げた以上、日本国民は、その予めの布告も戦場や戦線も定かではない不定形な戦争へと投げ出されたことを意味する。いつでも戦場、どこでも戦場だ。
 これまでだって間接的には当事者だったのだが、これで晴れて直接の当事者となることができた。もう、“Show the flag”といわれなくとも済む。もはや旗幟は鮮明なのだから。

          

 この世に生を受けて七十数年、ふるさとの河川に回帰する鮭が嗅ぐように、懐かしい香を感じとることができる。あの大日本帝国の危険な匂いだ。ついに「日本は取り戻された」のだろうか。主権者が主権者ではなかったあの体制のもとに「取り戻された」のであろうか。
 今振り返ってみると、私が若き日に闘った反戦平和の運動は、様々な過ちを含みながらも、今日の事態へ至らないためのものだったことが分かる。同時に、そこで敗れ続けたことが今日へ至ったことを自責の念をもって振り返らざるをえない。
 私はだいたいにおいて悲観主義者だから、明るい展望などは語れない。だが、諦めたわけではない。まだまだ引き返すべき点はあるはずだ。そのとき、引き返す方へと己を投企すべく、賭け金はとっておきたい。


              (この国が戦後最大の曲がり角を回ったと思われる日に)
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久々の「森と花のカフェ」

2015-05-11 21:27:04 | 日記
 いつも、岐阜の街で逢って情報交換をしたりしているひとがいて、先日も逢った。
 お互い、夕方には帰宅しなければならない身なので、いつもは市内の喫茶店で逢っている。

 しかし、今回はたまたま時間があり、天候にも恵まれていたので、私が推奨する板取川沿いの「森のカフェ」まで足を延ばした。岐阜から車で1時間ほどである。
 新緑のなか、車窓から入る風は植物群の吐息を交えて爽快そのものだ。

 春の華やかな花々が終わって一段落といった風情だったが、それはそれなりに風情がある。なんやかんやで数回訪れているが、この時期は多分初めてだと思う。
 そのせいか、これまで見たことがない花々を目にすることができた。

 野暮な説明はやめて、まずは写真をご覧頂きたい。
 急なことだったので、ガラケーしか持ち合わせていなくて、写真があまり良くないのは残念だった。



    
    
    



    
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「もし世界の終わりが明日だとしても・・・」と桜ん坊 付:破局論

2015-05-11 00:39:53 | よしなしごと
 完熟の「桜ん坊」(なんとなくこの表記が好きだ)を収穫した。
 といっても、あえて書くほどのことはない。
 写真を撮る気力も失せるほどの収穫量だったからだ。
 したがって、ここに載せた写真も昨年のものだ。

 昨年すでに収穫は激減していた。木の半分ぐらいが枯れてしまったからだ。最盛期には、写真ぐらいの量を、一日置きに3、4回は採ることができた。それが昨年はここに載せた写真の分ぐらいを一度採り、あとは落穂ひろい程度だった。
 そして今年は木の4分の3が枯れ、収穫はさらに激減し、ついに豆腐の空き容器一杯分ぐらいにしかならなかった。

 もはや木そのものの寿命と思われる。じつは、いまの木も2代目で、初代の脇に生えていたものがうまく引き継いでくれたものなのだ。
 そんなこともあって、3代目たるべく新しいものを数年前から鉢植えで育ててはいる。しかし、まだ花も咲かないから、来年からしばらくは空白ができることは必定だろう。

          

 そうした事情も鑑み、4代目を準備することとした。
 今回採ったもののうち、熟しすぎて茶色がかったもの、半分鳥たちに食われてしまったものなどの種から育てようと、三つほどの鉢に分けてそれらを蒔いたのだ。このうちどれかは発芽するだろう。

 ところで、これらが芽を出し、成長し、花をつけ、実を宿すのはかなり先のことである。そしてその時まで私が生きていることはもちろん不可能だろう。第一、いま育てている3代目だって間に合う可能性は極めて低い。

          

 種を埋めながら、「もし世界の終わりが明日だとしても、今日私は林檎の種子を蒔くだろう」という言葉を思い出していた。
 この言葉は、ゲオルグ・ゲオルギウ(1901ー65年)というルーマニアの共産党書記長を務め、スターリンの忠実な代官ともいわれてルーマニアに独裁体制をもたらした人の言葉である。東欧革命の際、処刑されたチャウシェスクはこのゲオルギウの後継者に当たる。

 こうした彼の経歴は全く好きになれないが、この言葉は美しいし、共感することができる。
 というのは、私はある意味では悲観論者で、人類は確実に自己消滅という破局への道をひた走っていると思うのだが、かといって生きる希望をもたないわけではない。

          

 まずは、その破局への接近という事実をいい続けたいし、少なくともそれには加担したくない。できれば抵抗もしたい。その限りで、予測としては悲観的であっても、それからの離脱への可能性を自他に確認し続けるという行為において、希望を失うものではない。
 だから、種を蒔き続ける。そしてそれは、希望を捨てないということ、未来から今を規定するループした円環的な時間のうちに身を委ねるということなのだと思う。
 
 そう、特攻隊で確実な死に直面した若者たちが、これで国家が救われるなどという実利的で強要された価値付けとは別に、自分の生命を実存として位置づけようとして到達したひとつの立場のように。

          

 桜ん坊はこんな有り様だし、琵琶ももう小さい実がついていなければならないのだが、どうも駄目なようだ。
 そんななか、桑が健闘していて、今年は豊作のようだ。
 こちらの方は正真正銘、今年の今現在だが、ご覧のようにびっしり実が付いているし、もうそろそろほんのり色づいているものもある。

 捨てる神あれば拾う神ありだ。


人類の破局 科学技術の無政府的な発展拡散(ナノテクノロジー、バイオテクノロジー、情報に関するもの、認知技術などの融合、核兵器の存在と原子力機関の存続)、そしてそれらと結びついた極端な経済至上主義、さらには、それらを統御しているかのように振る舞いながらもその下僕でしかない政治。これ以上破局の要因を数え上げる必要はあるだろうか。
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これぞポーランド映画! 『イーダ』を観る(ネタバレ最小)

2015-05-08 11:14:24 | 映画評論
 名古屋へ出た折に、ポーランド映画『イーダ』(2013年 パヴェウ・パヴリコフスキ監督)を観ました。
 
 時代は1962年、ポーランドがソ連圏の社会主義国家であった頃のことです。
 出生不明で修道院で育った思春期を迎えた少女イーダ(修道院での名前はアンナ)は、ある日、院長から、唯一の肉親である叔母の存在を告げられ、正式に修道女になる儀式の前に、一度、会っておいてはどうかと勧められます。

          

 この映画は、その伯母とイーダが第二次世界大戦中に、イーダの両親が亡くなった真相を突き止めるための数日間の物語です。
 まずはその過程でイーダは叔母から、自分がユダヤ人であることを知らされるのですが、その事実は両親の死の真相と深く関わっています。

 この叔母が何者かというと、社会主義政権下での検事として「体制」の秩序を守るために辣腕をふるい、それなりの権力(例えば飲酒運転の事故を帳消しのさせるぐらいの)をもっています。そしてその辣腕ぶりは、両親の死を突き止める過程でも随所に発揮されることとなります。
 同時にこの叔母は、快楽派でもあり、その点で敬虔なイーダとの対称も明確です。

          

 ついに彼女たちは事の真相に行き着く事になるのですが、その詳細はネタバレになるから書きません。ただ、反ユダヤ主義はナチスの専売ではなく、そのナチズムを育んだヨーロッパの伝統的なひとつの立場であり、それがナチズムによって増幅され、ナチスではない人たちのなかでもそれを「実践」した事実があったことは指摘しておきます。
 また、この真相と、それを追求する過程そのものが、戦中戦後のポーランドの歴史を垣間見させるものであることも言い添えるべきでしょう。

          

 この探索の過程と結末は、叔母にも、そしてイーダにも、大きな衝撃とそれによる行為を促すことになるのですが、これもネタバレになるから書きません。
 ただ、ラストシーンでのイーダは、受動的な女性から自ら判断し決意する女性へと変貌したことを伺わせます。手ブレのように揺れるカメラワークは、もはや彼女が純真無垢ではなく、現実との対応に文字通り揺れながら対応してゆく主体へと転じたことを示すようです。

          

 この映画は、1950年代後半から60年代前半にかけて、世界の映画界を震撼させたポーランド映画へのオマージュでもあります。『灰とダイヤモンド』や『尼僧ヨアンナ』を想起される方もいるでしょう。監督はそれらへのシンパシーを形の上でもはっきり示しています。それはこの映画が、当時のクラシック・スタンダードサイズで、しかもモノクロに終始していることです。モノクロとはいえ、全体に美しい映像に仕上がっています。

          

 もうひとつ気づいたことがあります。
 それはこの映画では結構音楽が出てくるのですが、バックグラウンドに流れるいわゆる映画音楽ではなく、ほとんどが当時の蓄音機やカーラジオ、生演奏のシーンから出るいわゆる「現実音」が使われていることです。
 私が知っている限りでは、モーツァルトの交響曲第41番「ジュピター」(K551 これは叔母好きな曲らしく、彼女のシーンで実に効果的にお使われています)、生演奏シーンでのコルトレーンのジャズ(イーダが興味を示す曲であり、それが彼女の俗世間への通路ともなります)、さらにはラストシーンのバッハのピアノ曲などです。

          

 この最後の曲のみが、唯一、「現実音」ではないいわゆる「映画音楽」でした。バッハだということまでは突き止めましたが、曲名はわからず、帰ってから確かめたら「主イエス・キリストよ、われ汝に呼ばわる」(BWV639 )で、上述したイーダが主体へと転じたことを示すラストシーンには実にふさわしいものでした。

 帰途、アンジェイ・ワイダの『灰とダイヤモンド』のマチェクの生き様に、さまざまなものを重ねあわせて観ていた青春の日の自分をつよく思い出していました。
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