*写真はわが家へ遊びに来たツマグロヒョウモンという蝶です。
ある同人誌に言葉についての文章を書いたつながりというかフォローで、「応用言語学」という分野の入門書のようなものを読んでいるのですが、サラッとした入門書のようでなかなか興味深い事例が出てきて、目からウロコがポロポロリ状態なのです。
そのひとつは、生まれたばかりの赤ちゃんは、母の言葉、つまり母語とそれ以外の言葉との差異を知るはずがない段階で、すでにして母語への近親感をもっているということです。言葉は後天的な文化や制度に根ざすものですから、遺伝子に書き込まれている情報ではありません。にもかかわらずそうした現象が起こるのはなぜでしょうか。
その答は、いわれてみれば簡単で、赤ちゃんは母の胎内で、すでにその母が話す言葉を「音」として聴いていたということなのです。
これを少し拡大解釈すると、胎教の可能性が立証されることになります。
これについては別のところでエッセイを書くつもりですから、いまは示唆するに止めておきます。
もう一つは翻訳の問題です。
小説などの翻訳においてもそうでしょうが、身近なところでは、TVなどで外国人が話している言葉の字幕というかテロップでの表現があります。
データとして出されているのは過ぐる北京オリンピックの折の著名選手のインタビューなどの翻訳で、陸上のボルト選手と水泳のフェルペス選手のそれの対比です。
そのデータによれば、ボルト選手の自称には「オレ」がかなりの頻度で使われ、フェルペス選手のそれには「僕」が当てられていたというのです。ボルト選手が何語で話していたのかは知りませんが、英語でいえばともに「I=アイ」であったはずです。ところが一方は、「オレ」で一方は「僕」であるとしたら、その差異づけは「野性的vs理性的」ないしは「黒人vs白人」が生み出したものだといえます。
これについては本当に目からウロコでした。ひょっとしたら、私もその折のインタビューを聞いたかもしれません。しかしその差異には気づかなかったでしょう。ということは、素直に字幕にしたがって、「なるほど、ボルト選手はそういう話し方をし、フェルペス選手はそういうふうに話すのだ」と思ってしまっていたということです。
だとするとこの翻訳は二重に問題をはらんでいるといえます。それは、この翻訳自体が、黒人のスポーツ選手はそのように話すものだという先入観に依拠していると同時に、そうした先入観を拡散し、固定観念としてしまうということです。かくして、私のような素直な聞き手は、「なるほど、黒人のスポーツ選手は・・・・」と、与えられた固定観念をさらに強固にしてしまうのです。
まだこの書の半分ぐらいしか読んではいないのですが、他にも面白い指摘があります。
日本人は、これからのビジネスの社会では英語が必須だということで、それを学ぼうとする機会は増大しつつあるのですが、一方では単一民族の単一言語としての日本語(実際には、今や消滅危惧とされるアイヌ語をもっているのですが)への幻想を引きずっています。だから、日本ではバイリンガルは稀有なことで、基本的にはモノリンガルなのです。
しかし、しかしですよ、これも目からウロコですが、世界の人口のうち70%はバイリンガル、ないしはマルチリンガルなのです。日本のような島国はともかく、世界各地の民は、歴史的な状況の変動の中で、モノリンガルでは生きてこられなかったのです。かつての植民地では、宗主国の言葉と現地の言葉は必須でしたし、また、国境がその折々の情勢で変わる地方でもそれらは必須でした。
有名なところでは、アルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』に出てくる『最後の授業』の話もそうした一例としてよく引用されます。しかしこの話、ドイツの進出によってフランス語が奪われるという筋立てになってはいますが、実はこの地区は変動著しいものの、基本的にはドイツ語圏でその時代でも日常語はドイツ語であり、したがってドーデのようなフランス人からすれば悲劇的でも、この地区の住民にとってはほとんど痛痒はなかったといっていいのです。
その証拠は、呑兵衛の私がいうのだから間違いありませんが、アルザスの白ワインはブドウ品種もリースリングやミュスカが主で完全にドイツワインなのです。
あ、どんどん話が逸れてゆきますね。
ようするに、言葉というものはまるで空気のように意識しない場合は自然に私たちをとりまいているのですが、ひとたび意識し始めると、そこには予め刷り込まれたもの、あるいはそれらの強度を補完するものなどがひしめいていて、なかなか一筋縄ではゆかないということです。
それにしても、ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」の差異が与えた問題は私にとっては強烈でした。
ある同人誌に言葉についての文章を書いたつながりというかフォローで、「応用言語学」という分野の入門書のようなものを読んでいるのですが、サラッとした入門書のようでなかなか興味深い事例が出てきて、目からウロコがポロポロリ状態なのです。
そのひとつは、生まれたばかりの赤ちゃんは、母の言葉、つまり母語とそれ以外の言葉との差異を知るはずがない段階で、すでにして母語への近親感をもっているということです。言葉は後天的な文化や制度に根ざすものですから、遺伝子に書き込まれている情報ではありません。にもかかわらずそうした現象が起こるのはなぜでしょうか。
その答は、いわれてみれば簡単で、赤ちゃんは母の胎内で、すでにその母が話す言葉を「音」として聴いていたということなのです。
これを少し拡大解釈すると、胎教の可能性が立証されることになります。
これについては別のところでエッセイを書くつもりですから、いまは示唆するに止めておきます。
もう一つは翻訳の問題です。
小説などの翻訳においてもそうでしょうが、身近なところでは、TVなどで外国人が話している言葉の字幕というかテロップでの表現があります。
データとして出されているのは過ぐる北京オリンピックの折の著名選手のインタビューなどの翻訳で、陸上のボルト選手と水泳のフェルペス選手のそれの対比です。
そのデータによれば、ボルト選手の自称には「オレ」がかなりの頻度で使われ、フェルペス選手のそれには「僕」が当てられていたというのです。ボルト選手が何語で話していたのかは知りませんが、英語でいえばともに「I=アイ」であったはずです。ところが一方は、「オレ」で一方は「僕」であるとしたら、その差異づけは「野性的vs理性的」ないしは「黒人vs白人」が生み出したものだといえます。
これについては本当に目からウロコでした。ひょっとしたら、私もその折のインタビューを聞いたかもしれません。しかしその差異には気づかなかったでしょう。ということは、素直に字幕にしたがって、「なるほど、ボルト選手はそういう話し方をし、フェルペス選手はそういうふうに話すのだ」と思ってしまっていたということです。
だとするとこの翻訳は二重に問題をはらんでいるといえます。それは、この翻訳自体が、黒人のスポーツ選手はそのように話すものだという先入観に依拠していると同時に、そうした先入観を拡散し、固定観念としてしまうということです。かくして、私のような素直な聞き手は、「なるほど、黒人のスポーツ選手は・・・・」と、与えられた固定観念をさらに強固にしてしまうのです。
まだこの書の半分ぐらいしか読んではいないのですが、他にも面白い指摘があります。
日本人は、これからのビジネスの社会では英語が必須だということで、それを学ぼうとする機会は増大しつつあるのですが、一方では単一民族の単一言語としての日本語(実際には、今や消滅危惧とされるアイヌ語をもっているのですが)への幻想を引きずっています。だから、日本ではバイリンガルは稀有なことで、基本的にはモノリンガルなのです。
しかし、しかしですよ、これも目からウロコですが、世界の人口のうち70%はバイリンガル、ないしはマルチリンガルなのです。日本のような島国はともかく、世界各地の民は、歴史的な状況の変動の中で、モノリンガルでは生きてこられなかったのです。かつての植民地では、宗主国の言葉と現地の言葉は必須でしたし、また、国境がその折々の情勢で変わる地方でもそれらは必須でした。
有名なところでは、アルフォンス・ドーデの短編小説集『月曜物語』に出てくる『最後の授業』の話もそうした一例としてよく引用されます。しかしこの話、ドイツの進出によってフランス語が奪われるという筋立てになってはいますが、実はこの地区は変動著しいものの、基本的にはドイツ語圏でその時代でも日常語はドイツ語であり、したがってドーデのようなフランス人からすれば悲劇的でも、この地区の住民にとってはほとんど痛痒はなかったといっていいのです。
その証拠は、呑兵衛の私がいうのだから間違いありませんが、アルザスの白ワインはブドウ品種もリースリングやミュスカが主で完全にドイツワインなのです。
あ、どんどん話が逸れてゆきますね。
ようするに、言葉というものはまるで空気のように意識しない場合は自然に私たちをとりまいているのですが、ひとたび意識し始めると、そこには予め刷り込まれたもの、あるいはそれらの強度を補完するものなどがひしめいていて、なかなか一筋縄ではゆかないということです。
それにしても、ボルトの「オレ」とフェルペスの「僕」の差異が与えた問題は私にとっては強烈でした。
「オレ」「僕」「わたくし」「あたい」「手前」「あっし」「あちき」「朕」「儂」・・・そして、それぞれ「漢字」「平仮名」「カタカナ」のいずれで表記するかによって、微妙にニュアンスが変わります。
ところが、これら全てが、たとえば英訳されればことごとく「I」になるわけですね。これはどえらいことではないでしょうか。
いったいまた何で、日本語の一人称はこんなにも増殖したのでしょうか。そして、一人称がひとつしかない言語では、なぜそれが日本語のように増えなかったのでしょうか。
自分の社会的な地位や身分、立場を、自らを称することばに纏わせるというのは、どういうことなんでしょうか。これこそほんとの横道ですみません。。
「横道」だとしてもとても面白く豊かな道だと思います。
実は、上の文章を書くとき、そのことがチラと頭をかすめたのです。しかし、話が煩雑になるのと、私の今の知識ではそれに十分に応じることができないと思い、それには触れませんでした。
ある意味でそれが日本語の豊かさだともいえるのでしょうが、それで済ませたのでは我田引水に終わりそうですね。それどころかそれが(主語としての確固とした一人称の不在が)日本語の曖昧さなのだという見解も成立するわけです。
当然のこととしてすべての言語についてはわからないのですが、「一人称」でググったところ、ヨーロッパ系の言語はほとんど単一のようですね(一部男女の区別があるようです)。
それに反して、東洋系の言語のでは複数の一人称をもつようです。例えば中国語がそうで、方言などを加えるとかなり多そうです。
韓国語では、普通の場合と改まった場合とで異なるようです。
その他、東南アジアの言語も複数の一人称をもっているようです。
なぜなんでしょうね。
ここからは私の大胆不敵でたぶん的外れな推測なのですが、紀元以前からのヨーロッパでの一神教的世界観と、それ以外の地域での多神教やアミニズムの世界観と関連するのではないかと思うのです。
一神教的な世界では、まず主体=神が立ち上がり、それとの関連で諸物は配置されます。したがって、主体=一人称は不動で、それとの関連において諸物は叙述されます。それらの言語が事後的に主語と対象の差異を表すために導入されたのが、be動詞や動詞、名詞などの変化(単・複 男・女)ではないかと思うのです。
一方、多神教的なアミニズムでの世界では、主体と対象との境界は曖昧です。私という一人称はつねに他者との関連の中においてのそれであって、確固としたものではありません。
したがって、一人称それ自体が複数で、そのなかで、すでにしてその対象との諸関係が提示されるのといえます。
以上はあくまでも仮説ですが、欧米においての一神教的な世界観のもつ力は今なお大きいと思います。マルクスの革命論とそれに続く千年王国説も、それに依拠したソ連のスターリニズム体制も、そうしたヨーロッパの一神教=形而上学とは無縁ではなかったと思っています。
だからといって日本語のアニミズム的傾向がもつ曖昧さが優れているとはいいがたいところに、問題は言語がもつそれぞれの性格を超えたさらにアクチュアルな次元にあるのだといえそうです。