前回、バッハの存在がライプチヒの大きな歴史遺産となってることを書いたが、それが実現するために今ひとつエポックが必要であったことを示唆しておいた。そう、バッハを中心としてこのライプチヒを音楽の街たらしめたもう一人の音楽家の存在こそが重要なのである。
それはユダヤ人の音楽家、フェリックス・メンデルスゾーン(1809~47)の存在である。彼はライプチヒの出身ではないが、 38年と言うその短い生涯の後半12年間をライプツィヒで過ごし多くの業績を上げている。
彼がやってきたのはライプツィヒゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に任命されたからであるが、まず最初に彼がした事は、当時ヨーロッパでもあまり知られていなかったこの管弦楽団を、現在我々が知るようにヨーロッパでも指折りの楽団の1つに育成したことである。
ライプチヒゲヴァントハウス管弦楽団の本拠地
さらに今1つは、これまで述べてきた聖トーマス教会に あったバッハの業績の蓄積を見直し、それの再演に努めたことである。 それによってバッハはこれまでバロック音楽の作曲家の群れに埋もれていたにもかかわらず、そこから抜け出し、その第一人者として認められることとなった。
しかしこれにはすでに素地があって、 14歳の折、彼がその祖母からクリスマスプレゼントとしてもらったのは、バッハのマタイ受難曲の手筆の楽譜であった。彼はそれを研究し尽くし、1829年にはベルリンでバッハ死後初めてこのマタイ受難曲を指揮し演奏している。
そんなメンデルスゾーンだったから、聖トオマス協会に埋もれていたバッハの諸資料の多くは彼の手によって、また彼の楽団ゲヴァントハウスによって再生され、新たに命を吹き込まれるのであった。
ライプチヒ市民劇場の威容
メンデルスゾーンの果たした役割はバッハにとどまることなく、当時、初めて自分たちの音楽を対象化して論じるといういわゆる音楽評論の創始者シューマンとの連携のもと、やはり埋もれていたシューベルトの交響曲の数々を世に出したり、 またシューマンのとの論議のもと、新進作曲家に光を与えるといった役割を果たしてもいる。
また彼の作曲家としての活躍にも触れておく必要があるだろう。彼の作品はえてして軽く見られがちであるが、私にいわせればその紡ぎ出すメロディーはまさに 語彙の豊かな詩を思わせるものがある。彼の最も有名なヴァイオリン協奏曲 ホ短調(作品64)、 いわゆるメンコンとして親しまれている曲も、このライプツィヒで作曲されゲヴァントハウス管弦楽団によって初演されている。
フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学
これらのメンデルスゾーンの業績を顕彰する立像は、聖トーマス教会の西正面近くのリング道路の中央緑地帯に建てられている。 その立像の前を横切ってリングの外側へ出ると、そこにはいわゆる立派なライプチヒ市民劇場があり、そのすぐ近くに「フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学」が威厳をもった佇まいで建っている。
1843年、後進の指導のために彼により創立された「ライプチヒ音楽院」がその前身で、ドイツで最初の重要な音楽大学である。なお、1901年には「花」や「荒城の月」の作曲家、滝廉太郎がここへ留学している。
威厳に満ちた同大学の正面
ライプチヒは音楽の街でもある。その原動力はバッハであっただろうが、それを世に出し、さらに自らの音楽で華を添え、さらには後進のための道を整えたのがメンデルスゾーンであった。