ワシントン・アーヴィング、『アルハンブラ物語』

 『アルハンブラ物語』の感想を少しばかり。

 “月光に洗われた、アルハンブラのこの夢のように快適な夜の情景を、どう描いたら分かってもらえるだろうか。夏の夜の大気は、霊気そのもの、この世のものとは思われない。この肉体は、霊化されて、天上に連れ出されたようだ。魂は浄められ、霊の眼で見、足は翼のように軽くなり、ただこうして存在するだけで幸福だ。” 177頁(上巻)
 
 大好きな作品。また一つ、とっておきが増えたなぁ…というほくほくした気持ちで、隅々まで堪能した。おお、麗しのアルハンブラ! 伝説収集の旅人が縷々綴れば、その旅の記録にも、“物語”という響きがこんなにも似つかわしい。何となればこの幸運に恵まれた旅人は、子供の頃からの白昼夢が現実となり、アルハンブラ宮殿の住人になってしまうのだもの。初っ端から。本人曰く、“この宮殿の先住者たちのうちで、(略)これほど長閑に統治した王が、いまだかつてあっただろうか?”(111頁)。
 特に上巻では、宮殿内の様子が事細やかに描き込まれているので、旅人の傍らで供に彷徨う心地にどっぷりと浸った。神秘をまとう夜の王宮を探索する怖さ、その後で眺めるオレンジとシトロンの木々や噴水の水のきらめきは、胸を衝くほどに美しい。芳しい庭に降りそそぐ月光も忘れがたい。

 夢幻の都グラナダに思いを馳せ、空想の中で幾度もアルハンブラ宮殿を訪れていた少年が、やがて気まぐれな旅人となり、その憧れの王宮に滞在する身となった…という喜びが、溢れんばかりに伝わってくる旅行記だ。そして、そんな夢のような日々を綺羅に縁取るのが、散策の途上や図書館で掬い上げた物語と、話し好きな人々から聴き集めた伝承の数々である。
 引退した征服王の腹心となった占星術師が、平穏な余生をもたらす見返りに、洞窟の住処と踊り子を所望する話。恋に関することから切り離されて育った王子が、哲学者のフクロウと博識のオウムを連れに旅をする話。モーロ人の遺産をめぐる伝説のあれこれ。左利き王の三人の美しい王女の伝説。“アルハンブラの薔薇”と呼ばれた少女が一度は恋を失いながらも、吟遊詩人となってアンダルシア中を熱狂させる話。などなど。

 西欧の地にあり、オリエントの同胞からは隔絶された、モーロ系スペイン人のこと。スペインにおけるイスラム教帝国は、輝かしい異国でしかなく、常にイスラム主義の最前線だったこと。その華麗な忘れ形見としての、アルハンブラ。
 歴史を紐解く件もとても興味深く、とりわけグラナダ落城の廃王ボアブディルについての記述は印象深い。歪められた悪名神話の誤りを明るみにし、あらためてその悲哀を思い遣る語り口は、ひたひたと沁み入った。

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