梅雨明け間際~初夏に風邪を引くと、治ったような治らないようなで結局秋口までグジュグジュしてしまいがちな理由ははっきりしています。
この時期は身体を暖めないから。
加齢とともに風邪を“こじらせないうちに、引き始めの段階で撃退する”ことが限りなく不可能に近づいてはいますが、それでも、とにかく身体を暖めて強制的にでも汗を出すことが最短かつ最簡の風邪退治法であることに変わりはありません。
身体もそのつもりで、風邪ウイルス侵入を感知したらわざわざ熱を出すのだし、熱の出がけには、どうしたって身体を暖めずにいられないように、さむけまで発してくれるわけです。
意志や努力に関係なく身体が起こす反応には、ちゃんと理にかなった意味がある。
ところがです。晩秋~厳冬の寒い頃は暖をとることがナチュラルにできるのに対し、いま時期は「黙っててもジワジワベタベタ汗ばんでくるのに、なんでさらにわざわざ汗かかなきゃならんのだ」とばかり、薄着でエアコン三昧、飲むものも食べるものもひんやりしたものばかり。これじゃ内臓から冷えていく一方で、風邪退治とは真逆のベクトルです。
薄ら暑い時期に風邪かなと思ったら、もう「我慢大会スタート」とハラくくって、綿100パーセントのハイネックの肌着を着け、さらに重ね着していちばん上はナイロンのジップアップ。即席サウナスーツ化。これで出せるだけ汗を出して、室温までぬるくした麦茶で失われた水分を補給し、肌着は汗ジトになるそばからばんばん取り替える。
冬・夏を問わず月河がいちばん最初にやるのは、重ね着より先に首筋温熱です。ターゲットは少し俯いた時に首の付け根に突出するいちばんでっかい椎骨の、指幅一本上と一本下。間違っても椎骨の出っ張り自体を温めない(温熱すべきツボは常に“骨と骨との間”にある)ことを肝に銘じて、伸縮包帯に小さい“貼るカイロ”を貼って首に当てて巻き、その上から古いスカーフを巻いて縛ってズレないようにします。
それプラス、すでに喉が痛いようなら肩胛骨の直下あたりの背骨の両サイドにも同じことをする。肌に直接触れる肌着の上にもう一枚、傷んでも汚れてもいい、洗濯して縮んでピチピチになったようなTシャツを着てその上に貼るぐらいの距離感が最適。
汗が出たら肌着を替え、また出たら替えを繰り返していると、本当に初期の風邪ならそれだけで自然消滅するのです。
とにかくこれでもかこれでもかとしつこく温める。首の付け根の温熱サンドイッチは、深く芯まで温めるならお灸がいちばんとも聞いたので、高齢家族愛用のせんねん灸を2個ほどくすねて、非高齢家族に頼んで点火してもらったこともありますが、かちかち山のタヌキさんみたいにそこらじゅう何周か走り回った挙句挫折。足、特に膝下のツボなんかは同じくくすねたせんねん灸で、冬場ぬくぬく快適に就眠できたりするのですがね。
ま、そこまで“深く芯まで”にこだわらなくても、貼りモノ当てモノでソフトに温めるだけでもいいのです。風邪引いたら、風邪薬より温める。それも首筋から、背中から温める。汗が出れば出るほどいい。これに尽きます。
改めてこんなことを書いてみるのは、いままさに温熱が必要だぞという“カラダの声”が聞こえているからに他ならないんですが。
『白と黒』は第19話。聖人(佐藤智仁さん)にも上記豆知識を教えてあげたい展開になりましたが、礼子(西原亜希さん)と聖人二度めのキスは、場面的に出すのが早かった気もする。章吾(小林且弥さん)の呼ぶ声が聞こえて礼子が立ち上がり聖人の手を振りほどいたとき、いち観客として「行かないで礼子」という気持ちがもうひとつ強く湧きあがってこないのです。
なぜか。聖人が礼子を求め、礼子が聖人に惹かれるベクトルに比べ、章吾に向かう礼子の情熱が何となし薄弱だからだと思う。「素敵な人」「信頼できる、誠実な人」「あんな人と結婚できたらと、ずっと思っていた」と礼子は1話から再三再四強調していますが、章吾の誠実は結構タテマエ主義で、「自分は誠実であらんとしているぞ」という自己満足さえあれば、かなり客観的には手前勝手な嘘もつくし隠し事もするご都合主義男であることがここまでのお話でバレています。
礼子が「どうしても桐生章吾の妻になりたい」と願ってやまないもっともな動機が見えていない。章吾父(山本圭さん)を倫理観高潔な科学者として尊敬している、「尊敬すべき人のもとで働けるというのは、研究者として最大の幸せ」とも1話で礼子は言ったけれども、科学者としての学識能力とは別に部下のミスや息子の不行跡で簡単にキレて手はあげる足蹴にはする、借地問題やブローカーの暗躍にもいちいちピリピリする神経質な小心者で、もはやそれほど仰ぐに足る人格者にも見えません。
いまの礼子は「信頼に足ると思った人を信じ続ける」ことに意地を張っているだけのようにすら見える。
たとえば礼子に、新薬開発に望みをかける難病の身内がいるとか、科学者として認められる登竜門の何とか賞が目前であるとか。
あるいはもっとエモーショナルに、数々の難敵ライバルお嬢様たちを蹴落としてプロポーズにこぎつけたなどでもいい。精神性が強く理知的お行儀優等生な現行の礼子とは違う属性を帯びてきますが、要するに「そりゃ何が何でも桐生長男の嫁になりたいだろう、降りるわけにはいかないだろう」と思える切羽詰った動機が見えてくれば、反作用として聖人の、不器用で屈折した求愛を斥け章吾の声のほうに帰っていく場面に身を切られるせつなさが増したと思うのです。
礼子章吾は結ばれる“べき”男女であるのに対し、礼子聖人は結ばれる“しかない”男女。客観的に、くっついても何の得もないとわかっている2人だからこそ礼子聖人の関係には“催萌性”がある。それには礼子章吾の間に、自然すぎるほど自然な、理に叶いすぎるほど叶った、磐石微動だにしない結婚モティベがなければならないのに、それが薄いのです。
文脈地固め未だしのキスシーン。やはりラブシーンやそれに準ずる触れ合いの場面がないと昼メロ観客が飽き足りないだろうというサービス精神の表れか。こういう了見は得てして“逆サービス”になりがちなのですがね。