イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

悪質タックル問題 ~害して窮する~

2018-05-30 19:21:00 | グッズ

 「アメフト」「日大」「悪質タックル」と三題噺みたいにワードが揃うと、まぁ出て来るわ出て来るわ、解説者なんだかコメンテーターなんだかよくわからない、要するに、日本大学ではないけど大学でアメフト選手をやってた、もしくはアメフトコーチの経験がある、もしくはアメフト取材歴が長い、もしくはアメフト選手と友達だった、もしくはアメフト選手が贔屓にするとんかつ屋を経営している・・等々を標榜してTVや新聞で顔と名前を晒しトクトクとしゃべる人が、日本にこんなに山ほどいたとは知りませんでした。テレビ局のスタッフやアナウンサーにも、多いんですねえアメフト経験者。

 こんなに社会の隅々までアメフトOBが浸透し通して、すわ今回のような事案が起きたときに一斉に百家争鳴とばかり持論を述べ立てることができる状況なら、日本のアメフト界、とっくに世界トップクラスになっているはずだと思うんですが、大学日本一を争う強豪チームのレギュラーで、日本代表に選ばれるような優秀選手でもまだ“ひとりの強権監督の号令ひとつで思考停止して暴行傷害級の反則やってしまう幼稚園児レベル”らしいのです。 

 思うに、“アメリカン”・フットボール、という競技名がまずいのではないでしょうか。これが選手やコーチ等、現場の鍛錬研鑽にいそしむ人たちの意識の、ガラスの天井になっているのではないでしょうか。

 “アメリカン”と付いている以上、どうしたって「本場はアメリカ」なわけです。「それを日本でやっているオレらは所詮アメリカ人のマネっこ」「マネっこなんだからマネっこなりの技量でいいや」「モティベーションもスピリットも本場アメリカの後塵を拝しているのが当り前さ、身の丈さ」という諦め、遠慮、自己評価の見限りが、精神の奥底に潜んでしまう。アメリカ発の、おもにアメリカ人だけが熱狂する種目の代表である野球で、1990年代以降日本人から本場MLBも驚嘆するメジャーリーガーを輩出するレベルになったのは、やはり長年“ベースボール”ではなく“野球”として日本国内で親しまれ、日本人の競技としてプレーされ観覧されてきた積み重ねの結果だと思います。

 名前って大事ですよ。よその国の名前が付いていると、やはり“他人事”とは言わないまでも、「当たり前のように自分らが世界一目指す、世界一になる」という意識になりにくいと思う。たとえばですが、“ジャパニーズジュウドー”“ジャパニーズスモウ”という種目名で外国に浸透していたら、外国人横綱大関(栃ノ心関昇進おめでとう)、外国人五輪メダリストがこんなに続々絶え間なく出たかどうか。「日本人が日本でやっていればいい競技」と見なされて、「やってみよう」「国技ヅラしている日本人負かして頂点を目指そう」と参入してくる選手、力士もそうは現れなかったのではないでしょうか。

 今回の問題を反省した同大学の選手たちが「たとえ監督の指示であっても、ルールに抵触することは拒否しなければならなかったのに従ってしまった」という点を反省事項にあげていましたが、自立自尊より“依存”“忍従”を優先させてしまう姿勢も、意外とこんなところに遠因があるような気がします。

 聞けば、アメフトにも“鎧球(がいきゅう)”という、名は体を表す立派な日本語種目名があるとのこと。日大アメフト部ももはや従来の組織や管理ノウハウは白紙にしないわけにいかないでしょうから、これからは“アメリカン・フットボール部”ではなく“鎧球(がいきゅう)部”として新たに日本一、世界一を目指してはどうでしょうか。

 それにしても、一連のアメフト経験者のコメントでいちばん笑ったのは、確か『ミヤネ屋』だったと思います。アメリカのワシントン大学でコーチ経験があるという追手門学院大客員教授の人が、キャスターに「アメリカの大学アメフトでは、こういう(日大のような)監督によるパワハラ的な、精神的に追い詰める指導はないのか」と質問されて、「アメリカでは練習がシステマティックで分刻みのスケジュールだから、ひとりの選手を集中して責めてる様な暇がない」という意味の事を言った後、「それにアメリカは銃社会ですから、誰でも銃が持てる。あまり追い詰めると、選手がロッカーに銃を隠し持っていて、監督を・・とならない保証はないから」と、ちょっと半笑いで答えていて、これはブラック過ぎてこっちが笑いました。キャスターも「そうかー」と納得笑い。

 そうか、日本で所謂“体育会系”のシゴキや“かわいがり”、「監督に“ハマる”」なんてのが平成の今日までまかり通ってきたのは、選手が丸腰だったからなのだ。これを機会に日本でも銃携帯を全面的に許可すれば、指導者によるパワハラも暴力も根絶し、明朗でフェアな大学スポーツになるかもしれません(ならないかもしれません)。

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星由里子さん逝く ~星とカネと虹と~

2018-05-18 23:07:28 | 芸能ネタ

 2月の大杉漣さんで、何かパンドラの函的なもののフタがふっとんじゃったんじゃないかと思うくらい、「死ぬようなお年じゃないだろうに」と思う人の訃報が続きます。

 星由里子さん七十四歳。民放BSでよく流れる機能性カフェインレスコーヒーのCMで、ほとんど毎日元気なお姿を拝見していた気がしますが、あれは何年前の収録だったのでしょう。TVの人の頭髪・整形にはことのほかセンシブルな、月河の高齢家族その一は「あのフワフワ感はイブファインかねー」なんて見るたび言ってましたが、確かに髪のヴォリューム感比で、お顔の輪郭がしぼんだような印象はありました。若さのピチピチ感でもってるアイドル系カワイコちゃんと違って、星さんの様に目鼻立ちのもともと整った正統派美人さんは、いいお年になられても劣化が少ないので、衰えが目立たなかったのでしょうかね。

 東宝映画のシンデレラ・オーデションで抜擢されて、加山雄三さんの大ヒットシリーズ“若大将”でずっと共演したマドンナ役でしたから、美人さんながら加山さんの女性ファンにも反感を持たれないタイプだったのでしょう。月河はまだ小学生だったので劇場映画で拝見することはなく、せいぜい実家母がときどき買っていた婦人雑誌の表紙や、ファッションスタイルブックのモデルとして知っていた程度です。

 そんな中でも、ウロな記憶で申し訳ないのですが、1967~8年(昭和42~3年)頃、たぶん雑誌『少女フレンド』の増刊号だったと思います。巻頭か扉口絵のおしゃれグラビアで“あこがれのウェディングドレス”とかなんとかいうテーマで星さんと、吉永小百合さん、そして当時の『少フレ』のイメガだった高見エミリーさん(のちの故・鳩山邦夫議員夫人ですね)とのスリーショットが載っていたことがあります。

 当時の月河はチラシの裏にスタイル画のパロディーみたいのを描き散らすことに情熱を燃やす子供だったので、ここだけはわりと鮮明に覚えているのですが、お三方それぞれの持ち前のイメージに合わせたのでしょう、小百合さんは身頃に白いバラのように重なるフリルをたっぷりあしらい、スカート部分は純白無地の妖精さん風、エミリーちゃんはパフスリーブで袖口が細くなったおとぎ話絵本の王女さま風。星さんだけがデコルテをチュールレースで覆って露出感をおさえ、身頃にもスカートにもパールビーズを線状に散りばめた貴婦人風で、子供心にこの人がいちばんオトナなんだなと認識を新たにしたものです。

 とは言え訃報で改めて確かめると、星さん1943年12月生まれ、小百合さん1945年2月生まれで、当時推定24歳と23歳ぐらい、学年にするとひとつしか差がないんですね。小百合さんの場合、子役~少女子役歴が長いので、見るほうがいつまでも女学生的に見ていたせいもあるかもしれない。

 (ちなみに高見エミリーさんは1955年2月生まれで、このグラビア当時は十代前半だったはずですが、ハーフだからか近所の中学生のお姉さんたちよりずっと大人っぽく、というか成熟して見えていました)

 当時の東宝の社風で、星さんも清楚で優等生なイメージの女優さんでしたが、『ゴジラ対モスラ』等特撮ヒロインとしても活躍されていたのでファン層が広く、月河よりひと回りほど上のお兄さんたちにも「嫁をもらうなら」とタイプに挙げる人が多かった。色合いが変わったのは、やはり、今更ですが1969年(昭和44年)の某・不動産王ジュニアとの、高度成長期当時の芸能界基準でも法外だったクソ豪華披露宴と、二カ月余りでの超スピード離婚報道でしょう。結構熱心なファンだった月河の従兄のひとりは「あの一件以来、“カネの好きな女”に見えるようになっちゃって」と述懐しています。結婚して一時的にせよ他の男のモノになったこと自体はそんなにイヤじゃなかったそうですが。

 (男性が、マドンナ的にあこがれていたアイドルから“降りる”タイミングときっかけって女性におけるそれより微妙なような、あっけないようなですね。この星さんファンのヤツとは別の、親戚の団塊男子はフランス女優カトリーヌ・ドヌーヴさんにこよなく憧れていたのですが、彼女が70年代当時日本で出演していたCMのプロモーションで来日した際わざわざ会見場のホテルまで“生ドヌーブ”さんを拝みに行って帰ってきたら、「顔は綺麗だけれども手がグローヴみたいにでかくて、幻滅した」と部屋のポスター類も即日撤去していました。いまは“会える、握手できるアイドル”が人気ですが、当時のマドンナ的アイドルは“距離”がもっと必要、というか距離がすべてだったのです)

 星さんに話を戻すと、劇場映画でご活躍の頃は前述の雑誌グラビアぐらいでしかお姿を見ることのなかった月河にとって、女優・星由里子さんをいまだに鮮烈に覚えているのは1976年(昭和51年)のNHK大河ドラマ『風と雲と虹と』の源詮子(せんこ)ですね。ヒーロー平将門(加藤剛さん)の伯父の後妻におさまり、内側から知略、注進、焚き付けとあの手この手で将門を罠に嵌めようとする悪女。最後はヴァンパイアみたいに落雷にうたれて命を落とすのですが、これだけあからさまに険のある、嫌味全開な星さんを見るのも初めてで、やっぱり悪女役は美人さんが演ってこそだなあと改めて思いました。星さん自身も結婚離婚とゴシップ、バッシングも経験して、東宝仕様のキレイめ路線と相反する役柄に新境地を見出そうとしていた時期だったのかもしれません。

 昨今の高齢化社会で、どんなジャンルのドラマでも映画でも高齢者役は欠かせないし、“老けづくりにしても美しい”シルバー世代女優さんの需要はむしろ増えつつあるはずですが、お若かった頃の記憶の上にあまり“上書き”されないうちに去るのも、女優としての本懐なのかなとも思う。それにしても七十四歳は早いです。

 そう言えば『相棒』の内村刑事部長(片桐竜次さん)の長年の心のマドンナ女優・島加代子(@Season5『殺人シネマ』)役が星さんでした。2007年3月の放送時点で“レジェンド的大御所”の設定でしたが、演じたご本人が逝去となると、劇中、代表作『海峡の虹』の追悼上映とかないかしら。大杉漣さんの衣笠藤治副総監問題だけでもえらいことだったので、それどころじゃないか。まさにこちらも高齢化社会、ドラマも長寿になると、作品世界の維持メンテナンスがたいへんです。

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ヒデキforever ~あとは流れゆく時のままに~

2018-05-17 22:07:35 | 芸能ネタ

 ヘンな表現だけど、「人間って、死ぬんだなぁ」というのが、報道を聞いて出た最初の感想です。

 西城秀樹さん六十三歳、ここ数年は脳梗塞からのリハビリ復帰がおもな提供話題で、昭和の横綱級アイドル“新・御三家”の一郭も生活習慣病世代か・・という感慨はチラチラもたらしてくれていたものの、まさか亡くなるとは。

 年を重ねても、全盛期のいで立ちでTVに映る機会がなくなっても、所謂エヴァーグリーンとして、この人だけはいつも時が止まった状態で存在しているような気がしていました。西城秀樹さんってどんなだっけ?と思い出すたびに、永遠にワイルドな17歳で、傷だらけのローラでヤング・マンで、ヒデキ感激!で『愛と誠』で『寺内貫太郎一家』なイメージなんですね。

 何たって、西城さんを代表に、当時の“アイドル”はお茶の間物件で、全世代対応だったから、世間的な認知刻印力、その広がりが今どきのアイドルの比ではないんです。いまのアイドルは、アイドルの客に進んでなる層=ドルヲタ専用商品ですが、たとえば西城さんは、どう考えてもアイドルが客に想定してないお爺ちゃんおバアちゃんも「あんな長い髪して、ヒョロヒョロな格好して」とか言いながら見ていたし、ライバルの野口五郎さんや郷ひろみさんのファンも見て、ちゃんと特徴をとらえて咀嚼し消費していました。テレビが一人一台ではなく、一世帯に一台、お茶の間のいちばん目抜きのポジションに鎮座していた時代の強みです。

 西城さんはつねに膝から下が広がり加減なパンツをはいて、左右に腰をうねらせるたび厚めにサイドに流した前髪がバフバフ目の上にかかる感じ、歌っている曲は洋楽っぽかったり、もろカバー曲だったりもするのですが、まさに昭和の、まさにザ・芸能界なステージング。

 月河と同年代、小学校高学年~高校初期にかけてこの人のピーク期を目の当たりにした人間は、いまでもカラオケでマイクスタンドの前に立つと、スタンスの開き方、スタンドに対して肩が入る角度など、“カッコよく歌おう”という意識が働けば働くほどいつの間にかヒデキっぽくなっているのに気がつきます。サビで高音域に入ると、わざとのようにシャガッとなるハスキーパンチな声質、唱法とも相俟って、“オンナノコにキャーキャー言われる、昭和的カッコよさ”の元祖、師匠みたいな人でしたよ。月河の年代にとってはね。もう少し上の世代の人なら、GSとかロカビリー組がそういう存在だったのかもしれません。

 脳梗塞発症以降は闘病の話題に明け暮れ、芸能面での新規展開はあまりありませんでしたが、10代でデビューしてすぐに脚光を浴び長く前線に居たわりには、音楽・芸能以外の生臭い話題がつきまとわない人だったように思います。スター芸能人の輝きを曇らせる、異性・金銭・薬物(アルコールも含む)スキャンダルに、驚くほど縁が無かった。モテなかったはずはないし、某・年上大御所女優さんのお気に入り説も聞きましたが、それで干されたり汚れたりすることはなかった。

 結婚が遅かったので、一時は「ヴィレッジ・ピープルのカバーヴァージョン歌ってたし、本当は男性が好きなのか?」とも言われていましたがそれすら都市伝説みたいになっていて、一般人の女性と結婚されたときも、お相手をめぐって取材攻勢が炸裂するようなこともなかったと記憶しています。派手目に見えてもゴシップ・スキャンダル体質でない人ってそういうもので、思うに、“抜き方”がうまいんでしょう。西城さんの活躍期はアナログな突撃型の芸能レポーター全盛時代でしたが、こういう職種の面々との付き合い方も上手そうでしたね。ちょっと下の年代の、田原俊彦さん辺りとは対照的でした。

 歌い手さんも功成り名遂げると、少ない消耗で実入りの大きいプロデュース業とか、後進育成などにシフトしていくことが多いものですが、西城さんは自分で汗かいて、ステージに立って歌うのが本当に性に合っていたようです。妙に“事業”寄りにならなかったのも金銭的に火傷しなかった秘訣でしょうね。想像ですが、ご家族や奥様も堅実な感覚をお持ちなのではないでしょうか。“スターに乗っかって利用して、労せず甘い汁”の大好きな手合いは世の中多いですから、このたぐいを近づけないためには取り巻きに恵まれる必要もあるのです。

 個人的には、2014年夏のNHK『思い出のメロディー』の生出演を家族と見たのが最後だったような。非高齢家族が失礼にも「(リハビリ復帰後)これだけ声が出れば、営業いけるから生活には困らないな」と感想をもらしていました。静かなバラード調の曲にもヒット作があるのに、敢えて『情熱の嵐』と『YOUNG  MAN』を選んで歌ったところに御本人の意地が垣間見えましたね。カタカナ“ヒデキ”のワイルドでダイナミックなイメージを大切にしたかったのでしょうが、若い頃、きくにまかせてきた無理が中高年になってこたえてきた感もあり。でも、天国でものんびりダラッとしているイメージがない人でもありますね。まさにエヴァーグリーン。

 ・・・・ところで、ドサクサにまぎれて失礼ながら、若さに似合わぬ成熟した歌唱力の持ち主だった秀樹さんのヒット曲のかずかず、結構、月河のカラオケ愛唱ナンバーの宝庫なんですよ。特に、昭和50年以降、“ワイルド”から“メロウ”(←この形容詞も一時流行りました)に曲調を転換していった頃の『ブーツをぬいで朝食を』『あなたと愛のために』『ジプシー』などあのへん(どのへんだ)。

 秀樹さんのような圧倒的に優秀な声量が無くても、高音部シャガレな唱法ができなくても、コツがあるんです。『ブーツを~』は宝塚男役スターっぽく、『あなたと~』は奥村チヨさん風に♪男のアナタには わからないでしょぉん とコケティッシュに、『ジプシー』はサビで敢えて♪お・ね・が・い とウィスパーっぽく、辺見えみり・・さんのお母さんマリさん風に。いや、いけますって(イヤな客だねえ)。

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タイム麻疹にお願い

2018-05-12 19:04:07 | 健康・病気

 「年度替わりが近づいて世の中皆が身辺慌ただしくなる時期にもうひとヤマあるから油断禁物」と、毎年言われるのがインフルエンザですが、4月に入ってさすがにもう今年はセーフだろうと思ったら、今度ははしか(麻疹)大流行かという話題になっていますね。大型連休で人の大量移動、海外渡航と帰国が増加する時期なのも関係している。人間の世の中は落ち着かないこと。

 感染症とか台風など、移動・推移を伴う話は、なんでも東京、乃至首都圏に到達してからマスコミがにわかに騒ぎ出すので、今回も町田市在住の女性が7日に医療機関に受診に行って発覚、症状は6日に出ているから「その一日前の5日から周囲への感染が始まっている可能性が高い」「5日にはどっち方面のバスに乗ってどこへ行った」「何時台のバスで何人くらい乗客が乗っていた」とか、ほとんどホラそこのアナタも感染してるかも!?みたいな文脈になってます。

 幼少期にかかると熱が上がって下がってポツポツが出て消えて、何てことなく終わって一生免疫ができるけど、年いってからかかると寝込むぞとか、ポツポツの痕が残るぞとか、ヘタすりゃ合併症で命が危ないぞとか、みんな“物心つかない頃の遠い記憶”なので適当な事を言って、ほとんど都市伝説みたいになっている、ある意味マボロシの病気“はしか”。

 当地は冬が長いので、遅めの冬休みが取れると特にゴルフ好きは沖縄に行く人が多いのですが、幸いにして月河周辺では感染アヤシイのはまだ現れていません。何しろ接触感染、飛沫感染もするけど空気感染もあるから、インフル用のマスクなどつけて手洗い励行していても、同じ部屋や乗り物の同じハコに感染者(本人に自覚症状のない潜伏期間中でも)が居たら、息しただけで感染するリスク大なわけで、もうお手上げです。

 感染を避けられる唯一の防御手段がワクチンだそうですが、昭和30年代~40年代初期、月河の幼少時は当然、はしか単独の予防接種は義務化されていませんでした。同年代の数人に訊いてみましたが、はしかのヨボーチューシャなんてされた記憶がないという人ばかりでした。

 それじゃ頼みの綱は“一回ちゃんと罹患して、自然免疫ができているかどうか”なのですが、これがまた個人的にすこぶる頼りない。月河は25歳で水疱瘡(=水痘)ってやつに初めてかかり、なんとかめでたく全快して職場復帰したとき「子供か」と非情にも笑いものにされた苦い経験がありまして、その時に実家母に「水疱瘡はまだヤッテなかった、はしかは?風疹は?おたふくかぜは?」とたたみかけて聴取したところ、はしかだけは満1歳のときに、軽~く、まったくこじらせることなくスッとかかってスッと終わったから無事免疫ができてるはずだ、という話ではありました。

 しかし、いまや天下の東大卒エリート経産省官僚だって自由自在に記憶が怪しくなるご時世です。満1歳じゃ本人の記憶はあるわきゃないので、実家母の記憶違いだったらえらいことじゃありませんか。

 かりに百歩譲って(百歩もか)実家母の記憶が正しかったとしても、もう半世紀以上が経過しているわけです。高度経済成長もあった、大阪万博もあったオイルショックもあった、東京メキシコミュンヘンモントリオール・・・あと忘れたけど北京ロンドンリオデジャネイロ、夏だけでもオリンピックが何回、開催されたことか。バブルが勃興しぶっぱじけ、失われた10年20年。月河満1歳で獲得した免疫が、風雪に耐え波濤を越えて2018年、平成の世もあと一年という今日まで、果たして盤石でいられるものでしょうか。

 確か羽鳥アナの『スーパーモーニング』だったと思いますが、感染症の専門家によれば“自分に免疫があるかどうか”を調べる検査(抗体価検査というそうです)も、民間の医療機関で可能らしいので、「ワクチン接種が義務付けられていなかった世代の人、罹患歴が定かでない人は、まず免疫があるかどうかを調べて、ないとわかったら今からでも接種を」「2回接種すればもっともリスク低減に効果大ですが、1回の接種でも95%の人に免疫ができます」と呼びかけていました。・・ただ、この後、メモしないで聞き逃したんですがこのワクチン、1回でも結構な値段なんですよ。毎年仕方なく行くインフルエンザの予防接種より、顕著に高額でした。

 ・・ここまで書いてきて、すでに「ビクビク検査に行って高い接種受けずとも、堂々と生活して万一感染したらその時はその時、家で治るまで寝て居りゃいいじゃないか」という超・楽観的な開き直りがある自分に気づく。「はしかくらい何だ、1歳の幼児だってスッと罹ってスッと治るのに」と。

 ・・一方で、“年いってからのはしかは大ごとになる”という都市伝説。これはどうしたものでしょう。罹らなきゃどうということはないんですが。やはり免疫力か。睡眠と食事バランスか。ビタミンCか。

 結局、インフルエンザと同じ心得しかないということか。空気感染ゆえ、うがい・手洗い・マスクが無駄とわかっている分、対策はいっそラクなのかな。

 ちなみに、実家母から当時、ついでに聴取した四方山話です。母の生家の近くには通称“はしか神社”というお宮があって、稲わらか、何かの草の葉状の物で、サーカスでライオンが潜り抜けるやつをちょっと小さめにしたような輪っかを編んで、「これをくぐって参拝するとはしかにかからない」という言い伝えがあり、おみくじや御札の様にその輪っかをミニサイズにした物を社務所で販売していて、家にはしかの子供が出たときに枕頭や寝室の窓先に吊るすと「これをくぐってはしかの神様が出て行くから、早く治るし、家内に感染者も出ない」と言っていたそうです。はしかにも神様がいたとは驚きですが、“くぐる”ことで厄除け、厄払いになると昔の人も信じていたんだから、今回の騒ぎも“一過性”で終わってほしいものです。とりあえず当分大型連休はないし。

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