イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

かをる子様のスピンオフ希望

2014-10-17 01:56:05 | 朝ドラマ

 まるで月河に論評されるのを避けるかのように、逃げ水のようにキラキラと終わってしまった『花子とアン』

 まー言いたい事は数々あります。ありますがこのドラマに関しては言っても仕方がないような気がする。何故かというと何よりも、月河はモンゴメリー女史の『赤毛のアン』という小説が、小学生坊主時代の初読以来こんにちに至るまで一度も「大好き!」になったことがないのです。

 一言で言って「退屈」

 先がぜひぜひ読みたくなるような出来事も、事件も起きなければ、もっともっと時間を共有して見つめていたいと思える人物も現れない。たぶん親戚の伯叔父母のたぐいか、実家母の同窓友達系の大人に勧められたかプレゼントされたかで小学生坊主月河、律儀に読んだのだと思いますが、当時夢中だった『巌窟王』や『三銃士』『ああ無情』、怪盗ルパンシリーズやナルニア国ものがたり等に比べて、完読するのにえらい日にちがかかった記憶があります。なんか合わないんですな、波長が。

 ちなみに、『小公女』や『家なき娘』は好きでした。一発逆転のカタルシスがありますからね。

 そんなこんなで、花ちゃん(吉高由里子さん)が一生懸命「アンって私にそっくり」「平凡な日常を輝きに変える言葉の力」(←でしたっけ?)等とこの作品の魅力、非凡さを劇中でアピールして感動してみせてくれても、「そうかいそうかい」としか思えなかったのでした。

 世間的には好評だったけれども自分は嵌まれなかった、というドラマにはいつも思うのですが、月河は「任(にん)でなかった」のでしょう。このドラマに興がって丹念に腑分けしたり意味付けしたり解釈したりするに適任な人、そうやって自分が楽しめる人は視聴者の中にたぶんたくさんいるはずですが、月河は残念ながら(それほど残念でもないが)そのグループに入りません。

 でも、梶浦由記さんの劇中音楽はとてもよかった。『あまちゃん』『ごちそうさん』に続いてまたしてもサントラ貧乏になりそう・・とジャケットを見ると、うーん、やっぱり違うんだなあ。

 月河のイメージではアン・シャーリーってこういうお洒落なレイヤードワンピみたいのを着てカントリーなリボン付きお帽子をかぶって緑の芝生をるんるん散策したりしていないのです。もっと野暮ったいお勉強っ子で、大学奨学金を断って地元校の女教師になって、それも辞めて医者の女房になる子なのよ。まぁつまらないこと。

 戦後の復興期に、村岡花子女史のしなやかにもたくましい日本語訳でお目見えして印象深かったからなのか、ちょっとこの小説とヒロイン、日本人の間で美化され過ぎなような気もします。

 ドラマ内でのように、村岡さんが空襲の中を逃げまどいながらも「生きた証にこの本だけは訳したい、たとえ出版の可能性がなくても」と辞書とともに抱きしめていたのだとすれば、月河が「退屈」と感じた部分も、村岡さんにとっては「輝かしく愛おしい、いつかまた取り戻したい和やかさ、平穏さ」ととらえられていたのかもしれない。村岡さんの翻訳人としての力量と強靭さがみごと結実してこんにちにまで読み継がれているわけですから、月河も、大好きな作品とは言えないけれど、それ以上に、文句の言い様もありません。ドラマの皆さんもお疲れ様でした。

 

 

 

 

 

コメント
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