イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

年跨ぎで考えるキャラクター沼 ~バケヤロー解散(←意味不明)~

2021-12-31 23:56:09 | キャラクター

 「“オシカツ”になって来てんな」

 ・・・大相撲の貴景勝関に体形が似てきて、いまや逸ノ城関にも押し出しで勝てるのではないか、という話ではなく、めっきりオバケ―ヌの領地が拡大してきた月河のデスク周りを見ての、家族の所感一言。

 家族の中でも、縁あって若年女子に影響を受けて(振り回されてとも言う)、一時、ポケモングッズに走っていたことがある人間なので、嵌まるに事欠いてキャラクターに嵌まると周辺の眺めがどう変わるか、身をもっての記憶も新しいようです。

 まぁ、サンリオキャラクター大賞みたいな人気投票ではないので、贔屓キャラの番手を上げるために、投げ銭的に“買って応援”している意識は毛頭ありません。

 さりとて、かつての手書き筆記リバイバルマイブームの様に、「より使いやすい物を求めて、これがいいかな、いやこっちのがベターかなと渉猟しているうちにいつの間にかたまってしまった」ってほど、合目的的ですっきりイノセントなモンと言い切れるかと言うと、若干の逡巡がある。

 最近は、別の物を求めて大型書店に行っても、当初目的のモノを見つける前に「あ、こないだ無かったリールキイホルダーが!」とオバケ―ヌモノに飛びついてしまい、目的のほうは見逃し三振で帰ってくる事案が相次いでいます。

 キャラ沼経験のある家族曰く「たとえばペンとかシャーペンとか、消しゴムとかクリアファイルとかさ、デスクならデスクって定ポジで使うモノで嵌まってるうちはまだ“浅い”」。

 家族に言わせれば、ぬいぐるみの様な実用性の低いモノでも、棚とかベッドの上など、定ポジに置いて観賞する系は浅いのだそうです。

 「深いのは、身に着けて、持って歩いて、人目に触れても平気な系統な。これ系に行ったら、もうアレだよ、ズブ(ズブ)だよ」だと。

  ・・・ううむ、言われてみれば。最近、バックパックに付けるリールキイホルダーに続いて、髪のサイドを留めるクリップも入手。留めるほどの前髪が無いので後ろシニヨンにしたときやギブソンタックの入れ込みの上や、バナナクリップかバンスでひと握りにして括ったときの毛束の先止めに使い始めたばかり。

 ついこの間までは、はぴだんぶいメンバーのぬいぐるみフェイスバッジ(“むにゅぐるみ”でおなじみKThingS製)の安全ピンを外してクリップに付け替えセルフカスタマイズしたやつを使っていましたが、後ろ髪にペックルやハンギョドンの顔が付いてるのもかなりシュールだけど、オバケが躍動してるってのはもっとすごいと我ながら思います。しかも本人、JCはJCでも女子“中学生”じゃなくて女子“中年”なのだ。凄い凄すぎる。

 記憶では、はぴだんぶいの諸アイテムの中でメンバーの顔付きヘアクリップ実使用に至ったのは、沼に足を踏み入れて半年後ぐらいです。もっともその前にTシャツやアウターに手を出していたから、家族の言う“身に着けて外に出る”のハードルはもっと手前で越えたような気もする。それにしても、今回のオバケ―ヌ熱は、もともと文具メーカー発のキャラなため文具ジャンル外のグッズに出会う事自体が希少価値な件を割り引いても、沼堕ちの速度が我ながら速い。

 家族の言説は確かに、相当、的を得ています。部屋の中やデスクサイド等自分だけのスペース、テリトリーの中に置いたり使ったりして楽しむに飽き足らず、身に着けて人目に触れさせる、いやいっそ“見せたい”方向まで行っちゃったら、かなりな勢いで病(やまい)膏肓に入るの段階だと思う。みずから認めるに吝かでない。

 たとえば、昨年から月河のレギュラー立ち寄り先になって、徐々に勝手がわかってきたサンリオギフトゲート。特定のキャラクターのアニバーサリーで数量限定・取扱店舗限定で今日発売・・なんて日に行ったら、バッグやアウター、アクセ小物などあからさまにそのキャラとお友達キャラで固めた、いいオトナの客がアッチにもコッチにも居て、風圧と体温に圧倒されそうになることがあります。

 アイドルグループのライヴコンサート会場に行くノリなのかもしれませんが、「ワタシってこんなに熱く応援してるの!」「そんなワタシを、ワタシが大好き!」という直球なアピール欲と自己愛、なんなら同じ場に集まった同類のファンに向けてのマウント欲がダダ溢れていて、またそう思って見る自分もその同類で同類に近いイデタチと行動をしているわけだから、対象と主体が重なり合うというか、なんかもう何とも言えない眺めになります。

 毎度どんなキャラクターにもこの手合いがもれなく現れるというわけではありませんが、日頃は目につかない程度に潜伏しているわけだから、ここぞ!という時にぶわー噴出して目撃される以上に、数的には多く存在すると思ったほうがいい。なんだかゴキブリみたいだな。

 ともあれ「人目につく、目を惹くことを恐れない」「むしろ可とする快とする」域に入ったら、自室でひそかにむにゅぐるみをむにゅむにゅしてニマニマ癒されている段階から一段“進化”してしまったと言わざるを得ないでしょう。

すでに「オバケ―ヌのTシャツ、パーカー、あれば買うだろうな」「黒地にネオンカラーのアウトラインで“ぬっ”てフキダシついてる柄がいいな」「バックプリントで“どろどろーん”てロゴ入りで一列に並んでるデザインもいいかも」等と希望的妄想して、買って着てそこら歩く気満々の自分がいる。

 なんでこんなんなっちゃったかなーと振り返るに、やはり昨年来からの新型コロナの社会的影響でいろんなことが不自由且つ不安が付きまとうようになったほかに、“良き虚構=フィクション”が日常に足りていない事が大きいと思う。

 劇場やシネコンで観る映画はもちろん、気がつけばTVの、いちばん敷居が低いはずの地上波のドラマ、無料BSの韓国ドラマですら、惹き込まれて食いついて観る、嵌まる、という経験が無くなった。

 魅力のあるタイトルが無くなった、減っただけではなく、月河本人もたぶん“人の作ったフィクション”“出来合いで出回っているストーリー”に、気分よく騙されて乗っかっていくパワーが減衰して来ているのだと思います。

 そこへ、キャラクターの“ゆるさ”、“設定とヴィジュアルだけで、特段の、ガチのストーリーを持っていないがゆえの風通しの良さ”が、レスキューの様に来て嵌まったのだと思います。

 (この項続く)(て言うか年を跨ぐ)

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私がオバケ―ヌさんになっても ~視認にクチ無し~

2021-12-24 22:24:16 | グッズ

 懐かしい文庫本ミステリの再読、再々読に燃え出すと、なんだか脳内のどっかの近隣中枢に延焼してきたようで、3年ぶりくらいに“紙に手書き熱”が盛り上がってきました。

 手で字を紙に書く熱、つまりは筆記用具熱です。

 3年前にコレが来たときにはペン、ボールペン、油性ペン、ゲルインクペンと、手に持ち馴染んでしっくり来て筆の進みやすいアイテム、なおかつ軸色やデザインも好みで人の持ち物とまぎれない品番を求めて何か月も検索と試し書きの旅が続いたものですが、当時の“遺産”がまだごっそり手元にある現在、今度は嵌まるに事欠いて“キャラクター文具”の沼にずぶずぶ。

 まぁ、おなじみサンリオ・はぴだんぶいの、カラビナ付きフリーケースをキイケースとして使い始めた頃からすでに、レターセットやプチメモパッドなど目につけば集めて恥じるところがなく(恥じるって)、家族も見ててもう「あぁ、例の、はぴね」と固定的に間違え続けたまま、せせら笑うでも呆れるでもなく、いまや月河も「だからはぴ“だん”“ぶいだってば!」と訂正もしないまま、着々じわじわデスク周りも“推しメンの誰かが必ず居る”状態になりつつはありましたが、『Yの悲劇』に再登頂チャレンジしていた9月下旬、「ところで、田村隆一さんのこの版、いままだ角川文庫で売ってるかな?」とふと気になって、とある日に久々大型書店に遠征したのがある意味、運命のターニングポイント(大袈裟だ)。

 その日に限って書籍と音楽映像ソフト売場側の入り口でなく、文具事務用品雑貨側の入り口から入ったため、サンリオすみッコぐらしミッフィームーミンその他、と順番に、障害物競走の様に引っかかって行って、最終的にドン!と行きどまったのが“プチキャラコーナー”の“オバケ―ヌ”

 オバケ―ヌ。フレンチのメニューみたいだけど、つまり、おばけです。白い布かぶって目だけ出して、ふわんふわん空中を移動するアレ。おもに夜行性ですが、昼間も存在してるらしい。ちょうど、10月31日のハロウインを目標に売場が組まれていた時期でもあってフロントに出ていたのかもしれません。

 白布白装束で、ポチッと両目だけ。手だけニュッと突き出したり、胸の前でギュッとしてたりはしますが指は省略。

 バケる前、人間だったのか、何の生き物だったのかは不明。ただし、ネコのフォルムでおヒゲのある子と、ウサギのフォルムで立ち耳ちゃんの子は居て、“ニャンコーヌ”“ウサギーヌ”と名づけられ・・って、解説してるうちに自分でもふわんふわんと脱力してきました。

 すみっコぐらしでもメンバーの中で“おばけ”が特推しメンだった月河、基本的にはコレ系の、動植物っぽくない、生命あるでもない無いでもないヴィジュアルが好きなんでしょうね。 

 すみっコ仲間のおばけさんは目とクチがあって人間っぽいところもありますが、この子たちは目だけで、クチ無しだからもちろんイラストの中でも「ぬっ」とかしかセリフ言わないし、なんかトボケているというか、空想感にあふれるというか、アンチリアルな感じ、月河の、大っ嫌いじゃないけどどうしても好きになれない言葉のひとつ「癒される」が、まずいぞまずいぞと思うんだけど当てはまってしまいそうなんだな。

 「生活感がない」?“生”きてないですからね。オバケだから。

 はぴだんの、たとえばバッドばつ丸なら友達のグッドはな丸がいてペットのポチ(←ワニだけど)がいて、ハンギョドンなら幼なじみのさゆりちゃん(←蛸だけど)がいて友達の優等生のイタロー(←烏賊だけど)がいて、タキシードサムなら弟のパムとタムがいて・・と、家族や人間関係もといキャラ関係のコンテクストが設定されているけど、オバケだから、何も無くて、存在だけがそれこそ宙に浮いてるんです。このしがらみのなさ、掴んでないと消えてなくなりそうな儚さが、個人的に、なんかいいんですよ。

 商品としては、トータルステーショナリーメーカー・クラックス(CRUX)のオリジナルなので、紙文具はほぼ網羅してアイテムがあるんです。別に手紙書く宛先もないのに例によってレターセット、メモる事項もないのにメモパッド、筆圧強くてすぐ減るのに2Bの鉛筆、決まって失くすから持って歩かないのに鉛筆キャップ・・とじりじり深入りして行き、ふだん持ちのバッグに付けるアクリルのバッグチャームに至って、はぴだんぶいの子たちからタッチ交代。

 一緒に付けといてもいいんですけど、色気のないトートバッグに男子6人+オバケって。チャームだけやたら豪華メンバー過ぎて目立ちそう。

 そして先日ついに、「こんなんあったら買っちゃうだろうけど、まさか売り出さないだろう、文具のキャラなんだし」と思っていた、サンリオキャラばりのぬいぐるみまで本当に売場に出てて、本当に買ってしまいました(爆倒)。

 シリーズ内のスリム定規とほぼ同じ、身長約15㌢。コレまずいよなぁ。絶対まずい。文具デスク周り用品と違って、引き出しにしまうわけにいかないから、確実に家族が見つけるわ。高齢組は視力がアレだから、「なんか白い、もわっとしたクッションみたいのある」とスルーするかもしれないけど、部分的に蓄光素材でできてて、昼間明るい所や、デスクライトのそばに置いとくと、消灯すると光るんですよ。

 ヤッコさんたち朝早いからなぁ。いま、一年中で一番日の出が遅いから、早朝、カーテン未開の室内でこの子が光ってると、超常現象だ!って騒ぐかもしれない。

 ヤッコさんたちの視界に入らない所に隠しとこう・・ってそしたら蓄光できないから光れないしなア、オバケ―ヌさん。

 リモートワーク&ステイホーム2年目で、足の遠のいていた実店舗に久々行ったら、てきめんこんな調子。メンドくさカワイイ沼に足踏み入れてしまいました。

 ・・ところで、大型書店に出かけた当初の目的、角川文庫版『Yの悲劇』田村隆一さん訳の存否。確かめるの忘れてオバケ―ヌに取り憑かれただけで帰ってきたわけじゃないですよ。 

 やはり現行の角川文庫では、月河の手元にある田村さん訳ではない、新訳だけが販売されていました。翻訳者は20年ほど前ジェレミー・ドロンフィールドという新顔(当時)作家の『飛蝗の農場』(創元推理文庫)の訳で知ったベテランさんですが、月河はパス、やっぱり田村訳版で昭和40年代に読めて良かった(電子書籍kindleでならいまでも読めるようです)。

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眞子さんは結婚できた ~是は血税のゼ~ 

2021-12-22 15:44:31 | 世相

 『Yの悲劇』を腑分けした後、「まぁ、そうなるな」という流れでいま『X』再読に入っています。

 何十年も昔に読んだ文庫本に再ハマりしているうちに気がつけばきっちりきちきち年の瀬ですねぇ。

 2021年。あまりに順調、破竹過ぎてどっかで蹴っつまずくんじゃないかとヒヤヒヤしていた大谷翔平選手は何の頓挫もなく順当にMVPに輝いたし、一方では、何かしらまたしでかして堂々巡り始めるんじゃないかと思った秋篠宮眞子内親王さまと、お相手のほら、アレも、なんだかんだでどんどこどんどこ事を進めて、結局モクロミ通り結婚して渡米してNYでノウノウと暮らし始めた様ですよ。まさにお相手のお好きな言葉Let it be ・・というよりここまでくるとWhatever will be will beですな。何事もなるようになる。WillあるところにWayあり

 もう決着した話にケチつけるようなこともしたくないので、とりあえず、「ああいう、血統本位制みたいな家族に生まれついた女性でも、誰に引き合わされるでもレール敷かれるでもなく自分で見つけてきて両想いに持ち込み“この人がいいの、結婚するの絶対するの他の人じゃダメなの”で押し切るていの恋愛結婚が可能」という前例を作った功績は大きいと申し上げておきましょう。

 功“績”じゃなく、せめて功“罪”にしとけよ、と、自分でも思っていますが、それはこれからの皇室・皇族と、その存在を是とする国民の今後次第。「あのとき、あの人のあの件がああいう結末になって良かった」となるか、「あのときのアノ件さえ無ければいまこんなことには・・」となるか。

「いつまでもあると思うな親とカネ」じゃありませんが、いつまでも是とされてると思うな国民の皇室観、てことでもありますがね。

 しかし、皇室典範より憲法より、あるいは愛のチカラより、強力なのは時の流れ、時代の趨勢ってやつです。

 好むと好まざるとにかかわらず、世間がどう誹謗中傷しようと、時代は多様性の時代なのです。もう後戻りはできないのです。誹謗中傷の雨あられを、ツラの皮超合金で突っ切る覚悟と肝っ玉があれば、法に触れない限りどんな価値観、家族観、結婚観も、何人たりとも全否定はされないのです。やればやり切れちゃう、「そういう考え方もアリかな」「そういう料簡で生きてく人間も、殺すわけにいかないから、生かしとかなきゃシャアないな」と、いつの間にか受け容れられちゃうのです。そういう時代、そういう世の中になったらしいのです。

 2017年5月頃から始まった“眞子さま熱愛のお相手”報道からの展開、転帰、どうやら今年11月をもって着地、一巻の終了となった模様。

 いやもう、4年半、長かったですねぇ。これだけの間“かけがえのない人”“この人との結婚が人生に必要”と思い続けて微動だにしなかった、させなかったんだから大したタマカップルじゃありませんか。褒めてつかわすような立場でもないけど、これくらいでなきゃ、“多様性の時代”=“誹謗中傷の時代”をサバイブして恋愛結婚なんか達成できませんぞ。どちらかがいくらかでも“名のある”立場ならね。

 ツラの皮超合金、肝っ玉極太無限大のまま、今後はNYにお住みになって日本の衆生の視界からは離れてくださるらしいし、お互い、平和で良かったということにしましょう。そうしましょう。

 末永くお幸せに・・ってフォローになっとるのか。いや、新婚カップルに贈る言葉ぐらい、様式美で締めときませんと。

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『Yの悲劇』再読再々追補〔完結編〕 ~よーーく考えてみた~

2021-12-01 23:13:07 | ミステリ

 “昔読んで、それきり”な本、特に長編本をひょんなきっかけで再読する経験は初めてではありませんが、その中でもよりにもよって『Yの悲劇』について足かけ2か月もブログで書くとは思いませんでした。

 やはり翻訳ミステリビギナー時代に初読して印象が鮮明だったこともあるし、「人に面白いよと勧められた本(特に小説)が、通読完走して本当に面白かった」という、よくありそうで実は意外に少ない経験をさせてくれたタイトルでもあるからでしょう。

 それにしてもここまでの自分のエントリを読み返して、本格ミステリ古典中の古典作に、我ながらちょっと点が辛いなと苦笑してしまうのは、やはりシリーズの探偵役にしてヒーロー役のドルリー・レーンという人物が基本、好きになれなかったからだと思います。

 舞台で鍛えたたくましい身体能力と美声の持ち主・・と何度も描写されてるけど、基本、白髪ロン毛の老優、お年寄りですからね。当時、翻訳ミステリ開眼二年生か三年生、それも学校図書館で借りてくる、小学館やポプラ社刊の少年向け推理全集(アガサ・クリスティやイーデン・フィルポッツと、少女探偵ナンシー・ドルーシリーズが抱き合わさって全集になってるようなハイブリッドなやつ)に早々と飽きてしまい、角川文庫や創元推理文庫、ハヤカワ・ミステリ(当時はハヤカワ“文庫”はまだ無く、小口が黄色な新書判のみでした)に踏み込んで間もないガキんちょにはアクが強すぎたんでしょうね。

 この時期の月河は、まだ、いまなら金輪際見ない所にもいろいろ夢を見ていて、「シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロはムリだけど、エラリー・クイーンのお嫁さんにならなってもいいな」「となると、リチャード・クイーン警視を“お義父(とう)さん”とか呼んじゃったりするわけだな」と妄想することもありました。

 そんな話を前出のミステリ愛好家の伯父にしたわけではありませんが、伯父がよく「これが面白いよ」とわざわざ『Y』を買ってくれたものだと思います。

 この作品の発表当時=1930年代前半の、(作中探偵ではなく)作家のほうのエラリー・クイーンは、『Y』を“因縁一族のお屋敷もの”に仕立てただけではなく、ドルリー・レーン主役四部作皮切りの『Xの悲劇』は雷鳴と豪雨のニューヨーク、満員の市電車両内で、まさかの毒針をポケットに仕込んだ毒殺で開幕・・と、いま読むと2サスっぽ過ぎて失笑してしまうくらい、舞台装置の絵的な派手さを追求していて、名前は忘れましたが或る邦訳者は「稚気あふれる」と表現しています。

 月河ももう少し、TV刑事ドラマや映画“汁”に浸かり込んでからのミステリ挑戦だったら、ドルリー・レーンのややペダンティックで文字通り“芝居がかった”質感を「良きB級」ととらえ、ツッコミ入れながらもっと楽しく味わえたかもしれません。やっぱり、楽しみ方、興がるポイントの目の付け所が、幼い(実際、年齢も幼かったけど)というか、狭かったですね。

 そんな中でも改めて『Y』の秀逸さとして月河がぜひ特筆しておきたいのは、“動機の(たくまざる)連続性”とでも言いましょうか。

 これまた、いまさらながら世紀のネタバレになりそうなので薄氷を踏む覚悟で書かなければなりませんが、えーとね、あの、“計画犯”?“筋書き犯”の、あの計画筋書きを企画し組み立てるモティベーションとなった激しい怨恨、憎悪が、所謂洗脳にも教唆にもよらず、ほとんどオートマティックに“実行犯”の中にスライドして行っているように思われるところです。直接的に“吹き込んだ”描写どころか、事件前の計画犯と実行犯との間になんらかの(顔を合わせたりすれ違ったりする以上の)コンタクトや人間関係、心理的交流さえあったように思えない。にもかかわらず、実行犯は計画犯の動機になった感情を何の拒否感も、恐れも、抵抗もなく自分の中に取り込んで、「こういうことを自分がやってみたい」と、それこそ稚気あふれる、ほとんど勤勉な情熱をもってさくさくと実行に移している。

 作中、この心理をレーンも、感想戦パートの聞き役であるサム警部やブルーノ検事も詳細に分析はしていませんが、要するに、計画犯の抱いていたどす黒く粘液質な怨恨と憎悪が、もともと実行犯の中にも相似形で存在したのです。

 教唆や洗脳教育はもちろん、会話らしい会話さえ必要ではなかった。計画犯の計画は、計画のまま誰にも知られずに永遠に埋もれる運命だったかもしれないのですが、因縁屋敷の間取りと構造のいたずらで、たまたま実行犯の目に触れ彼に読み解かれるところとなり、彼の中の相似形に即点火し拡張し、計画の平面からあっさり実体を持って立ち上がり、実行に移され実際の犯罪となった。

 設定系図上、実行犯が計画犯の“何”に当たるかを改めて見直し思い返すと、これらの一連の犯罪と、その終結(探偵役レーンが深く容喙関与してのものだった件は月河は是としませんが)は、さらっと書かれているけれどもまさに“因縁”“宿縁”の果てそれ以外の何ものでもなかった。結末でここに気づいて感じる曰く言い難いうそ寒さ、それこそミステリ『Yの悲劇』の最大の魅力で、これだけはいままで延々述べてきたB級だ、派手さ狙いだなんだの論を軽く飛び越えて、いくら強調しても強調し過ぎという事はないと思います。やっぱりすごいよ、『Yの悲劇』。

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