イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

親親、穏やかじゃないねぇ

2012-09-03 00:58:31 | 朝ドラマ

朝ドラでヒロインを描くということは、ヒロインの親を描くということに他なりません。

何度もここで書いたように、朝ドラは“家族”“勤労”“地域社会”の三本柱で成り立つ物語なので、家族の主力メンバーである親(たち)が重きをなすのは当然ですが、それ以上に、ヒロインの親というのは“ヒロインを作った人々”です。

親たちがそれぞれどんな生まれ育ちで、どんな料簡で生きて成人し、どんなきっかけで知り合い、ヒロイン=娘をもうけるに至ったか。どんな環境で、どんな価値観で、何を善とし何を恥として、どんな希望を持ちあるいは持たないでヒロインを育ててきたか、育てつつあるか。ヒロイン両親の描き込み、キャラ彫琢は言わば“ヒロインの仕様スペック図解書”であり“取扱い説明書”。書画骨董で言う“箱書き”の役割も担います。

これだけ世知辛い世の中でも、いまだに人は二世タレント、二世議員が大好きです。失敗例のほうがはるかに多いにもかかわらず、選挙に出たり芸能界デビューしたりについて「誰某の息子(or娘)」をキャッチに使うのは延々有効であり続けています。

「親の顔が見たい」「この親にしてこの子あり」「鳶が鷹を生んだ」等の慣用句にもあらわれているように、日本人は実生活であれ虚構の世界であれ、目を引く人物を見つけると“親はどんなか”をしきりに知りたがる。人物の個性や才能、癖や長短所を“親チェック”によって読み解き納得しようとする、これは地縁血縁の島国日本に特有というより、“間接的に自分の出生や成り立ち、才能の有無にも納得したい”無意識の本能なのかもしれません。

朝ドラを継続視聴するようになったのはたかが2008年『瞳』からですからサンプル数は少ないですが、ヒロインの物語である朝ドラは、同時に、例外なく、ヒロインの親たちについての物語です。極端な例で言えば『だんだん』『つばさ』『てっぱん』等は“親がしでかした、或いは成し遂げたことを、子=ヒロインの代でどう収拾、もしくは転結させるか”で全編終始したような話でした。

朝ドラのヒロイン発表はいまでもマスコミの注目を集め全国区の話題となりますが、朝ドラを生かすも殺すも“親キャラ次第”なのです。なぜなら、実世界でヒロインの人物造形を行なっているのはドラマPであり脚本家・演出家さんたちですが、ドラマ世界の中では“ヒロインを作った人”は親だからです。すべては親がいて、ヒロインを生み育てたから、私たちはヒロインの素敵な表情や愉快な言動を鑑賞し、ときに「あんなこと言っちゃいけないね」「違うだろう」と叱りめいた論評もできる。

ですから見ごたえ、秀作感のある朝ドラは例外なくヒロインの親が“立って”いました。出ずっぱりで最終話までヒロインと絡み続ける設定でなく、途中で他界したり、別居したりして登場場面が減っても、“立った”親はつねに物語世界に影を落とし、あるいは光を呼びこみ、陰に陽にヒロインの行動原理を補強して、動機の純粋さと展開の自然な盛り上がりを印象付け続けた。親は観客がヒロインを好意的に見守り続け、応援したい気持ちでい続けるためのエンジンでもあり、ナビゲーターでもあるのです。

逆に、親の人物像が曖昧で手抜き描写だったり、行動や台詞に一貫性がなく、何を考えてるのかわからないキャラのままだと、ヒロインもいくら性格の良さや努力家ぶりを強調されても、結局掴みどころなく、物語自体も歯応えなく終わってしまったように思います。

前の記事で「『梅ちゃん先生』を継続視聴して、ブログで言及もし続けているのは、“心配だから”に尽きる」と書いたのは、まさにこの点なのです。

(この項続く)

コメント
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