イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

タテのものをヨコに

2008-06-30 20:23:36 | CM

世界各地の隠れもない名所旧跡で、日本人による日本語の赤っ恥落書きが続々バレていますね。

まぁ落書きってのは、人間の本能の一部のような気もしないでもない。ギリシャ美術か何かの講義で聞いた覚えがあるのですが、人間、基本的に“無地”“白地”を目の前にするとそこはかとなく不安をおぼえ、何かを書くなり描くなり塗るなり貼り付けるなりして“埋めたく”なるものらしいです。

歴史の教科書に出ていたラスコーやらアルタミラやら高松塚やらの“壁画”とされているものも、祭祀性や記録性ももちろんあるのかもしれず、それゆえに文化遺産・史料的価値も生じてくるのでしょうが、何万年前、何千年前かにこれらを描いたご本人の根っこのところでは「空いてるから何かかんか描いとけ」という衝動があったのではないかと思います。

それにしても、「日本人・日本語以外の落書きがあったから自分らもやってしまった」とは言え、公共の財産への落書き、するのがいいのか、しないのがいいのかっつったらしないほうが絶対いいに決まってる。それぐらい、大学生や高校野球の監督だったら速攻わかるだろうに、“してはいけないとわかってることをする”のに、何ゆえ、書くに事欠いて自分の名前を書くか。学校名・学年まで。

生涯二度と訪れる機会はないかも知れない異国名所だからこその「旅の恥はかき捨て」というか「かき逃げ」心理か。日本人ではなくても日本語が読める人に見られたら、確実に足がつき犯人特定できるのは明らかなわけだから、おマヌケというより、もっと深い心的病理のようなものさえ感じます。

「歴史教科書にも載っているあの場所に、ワタシの名前が刻んである」と帰国後思い出すだけで、何か愉快でもあったのだろうか。何年か後に就職先ででも合コンででも「○○教会の壁でアナタのお名前を見ました、ボクもあそこへ行ったんですよ、不思議なご縁ですね」と誰かイケメンくんに言われるのを夢みていたのか。

多少なりとも世に名前の出る立場にいる人間だったら、絶対に自分の名前が恥を負うこんな行為はしないと思う。何か今般の、若いが子供ではない日本人たちの一連の行状、“名前”というものに寄せる“負の感情”、“恨みつらみ”が透けて見える気がするのです。

無名の人、無名であることがひそかに悔しい人ゆえの“心の闇”。

なにやら『羊たちの沈黙』とか『沙粧妙子』を思い出してしまいました。“快楽連続殺人犯は死体に署名を残したがる”だったかな。

さてと、今朝は出かける前に軽くパニック。朝、一度はPCを起こしてネットで最小限、天気予報はチェックするのですが、慌てまぎれに何をどうしたものか、タスクバーがいきなりタテになってしまったんですな。

いいいいったいどうしたんだ!?何かいま自分イケナイ操作したっけ!?と右往左往したまま時間が迫ってきたので結局ネットつながずに終了してしまいました。

一昨年ぐらいにも一度こういうことがあり、元に戻すのに半日かかったので、懲りて“タスクバーを固定”にしたはずだったのですが、いつの間にチェック外れちゃってたのかな。

帰宅後もう一度起動させても…自然に元に戻ってはいない。残念。

小一時間外付けマウスをコロコロしてるうちに、どうにか元の位置=下辺におさまってくれました。使い始めて3年になるけど、いまだにPCって本当に底が見えない。わかり合ってるようでふとした瞬間に腹黒さが覗く悪女みたいなヤツだ。

おかげで楽しみにしていた本日放送スタート『白と黒』の再生視聴が遅れてしまいました。

しかもファーストシーン、事故で樹木に乗り上げほぼ直角に直立した車の映像が、タテ立ちしちゃったタスクバーと重なる(竦)。

夕陽に染まる田園風景に、ハラワタを見せあるべきでない形で屹立した自動車の、孤独な邪悪さ。ヒロイン礼子(西原亜希さん)の人生のターニングポイントとして、今後も劇中何度も回想されそうなカット、絵的には見事です。

時制が事故前に遡って、人物・人間関係を説明提示するためのパーティーシーン。ここらは06年『美しい罠』07年『金色の翼』と同じ“第1話の定式”ですな。今作はオープンエアーの野っ原で、素人バンドのマーチング(←昔のパチンコ屋さんで大当たり出たときによくかかってたやつ)と、セレブっぽさはなくカントリーで庶民的。

礼子の尊敬する上司であり、婚約者=章吾(小林且弥さん)の父でもある桐生研究所長(山本圭さん)にいまのところ好意的でいけいけドンドンな地元自治体の町長さんは、05年『危険な関係』では律のことで柊子実家に聞き込みに来ていた自転車の駐在さん役の俳優さん。3年で駐在から町長へ。『CHANGE』もびっくりのサクセスストーリー。

1話ですが事故をきっかけに礼子の心に親友・一葉(大村彩子さん)への疑惑が兆し、事故前は誠実で物事を真正面からしか見ない健康さ明朗さを好ましいと感じていた章吾をも、必ずしももろ手を挙げて「好き」とは言えなくなってくる心理がじわじわと、よく描けていると思います。

人間、きれいに真っ正直にだけでは生きていけない時期、抑えても湧いてくる負の感情を制御しかねつつ過ごさねばならない局面は必ずあります。そんなときはどんなに心許せていた親友でも先輩でも、あるいは恋人や配偶者でも、清廉・高潔一本やりで、「人を疑ってはいけない」「許すべきだ」とタテマエ論ばかりの人はウザく、あるいは頼りなく、じれったく見えることはある。

開始23分過ぎ、ざわめく思いを秘め自問しながら車椅子に乗せられていた礼子を病院廊下突き当たりから見つけて、一葉とのテンパった会話を中断し駆け寄って来た章吾が看護師に「あとはやりますから」と車椅子を押す役を替わり、カメラの前を横切って一瞬画面が真っ黒になる演出が素晴らしかった。一瞬だけどグラッと視界を失う不安を、視聴者が礼子と共有できる。今年もメイン演出奥村正彦監督の手腕、本日のハイライト。

パーティーを一時中座しての章吾からのプロポーズを礼子が一葉に報告する場面、帰京途上冒頭の事故勃発と車中に閉じ込められた礼子が意識を取り戻す場面、足を負傷して動けない礼子を一瞬振り返って背を向ける一葉の冷たい目にかぶるストリングス、病院のベッドで一葉の愁嘆に疑いつのる礼子の心象を映すピアノなど、岩本正樹さんの音楽ものっけから全開絶好調です。

風のように現われて一触即発オイル漏れの車中から礼子を救出してくれた仮面ライダーガタック…ではなくて聖人(佐藤祐基改め佐藤智仁さん)、さすがにバイク革ジャンがよく似合う。ZECT時代より“ライダーっぽい”のではないかな。情熱と本能担当ということで、『カブト』加賀美の愚直な熱血さをひとひねりすればいいのだから意外に嵌まり役になりそう。桐生所長の不肖の次男坊という設定ですが、どうも佐藤さんの役柄上のパパっつうと本田博太郎さんのような気がいまだにするな。恐るべし博太郎。

一方、清廉・倫理担当の小林且弥さんは、誠実そうな感じはよく出せていると思いましたが、ちょっと、モソッと考え深そう過ぎるかも。いま少し“明”“快”な感じも欲しい。ここらへんの匙加減は、収録が進むにつれ役の読み込みが深まれば改善されてくるでしょう。

このドラマ開始をもって夏本番を実感。途中で流れるCMもなんとなく夏っぽいと思ったら、VENUSブリーズ倖田來未さんでした。懲役…じゃなく謹慎?明け芸能活動復帰されたようですね。まだまだ梅雨模様は続きますが、もう何も腐らせるなよ。

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取り皿のほうどうぞー

2008-06-29 17:04:02 | お笑い

今朝、ポケットラジオのTV音声チャンネルで『サンデージャポン』TBS1000~)を聴いていたら、誰かも言ってた官公庁相手の“居酒屋タクシー”ってやっぱり、見出し用のネーミングだということを斟酌してもいかにもまずいですよね。公務員背任横領にほぼ等しい重大な問題なのに、語感が軽すぎる、と言うか喚起されるイメージがおもしろすぎる。

月河はコレ新聞活字で見て速攻M1グランプリ03年のフットボールアワーSMタクシー”を思い出したもの(呆)。

残業疲れのお役人が“居酒屋”で出来上がったら、次はオンナが欲しくなるに決まってるし、うち何パーセントかはそういう趣味の人もいるはず。いずれ実現するかもしれません「そんなに東京駅に行きたいのかい?……イヤらしい役人が乗ってるよ!」。

フットで居酒屋と言えば06M1での“元気の良すぎる居酒屋店員”もあったっけ。…こうしてふと考えると、自分の脳回路はずいぶんと濃厚にお笑いに汚染されておるなぁ。そんなにお笑いばっかり視聴しているつもりもないんだけど。TVつけて出会いがしら、ドラマや音楽番組で知らない人ばかり映ってても観ないけど、ネタ番組やってたら誰でもとりあえず観るしな。

日曜のこの時間はたいてい音声しか聴かないのですか、たまに聴くとおもしろいなサンジャポ。裏の一方の極がテレビ朝日『サンデープロジェクト』、もう一方がフジテレビ『笑っていいとも増刊号』としたら、その隙間狙い前提で作って、ゲストも人選しているんでしょうけど、「“居酒屋 タクシー”という店名の居酒屋が実在しないか全国調べた」とか、“アホらしいことを真剣にやっている”という、月河の大好物な匂いがする(ちなみに一軒も無かったそうです)。

秋田県で93歳の父親と、自分の妻と30代の息子殺害を自供した65歳男性の事件で、SM女医(違うか)西川史子さんが「年を取れば人間はカドがとれて丸くなるもんだと思っていた」と言うとテリー伊藤さん以下の年長組が「ならない、ならない」と真っ向否定。三船ジョージさん(←名字忘れた。トラブリューのリーダーで、奥さんが、ほら…)「できてたことができなくなってくんだからな、ストレスたまるよ」テリーさん「年を取って良いことなんかヒトッツもない!」…ま、テリーさんは返す刀で「だから年取ったら“良いことはないんだ”って前提で生きれば、小さなことで喜べる」と、“幸せのハードルが下がるという、年取ってこそのラッキー”をちゃんと押さえといてくれました。「そんなことありませんって、良いこともありますって」とフォローしていた八代英輝弁護士とかのほうがちょっと愚かに見えた。て言うか聞こえた。

後半は劇場版『花より男子』の話題とキャストインタヴューに終始。確か原作、漫画ですよね。昔、小室哲哉さんのTKサウンドがチャートを席捲していた頃、内田有紀さんで映像化されていたような気がしますが、今般の井上真央さん&F4フィーチャーのTVドラマから劇場版への流れのほうがずっと世間的に盛り上がっている感じがあります。

なぜ?昨年の『イケメン♂パラダイス 花ざかりの君たちへ』なんかも典型でしょうけど、うら若き“男の中に女(←かわいい)がひとり”という状況って、男性諸君のみならず女性、特に“みずからは「かわいい」とあまり言われない”“言われたことのないまま「かわいい」評価対象の年代を過ぎてしまった”女性の萌え志向を、いたくくすぐるものらしいんですね。

うーん。“学校”“学園”って付くと月河、オートマティックに拒否反応しちゃうからなあ。おもしろいのかしら。昨年の『美味(デリシャス)學院』ぐらいぶっ飛んでくれてて、女の子が“女子部”としてセパレートされててくれれば入って行けるんだけど。

毎日ではありませんが、営業でよく行く繁華街の一郭に、当地では珍しくなった手描き絵看板を掲げる大手系列封切り映画館があります。先日は『隠し砦の三悪人』が掲げられていましたが、いつからか『花男ファイナル』になっていた。どちらも松本潤さんですね。小雪さんとの『きみはペット』に出ていたことと、オーザックのCMで付け鼻つけてハリウッド進出していたことしか思い出せないけど、劇場映画2クール続けて看板になってるってことは、いま、時代は松潤なのかな。

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じゃんけんチッ

2008-06-28 17:16:49 | アニメ・コミック・ゲーム

『花衣夢衣』を観ていて、音楽担当“コーニッシュ”さんが気になりはじめ、ちょうど先日帰宅途中にある新古書店で“洋・邦サウンドトラック・フェア”を開催中だったので、この枠で昨年秋~暮れのクールに放送していた『愛の迷宮』STを購入してしまいました。

……“しまいました”ってのも失礼な話ではありますが、だってね、フェア期間中の2週間ぐらい毎日のようにお店の前を通っていたんだけど、月河が買わないと誰も買いそうもない気配濃厚だったんですよ。同ドラマをリアルタイムで観ていなかった、知らなかった人はまず九分九厘買わないだろうし、観ていても、その…ジャケ写的に、出演女優・俳優さんの非常に熱心なファンででもなければ買いにくいと思うんです。

興味をお持ちのかたは画像検索でもすればすぐわかると思うので載せませんが、また何であんなデザインにしてリリースしたもんかな。

同じこの枠作品のサントラジャケでも、←←←左柱←←でおなじみ(なのか?)『美しい罠』『金色の翼』の確信犯的くすぐりファンタジックなキャスト写真の使い方とは、また毛色の異なる恥ずかしさなんですな。社会派ヒューマンドラマみたい。モノクロだし。

俳優さんたちの所属事務所との力関係でもあったのか。

ジャケ内ブックレットの東海テレビ高村幹プロデューサーの一文にもあるように“愛”が生成される“ルーツ”にこだわってコーニッシュさんに依頼したという、全般の曲調や構成はまったく問題ありません。期待以上。ジャケのおかげで曲がだいぶ損していると思う。内ブックレット部の空と雲と太陽のモノクロ写真をジャケ表にも使えばよかったのに。

“愛のルーツ”というコンセプトを“愛のある原風景”と読み替え、風景とともに回想されてくる風の音、水音、野鳥の囀り、小枝や草葉のざわめきなども込みで音楽化したと言ってもいい。ドラマのほうは終盤の盛り上がり(盛り上がったのか?)のはるか手前で月河は視聴脱落しましたが、このサントラを聞いていると、あぁ、きっとこうこう、こんな感じの、こんな読み味のドラマをイメージして出発したのではないかな…という“原イメージ”の輪郭が朧げながら見えて来る気がしないでもありません。

企図、出発点は悪くなかった。“愛の生成ルーツ”。イメージ通りに形をなさなかったのは誰のせいなのか。誰のせいでもない。ドラマも生き物ですから。

ただ、欲を言えば、ピアノとバンドネオンにホーン(トロンボーン担当の中山英二郎さんは放送中のNHK朝ドラ『瞳』OPテーマも作曲演奏されていますね)をからませた“音色”の豊潤さに比べると、“旋律”がちょっと薄味でおとなしいかなという印象も。ここらは岩本正樹さん、寺嶋民哉さん辺りとの“昼帯汁(じる)”の滲み込み方の差でしかない。今作音楽が好評であれば必ずほどなく同枠オファーが来るはずで、経験が解決してくれるでしょう。

←左柱←←でおなじみ(なのか?)寺嶋民哉さんの04年『愛のソレア』の後、06年1月期『新・風のロンド』、10月期『紅の紋章』のサントラも聴いてみましたが、いやもうね。ほのかに大時代がかって、微量の痛みの棘をふくんだセンティメントに訴えるこういう曲調は、寺嶋さんにかかったら汲めども尽きぬ泉水のように、あるいは♪ ポケットをたたけばビスケットがひとつ もひとつたたけばビスケットがふたつ… みたいに、「さんハイッ」っつったらいくらでも生まれてくるのね。

どちらもドラマとしては求心力がいまいちで嵌まり込めないまま終わってしまった作品ですが、“赤線から夢と人間愛(?)とネバーギブアップ精神で這い上がるヒロイン”という共通項でつながった『紅の~』の音楽は『愛の~』のそれの“続編”と思って聴いてもいいし、そこにドラマティック、パセティックな大芝居性を加えた『新・風~』のそれは両タイトルの“劇場版番外編”と思ってもいい。

『新・風~』に限って若干スタックアップしたようなスケール感になっているのは、少女漫画人気作による原作もの、かつリメイク作ということもあるでしょうが、『愛の~』が昭和32年、『紅の~』が昭和22年といずれも戦後の混乱期・刷新期から始まる物語なのに対し、戦中→戦後の価値観転換期を跨ぐ話だからというのが大きいと思う。こちらは『愛~』『紅~』の延長線より、02年に寺嶋さんが初めて手がけたこの枠作『真珠夫人』と聴き比べるほうがおもしろいかもしれません。

 岩本正樹さんの昼帯サントラについてはここで一度ならず書いてきたし、来週630日(月)~放送開始の『白と黒』でまたたっぷりご馳走になるので、改めては触れません。 

岩本さんと寺嶋さんは、月河の中で“陰と陽”、あるいは“暖流と寒流”というか“水辺と内陸”というか“塩水と淡水”というか“紅茶と煎茶”というか、はたまた“栗毛と黒鹿毛”というか…………なんか喩えを出せば出すほど伝わらなくなってきてるな。とにかく昼帯ドラマ、もっと具体的に言えば“昼メロ”という世界観の、音楽による解釈のショーケースを見せてもらう思いが毎作あるのです。

えーと、それから忘れてはいけない、『花衣夢衣』第65話最終回が27日でした。

この作品に関しては、細かく1シーン、1エピソード、1キャラ、1キャストにああだこうだ言及しても始まらない感じ。とにかく原作が長尺かつ、“意味の総量”においても膨大すぎて、3ヶ月13週月~金の枠サイズをもってしても捌き調理し盛りつけ切れなかった感。青春期を戦争と貧困で逆境に過ごした双子姉妹ならではの精神的な、あるいは宿命的な結びつきを描き切るには、TVドラマ、特に昼帯は具体性や明瞭性が要求される舞台であり過ぎた。

『新・風のロンド』放送終了後に同じ津雲むつみさん作の原作漫画を通読してみて漫画ズルい」とまず思ったことを思い出します。特にこの作者の得意とする、視線がページ上を斜めに流れるコマ割り、絵とネームとの間に挟まれる“無地”部分の孕む空気感、これらの意味伝達力・情報量はものすごいのに、TVドラマではこれらすべてを役者さんの演技で見せ、台詞のやりとりで説明していかなければならない。

『花衣~』原作はさすがに多巻数過ぎて手が出ませんが、原作者がいちばん伝えたかったであろう双子姉妹の精神的な、魂魄的な絆については、恐らく今回のドラマでは10分の1も表現できていないでしょう。

もっぱら、いちばん“昼メロ”に親しいモチーフである三角関係と不倫にばかり話が偏り、将士という、どう考えても女性一般からは魅力的と言い難いひとりの男性を、姉妹でキャッチボールしているだけのお話に堕してしまいました。

冒頭に書いた通り、コーニッシュさんという音楽家に興味を惹かれたのが、月河にとってはほとんど唯一の収穫。

“和”の世界に親しい、茶道華道や箏曲などをよくするとか、着物や反物を眺めたり匂いを嗅いだり畳んだりするだけで胸がときめくような感性を持ち合わせた女性視聴者ならば、キャストが場面替わりで着てくる衣装でかなり楽しめた作品かもしれません。

演技に要するエネルギーのわりに、あんまり報われない役どころを頑張った男性キャスト陣の中では、寡黙で不器用な職人肌・安藤役を肩にチカラ入れずに演じた長谷川朝晴さんを見直しました。損な役どころ代表・眞島秀和さんの『海峡』における上川隆也さんみたいなもんで、ちょっと儲け役。エンドマーク目前での退場が、視聴者にいちばん惜しまれ泣かれたかも。鼻と上脣との間のホクロに色気がある朝晴さん、一度ぐらいは色っぽいシーンも見たかったな。またこの枠に来演希望。

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落合監督も買って行かれました

2008-06-27 00:54:01 | お笑い

パワーストーン数ある中でも、アメジスト=紫水晶の、名の由来になった通りの“酒に悪酔いしない効果”には改めて驚いています。

先週思いつきで、通りすがりのお店で、目に止まったアメジストの八角柱型トップのペンダントを購入し、特に何も考えずに2週間ほど着けていたら、見事に“悪い酒”と縁が切れました。

もっと具体的に言うと、“美味しいとも思わないのに義理や惰性で量を過ごして後悔する”、“しこたま飲んだ末に飲む前より気分が落ち込んだ”ということが無くなった”。

やはり、「今日はこのへんで」「今日よりは少しはいい明日のために」ときっぱり線を引けてこそ美味しい酒、楽しい酒ですな。

別にオカルト的なモノを信じるわけではないのですが、イヌ・ネコをはじめ生きモノに触ったり戯れたり、声を聞いたりして癒されたり快感を覚えたりする趣味嗜好がまったく無い月河が、もの言わず動きも呼吸もしない、体温もない“石”に触れたときのみ確実に感じる心和みと静穏感、そして宇宙の営みと触覚で連結し交流する感覚。「泣こうが笑おうが怒ろうが、人間も宇宙の一片に過ぎない」という実感が呼び寄せてくれる諦観。これがパワーストーンの“パワー”と信じて悪いことはないと思うのです。

特にクリスタル=石英系の、魂というかスピリットに働きかけるパワーはいつ触れても歴然。月河は幸いにしてもうお世話になる必要もなくなりましたが、知人の中には、「黄水晶=シトリンで、喫煙歴40年、禁煙格闘歴10数年の煙草がやめられた」という人もいます。

煙草ならスモーキークォーツ(=煙水晶)だろうと思うのですが、なぜか黄水晶らしいのですね。黄水晶には喪失感やトラウマを埋め、鬱な気分に明るさをもたらしてくれる効果があると言われていますから、そこらへんが煙草に走る心理に歯止めになってくれるのかもしれない。

良からぬ“嗜癖(しへき)”にはクリスタル系。酒・煙草・薬物・買い物・性行為など、依存症的なものに悩む人は、迷わず身につけてもらいたいものです。

ところで先々週の健康診断、本日結果が出まして、めでたく異常なし(祝)。いちばん心配していたコレステロールも、基準範囲より高いのはHDL、俗に言う善玉コレステロールのほうなので問題ないらしい。そして、おぉ肝機能も正常値。これがめでたくなくて何がめでたいのか。

BMIがいくらか、て言うかだいぶ↓みたいだけど、この年齢で↑より全然いいだろう。

骨密度も同年齢平均の104%だって。いけるいける。よっし今夜は飲むぞー。飲んで40㌔台に載せるぞ(いきなり不健康)。

昨夜は『爆笑レッドカーペット』出会いがしら視聴。あれ?こんな時間帯だった?最近、ゴールデンタイムのタイムテーブルがまったくわからない。

“部屋”テーマでジャルジャルが『オンバト』で見た“1歳違いの幼なじみ”ネタをやっていました。別に部屋のセットがなくてもおもしろかったので、セットがあればあったでやっぱりおもしろい。巨人の投手陣も見てウケてたりして。試合ない日だったし。グライシンガーは意味がわからないか。

我が家は初見のネタでしたがかなり良かった。“なさけないのにイケシャアシャアしている”キャラの谷田部が、最近見た彼らのネタの中でいちばん活きていました。

“ショップ店員の買う気の失せるひとこと”も、ちょっと『ケータイ大喜利』の実写立体化みたいでプロ芸人にやらせるには他愛なさ過ぎる気もしますが、コーナーの尺が短いのでちょうどよかった。こういうテーマ競演コントなら『レッカペ』も悪くないかな。

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いちじゅうひゃく

2008-06-26 00:15:59 | お笑い

8090年代に比べるとだいぶ減ったとは言え、いまだに月河の先輩世代、親世代には「パソコンやワープロで印字した私信・年賀状は冷たくて事務的だから嫌い」「もらっても嬉しくない、読む気がしない」「ビジネスや冠婚葬祭の通知ならともかく、季節のたよりや近況報告ぐらいは、少々悪筆でも拙劣でも手書き肉筆のほうが格上で正統」と信じてやまない人が結構います。相手がこういう考え方の人だとわかっていたら、否応なしこっちも手書きで書かなければなりません。

正直に言いますが本当に困ったものです。

別に手書きがスーパー苦手だったり嫌いだったりで始めたわけではありませんが、少なくとも月河は80年代に会社の仕事でワープロを覚えさせられることがなかったら、俳句も作り始めなかったし長い文章も書き始めなかった。これは間違いない。

特にイベントや用事のためでなく私信を書いて送る機会も、ワープロのおかげで飛躍的に増えました。何と言うか、文章を考えて書くという行為が親しく、身近な喜びになったのです。

プリンタ写りが良く、なおかつ行間・天地両袖の余白案配の好ましい便箋や、その便箋と出来合いのお揃いでなくてマッチングセンスのいい色調・デザイン・版型の封筒を探して買い集める楽しみを覚えたのもワープロがきっかけ。

数年前にワープロがダウンしてやむなくパソコンに切り替えたものの、これら“文字打ち機器さんたち”の存在がなければ、公私ともにいまの半分も、十分の一も“ものを書く”ということをしていないだろうと思います。

ちょっとした時候の挨拶をしたためるにしても、パソコンのほうがずっと構成しやすく、相手先の近況や気候に思いを馳せつつ推敲し書き直したり、ここはと思う箇所を違う字体にしたり、書き終えてから思いついたちょっとしたひと言を書き加えるときに、読みやすい位置に挿入して、レイアウトを整えてあげることもできる。パソコンがなければ、こういう作業をぜんぶ、お気に入りの便箋を何枚も書き損じにしながらやらなければなりません。便箋=紙=パルプ=森林伐採。実にちきゅうにやさしくない。肩も凝る、ペン胼胝もできる、からだにもやさしくない。

“冷たくて事務的”を理由にワープロ印字の私信を嫌う人に本当は心をこめて反論したいのですが、少なくとも月河はワープロ・パソコンを使って私信を書くようになってからのほうが、手書きしか知らなかった頃よりずっと“受け取って読む人の身になって、読みやすく気分を害さず、できれば読後少しでも温かく明るい気分になってもらえるように、文を書く”ことを意識し心がけるようになりました。

少なくとも、自分の書く私信が、“手書きでない”こと単体が原因で“冷たくて事務的”にはなっていないという自信は持っています。実際月河からの手紙を読んだ人が「なんて冷たくて事務的な、読む気のしない文章だろう」と思ったとしたら、それはパソコンのせいではなくて、それを書いたときの月河が冷たく事務的な気分で、その人に読まれるのがイヤでイヤでしょうがない気分だったのです。わはは。お気の毒さま。

それでも一時期までは、「自分はワープロで書くけど、手書きの私信には、手書きならではの味わいがあり、貰えば格別嬉しいものだ」と思わないこともなかったのです。しかし最近は、表書きから差出人住所から本文から、まるごとベタ手書きの、特に分の厚い封書など受け取ると、封を切る前から「…あぁこれを読まなければならないのか」と微量暗澹たる気分になる自分に気がつく。

年齢とともに、“ワープロ印字の手紙ならぜんぶ心がなくて事務的というわけでは決してないのと同じように、まる手書きの手紙にぜんぶ心がこもって真実味があり読んで温かい気持ちになるわけではない”ということがわかってしまったのがその理由のひとつ。

いやホント。“手書きで、かつさほどの悪筆でもないけど、なんか無神経で書きっぱなしで、読み手の読み辛さや読んで受ける印象の悪さに無頓着”という手紙が、実はかなり多い。世間で思われている“手書き”のイメージより相当多い。

もうひとつは、月河の個人的特殊な理由。

本文に入る前、表書きの宛名の段階で、誤字率がぶったまげるほど高い。

多数の年賀状を受け取るとすぐにわかるのですが、月河の本名のうち一文字は…えーとね、名前の話だけに個人情報バレしないように説明するのが実にむつかしいな。ある画(かく)がある画を跨ぐ、て言うか突き抜けるのが、実家の親が命名し戸籍にも載ってる正しい書き方。しかし、一般的にはそこを“突き抜けない”のが、同じ読みで、義務教育で習い新聞活字にも使われている字なんですよね(ちなみに、正しいほうも、一般的なワープロソフトの変換候補にはかなり上位にあります)。

親が「ツキヌケた人間になって欲しい」と願って命名したかどうかは知りませんが、とりあえず幼い頃から自分の名を漢字で書くときには「突き抜けて書くように」と教わってきたし、手紙や年賀状などはもちろん、履歴書身上書、帳票類などあらゆる公的書類にはもちろん、プライベートのくっだらない手紙や年賀状暑中見舞いであっても、すべて突き抜けて書いてきて、名刺を作るときも突き抜けて印刷してもらい、取引先にも配って歩きました。

にもかかわらず、手書きで私信を寄越す人の半分以上が、“突き抜けない”宛名で平気(かどうか知らんが)で寄越すという、嘆かわしき現実があるわけです。

気がつけば、昨日今日知り合ったわけではない人からのそれでも“突き抜けない率”が噴飯モノ、血液逆流モノ、大動脈破裂モノ(それはさすがに)の高率。

しかもある年の年賀状は突き抜けて書いてくれた人が、次の年は腑抜けたように突き抜けてなかったりする。

「短い付き合いじゃないのに宛名からして誤字なんて、もうコイツには年賀状も何も死んでも出さねぇや」と思っていると、翌年何事もなかったように突き抜けた、しかも結構可愛い残暑見舞いか何か寄越したりするから油断がならない。

んで、「そうかやっぱりわかっててくれたのか、つまらないことでツムジを曲げた自分の心が狭かった」と反省して気持ちよく年賀状を出すと、行き違いに来た賀状がまた見事に突き抜けてないんだコレが(倒)。

要するに、突き抜けることに常にこだわってるのは月河本人だけなんだ。淋しいことだがこれが現実。“人の名前に対して、他人は自分がコレくらいはと望む十分の一も興味持ってないし無神経なものだ”ということがわかってしまったんですね。

手書きの手紙を貰うのがさほど有難くなく、嬉しくもなくなったのはその辺りからのような気がします。

ちなみに、月河に本名を授けてくれた実家両親も、それぞれの兄弟親戚も、現在同居中の高齢家族たちにも、なぜか“当用漢字・教育漢字と一画違い(ハネるか止めるかとか、ウ冠かワ冠かなどを含む)や、読み方も“一般的に流布してる読みとは違う”誤字誤読好発激発名前が多く、まるで「サルでもわかる・読める名を付けたら祟りがある」との家訓でもあるかのよう。

月河は十数年前仕事用のペンネームまで、なんとなく思いつきで名乗ったら書き辛く読み辛い漢字名前になってしまったので、せめてブログネームだけは“サルわか”系にと思って、まぁ、“突き抜けたい”つながりでもないけど、このブログのプロフィール←←←にも出した通り競走馬の名前から自己命名したわけです。

なんなら姓名ともに馬と同じカタカナ表記でもよかったんだけど。一応『ティファニーで朝食を』のヘンリー・マンシーニ作曲をイメージしてこう名乗ることに。いまさらですが今後ともよろしくお願いします。

誰に言ってるのか。

ところで先日(23日)の『お試しかっ!』“チャレンジ漫才”でのサンドウィッチマン「海江田万里の頂上まで」で出会いがしら爆笑してしまいましたが、気がつけばカイエダ・バンリって何をする、どんな人だったか瞬間、全然思い出してないのな(無礼)。

それどころか、ひとしきり笑った後でも思い出してない(無礼それこそセンバン)。

ご本人を思い出さないのに、バンリという音(おん)の響きだけで、瞬時に「“万里の長城”の万里」と、脳内で読みと表記が連結して笑いを誘発する、“ほかに有名どころの同名さんがいない珍しい名前”ってのも悪くないなと思った次第(悪くないと言っても漫才のネタに使われて笑い取る程度だけど)。

おしゃべりクッキング上沼恵美子さんは海原センリ・マリだし。

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