イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

眞子さんは結婚できた ~是は血税のゼ~ 

2021-12-22 15:44:31 | 世相

 『Yの悲劇』を腑分けした後、「まぁ、そうなるな」という流れでいま『X』再読に入っています。

 何十年も昔に読んだ文庫本に再ハマりしているうちに気がつけばきっちりきちきち年の瀬ですねぇ。

 2021年。あまりに順調、破竹過ぎてどっかで蹴っつまずくんじゃないかとヒヤヒヤしていた大谷翔平選手は何の頓挫もなく順当にMVPに輝いたし、一方では、何かしらまたしでかして堂々巡り始めるんじゃないかと思った秋篠宮眞子内親王さまと、お相手のほら、アレも、なんだかんだでどんどこどんどこ事を進めて、結局モクロミ通り結婚して渡米してNYでノウノウと暮らし始めた様ですよ。まさにお相手のお好きな言葉Let it be ・・というよりここまでくるとWhatever will be will beですな。何事もなるようになる。WillあるところにWayあり

 もう決着した話にケチつけるようなこともしたくないので、とりあえず、「ああいう、血統本位制みたいな家族に生まれついた女性でも、誰に引き合わされるでもレール敷かれるでもなく自分で見つけてきて両想いに持ち込み“この人がいいの、結婚するの絶対するの他の人じゃダメなの”で押し切るていの恋愛結婚が可能」という前例を作った功績は大きいと申し上げておきましょう。

 功“績”じゃなく、せめて功“罪”にしとけよ、と、自分でも思っていますが、それはこれからの皇室・皇族と、その存在を是とする国民の今後次第。「あのとき、あの人のあの件がああいう結末になって良かった」となるか、「あのときのアノ件さえ無ければいまこんなことには・・」となるか。

「いつまでもあると思うな親とカネ」じゃありませんが、いつまでも是とされてると思うな国民の皇室観、てことでもありますがね。

 しかし、皇室典範より憲法より、あるいは愛のチカラより、強力なのは時の流れ、時代の趨勢ってやつです。

 好むと好まざるとにかかわらず、世間がどう誹謗中傷しようと、時代は多様性の時代なのです。もう後戻りはできないのです。誹謗中傷の雨あられを、ツラの皮超合金で突っ切る覚悟と肝っ玉があれば、法に触れない限りどんな価値観、家族観、結婚観も、何人たりとも全否定はされないのです。やればやり切れちゃう、「そういう考え方もアリかな」「そういう料簡で生きてく人間も、殺すわけにいかないから、生かしとかなきゃシャアないな」と、いつの間にか受け容れられちゃうのです。そういう時代、そういう世の中になったらしいのです。

 2017年5月頃から始まった“眞子さま熱愛のお相手”報道からの展開、転帰、どうやら今年11月をもって着地、一巻の終了となった模様。

 いやもう、4年半、長かったですねぇ。これだけの間“かけがえのない人”“この人との結婚が人生に必要”と思い続けて微動だにしなかった、させなかったんだから大したタマカップルじゃありませんか。褒めてつかわすような立場でもないけど、これくらいでなきゃ、“多様性の時代”=“誹謗中傷の時代”をサバイブして恋愛結婚なんか達成できませんぞ。どちらかがいくらかでも“名のある”立場ならね。

 ツラの皮超合金、肝っ玉極太無限大のまま、今後はNYにお住みになって日本の衆生の視界からは離れてくださるらしいし、お互い、平和で良かったということにしましょう。そうしましょう。

 末永くお幸せに・・ってフォローになっとるのか。いや、新婚カップルに贈る言葉ぐらい、様式美で締めときませんと。

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転売ヤーの高体温 ~渦福は糾える縄~

2020-05-29 22:34:26 | 世相

 新型コロナ渦・・じゃなくて禍の混乱で、マスクや消毒用アルコールだけでなく、いろんなモノが一時期品薄になるという不可解な現象が起きました。

 トイレットペーパーは例の「マスクと原材料がかぶるから」というまことしやかなデマが補論して拍車をかけたし、小麦粉やホットケーキミックスは、大人も子供も“家で作って食べる”を一週間二週間続けると、みんなほどなく粉モンに逃げる、という現象の証明でした。 

 主食としてはお米=白いご飯が、腹持ち的にも栄養バランス的にも、保存性の面でもいちばん優秀なんだけど、“おかずがないと食べられない”という致命的?な弱みがある。おかずがねー。ネタ切れになるんですよねー。一週目はなんとかなっても、二週目以降がきつい。

 お子さんにもゲームの手をちょっとおいてもらって、キッチンに出動させて、パンケーキとかお好み焼きでも、皆でわちゃわちゃ焼かないと間が持てないし気分も変わらないという気持ちはわかります。ネコもシャクシもステイホーム生活の中、そういう気持ちになるタイミングが、皆さんあっちでもこっちでも一致しちゃった。

 ちなみにヨーロッパで真っ先に医療崩壊が伝えられたイタリアでは、ロックダウン前の早い段階で店の棚からパスタが消えたそうです。まぁ、生(き)のまんまの小麦粉で買いだめしとくよりも、パスタは乾物だからフードロスにはならないか。

 驚いたのは、一か月ほど前ですけど、「体温計が品薄」という話。なんでも、“出勤前に検温を義務付ける会社・職場が増えた”のが原因らしい。

 お子さんや病人がいなくても、普通の家庭なら体温計の一本や二本、常備薬の引き出しの片隅にでもおいてあるんじゃないかと思ったんですが、言われてみれば急に家族の誰かが熱を出しでもしない限り、そう頻繁には使わないものだし、共働きのお父さんもお母さんも必要、この緊急事態下で休校中の子や、預け先どうしようという就学前の子にはもっと必要、使いまわすたびに消毒するアルコールも品切れとなると、もうお手上げ状態で、しかも最近の体温計はみんなデジタルですから、久しぶりに使おうと思ったら電池切れになっていて、替えの電池買いに行ったらそれも品薄、なんて泣きも笑いもできない状況に、一時は本当に陥っていました。

 マスクからトイレットペーパーの騒ぎの頃にも思っていたんですが、何かしらのイベントやアクシデントが世の中に起きて、「多くの人がコレを必要とするはず、欲しがるはず」と皆考えるアイテムが、ピンポイントで狙ったように市場から消える、棚がカラになるという、この現象ホントにどうにかならないんでしょうか。

 “転売(テンバイ)ヤー”という揶揄ったネーミングを知ったのは『TVタックル』か何かの番組だったと思いますが、たとえば滅多にナマ歌を拝めないアーティストのコンサートチケットとか、数量限定期間限定のフィギュアや模型とか、欲しがる人はそれこそ高体温だけど人数が必ずしも多くないし、販売の日時にどうしても買いに行けないこともある、マニア性の高い商品の場合は「その日時に(自分の代わりに)並んで入手してくれた」ということを“安からぬプレミア上乗せされてもしょうがない、許せる”サービスと取り、所謂転売ヤーを利用して(第三者からは)法外な価格で又買いするという取引も、ギリギリ、合理的売買として成立すると思うんです。

 しかし“新型感染症蔓延中で、世の中みんな自宅にロックダウン中のトイレットペーパー”とか“、同じく消毒用アルコールやウェットティッシュ、手洗いソープや食用小麦粉、ロックダウンが解除されて出勤が始まったら今度は体温計、次いで交換用電池・・など、“この状況下なら老いも若きも、富めるも貧しきも全員必要”なモノが、選んで狙って消しゴムかけたように店頭から姿を消す。マスクはともかく、どれもこれも、国内でじゅうぶん過ぎるくらい生産が間に合っている製品、商品のはずなのにです。

 大袈裟じゃなく、コレ自由主義経済体制の敗北じゃないか。旧ソ連時代の共産主義国で、計画経済の下、消費財が発売されたら寒空の下、民衆が皆行列順番待ち、計画個数売り切れたら棚は元通りカラっぽ・・という、USA中心の西側圏では嘲笑気味に報道されていた風景と、ぱっと見、いくらも差異がありません。

 自由過ぎてこうなった。情報があり過ぎて、偏り過ぎて、聞く耳が育たな過ぎてこうなっちゃった。

 新型ウイルスが炙り出した世の中の歪みひずみの中でも、これは本当に皮肉なものです。

 ちなみに、月河家は体温計に関しても、マスク同様今般は慌てて薬局やドラストに駆け込まずに済みました。昭和の時代の、ガラスに水銀と目盛りのアナログ体温計が二本、まだ現役。モノもちのいいにもほどがあるなぁ。

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女性・女系の是非 ~血よりも重い思い~

2019-12-15 23:24:21 | 世相

 新天皇陛下御即位のセレモニーが一段落して、頃合いをうかがっていたようにまたまた俎上にのぼってきたもう一つのテーマが“女性天皇・女系天皇の可能性”です。

 新天皇陛下の実子はいまのところ女子である愛子内親王おひとりですから、次期天皇=皇嗣(こうし)は五つ年下の弟君・秋篠宮殿下、続いてそのご長男悠仁親王、さらには一世代戻って、上皇陛下の弟君常陸宮殿下、という皇位継承順になりますが、さてその先がいない。

 二代三代先まで継承候補者が途絶えることが無いよう、女性皇族、さらには女系(=お母さんの親ないし先祖が天皇)皇族まで継承順のパドックに加える制度にしてはどうか?「どう思う?」「ダメ?オッケ?」ってな具合に、政府は有識者集めて議論させたり、ときどき閣僚級に個人的所感をチラ言いさせたりして、国民世論の動向を探り、そこに合わせて落としどころを模索しているように見えます。是か非か互いに譲らぬ「国論を二分する」構図になる事だけは避けたく、国民の「どっちかといえばこっちかな」を掴んで、そちらのほうにじんわり誘導して、頃合いを見て全体をまとめて着地、とさせたいのでしょう。 

 月河に言わせれば、日本という国のシンボル=象徴の継承をどうするかという、国にとって根源的な問題が、そこらの選挙民がよく考えもしないで投票したらなんでか当選しちゃったみたいな国会議員、なんでか大臣任命されちゃったみたいな大臣閣僚のわちゃわちゃガヤガヤで論考される自体、どうにも僭越な気がしてしっくりこないのですが、まぁ、誰も何も論じず考えずの放置プレイで、後継者が途絶えるに任せるよりはマシだと思うことにしましょう。

 さて、いまさらですが皇位継承において大事なのは、“誰”と“誰々”を継承可能の順に組み入れるか、ではなく、“何”を継承するかです。

 煎じ詰めれば“魂”“時間”だと月河は思います。なんたって生きながらにして“象徴”なのです。自分は日本国の象徴であり、日本が日本としてまとまって存在し存続していくことのシンボルであるという自覚を日々持ち続け、たゆまず国を思い、国の歴史に思いをいたし、国の未来を考え、国民の安らかな生活と希望のある未来を願う。戦争の惨禍、平和の価値、現在および将来における日本の立場やあるべき姿を思索し、よそ見せず邪念を持たずひたすらに祈念し続ける、この精神こそが天皇という地位の本質です。どんな博学者や聖人でもできない、天皇しか持ち得ない精神の様態です。これを伝承、継承せずして何の皇位でしょうか。

 逆に言えば、この“魂”さえ十全に継承できれば、男系だの女系だのはまったくどうでもよろしいと月河は思います。極論すれば皇統と鐚一文係累のない赤の他人だって少しも構わないとさえ思います。

 同列に論じるのは不謹慎かもしれませんが(この記事を書き始めた時点でコレ相当不謹慎になるぞという自覚はあるので、ここまできたら押し通します)、歌舞伎、能狂言、邦楽音曲、古典落語など、世襲を前提とした伝統芸能の世界にも“芸養子”という習慣があります。幼い頃から内弟子として日常の起居、箸の上げ下ろしまで細やかにして厳しい指導をし修練を重ねて“芸”の本質から末節に至るまで教え尽くし習い尽くせば、血縁はなくとももう実子同様に名跡を譲ったり継がせたりしても構わないし周囲も認めます。継ぐべきは“芸”、芸を保存し、質を維持し、発展させ次代につなげることが継承の目的であって、血縁それ自体が本質ではないからです。

 皇室、皇統が継ぐべきもの、伝統芸能における“芸”に相当するものは、国を思い国民の幸福を祈る“魂”にほかなりません。再び逆に言えば、この“魂”をとことん教え込み、習い覚え、日々刻々考え抜き祈り通すという修練、作業ができていないならば、男系だろうが女系だろうが、血縁血縁、直系直系、○○天皇から数えて何代めとなんぼ強調したところで、皇位継承者候補としては要らない子です。

 「チョット待て、それにしても、赤の他人でもいいは言い過ぎじゃないか」「“血は水よりも濃し”って言うぞ」と、ここまで読んで(読んでる人いるのか)ヤキモキされている皆様、ご安心召されよ。

 ここにもうひとつの不可欠要素=“時間”の存在意義があるのです。“魂”の伝承が思い残すところなく存分におこなわれたか、自他ともに検証し得る最もシンプルで説得力ある条件こそ“時間”つまりは何年、ともに暮らし、同じ卓で食事をし、同じ情景を見て互いの所感を共有し合い、同じものを見て笑い同じ書物を読んで涙し、同じ部屋の空気を吸いながら思索と共感を誘い導き、導かれ合って来たかの積み重ねなのです。

 要するに、家族として同じ“時間”をどれだけ共有してきたかです。

 “魂”の伝承にどれだけの“時間”が注ぎ込まれたかを、最も良く、わかりやすく保証してくれるのが“家族”です。思想や思考、精神のありようを教育指導し鍛錬することを目標とする他の主体、たとえば学校や教室やセミナー、あるいは宗教団体、政治イデオロギー団体などでは、いくら頑張っても、偉そうに広報宣伝しても、“家族”の教育力、伝承力にかなわない。物心つく前からずっと、あるいはいっそオギャーと産声を上げる前からの、親たち、祖父母たち、年長親族たちの希望、期待という形で重層されてきた“時間”の総量には到底およばないからです。

 私たちが皇位継承を考えるとき“血”“血統”を外して考えることができないのは、この圧倒的な“家族”の時間パワー、精神的熱量パワーに、いまなお全幅の信頼をおく人が多いからだと思います。「男系でなきゃ」「いや女系だって」と言い合いながらも、どちらの意見の人たちも本当にこだわって譲れないものは万世一系の神話でも、なんちゃら染色体でもない。国を思い国を考え国民のために祈る“魂”と、それを教えはぐくむために家族としてともに積み重ねた“時間”の継承です。

 女性天皇・女系天皇の是非も堂々と論じられ白黒つけられるべきではありますが、大切なのはどこまで行っても“魂”“時間”。この二つが、国民の頷けるかたち、モヤモヤと不足不満をのこさないかたちで継承し切れるものでなければ、“皇位の安定的継承”なんて、絵に描いた餅どころか、クソ食らえです。あー言っちゃった。

 女性・女系オッケーにして、あるいは何代も前に皇族から降りた中からひょっこり男系末裔探し出してきて、継承候補順位の列のアタマカズばっかり増やして「これで先行する順位のかたに、二~三人モシモのことがあっても、次が何人もいるから安心だ」なんてのはごめんだよ。国の象徴をなめるな、ってことです。

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再び嫌いな言葉シリーズ ~ほぼブラジル(←意味不明)~

2019-08-28 22:55:49 | 世相

 先日の“嫌いな言葉シリーズ”令和第一弾の補遺です。

 ①~④まで来たので、

 ⑤「心のケア」:“PTSD(心的外傷後ストレス障害)”という言葉と概念が定着・・というより濫用、軽用されるようになるのと軌を一にして蔓延してきた言葉ですが、気味が悪い。「寄り添う」より輪をかけて図々しい。「きいたふうなクチきくな」と言いたくなる。ちゃんと腰の入った“PTSD”治療してくれる気なら、「精神のケア」「内面の手当て」ぐらいにしてほしい。“心(こころ)”と来られると、ものすごく余計なお世話感、上から感、無神経感ズカズカ土足感が臭う。psychological traumaを“心的”外傷と訳してしまったところからそもそも始まっているのだろうが、病んでいる傷ついている状態をどうにか癒そう治そうと本気で思うなら、“心”までは、“心”だけはそっとしておいてほしい。“心”は世界中に一つしかない、自分だけのものだから。三人称の他人に“心”を冠して来られると、“情”の湿り気や体臭がただよってくるから図々しいんですよ、純粋に“精神医学”の、乾いた、澄んだアプローチで来てほしい。

 ⑥「静かな環境で」:女性・女系天皇問題、女性宮家問題論議から身重の小泉進次郎夫人滝川クリステルさんまで。これはもう、即、言い換えよう「マスコミ門前払い、ネットのイジり・ツッコみ無用、あっち行けシッシッ」

 ・・まぁ、確かに最近は、誰かしらの“人の顔・容姿”“出自”“家族”のからむ話題は、昔みたいに局や社の腕章社章つけてマイク持ってカメラしょって追いかけて来る手合いだけ警戒していればいいってもんじゃないですからね。津々浦々そこらじゅうに野次馬・私設マスコミがいてスマホ撮ったりアップしたりつぶやいたりしているから、頼む静かな環境で!って言いたくなる気持ちもわかる。でも『静かな環境で』って言えば、「コレを破るヤツはうるさい、やかましいヤツ=居てはいけないヤツらなんだ」と、「静か」を求めた自分のほうに理がある、正義だ、ってなっちゃうからね。善意も悪意もツッコみ・茶化し・いじり、ぜんぶシッシッ追っぱらって「消え失せろーー!」って言い張れるほど、アンタのソレに理はあるかい?って話です。

 ⑦「ほぼほぼ」:コレ何よ。いつ誰が言いだしたのよ。ぺーぺーのレポーターでも、BSフジ反町理さんクラスのベテランキャスターでも、油断してるといきなり言うね。なんで「ほぼ」シングルじゃいけないのか。ほぼを二乗にしたことで、シングルほぼとどう意味が違ってくるのか、ニュアンスに差が出るのか、明確に伝わったことが一度もない。「うん、ここはやっぱり『ほぼ○○です』じゃなく『ほぼほぼ○○です』と言うべきだな」と腑に落ちた経験皆無。あまりにも意味が、というより、意図がわからないから、“嫌いな言葉”に入れるしかない。「ホボ」の響きが軽くて短いのが不満なら、「十中八九」とか「九分九厘」「おおかた」「過たず」「疑いの余地なく」「高い確率で」・・座りのいい副詞フレーズなんぼでもあるだろうに。

 この「ほぼほぼ」問題に限らず、何かしら言いたいことがあって修飾語を選ぶときに、昔から使われてきた、年輪のある、キャリアもある言葉の中から選ばずに、苦しまぎれに二乗にしたり新語ひねり出して、やっつけの泥縄みたいに使うのはカッコ悪いよ。仲間内のダべりで思い付きで口走って「何それウケるー」とか言い合ってる分にはまだギリ微笑ましいけど、全国媒体でいい大人が真面目くさってクチにしてたら本当にカッコ悪いから。「品格を疑う」なんてフォーマルな事じゃなく、皮膚感覚的にカッコ悪い。言葉を使う、ものを言うことに対する姿勢がまるごとやっつけに見える。

 あんまり意味がわからないから、記事タイトルも意味わからなくしてやった(ドヤッ)。

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世にも嫌いな言葉シリーズ ~みんな自分が好きだから~ 

2019-08-23 17:56:05 | 世相

 海の向こうでアラン・ドロンさんが脳梗塞で手術後療養中、なんて報が入って、83歳じゃもうさすがにね―『太陽がいっぱい』ってより「体調がいっぱいいっぱい」だよねとか、何日も間を置かずにピーター・フォンダさん死去79歳、あらら、オムニバス映画『世にも怪奇な物語』つながりで?そういえば姉さんのジェーン・フォンダさんてまだ存命だっけ?『世に怪』第3話のテレンス・スタンプさんは?等と、不要不急な事を気にしているうちに一週二週と過ぎてしまいました。

 気になったらすぐ調べて、気にならなくなるまでここで書いてしまうという、10年少し前まではできていたことができなくなってそれが当たり前になっている今日この頃。

(ちなみにあとのお二方は81歳、80歳でバリご健在です)(←バリ島に住んでいるという意味じゃなくて)(←当たり前田)

 そろそろ、久々にまとめてみたくなりました“嫌いな言葉・読みたくない聞きたくない&使いたくない言葉シリーズ・令和第一弾

「寄り添う」:言い換えたほうがいい。「カネは出さない汗もかかない、共感するだけ」「共感するとクチで言うだけ」

 大きな天災や殺傷事件が起きると「被災(or被害)者に寄り添って・・」「遺族の方々に寄り添って・・」、社会保障政策の話題になると決まって「障碍者に寄り添って」「難病患者さんに寄り添って」「支える家族に寄り添って」・・・寄り添われるのは大体、“辛い目に遭った・現に遭っている人”、強者と弱者で言えば弱者と決まっていますが、耳で聞いても、活字で読んでも気味が悪い。身の毛がよだつ。

 好意も頼り甲斐も感じていない誰かしらが近距離に勝手に来て、その体温や息遣いが感じられるような生理的な気持ち悪さがあるだけじゃなく、“別の場所からわざわざやって来て、わざわざ近くに立つ”という、暗黙の恩着せが臭う。

 或る人の苦痛や苦悩は、いくら共感だの同情だの言っても、そっくり肩代わりして、自分が痛んで、その人をゼロにラクにしてあげることはできない。昔からある言葉で普通に「(誰某の)身になって」考える、「(誰某の)立場になって」アイディアをつのる、策を練る、カネを集める、のほうがずっと実働感があるし頼り甲斐も相談し甲斐もあるのに。

 だいぶ前になりますがこのブログのこの“嫌いな言葉”シリーズ(シリーズなのか)で書いた「(生徒とor我が子とor現実と)向き合う」の、“真っ向取っ組み合い対決刃傷流血沙汰を避けたい腰の引け方”ともどこか似た、自分を安全地帯ラクチンゾーンに置いて物を言う図々しさが鼻につく言葉です「寄り添う」。

「居場所」:被虐待児童、いじめ被害生徒、登校拒否生徒、ニート・引きこもり、ひとり親、独居高齢者等“孤立”と見なされる境遇の人への方策、指南として「居場所を見つける」「居場所を与える」とハンコで捺した様に言われるが、居“場所”なんて、人に見つけてもらわなくても誰にでも、どこにもあるから。廊下でも公園でも物置でも、居ることができるだけでいいならそこらじゅうにある。

 必要なのは場所じゃない。人として敬われ厚遇され大切にされること。子供ならチヤホヤ、蝶よ花よと愛しがられること。他のどの人よりも自分は優れ、尊く、価値があると思わせてくれること。なんならそう錯覚させてくれること。

 そうしてあげるにはカネがかかるから、カネ無しにそうしようと思ったら人に汗かいてもらわなきゃならなくて、人に汗かかせるにはやっぱりカネが要るから「イバショを見つけてあげる」と、花や流水をかたどった打ち物の干菓子のような、気取った言い回しをする。生クリーム、ナマ果物たっぷりのじゅわじゅわなケーキならカネがかかるから。

 ①もそうですが、“本気でやるならカネを出さないといけない”“カネをかけずに状況を好転させることは不可能”という生々しい現実をマスキングする魂胆があると、こういう言葉づかいが湧いてくる。政も官も民間も“自分のフトコロは痛めたくない”人ばっかりだから、この手の干菓子言葉はあっという間にテレビでもラジオでも活字媒体でも使われるようになる。

「働き方」:ご存じ「働き方“改革”」ですっかり耳になじんでしまいましたが、これも言い換えたほうがいい「働かせ方」「雇い方」「こき使い方」改革と。

 働く側、時間と労働を提供して対価を受け取る側が先に動いて“改革”が成ったことはない。改革できるのはいつも、人を雇って経済を回し利潤を得て賃金を払う側のみ。労働提供側が状況を揺るがすことができるのは、昔懐かしい大規模組織労組による争議=ストライキで経済活動をストップさせることだけ。

 「働き方改革」という言葉を考え出して普通に使い流通させる人たちの脳内は、いまだ昭和の大規模スト時代の幻影に支配されているのでしょう。

④「(私は)~~~と思っていて、~」:最近のテレビ・ラジオのコメンテーター、評論家言葉。どっちかというとワンフレーズ・ワンセンテンスが長い、女性の発言者が専ら言うかなと思ったら、男の大学教授やネット媒体出身作家・編集者も最近こういう話し方をよくしてますね。切らない。「~~~だと思うんですよ。だから~・・」と、前段と後段を切って、接続詞でつなぐことで因果関係を明確にしようとしない。

 言いたいことは「だから~」以下のほうが主要で、「~~と思っていて」はその前提というか原因。原因があるから、主に言いたいこと=結果、結論がある。

 「~~と思っていて、」と、切らないで結果に行かれてしまうと、その“思っている”前提・原因部分は、この話者が勝手に思って前提にしているだけなのにもかかわらず“聞いている人、同席している人全員が同意して受け入れている共通公的前提”であるかのような図々しい論法に聞こえる。

 あ゛ーーうまく表現できなくてもどかしい。でも本当にここ2年ぐらいで増えたよ、これ式の話法。小耳にはさまるというか飛び込んでくるたび「・・勝手に思ってろ」って、“結果・結論”部分を聞き切る気が失せる。国際政治の三浦瑠麗さんとか女優で農業プロの高木美保さんとか、見た目きれいめが売りの女性だけじゃなくて、社会学者で芥川賞ベテラン候補の古市憲寿さん、共同通信社太田昌克さん、尾木ママこと教育評論家尾木直樹さんなど、男性でもどっちかというとエモーションこすって来る系の男性コメンテーターがやたら言うから。んで、大体「~~と思っていて、~」を使うときには一人称言わないのね。「この“ワタシ”に決まってんだろ」という、静かでかつ揺るがない自己愛がにじみ出る。

 まともに長時間話を聞いたことがありませんが、山本太郎さんなんか言ってそう。党首討論など出てきたら確かめよう。

 最近見ないし情報もないけど、小室圭さんも言ってそうだな。でも訊かれて答える以外原稿・下書き無しで筋道の長い話するイメージ湧かないからなあ。

 圭氏の母上なら・・って、聞きたくないし話させたくないか誰も。

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