イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

ウンヒの涙 三たび ~ダイヤル50を回せ~

2018-06-27 12:51:06 | 海外ドラマ

 『私の心は花の雨』(BS朝日)に続いて『ウンヒの涙』(BS日テレ)と韓国KBSのTV小説を二本続けて視聴して、もうひとつ思うのは、「韓国ドラマにおいては話に朝鮮戦争をはさめば(だいたい)何でもアリになるんだな」。

  我が日本のNHK朝ドラでも「戦中戦後をはさんだ女性の一代記が“王道”、ハズレなし」とずいぶん前から言われていますが、むしろ連想したのは1980年代のアメリカ映画のほう。この時期、設定やストーリーにやたら“ベトナム戦争の影”が入れ込まれていました。 

 『地獄の黙示録』『プラトーン』『フルメタル・ジャケット』などベトナム戦争そのものを題材にした名作、『ディア・ハンター』『7月4日に生まれて』のようにベトナム従軍が“もたらした悲劇”主眼の秀作も数々ありますが、もっとココロザシの低い、その場限りの娯楽作、B級ヒーローアクションやギャングもの犯罪映画でも、主要人物がベトナムで負傷し障害を抱えていたり、親友や兄弟を失ったり、ベトナムでの極限体験で人生観が歪んだり、その結果除隊復員したのに家族が崩壊したりという設定が、よく飽きないわと思うくらいもれなく付いてくるだけでなく、頻繁にストーリーの主軸になってもいました。 

 個人の努力や、愛や友情でどうすることもできずに、理不尽に無慈悲に人生が転変するというドラマの契機として、やはり洋の東西を問わず“戦争”は最強のモチーフであるらしい。

 戦争によりどん底に突き落とされることもある一方、それまでの人生をリセットして、まったく別の立場や環境、ときには別のアイデンティティを得てやり直すきっかけにも、戦争はなり得ます。日本にも“戦後のドサクサ”を利して大儲けしたり、戦前までの失敗した事業や没落した実家を“なかったこと”にしてのし上がった人は少なくなかったはずです。 

 『私の心は花の雨』では序盤で、天涯孤独の酒場女イルランが身重の体で戦火のソウルから南へ避難する途上、心優しい医師スンジェと同じく身重の婚約者ヨニに助けられ、一時的に車に同乗して身の上話などしつつ先を急ぐさなかに北の空襲が直撃。スンジェもヨニも死んだと思ったイルランは、話に聞いたスンジェの大邱(テグ)の実家をたずね、あれよあれよと“嫁のヨニ”になりすまし、お腹の子をスンジェの子と偽って生み居座ってしまいます。

 休戦後、平和が戻ると首都ソウルに移り、アメリカ流の製パン業を興して成功。イルランを嫁ヨニ、彼女が生んだ娘ヘジュを息子ソンジェの忘れ形見と疑わない姑ゲオクを社長に、イルランは常務におさまって何不自由ない生活を手に入れます。

 一方『ウンヒの涙』はもっと戦争の影が濃い。現在は北朝鮮領内になっている開城(ケソン)の朝鮮人参栽培卸会社で働いていたチャ・ソックは、幼い息子の入院費に困り、女社長グムスンの息子ドクスに給料の前借を懇願するも断られ、揉み合ううちドクスは転倒して頭を打ち絶命。死んだとは思わず金を持ってソックが去ったあと現場に来た、ソックの親友ヒョンマンがグムスンに見とがめられ、殺人容疑で逮捕されてしまう。

 息子が小康を得たあと事態を知り驚いたソックは、冤罪のヒョンマンを救おうと警察に出頭しますが、そこへ北軍の空襲が。ヒョンマンは荷車の下敷きになって息絶え、警察署もろとも開城は戦火につつまれ、自供できないままソックは妻子と避難の旅路に。

 南へ逃れる避難民の列にはドクスの遺児ソンジェを連れたグムスンもいました。空襲の混乱の中ドクスの棺とともに家財道具を積んだトラックを盗まれてしまったグムスンは、もはやこれまでと夜半ソンジェを抱いて河で入水自殺を図る。偶然見つけたソックが夜襲をぬって河に入り、命からがら二人を救い上げます。

 夜中ですから、働いていた会社の女社長、かつドクスの母親だと、ソックが河岸から目視認識して救助におよんだのかは不明。とにかくこの件以来グムスンはソックを命の恩人と感謝し、自分の息子のように頼りにし、ソックも避難中にもともと病弱だった息子を亡くすという悲しみから立ち直って、休戦後はグムスンの養子となり、グムスンの弟が仁川(インチョン)に持っていた工場を譲り受けて、最初は借金して苦労しますが、持ち前の勤勉さ(プラス、恐らくは贖罪の念)で軌道に乗せ、地元一番の豆腐製造業に育て上げます。グムスンが社長、ソックが工場長で、ソックの妻ギルレはグムスンに嫁として頼られ、ソンジェもソックを実の父のように尊敬し本当の家族同然になっています。

 一方ヒョンマンが容疑者のまま戦災死し残された妻ジョンオクは夫の無実を主張するも聞き入れてくれる人もなく、赤子の娘ウンヒを抱えてなんとかソウルに逃れる。父の顔を知らずに成長したウンヒも高校を中退して働き家計を支えていましたが、1970年に避難者バラックが撤去され、ジョンオクはウンヒを伴い旧友マルスンを頼って仁川に。しかしマルスンはすでに病死しており、行き場に困ったジョンオク親子に、マルスンの息子でウンヒにも幼なじみのジョンテが、下宿を世話し就職先として自分も配達係を務める豆腐工場にウンヒを紹介するに至って、運命の歯車は動き始めます(マルスンが生前開いていたクッパ店も下宿の大家さんの所有で、料理上手のジョンオクが引き継ぎ近隣の評判店となり月河にもプチ・クッパブームが訪れたのは前の記事通り)。 

 そもそものドクス殺しからして、警察が通常運転で捜査していればヒョンマンは当然釈放、ソックも殺意はなく情状酌量の余地もありありで、過失傷害致死ぐらいで済んだ事案のはずで、さらにその後の展開はまったく“戦争さえはさまらなければ”の連続。 

 自供する覚悟十分だったはずのソックが、まずは自分が生き延びるため、次いで妻子を、やがては義理家族も含めた生活維持のため、ようやく軌道に乗った事業存続のために、口を拭い犯した罪をひた隠しにする、誤った方向に舵を切っていくのも、彼の人間的弱さと言ってしまえばそれまでですが、戦争のためにいたずらに間が空いてしまった、このめぐり合わせの悪さまでソックの罪なのかというと、何とも言い難い。

 人間、家族なり財産なり、名声や立場なり“守らなければならないもの”が増えてしまうと、臆病にもなり、逆に倫理的に図太くもなるのです。本音を言えば自分の保身のため以外の何ものでもないのに、「犯罪を知られると家族が傷つく、会社が立ち行かなくなり従業員も路頭に迷う」をエクスキューズに、呼吸するように嘘つく偽装する、もっと凶悪な犯罪を重ねる。 

 あの日、開城空襲の日に、決心通りすんなり自供できていれば、或いはソックは真っ当な裁判と量刑を受け、罪を償いおおせて善良な人生を再スタートできたかもしれない。

 彼が出頭を決意した日、妻ギルレに宛てて真相と贖罪の思いを吐露した手紙をポケットにしのばせて家を出る(妻は息子に付き添って病院泊まり)のですが、数時間後に襲った戦火で行方不明になったこの手紙を、二十余年後ソックを追求する立場になった或る人物が燃え残りの状態で入手、「こんな(正直な)手紙を書いた同じ人間が、いまでは嘘をつき通し、隠蔽のため人を手にかける事も辞さない悪人になってしまった・・年月は人を変えるものだ」と慨嘆する場面があります。 

 年月の重さ、度重なる苦難や、紡いだ絆、たくわえた財力以上に“戦争”は人の人生を理不尽にリセットし、ひいては人間性まで変えることがある。 

 ドラマの中で、養子にしたソックの秘密をまだ知らないグムスンが、開城にある家代々の墓に息子ドクスの遺骸を葬ることができないままトラックごと奪われた件を寂しげに回想し「いつか南北統一して、開城に帰れたら、あのお墓の管理はあなた(=ソック)に任せたいの」と語るシーンもあり、 “あの戦争”で多くを失った人たちの思いをこんな台詞においても象徴しているようです。

 このドラマは韓国では2013年放送で、劇中設定の1970~74年からはさらに四十年近く経過しています。半島を分断した“あの戦争”にリアルな記憶のある世代はすでに六十代後半から七十代。1970年代になお残っていた爪痕も、親世代以上の年長者から聞きづてにしか知らない視聴者のほうが多数でしょう。

 しかし、『花の雨』や『ウンヒ』のような、平日のオビのごく敷居の低い時間帯に、ルーティーンで制作され放送されているTVドラマにも“世が世なら(戦争がなければ)もっと違う自分がいたはず、人生があったはず”という悔恨や喪失感、不条理感が底流に流れているのを、部外者である日本人の月河が視聴しても、じんわり、でもしっかり感じ取れる。 

 今年4月の南北首脳会談以降、韓国でも北への心理的障壁感が下がり、北の指導者のパブリックイメージも最悪時よりはめっきり向上しているとの報道もあります。

 しかし、実のところ、“あの戦争”は終わっていないのです。北緯三十八度線という仮のボーダー、虚構の国境線を引いて“休戦”しているだけです。しかもその休戦協定に、往時の韓国のトップは敢えて署名しませんでした。

 “戦争からすべての歯車が狂っていった”という、いささか安直かなと思う設定が韓国ドラマに出てくるたびに、あの国の人たちが老いも若きも潜在的に秘める“本当の自分、本当の自分の人生、本当の世の中は、いまのコレではないのではないか、いやないはず”という歯がゆさ、“不本意に置き去りにしてきた、本当に大切な何かが、ここではない何処かにある”という閉塞感、混迷感を、場面や台詞の端々にいつも感じるのです。 

 ドラマ後半でウンヒの運命とストーリーを大きく動かす役割のソウルホテル女社長が登場、彼女の(いろいろあって)(←ネタバレになるので)不在時に、社長室の金庫に何者かが手を触れた形跡を発見した、彼女をよく知る或る人物が「社長は金庫を閉めたとき必ずダイヤルを“50”に合わせておく。大切な家族を(戦争で)失った1950年を忘れないためだ」それが50からずれているのはおかしい、彼女以外にこの金庫を開けて何かを奪おうと試みた者が居る・・と看破し、やがてソックに疑いを向けるきっかけになります。

 休戦後のかりそめの平和の中で生きる、いまの韓国の人たちにも、心のどこかにそれぞれの“50”があるのだと思う。最近の“ナッツ姫”“水かけ姫”スキャンダルや、冬季五輪スケート選手へのバッシングなど、とかく“沸点の低いお国柄”に見えることの多い国ですが、思うに、きっと彼らは嬉しいにつけ盛り上がるにつけ、あるいは怒るにつけ、心のダイヤルが“50”にカチンと当たるたびに、やりきれない、行き場のない感情にとらわれる。

 ひとしきり号泣したり慨嘆したり、偉い人ならパワハラしたりしたあと、またそっとダイヤルを“50”に戻す。 

 国営放送の平日オビの朝ドラに「戦中戦後をはさめば王道」と納得している私たち日本人にも、同じではないけれどどこかコードの似通う琴線がある。

 だから何度めかのブームが去っても、韓国ドラマがとっかえひっかえBSやCSで放送されたり配信されたりし続けているのかもしれません。 

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ウンヒの涙 再び ~人の為と書いて~

2018-06-17 19:59:14 | 海外ドラマ

 今年前半、同時期に視聴していたドラマの中で『ウンヒの涙』(BS日テレ)だけ、1月から4月上旬まで完走できたのは、録画がほかの番組と重ならない真っ昼間(12:00~)、且つ、提供スポンサー名ベース画面などがなくて録画編集のしやすい枠だったこともありますが、途中、全70話の40話過ぎあたりから、1月末に一足先に完結した『私の心は花の雨』(BS朝日)と、アレ?なんだか似た話になってない?と気づいて、逆に興味津々になってきたんですね。

 もともと、この2作は韓国KBS“TV小説”という同枠で、『ウンヒ』は2013年、『花の雨』は2016年に放送されたものです。

 どちらも、お話の芯は“わけあって実の両親から離され自分の出自を知らずに育ったヒロインが、荒波を乗り越えて幸せをつかみ、本当の家族のきずなを取り戻すまで”ということになっているのですが、冒頭で“何故ヒロインがそういう気の毒な境遇になったか”“何が起き、誰が張本人なのか”がねっちり描かれるので、視聴者も、ヒロインを応援目線で見守るのと同等の体温で、“張本人”の動静、一挙手一投足に目が離せないように出来ている。

 そういうわけで、『ウンヒ』も『花の雨』も、ある時点からは逆境ヒロインの起業や恋模様などのけなげな幸福追求物語は脇に押しやられ、“悪いヤツの偽装、隠蔽シラ切り大作戦&雪だるま式巨悪化顛末記”に変貌していきました。

 かの国の脚本家さんやプロデューサーさんの擁護をするわけではありませんが、これは50話から100話を超える長尺の場合、流れ上やむを得ないというか、自然と言えないこともない。

 名もなく貧しいながら人の道を守り、人を愛して勤勉に生きる善人が身の丈の幸せを願う熱量よりは、悪事と欺瞞で財をなし地位や名声を得た悪人がなんとしても逃げきって栄華を極めようというエネルギーのほうが熱っつく、切実で、ドラマチックに決まっているからです。

 現に、両作とも「アレ?なんか違う話になってない?」「主役こっちだったっけ?」と気がついた辺りからのほうがずっと面白く、次回が見逃せないテンションになっているのです。

 『花の雨』の良家のなりすまし偽嫁イルランと、一度は彼女を棄てた元・情夫でイルランの生んだ娘の実父でもあるスチャンが、かつては“色”で結びついていたのを一旦封印して、いとこ同士と周囲を偽りひたすら事業乗っ取りの“欲”に深入りしていくさまは逆に危うい色気があったし、『ウンヒ』でヒロインの父親に(最初は心ならずも)殺人の罪を着せて被害者一族の養子に入り、事業を成功させ社長になったチャ・ソックが、ウンヒと母ジョンオクを遠ざけるためデマを流し、当時の目撃者が現れるとヤクザを使って追い払い、真相を知られ恐喝されると自ら手にかけ死体遺棄し、ついには過去を握りつぶすため権力志向となり、国会議員に献金しまくって国政選挙出馬を画策、資金作りに裏帳簿、原材料偽装、恩人たる義母から権利書を盗み出して闇金から借金、金塊密輸・・と急坂を転げ落ちるように悪の倍々ゲームにはまっていく過程は、特にウンヒの出生を実母・養母・ウンヒ本人、全員がそれぞれ別のタイミングで知ってしまい、誰からも言い出せず三すくみで膠着してからの41話以降は、独走で物語を引き回す圧倒的な驀進力でした。

 そして、これだけのパワーで欲と保身に突っ走る悪の張本人が、無欲で無力で私心のないヒロインに“なぜかいつの間にか負けてしまう”のも不思議な見どころです。概ね、重ねた嘘が、重ねワザであるがゆえに思いがけないところから剥がれてきたり、ヒロイン側にひょんなことから強力な味方がつき、彼女を援助する、守るためにしてくれたことが、期せずしてピンポイントで張本人の痛いところを突いたりする。かの国製に限らず、主人公が都合のいい人に都合よくめぐり会うのはドラマのつねですが、必ずしもヒロインが悪人の存在に気がつき、自分の境遇との因果関係を認識していなくても、そこに存在してまじめに生きているだけで勝手に悪が追い詰められていく。悪のほうは自覚があるから、「彼女がいずれ事態を察知したら、こっちは必ず暴露され失脚する」という予測を立てることができ、それを防ぐべく次々と画策するのが、ことごとく躓きのもとになる。自分で自分の墓穴を掘る、自滅スパイラルに陥るわけです。

 一方、そんなことはつゆ知らぬヒロインのほうは何の計算も予測もなく、目の前に起きていることに対処しながら、日々の無事を願って淡々と暮らしていくだけ。このへん、イソップ寓話風というか、“無私無欲が最終的には最強”という価値観を端的に表現しているようで興趣深いところです。

 『ウンヒ』と『花の雨』、前後して続けて視聴して共通に気がついた点、もうひとつあるのですが、次の記事で。

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ウンヒの涙 ~韓貞玉のクッと煮てパッ~

2018-06-14 23:26:44 | 海外ドラマ

 1月~2月~3月と寒い時期に、前のエントリで書いた通り韓国ドラマ『ウンヒの涙』(BS日テレ)を視聴していたので、なんだかしみじみとクッパっちゅうもんが食べたくなり、放送の間じゅうレシピをいろいろ当たってみては、かなりの頻度で試作、試食していました。

 ここ三日ほど、急にカレンダーを二か月分くらい逆にめくったような寒さなので、再びプチ・クッパブームが訪れています。 

 だってね、『ウンヒ』の劇中のお母さん(ネタバレすると正確には養母)=ジョンオクさん(演・キム・ヘソンさん。『宮廷女官チャングムの誓い』のお母さんでおなじみ)の作るクッパが、やたら美味そうなんですよ。と言うか、出てくる人物出てくる人物みんな「ウンヒのお母さんのクッパは美味い」と褒めちぎって、ドラマ内の演技とは思えないくらい本当においしそうに食べるもんで。 

 (・・ところでこのドラマのタイトルではヒロインの名前が“ウンヒ”と表記されていますが、劇中ではみんな「ウニ」「ウニ」と発音しています。フルネーム“キム・ウンヒ”、劇中二度ほどちらっと映った履歴書によると漢字では“金恩煕”で、なんだかどっかの国の指導者の一族みたいな字並び。日本向けに日本語タイトルを付けるにあたって、『ウニの涙』だとダーウィンが来た!みたいになっちゃうと思ったんでしょうか)(ちなみに、『カッコウの巣』のヒロイン=ヨニさんは“ペク・ヨニ”と字幕でも表記され、セリフでもそう呼ばれ、一瞬映った離婚届によると漢字は“白延煕”でした)

 クッパというと、月河のイメージでは“韓国風雑炊”もしくは“韓国風おじや”。これに尽きていました。

 野菜各種、海藻類、鶏肉などを入れた、だしがきいて辛味のある具だくさんのスープに白いお米のご飯を炊き合わせて煮立てて、スープと具材と、お粥ほどは煮融けてないご飯を、行平みたいなスプーンで掬って一体にして、ふーふー食べるものだと思っていたら、非高齢家族が「チガウ」

 「それは普通に“雑炊”であって、クッパは同じようで全然違うのだ」と厳然と断じました。

 曰く、「クッパの“クッ”はスープ、“パ”がご飯」であるからして、スープとご飯は最初から一体にして火を通すのではなく、飽くまでも“具だくさんスープの独立した完成形”と、“まっさらのご飯”とが別々に用意されて、食べるときに両者を一体にするという手続きを取らなければ「正しいクッ・パにはならない」のだそうな。

 はいはい、クッにパで要するに“スープご飯”てことね。月河もこう見えて(どう見えて?)カレーライスにおけるライスへのカレーのかけ方、つまり「如何にしてカレーとライスをカレーライスと為すか」にはひと頃、かなりのこだわりの深さを誇っていましたから、「スープと具とご飯を合わせて煮て食べるものと、具入りスープにご飯を加えて食べるものとは全然別物」という、わかるようなわからないようなリクツに付き合ってあげる心の余裕はないではないのです。

 そんなことはさておき、スープのほうは本場韓国風にこだわらず、かつおだしやこんぶだし、いりこだし等いつもの味噌汁や煮物に使っているやつをガンガン使いまして、野菜も冷蔵庫にあるやつをガンガン使う。

 洋風のチキン味やビーフ味コンソメも、キャベツや玉ねぎ人参、ブロッコリーを入れて、びっくりするほど米のご飯に合うことがわかりました。胡椒は控えて、ショウガのおろし汁をちょっと加えるといちだんと体も温まります。和風でも洋風でも、最後に磯のりかアオサをトッピング。

 そういえばドラマ内で、ウンヒが生き別れの娘とわかり、本人には告げられないまま理由を作って自邸に引き取ったローラ・キム社長(演・キム・ボミさん。現在絶賛放送中BS11『漆黒の四重奏』でも地味に味だし中)に「食材は何が好き?」と訊かれて「ほうれん草が好きです」とポパイみたいな返事をしていました。それでというわけでもありませんが、思いついたのがパン食のお友達=フリーズドライのほうれん草&ベーコンのスープ。ベースがチキン味とかつおだしなので、自前の薄味のかつおだしをたっぷりに、顆粒減塩鶏だし調味料で味を補強して煮立てて、このフリーズドライを一個煮溶かす。別鍋でやわらかめに湯がいた白菜の白いところと、ほうれん草は特に根の薄紅色のところをこれまた惜しげなく。玉ねぎと椎茸は手ごろに入れて煮立て、白いご飯とマッチング。ベーコンはヘタに足すと塩っからくなるので、自前はやめておいたほうがいいようです。

 ・・こうして自己流のスープで、その、あれだ、クッ&パ=クッパをいろいろ作って食べてみると、改めて実感するのはお米のご飯の底力ですな。ご飯の柔らかさ、食感となじむ歯ごたえ・舌触りとサイズの具材なら、だいたい何でも合わせられるし、動物性のスープでも、植物系、海洋系のだしでも、塩味加減さえ間違えなければほぼ全方位。

 クッパで食べる場合、炊きたてほかほかよりも、朝炊いたのをお昼に食べるぐらいの時間経過がちょうどいいみたい。昨夜の夕食のご飯の残りを冷蔵庫に入れて翌日のブランチに食べる場合は、霧をシュッと吹いてレンチンしてからスープにイン、ですね。

 よくわからないのは、ウンヒ母=ジョンオクさん(一瞬映った旦那さんの墓所の登記証によると姓が韓=ハン、漢字は“韓貞玉”)がお店で注文受けて出す評判クッパ、広口のドンブリみたいな鉢によそってあってスプーンがついているのは月河家とだいたい一緒ですが、小皿と中皿の中間ぐらいのサイズのおかずが4~5種類一緒に出されるんですよ。韓国では「ご飯ものや肉料理系を注文すると頼まなくても豪快にキムチがついてくる」と聞いたことがあるので、赤いのがキムチなのはわかりますが、ほかがよくわからない。日本で“カレーライスに福神漬とラッキョウの甘辛酢漬け”みたいなお約束が、本場のクッパ、もといクッ&パにもあるのかしら。今後の課題としたい。

 とかく栓を開けてから、賞味期限内に使いきれずに終わりがちな出汁醤油、しじみ醤油や牡蠣醤油などもこれからはクッパ用スープに積極的に使ってみようと思います。何より、クッパで何とでもできることがわかってから、野菜が冷蔵庫内にこまごま中途半端に残るのが鬱陶しくなくなりました。ウンヒのお母さん(しつこいけど本当は養母)に感謝です。

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オトナの土ドラ『限界団地』 ~人をあやめ町~

2018-06-10 22:36:20 | 夜ドラマ

 ここのところ、4月アタマまでBS日テレ『ウンヒの涙』、5月アタマまでBS11『明日もスンリ!』、同月末までDlife『伝説の魔女』と、韓国ドラマの長くてネチっこいやつばっかり録画でせっせと追いかけて見ていたので、我が国日本製のピリッと短くて輪郭の鮮明なドラマ、何かやってないのかしら、NHK朝ドラみたいな蒸留水に色付けたようなのは当分御免だし、『相棒』新シーズンにはまだ四カ月あるし・・と思ったら、昔懐かしい昼帯ドラマの老舗=東海テレビが、昼帯枠撤退後の土曜深夜でまたまたやってくれてます。

 タイトルからして怖いぞ『限界団地』。きゃー。全8話予定。なんとコンパクトな。主演佐野史郎さん。

 そう言えば東海テレビ制作枠がこの土曜23:00台に移設されての第一弾『火の粉』からもう二年になるのでした。あちらではユースケ・サンタマリアさんが一見温和で礼儀正しいサイコストーカー=武内に扮していましたが、今作の佐野さん演じる“寺内さん”は、同じ“いわくありげな新入り隣人”でも、個人的好悪感情やトラウマだけでなく、高齢化・少子化とともに崩壊の進む昭和の団地の地域社会にモノを申したい、なんらかの手を打ちたいという社会性も持ち合わせているかのようなキャラになっており、その分リアルな不気味さが増します。

 マッチ箱を横立てにして間隔置いて並べたみたいな、典型的な昭和の団地という“密室の詰め合わせ”的舞台装置も、平成の現在の視点から見るとかなり異様なのに驚きます。昭和30~40年代にかけてはこういう団地が、ちょっとした中規模都市でも住居地域の一郭に数多く建設されていたので、住んでみたいと憧れるかどうかまではともかく、眺めて異様さや、負の印象をおぼえることはなかった。集合住宅の建て方としてトレンドから外れていくと、あっという間に風景ごと“衰退”“落日”の気配を帯び、何かしら悪意を含んだ、禍々しい事が起こりそうな予感がじわじわ立ちこめてきます。

 寺内が越してきた住戸の隣が、サラリーマンの桜井夫妻(『火の粉』組の迫田孝也さん・足立梨花さん)と小学生の男の子の三人家族。お互いに玄関ドアを開けると、「小さく前へならえ」で突つき合えるほどの近距離。天井低い、間口狭い、狭小な空間をどうにかこうにかプライバシー分け合えるギリギリに区切った、当時の効率・低コスト一辺倒の設計思想が醸し出す息苦しさ、安らげなさ。まだしもこの街には小学校があり、育ち盛りの子供を抱えてマイホームへの脱出を計画する比較的若い住人もいるので、完全にどん詰まり化はしていないのですが、棟の一角には事故物件の開かずのドアがあり、寺内の昔馴染みらしき孤老女(江波杏子さん)が住んでいたりとホラー要素も散りばめてあり、夏に向かって期待が沸々。

 佐野史郎さんという主役キャスティングもコロンブスの卵的に秀逸ですね。主役“級”の出演は数え切れず、出れば必ず主役に遜色ない存在感を放出して退場されていくので意識しなかったのですが、TVドラマでキャストロールの先頭に来る“主演”は、舞台→映画からTV進出して30年以上の俳優キャリアで今作が初だそうです。

 “不気味”“頭よさげで、ハラにイチモツありげ”・・いつもどちらかというと“冷”“陰”な役柄を得意とするこの人のイメージの源泉はどこから来るのか。未だに1993年のドラマ『ずっとあなたが好きだった』のマザコン夫=冬彦さん役を強烈に思い出す人が多いらしいのですが、知的なエリートサラリーマンではあっても性格が偏っていてひ弱なイメージのあるこの役は、佐野さんにおいては巷間言われるほどの当たり役ではないように月河には思えます。

 ドラマ自体を、本放送であまりしっかり見てなかったせいもあるかもしれない。月河はやはり95年の『沙粧妙子・最後の事件』の池波がいちばん印象深いです。もちろん学識豊富で冷徹なのですが友情には厚いようにも見え、ちゃんと人に関心を持ち人に構い、社会になじんで泳いでいるところが逆に油断ならない。

 長めの卵型の輪郭に顔立ちは薄くてフラットで、所謂“コワモテ”とは真逆。なんとなく植物っぽいというか、動物なら水棲生物みたいな、ひんやりした風貌で、もっとお若い時から頭髪の量が少なめでしたが、冬彦さん・池波から二十年以上を経てもさほど後退が進んでいない。老けた感があまりないんですな。逆に言えば、若い頃から老成していた。それでいて万年青年みたいな、それこそ冬彦さん的に“或る部分だけ幼い”アンバランスさも内包していて、今作ではグレーヘアで“小学生のお祖父ちゃん”らしいいでたちですが、全体的には限りなく「(若く見えるというわけではなく)年齢不詳」

 今作の主役起用の決め手は、月河の見るところ、佐野さんのまとうそこはかとない昭和感でしょうね。もっと言えば“異時代感”

 佐野さん、高すぎず低からずの身長(公称176センチ)のわりに、頭身がデカいんです。顔が、というより、頭部の占める比率が大きい。前述のように顔立ち自体は濃くなく、さらっと、ツルっとしている上に、徐々に額も広くなってきておられるので、なおさらアタマの突出感が際立つ。

 頭が小さく顔も小さくひたすら脚や腕の長い平成の俳優女優さんの中に入ると、佐野さん、どこか別の時空から来た、“目立たない宇宙人”みたいなんです。そしてその時空は、たぶん未来ではなく、誰もが多少は記憶のある程度の過去であり、遥か遠い異国ではなく、隣り合わせの、歩いて行き帰りできる近郊であるような気がする。

 佐野さん1955年生まれ、今年満63歳。高齢化日本では完全リタイアはまだ先、現役でじゅうぶん通用するのに、“お祖父ちゃん”で“無職”、まだまだ有り余る体力気力を崩壊しかけた団地社会の再生のために注ぎ込む・・・だけ、なわけがない!という、誰でも見ただけで一沫感じる不可解さ、アンバランス風味こそ、佐野さんをこの役に適役にする所以。

 孫娘とふたりで引っ越してきた原因となった、息子夫婦を死なせた火事の詳細、寺内自身が両親とともに、まだ新しかったこの団地で過ごした数十年前の少年期の出来事、孤老女との関係など、寺内の本性、本当の目的につながる伏線も密に張ってあり、発掘解明が楽しみです。しかもたったの8話、2か月で完結、真相判明。本当に日本ドラマは決着がはやくて視聴がラクです。

 ・・でも一方、韓国ドラマもやはり忘れがたいのでありまして、先日、久々に午後の昼下がりにTVをつけたら『漆黒の四重奏(カルテット)』(BS11)ってのがやってて、恋人、元恋人、夫婦、それぞれの親、親の愛人、せまーい人間関係でめいっぱいごちゃごちゃしていて、これがね、面白いの。月~金オビでなんと全104話、6月第一週現在、未だ40話ぐらいで、いったいぜんたいどう事態打開して解決に至るのか皆目見当つかないのはいっそ気持ちいいほど。韓ドラ持ち前のこういうしつこさもまた、連続ものの醍醐味のひとつなのでした。

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紀州のドン・ファン怪死 ~紀伊パーソンは女~

2018-06-07 23:26:41 | ニュース

 “紀州のドン・ファン”

 ・・・どうでしょう、この臆面もなく紀ッチュ、いやキッチュ感まる出しな通り名は。

 不審死で事件性が疑われているとは言え、亡くなった、いち民間人のかたに御無礼申しあげますが、コレ、普通の神経の人だったら、耳に入った瞬間こっ恥ずかしくて、それだけで脳血管やら心臓やらいろんな臓器がどうかなりそうです。

 “ひたすら女性に目のない放蕩者”というほどの意味なのでしょうが、「四千人の美女に30億円貢いだ」と豪語されたところで、30億を四千で割るとひとりアタマ75万円ということになって、なんだそこらのキャバクラ通いの中小企業社長とたいして変わらんじゃないかという話になる。

 いやいやたとえ放出ダイヤの指輪1個ずつぐらいでも、次から次へと四千人、何人かは同時進行だったにしても延べ何年がかりだ?よくぞ飽きなかったなとヘンな所に感心したり、いや四千人てソレ本当に全員“美女”か?十人並みか並み以下も相当比率混じってたんじゃないの?ご本人視点で“美女”なら白内障とかそっちのケもあったのでは?と思わずマユにツバつけずにはいられない、本当にすみずみまでキッチュ感みちみち充満です。

 何度も演劇やオペラの主人公になった元祖(←温泉饅頭か)=ドン・フアン・テノーリオはスペイン語名前の“ドン”が付いていることからもわかるようにセビーリヤのれっきとした貴族の子弟で、日本人の一般ピープルが通り名にパクるにはだいぶハードルが高いです。

 男子が好む放蕩ジャンルの中でも、博打や酒やグルメ方面にはさしたる執着がなく、もっぱら女性を口説いて貢いで悦ばせる事に注力した例というと、我が国の井原西鶴『好色一代男』=世之介という世界に誇る先達がいますが、こちらは確か「たはふれし女三千七百四十二人」でしたから若干負けてる(砂上の屋上屋みたいな争いですが)。

 ・・・“ドン・ファン”の正当性についてはあまりにバカバカしいのでまぁ置いとくとして、興味深いのは“紀州”のほうです。

 ご本人はもともと酒類販売業が本業とのことですが、なぜ“紀州の“ドン・ファンなんでしょう。“和歌山のドン・ファン”じゃダメだったのかしら。

 たとえば、同じキャラで同じ行状で知られる男性が居たとして、たとえば、ええと、群馬県出身在住だったとしたら“上州のドン・ファン”と呼ばれるでしょうか。鳥取県出身在住なら“因幡のドン・ファン”でしょうか。昨年からロングトレンドの(トレンドって)愛媛県なら“伊予のドン・ファン”になるでしょうか。

 ・・はっきり言って馴染まないです。わざわざ旧国名を引っ張り出してカンムリにつける意味が希薄です。上州と言えばカカア天下と空っ風、もしくは三日月村の木枯し紋次郎だし、因幡と言えば白ウサギ。伊予と言えば♪まだ十六だ~から~、です(違う)。

 皆さん“紀州”と聞いて、何を連想するでしょうか。まずは南高梅。実際、このドン・ファン氏も酒類販売と併せて取り扱い財を成す礎にしておられたそうです。

 続いて蜜柑。ミカンと言えば「あれは紀ノ國ミカン船」の豪商・紀伊国屋文左衛門こと“紀文(きぶん)”です。

 古典落語ファンにとっての「紀州」は鍛冶屋の槌音が“テンカトル、天下取る”に聞こえたという、六代目三遊亭圓生師匠の十八番でもあった『紀州』。この噺の中で文字通り“天下を取った”のはドラマ『暴れん坊将軍』でも、先ごろ亡くなった津本陽さん著『大わらんじの男』でもおなじみ、御三家紀州の冷や飯食いの四男坊=徳川八代将軍吉宗公です。

 何が言いたいかというと、同じ土地名を指す固有名詞でも、“紀州”には“豪快”“豪胆”“太っ腹”、ひいては“強運”“ワイルド”“成り上がり”のイメージがある様で、これが今般の人呼んで“ドン・ファン”氏の通り名に冠せられた所以ではないでしょうか。

 普通に現行の“和歌山”では、弱いというか、どうも男性的じゃないんですな。加えて、関西文化圏、とりわけ近畿文化圏の中で、“大阪から見ても神戸から見ても、もちろん京都から見ても田舎(いなか)”という拭い難いポジションがある。

 如何な資産家でも艶福家でも、日本人のおっさんを“ドン・ファン”と称するのはかなりな無理筋ですが、“和歌山のドン・ファン”ではなく“紀州の”ドン・ファンにすれば、紀文大尽や吉宗公のオーラを若干“借用”できて、いくらかしっくり来るのではないかという、姑息と言えば姑息な、当たっていると言えばまずまず当たっていなくもない計算が根底にあっての通り名ネーミングと見ました。この人、広告代理店でもお抱えしていたのかな。

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