イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

韓国ドラマ『秘密と嘘』 ~そこに懐かしさがある~

2020-10-09 22:13:22 | 海外ドラマ

 いよいよ今年も残り3か月を切ってくると、自然と来し方振り返りモードになりますな。歳月人を待たず。コロナウイルスが人を選ばず休日も祝日もないように、月日も時間もコロナなんぞには躊躇も遠慮もしません。どんどん来てどんどん去ります。

 思えば春先からのステイホーム推奨で、おうち時間が例年よりたっぷりあったわりには、今年は韓国ドラマ、特に月河の好物の、長尺多話数ドラマをあまり視聴しなかったような気がします。

 いつものように「まとまったヒマを作って一気に録画視聴」なんて気合い入れなくても、まとまらない細切れのヒマがいっぱい出来てしまったので、逆に長尺タイトルに嵌まらなかったのかもしれません。代わりに『刑事コロンボ』の週一リバイバル放送の様な、単発一話完結モノはだいぶ見ました。

 リアルタイムのTV放送界でも、一時は、放送中、乃至は開始予定のドラマ収録が完全に休止して再開未定のまま、空いた枠に平成初期や昭和のドラマが再放送されて人気再燃、本放送時未見もしくは生まれていなかった若者にも大反響で、かえってペンディング中の新作のハードルが上がって、再開しづらくなったなんてこともありました。

 新型コロナ下で出勤退勤・働き方や、子供たちの学校、高齢者のケアサービス等も含めた生活サイクルの、各人各家庭の大幅変化で、TV以外のおうちエンタメ、インドアイベントの世界もえらく振り回されたこの一年でした。いずれトンネルを抜けたときに、何か確かな物が、媒体にも客側にもひとつふたつ掴めて残ればいいのですが。

 そんな中、5月の大型連休明けから途中乗車して、録画で追いかけながら9月中旬の最終話まで、気がつけば食い下がっていられたのが『秘密と嘘』(BSフジ)。

 月河がいたく好む“偽物/本物”“入れ替わり・すり替え”“成りすまし”モチーフ(←これがいろんなタイトルで何度も何度も、性懲りもなく登場するから、韓ドラ追尾やめない月河でもある)の極北みたいなお話で、実母を亡くし実父に育児放棄されて児童養護施設送りになった少女が財閥会長の孫娘シン・ファギョンにまんまとなりすまし成長、TV局の新人女子アナとなって野心を燃やす・・辺りまでは安定の定番展開なのですが、冒頭2話でいきなり出自がバレちゃうの。しかもバレるに事欠いて全国ネットのTV尋ね人番組に。公式サイトでは全88話(本国本放送では122話!)、どうすんの?どうやって尺もたすの?とハラハラしてたら、偽孫娘ファギョン、追いつめられた土壇場で、財閥会長が捜索していたもうひとりの孫=早世した長男の遺児に、自分に惚れている気のいい青年ジェビンを仕立て上げて、自分はその嫁として財閥家に居座り生き残るという奇策に出ました。

 言わば“なりすましの二階建て”

 取り巻く親世代、大人たちも、良かれと思って嘘を暴こうと腐心する者、自分の利得や保身のために嘘に加担する者、それらに巻き込まれて逆恨みする者等が入り乱れて、誰が誰と敵対してるのか、あの秘密はこの人もう知ってるんだったっけ?知らないんだったっけ?とか途中で混乱をきわめるのもいつもの韓ドラコースなのですが、踏ん張れば意外と踏ん張れるもんです88話。

 惜しむらくはファギョンへの情から嘘と欺瞞に手を染めていくジェビンの描写がいまいち緩かった。“あらかじめ強烈で、ずっと強烈なまま”設定のファギョンを触媒として見れば、明朗純朴で天然なジェビンが財閥後継となって欲に目覚め、徐々に変貌していく過程は振り幅が大きく、最大の見どころになったはずなのですが、結局一貫して善良な人なのか、或いはよくわかってないおバカなだけなのか、どっこいおバカなふりで油断させようとしているのか、演出も演技もしかと掴めていないまま場面場面で揺れているようなふしもありました。ところどころ、妻夫木聡さんを丸顔にしたような表情がチャーミングな、ぷっくりクチビルに長身のイ・ジュンムンさんちょっと惜しかった。

 最終盤の4~5話ぐらいはさすがに息切れしましたが、最終話でついに指名手配容疑者となり国外脱出を図るもTVニュースで顔バレして失敗、空港から裸足で逃走したファギョンが、なけなしの小銭で公衆電話に飛び込むも「・・ママの電話番号が思い出せない」と愕然とする場面は刺さった。スマッシュヒットでした。番号を登録した携帯が手元からなくなると、家族や最も親しい人の番号こそ暗記していないことに気づく・・ってあるあるじゃないですか。固定電話や紙の電話帳の時代にはなかった悲喜劇だと思う。なりすましが露顕するまでは溺愛してくれた母、その一員で居たくて、嘘に嘘をかさねて足掻いてしがみついてきた家族が、こんなに遠かった。88話の長きにわたって詰られても叩かれてもへこまず反省もせず悪の華を貫いてきたファギョンが、一瞬足元が深淵に抜けたような恐怖にかられる。偽の娘に散々振り回された母親は、脱出の道筋をつけてやったようで、実は追っぱらった気でいるのですが、「ママならまだ助けてくれるかも」と思っている時点でファギョンの惨敗。

 『その女の海』で数奇な運命の翻弄されヒロインだったオ・スンアさん、美人だけど般若系のお顔立ちなので、ドS役とか、物の怪(け)役とか演ったら嵌まりそうだな・・と思った通りのそれ以上を存分に見せてくれてこちらは一応満足。綺麗めの女優さんも、ここまで長丁場をビタ一文改心せず、邪悪なまんま演り通すのは、或る意味冥利(逆冥利?)に尽きるかも。

 途中、「アナタが財閥継孫」とほのめかされたジェビンが、“そうなったら高級車に乗ったり女性にもモテモテ”と妄想する場面があるのですが、そこに登場するジェビンの“脳内ファギョンさん”がラブコメみたいに可愛く、オ・スンアさん、キツ系の般若顔だからこそ甘々なラブコメの、ツンデレヒロインとかもいけるかもしれませんよ。最近は予算の関係か制作本数が少ないみたいだけど、時代劇でも期待大です。

 親世代ではファギョンの親友で女子アナ候補生同期ウジョンの母ジュウォン役キム・ヘソンさんと、財閥家の入り婿で本物ファギョンの父、心ならずも偽ファギョンの成りすましの共犯ともなるシン社長役チョン・ノミンさんが安定の芝居で、韓ドラおなじみの“あり得ないワールド”を支えました。

 ジュウォンは最初はアナウンサー志願者の憧れ“国民的テレビMC”で、財閥アパレルのCMキャラクターとしてポスターモデルになったり、スキャンダルまかれて生卵ぶつけられたり、階段から転落して殺されかけたり後遺症の譫妄発作で暴れたりジェットコースターみたいな展開でしたがさらっと演るし相変わらず美しい。『宮廷女官 チャングムの誓い』(2003年)のお母さんの頃からほとんど変わってないんじゃないかしら。

 いっぽうシン社長役のノミンさんも『善徳女王』(2009年)の叩き上げソルォン公から変わってないっちゃ変わってないし、この人の場合、頭はいいけど打算策略系のセコい役も多いのに一周回って結局どこか哀愁と可愛げが出るのが不思議です。今作も、或る意味すべてのタネをまいて自分で自分のクビ締めちゃってるような立ち位置なのに、死線をさまよって生還するとなぜか「・・助かって良かった」と微量思えてしまう。こういう現代ものドラマをにぎわす男優さんたちが軒並みモデル体型のイケメン揃いの中、頭身大きめ胴が長めの日本人・・じゃなくてアジア人体型なのが効いているのかな。

 あとひとつこのドラマでちょっと良かったのは、ウジョンの異父弟(=キム・ヘソンさん扮するジュウォンがウジョンを連れて再婚して生まれた)ウチョルが知的障害で映画『レインマン』のようなサヴァン症設定なのですが、これだけ欲得まみれでエゴい人物がゾロゾロ出てくるのに、障害をネタに虐めたり揶揄ったりする描写が一度もなかったのは好感が持てました。

 ウチョルはお母さんとお姉ちゃんが大好きで、彼女たちを困らせる人物にはちゃんと抗議もする。コーラも大好きで誰かが止めないと際限なく飲みすぎてしまいますが、他は特段困った点や人に迷惑かけるところもなく、音楽の才能があってクラリネットが得意、インディーズバンドに共演を誘われる腕前(←演奏場面はあまり無し)、サヴァン症独特の精密で瞬間的な記憶力、再現力を活かしもっと展開の鍵を握るかと思いましたが、聞きつけた姉の出生を書いた折り紙の件と、ジュウォン転落現場のファギョンを絵に描いた件程度で終わったのはちょっと残念。ハンデキャップネタは踏み込みすぎると昨今は簡単に炎上するので触らぬ神に徹した感もありますが、話数に不足なかったわりにはサブストーリーらしいサブストーリーが皆無に近く、ウチョルくんにはジェビンの妹で料理人志望の“親切なジェヒさん”というお似合いの相手も現れたのに、あまり発展もゴールもないまま終了(いいムードは継続)。

 このドラマは韓国MBSの夜のイルイル(日々)ドラマで、日本のBSでも一昨年~昨年に放送された『棘(とげ)と蜜』『幸せをくれる人』等の同枠後番組なのですが、キャストはまずまずなのにお話が風呂敷を広げきれず、あるいは最初からコンパクトサイズの風呂敷で守りについてきたようなのが、これ系ドラマ愛好者としては気がかりです。本作の後に同枠放送された『ヨンワン(龍王)様のご加護』がBS11で来月始まるのでとりあえずチェックかな。3年前の今頃嵌まっていた『ルビーの指輪』のイ・ソヨンさん久々。全81話。うーん。

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刑事コロンボ『偶像のレクイエム』 ~ハリウッド、“ファ”ーラウェイ~

2020-07-24 21:52:10 | 海外ドラマ

 月河の年代だと『刑事コロンボ』の日本初放送時はまだ中学生程度の子供ですから、大体実家で、家族と一緒に視聴しているので、ドラマ自体の印象に当時の家族の反応が乗っかって記憶に残っていることも多い。

 7月1日放送(NHKBSプレミアム)の『偶像のレクイエム』は、ストーリーの記憶が、同じハリウッドOG主人公の『忘れられたスター』とかぶっているところもあって、序盤ちょっと戸惑ったのですが、1973年のNHK初放送当時、実家母がメル・ファーラーが出てる!とえらい高テンションだったのを思い出し、そこからだんだん芋づる式になってきました。

 「オードリー・ヘップバーンの旦那さんだったんだよ」という豆知識もこのとき実家母から。彼女の年代だと、ヘップバーン&メル・ファーラー夫婦共演のハリウッド版『戦争と平和』(1956年)が、独身時代に観た大作恋愛映画の中でも白眉だったらしいんですね。別の或る年代にとっての『ある愛の詩』や『ゴースト』、或いは『タイタニック』ぐらい強烈だったらしい。

 月河は未見ですが、あのトルストイのロシア文学重厚長大作をアメリカのハリウッド俳優がロシア語の役名名乗って、英語で芝居する映画なんて、原作冒涜とまでは行かなくても噴飯ものじゃないかと思うんですけど、調べると日本初公開が1956年(昭和31年)ですから、日本のいち地方在住のうら若き未婚女性にはじゅうぶんロマンチックで見ごたえがあったのかもしれません。

 メル・ファーラーは1954年に37歳で当時25歳『ローマの休日』『麗しのサブリナ』と当たりに当たるキラキラのオードリー・ヘップバーンと結婚していますが、これが実に4回めの結婚。1回めと2回めの結婚ですでに4児がいて、1回めのお相手と復縁して3回めをやってまたまた離婚したあと。んで、ヘップバーンとの間に1児もうけて1968年に離婚したのち、5回めの結婚もしています。艶福家というか懲りないというか、そういう男性ハリウッドならずともときどきいますけど、オードリー・ヘップバーンというのもよくわからない趣味の人ではあります。日本流に言えば一回り上の年の差婚だし、ほかになんぼでも選択肢あったろうと。

 ・・さて『偶像のレクイエム』ですが、このメル・ファーラーがハリウッドの手練れゴシップライターに扮し、あらかたかつての栄光の遺産に生きる大女優役アン・バクスターと繰り広げる、ある種の持ちつ持たれつ共依存しつつの腐れ縁駆け引きは、映画界バックステージネタとしても結構興趣深いものでした。初見時は(しつこいけど)子供だったので、このへんの醍醐味がよくわかっていなかったと思います。

 そもそもこのエピ、いつもの『コロンボ』流に倒叙方式で冒頭にプレゼンされる殺人はそこそこ派手なんですが、本当の、眼目の犯罪は物語が始まる前に、すでに終わっている構成なんですね。初見の印象がいまいち弱くて記憶に鮮明でなかった理由はそれもある。

 『コロンボ』のルーティンである、犯人の犯行手口手順の冒頭のプレゼンが一部省略(車のタイヤをパンクさせるなど)されている点でも、やや他の秀作エピに比べると倒叙ミステリーとしてスマートさを欠くきらいも。

 月河はメル・ファーラーより、再放送時に知った、ハリウッド映画衣装界の巨頭イーディス・ヘッド女史のご本人役出演でのけぞりましたね。たぶん80年代後半に集中的に観ていたアルフレッド・ヒッチコック監督の一連の作品のクレジットで知ったビッグネーム。アン・バクスター扮する大女優ノーラが、わざわざコロンボにブラフをかけて圧倒するため、ヘッド女史のオフィスに招び入れるシーンで、女史のデスクに金色に輝くオスカー像が7体。これはこのエピ放送の1973年1月時点で、彼女が実際に獲得していた数です。この1年後、『スティング』で8個めのオスカーがここに並んだはず。

 ハリウッド服飾界女ボスのワイドなワーキングデスクとはいえ、オスカー、間隔がちょっと密だ時節柄心配。

 この件も含めて若干、“オールド・シネマファンのためのサービス回”色が濃かったエピですが、狙いがわかって見返すとやっぱり味があります。

 かつてのスター女優ノーラ・チャンドラーは大手映画会社の撮影所初代所長アル・カンバーランドの未亡人で、現在もテレビドラマと深夜名画劇場で健在ぶりをアピールしてはいますが、資金難で全盛期の様な大作の企画は立たず、経営再建のため実業家フランク・シモンズに取り入り出資者のご機嫌伺いに忙殺されている。

 そんな中、ファーラー扮するベテラン映画ライターのジェリー・パークスがニューヨークから舞い戻ってきた。彼はノーラの、主演作製作費200万ドル横領の証拠をつかみ「シモンズらが知ったら出資話が壊れるだろう、書かないでおく代わりに、取材費と費やした年月分の金額を」と要求する。

 しかも彼はノーラの18年来の忠実な秘書ジーン・デイビスを口説いて婚約したという。ノーラはジーンから横領の秘密が漏れたと思い問い詰めるが、パークスに鼻毛を抜かれているジーンは「何も話していない」「パークスさんは立派な記者。ノーラさんを尊敬している」と言い張るのみで埒があかない。思い余ったノーラはパークスの帰宅を待ち伏せ、駐車スペースにガソリンをまき点火、車ごと爆殺してしまう。

 しかしこのときパークスの車を運転していたのはジーンだった。ジーンはノーラにお使いを頼まれたために夜会えなくなったとパークスに伝えに行ったが、その話をしている間にジーンの車のタイヤがなぜかパンクして帰れなくなったため、パークスが自分の車をジーンに貸したのだ。ノーラはシモンズらと会食の席で、急遽警察と訪れたパークス自身のクチからジーンの死の知らせを聞き、ショックで昏倒する。

 当初パンクは偶発的なアクシデントと見られ、警察はパークスに恨みを持つ者がパークスの車を狙って放火、ジーンは人違いで殺されたと思われた。しかしコロンボは例によって丹念な聞き込みと実地検証で、現場から猛スピードで走り去る小型車が目撃されていること、同型車が撮影所サウンドステージに常時何十台も即発進可能な状態で駐められていること、ジーンの車は点検を済ませたばかり、パンクも釘等のアクシデントや路上ギャングの仕業らしくもなく栓が抜かれてのものだったことを確かめた。人違い殺人と見せかけて、実際はジーンが最初から標的だったのではないか。そして事件の夜、ジーンが用事を頼まれたら、パークスの仕事先に真っ先に駆け付けるであろうことを知っていたのはノーラ一人なのだ。

 ノーラは表向き気丈にテレビミステリーの撮影を続けながら動揺していた。実はノーラが何としても隠したい致命的な秘密は、パークスが強請りをかけて来た200万ドル横領の件などではなかったのだ。18年前から彼女の身の回りで働いてきたジーンだけが知っている。

 コロンボは撮影所の若い現所長から、ノーラの夫アルのリゾート先での失踪と死亡認定の事情、夫から相続した撮影所敷地内の広壮な邸宅を、資金工面のため売却するよう再三交渉されているにもかかわらずノーラが頑として応じず、庭にすら手を付けさせないことも聴取した。

 焦ったノーラは再度、パークスが強請りの件で何者かに狙われていると偽装すべく撮影現場を抜け出して、パークスの帰途を襲い車で当て逃げを試みるが・・・・

 ・・『コロンボ』諸作の例にもれず、疑惑が迫ると急ごしらえのミスリード策で自分の首を絞めていく犯人ですが、本当のところノーラが慌て出すよりずっと前の時点、ノーラ邸への初訪問時に、豪華な庭園を誉めながら「カミさんに大スターのお宅の記念品を」と一輪の花を摘んだとき、水の出ない大理石の噴水の礎石のプレートを読んで、すでにコロンボは真相への鍵の一端をつかんでいました。ノーラは「若い頃撮った映画のセットの一部だった」と言ったが、コロンボは現所長からノーラの邸と庭への執着を聴取したあと、撮影所の美術資材部で、すべての道具の受注日付を記録してあることを調べ上げた。噴水の日付は、亡夫アルが失踪した翌日のものだった。・・・

 ・・・全編を通じて、現在は斜陽の色をかくせないものの、ハリウッド映画と当該撮影所最盛期の象徴的存在であるノーラ・チャンドラーに対して、「カミさんも義弟もアナタの大ファンで。お出になった映画はぜんぶ観てます」「アタシにとっては青春のシンボル」と言うコロンボを筆頭に、ほぼすべての登場人物が(若干の皮肉や呆れ、お追従などをそれぞれ含みつつも)リスペクトを失っておらず、衰えぬ演技力やプライドを根本のところで尊重していて、ノーラに“ハッタリだけのダニ”と罵られるパークスでさえも「落ちぶれればいいのに」「陥れてやる、ザマア見ろ」といった素振りは無く、むしろ掴んだネタの出し入れ、ほのめかしを楽しんでいる風さえあるのが、このエピをやや冗漫ながら味わいのあるものにしています。

 この点、同じ落日のスター女優を主人公に設定しても、時代から取り残され、脳の病気で心身の機能も崩壊しつつありながら現実を把握できない哀しさ、痛々しさが前面に出た『忘れられたスター』とは対照的。

 パークスがノーラもしくは他のスターの不都合なネタを掴んで強請るなり、そのために恨まれるなりしていたのではと睨んだコロンボに遠回しに訊かれて、パークスは「いいですか?有名人はゴシップを嫌がらないものだ、むしろ宣伝になると喜んでる」と言い放ちます。シロウトの読者やファンが喜ぶ罪のないこぼれ話、裏話は本に書いて儲け、スターの社会的生命にかかわるような本当に深刻なネタは“書かないこと”で恩に着せて利得を得る、きわどい綱渡りで映画界の裏オモテを渡り歩いてきた男なりの“プロ”根性がある。

 200万ドル横領の件を持ち出す前、パークスはかねてからノーラに「伝記を書かせてくれないか」と提案していました。「その時は自分で書きたいの」と却下されましたが、パークスにとっては“実入りになるネタ元”である以上に、やはり栄光のスター=ノーラは耀いていて美味しく、惹きつけられる存在なのです。コロンボに「落ち目になった女優のことを書いても仕方がない」とうそぶいてはいても、本音は違った。劇中でははっきり示されませんでしたが、彼女の夫に関する致命的な秘密についても、彼なりの嗅覚である程度、ハッタリでなく探り当てて、輪郭ができるまでそれこそ脳内にしまってあり、彼女に「悔しいけどこの人が味方側でよかった」と言わせるまで温めておくつもりだったのかも。

 ノーラに当て逃げ未遂されたあとのパークスは「かすり傷だけ」と警官に言及されただけで、顛末は出てきませんでしたが、コロンボに連行される前にノーラは「パークスさんは怪我してないのね?」と呟きます。腐れ縁もとことん腐れると別のものが醸し出されて、それはどこか“友情”に似るのかもしれない。

 そう思わせるのは、もうこの時点ではやや薄めのロマンス・グレーになってはいても(放送時55歳)、ヘップバーンを含む5回の結婚歴を誇る(?)メル・ファーラーに、どことなくヨーロッパ伊達男的色気があるからでしょう。

 蛇足ですが、実家母からこの放送初見時に聞いたメル・ファーラーエピソードをもう一つ。実家母が二十代独身の頃、実家祖父と地元の薬屋さんが親しかった縁で、当時田舎ではなかなか買えなかったマックス・ファクター(=当時“ハリウッド女優御用達”との触れ込みでステータスが高かった)の白粉を使っていたら、後輩の女の子が「おねえさんのコンパクト素敵、どこの化粧品?」と訊いてきたので、「マックス・ファクターよ」と答えると「ワタシもそれ欲しい、買ってくる」と、速攻薬屋さんに走って行き「メル・ファーラーの化粧品ください!」と言ったそうです。

 ・・・“ファ”しか合ってませんが。ビートたけしさんがラジオでよくネタにしていたB&B島田洋七さんの「斎藤寝具店」「山田ふとん店」みたいなもんですかね。時代、年代を問わずカタカナに弱い人っているもんです。

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刑事コロンボ『黒のエチュード』追記 ~諸般の事情で~

2020-07-18 15:00:53 | 海外ドラマ

 そんなわけで先月(もう月があらたまってました)、初見気分で『刑事コロンボ』“黒のエチュード”を録画視聴していたら、コロンボが修理工場に先回り、車の運転席をちゃっかり占領していて、引き取りに来たアレックス大イライラ・・辺りで、高齢家族その2が「この(犯人の)人(=演ジョン・カサヴェテス)、西村(康稔)コロナ大臣に似てんね」と思いもよらないことを言い出しました。

 ・・ふむ。似てるか、似てないかの二者択一に無理やり当てはめるとしたら、6:4ぐらいで似てるほうに入れても大方の反対は少ないと思います西村逆ギレ大臣。爬虫類系というか、オオカミ顔というか、お顔の骨格が前下に向かって鋭角で収斂していく感じ。

 カサヴェテスも1965年『ローズマリーの赤ちゃん』のヒロインのミア・ファローの頼りない(のちに怪しい)旦那役の頃はギリシャ系の二枚目顔だったんですが、この人は映画界の中でも自主映画製作に生涯をささげたような立場で、ハリウッドメジャー作やテレビシリーズへの役者としての出演オファーに対しては、自主製作の資金稼ぎと割り切って、“イメージのいい役”“カッコいい役”にはこだわらなかったようです。日本でも、舞台演劇をメインに活動している人で、そんなスタンスでテレビ出演をこなしている俳優兼監督・脚本家さん、劇団主宰さん、結構いますよね。

 宮藤官九郎さんが2003年のNHKドラマ版『蝉しぐれ』に主人公(内野聖陽さん)の旧友役で出たのは、いくらか舞台の足しになったのだろうか。

 三谷幸喜さんが『いだてん ~東京オリムピック噺~』に市川崑監督役で出たのは‥・足しというよりウラがありそうだ。

 西村大臣も、もう少し言葉と目線(←いろんな意味で)に気をつければ、“シベリアンハスキー系の精悍な顔”と好意的に見られたかもしれないのにね。安倍総理も例によって、頼みやすい人に、難しい、重い役回りを安直に頼むから大概ウツワがもたない。

 ・・まぁその話は別の機会にするとしまして(その頃には政権の配置図もだいぶ変わってるかもしれない)、アレックス・ベネディクトの手口は結構杜撰でコロンボの敵ではありませんでしたが、ドラマとしては演出や見せ方にいい塩梅にフックがあって、正味1時間35分、見飽きることがありませんでした。

 ジェニファー・ウェルズの自宅のペット=愛鳥のショパンの鳴き声にビビったのは劇中のアレックスよりも視聴者のほうではないでしょうか。劇中では隣家のオードリーちゃんが「ボタンインコ」と言及していましたが、そんななまやさしカワイイもんじゃないだろうアレ。あのめらめらトサカといい、キバタンとかクルマサカオウムのえげつないヤツだわ。愛のピアノ曲をたくさん作った“しょぱん”よりは、“どぼるざぁく”とかさ、“すくりゃーびん”のほうが合ってないか。ろくに曲知らないで語感で書いてますが。

 生演奏中継が迫る会場=野外音楽堂の楽屋を脱出してアレックスがどこに向かったのか?当然これから手にかけようとする相手のはず・・と視聴者が見守る流れで、最初にフレームいっぱいに映ったのがこのショパン。

 コイツ(トサカの堂々っぷりからしてオスでしょう)、ご主人様=ジェニファーとアレックスがイチャついてた間はおとなしかったんだけど、いよいよアレックスが計画通り、リクエストして彼女に演奏させてる間に手袋はめて用意した布で灰皿を包んで背後から一撃!くれた瞬間の鳴き声の、まぁー不吉にけたたましいこと。被害者自身は突然の殴打に悲鳴も呻き声も上げる間もなく息絶えたかもしれませんが、アレックスがのびた彼女をキッチンに運び、オーブンのガスを全開にして椅子からくずおれオーブン扉のフチに後頭部を強打したかのように偽装する間も、ピアノの脇に吊るされた鳥かごから、人間の生娘だってこんなすさまじい声量音程で叫ばないわというレベルの絶叫と、赤ん坊の戯れ声にも似たからかうような哄笑をかわるがわる放ち、キッチンのあとは書き物デスクで(アレックス夫妻の75万ドル豪邸ほどではありませんが、こちらも若手ながら国際的スター演奏家らしく、かなりリッチな住まいです)、用意したニセ遺書をタイプライターにはさんで、何日も脳内で練ったであろう渾身の工作を続けるアレックスが、よく「うるせーこのバカ鳥!」とブチ切れて絞め殺さなかったなと思うほど。

 オウムはモノマネ、声マネをする鳥として知られていますから、このショパンがアップで映され鳴き声で存在を主張するたびに、「さてはあの鳥がアレックスのセリフを真似てコロンボに聞かせ万事休するのでは?」と視聴者は一沫思ったはずです。当のアレックスは音楽家のわりにはショパン君の耳障りきわまる絶唱を気に懸けた様子もなく、キッチンのドアを閉めて退散、抜け出してきた演奏会場の楽屋に戻る。

 しかしアレックスの致命的なミスはまさに此処。妻ジャニスが手ずから育ててくれている演奏会専用ラペルピンの花を、ピアノの下に落として出て来てしまった。この花はわざわざピアノの脚元に寄ったアップで強調されるので、視聴者は劇中の誰よりも先に「あーあコイツやっちまった」と情報を得ます。

 いよいよコンサートが始まり指揮台で一心不乱にベートーベンの棒を振るアレックスが、胸に花がないことに気がつく瞬間にも、ショパンの不吉な絶叫がエコー付きでリプレイされ、切迫感溢れるシンフォニーに重なります。曲想と人物の内面の動揺、そして脳内ノイズを同調させたこの演出もなかなかですが、視聴者が思わずアレックスの身になってヒヤッとした←『コロンボ』では大抵のエピで、結構利己的で同情余地ない動機の犯人でも、視聴者は局面、局面で必ず犯人と同化して、コロンボの追及にひそかに怯えたりイラついたりします次のカットで、今度はモーツァルトの華やかに軽快な曲を、余裕の表情で指揮するアレックスをテレビ画像として映し出します。視聴者は「コイツ動転したろうに、何食わぬ顔で振り続けてんだな」と微量拍子抜けしつつ、どこかホッとするのです。

 そしてそのテレビは、ここでこのエピ初顔出しのコロンボが受診中の、クリニックの診察室に設置のもの。何故コロンボが深刻な面持ちで医者に?と思わせるその理由も、ほどなく署から呼び出しの電話がかかってきて、カメラが診察室内のロングショットに引いたところで明らかになります。ここの絵的な叙述もトボけていてなかなかいい。

 さて、トゥーマッチな鳴き声で重要な役割を果たすかと思わせたショパンですが、意外にもこれで退場。警察が現場入りしコロンボも後から到着したときには、ショパンはキッチンドアの隙間から漏れたガスに当たったのかすでにこと切れ、鳥籠には布が被せられていました。

 なんだ声マネで犯人を告げるとかは無しか、大袈裟な鳴き方のわりにはあっけなかったな・・と視聴者はショパンくんの最期に若干の同情はしつつも若干拍子抜けしますが、どっこいコロンボはスルーはしませんでした。「よほど好きな人でないと飼わない、手のかかる種類の鳥。自殺ならガス栓をひねる前に、鳥を助ける手を打ったはず」と、後頭部の打撲痕や不自然なタイプライターの遺書と合せ技で、自殺ではなく他殺と目星をつけた。

 彼女が演奏旅行で長期不在にする間に「ショパンの世話を頼まれていた」と言う隣家のおしゃまな少女オードリーから、頻繁にかよって来ていた恋人の存在を聴取、さらにはその恋人=トランペット奏者ポール・リフキンから「3か月前、彼女が別の“もっと重要な”男と恋に落ちたおかげで振られた。男の名を訊いたが秘密だと教えてくれなかった」との告白も引き出し真相に迫る手がかりとなりました。ショパンが間接的に突破口となったわけです。

 大袈裟に鳴かせて何度もリプレイし、重要な手掛かりになりそうと見せて、あっさり退場させ、しかし存在と退場そのものが状況証拠となって水路をひらき真相へと導いていくという流れ。客をひっかけておいて外し、外れだったと見せて、実は別角度からひっかかっていたことがわかる。単話完結事件モノのこういうショートで歯切れのいいミスリーディング、やっぱり『コロンボ』って、締まった良ドラマだったんだなと改めて感じました。

 事件そのものは、2020年のいま見たら「音楽堂の楽屋通路、外車専門修理工場のガレージ、セレブ女性独り暮らしの自宅玄関、防犯カメラが付いてたら終わりだし、今日びなら付いてないわけがないし」で片付いちゃうケースでしたけどね。

 ミスリードと言えば、このエピの最大のミスリードは、殺人犯をクラシックの天才指揮者、被害者を新進スターピアニスト、背景をオーケストラとコンサート会場に設定しておきながら、トリックにも謎解きにも“音楽”がひとっつもからまずに終わるところではないでしょうか。アレックスのたとえば絶対音感や楽典の知識、指揮棒の振り方やジェニファーのピアノの奏法、曲目選定などが何ひとつ事件に重きをなしていないという。物語構築にあずかってチカラあったのは“個々の演奏家はもちろん、天才指揮者といえども、地位は雇ってくれる楽団の経営者に気に入られるかどうか次第”という、すぐれて“芸術経済学”的側面のほうでした。

 劇中、ジェニファーを手にかけおおせて楽屋に忍んで戻ったアレックスが、開演前の挨拶に立ち寄った義母(=妻ジャニスの金持ちの母親にしてオケ理事長)リジーに「チャイコフスキーは開演前不安になりすぎて、頭がもげて落ちる幻覚にとらわれ、指揮の間じゅう左手で頭を支えていたそうですよ」と冗談交じりに話して平静を装う場面がありますが、実はまさに“さっきやってきた事が露見したら絞首刑だ”というアレックスの潜在的な恐怖を直球で表現している。

 この場面の直前、リジーが娘ジャニスに、

「俳優連中も来るの?アレックスは派手好きなのね、役者なんかに音楽がわかるのかしら

ジャニス「役者だって人間ですもの

リジー「ふふん、どうだか」

なんてやりとりもあり、これなどは“ピーター・フォークの主演看板作に、親交深いジョン・カサヴェテス客演”と来たので脚本家さんが遊び心で入れたくなったセリフかもしれません。月河は朝ドラ『あまちゃん』で、古田新太さん扮する太巻こと荒巻太一ハートフル・プロダクション社長が事業構想をトクトクと語る場面で「小劇場?下北(沢)?ダサいね」と鼻で笑ったのをちょっと思い出しました。

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刑事コロンボ『黒のエチュード』 ~指揮即是空~

2020-06-27 01:32:37 | 海外ドラマ

 外出自粛推奨で良かったことのひとつに、テレビ、FMラジオや雑誌など、最近流し気味だった媒体ソフトを改めてまじめに見だしたことがあります。

 久しぶりに新聞ラテ欄のテレビ番組表をちゃんと見ると、おぉ、NHKBSプレミアムで『刑事コロンボ』がまた放送されているではないか。一昨年と違って、今度は人気投票上位だけでなく旧シリーズの45エピソードを一挙に放送中らしい。

 6月3日『黒のエチュード』。これも調べると日本国内初放送は1973年で、以降少なくとも2回は見ているはずですが、改めてアタマからちゃんと見ると、忘れていたパートのほうが多い。

 ショパンの有名曲『黒鍵のエチュード』を思い出させるサブタイでもあって、てっきりピアニストが犯人の話だったと間違えて覚えていました。

 冒頭、犯人が殺人の計画をまとめるかのように自邸のピアノを乱れ弾くシーンから始まるので勘違いしていたかもしれません。犯人アレックス・ベネディクトはクラシックオーケストラの指揮者で、ピアニストは殺されるほう、アレックスの不倫の愛人。

 アレックス役ジョン・カサヴェテスは『グロリア』のジーナ・ローランズの夫で、俳優よりはインディペンデント映画の雄として知られ、ピーター・フォークとも長い親交があったとのこと。日本で言えば、松尾スズキさん主演の芝居に宮藤官九郎さんが客演するようなものでしょうかね。ちょっと違うか(だいぶ違うか)。

 例によって倒叙で最初に描写される殺人シークエンスを見ていて、忘れていた理由がなんとなくわかりました。出合いがしらや思いつきではなく一応計画殺人なんだけど、手口がえらく粗くて、シロウトが見てても完全犯罪になりそうもないんです。

 犯行のために自分がナマ身で移動しなければならない動線が長いし、真っ昼間グラサンだけで裏口を抜け出し修理工場のガレージに忍び込んで、預けておいた自動車をみずから運転。シャッターも自分でガラガラ引き上げ引き下ろす。殺し方も彼女の演奏中を背後から、2サスみたいな灰皿で頭部に一撃というアラワザで、トリックらしいトリックと言えば、自分の車を「アイドリング不調」と口実作って工場に預けておいて“コンサートの前で楽屋にこもっていたから外出はできない”との偽のアリバイと、キッチンのガス全開にして椅子から転落しオーブン扉のカドに頭を打って死んだように見せかける自殺偽装ぐらい。おまけに遺体をピアノからキッチンに運ぶ際に衿に挿していた花を床に落としてしまい、指揮中に気がついて、警官だらけの現場に自分で駆けつけ拾って挿し直しているところをコロンボに見られる始末。わかりやすく怪しすぎ、コロンボを手こずらせる互角の勝負とはほど遠い。

 しかもコロンボはアレックスが来る(そして花を挿すのを見とがめる)前から、ジェニファーのスクラップブックを閲覧し、「こんな美人で、才能があって前途洋洋の若い娘が自殺するはずはない、何かある」「男だよ男」とほぼお見通し。初放送の1973年当時、この辺で集中力を失って流し見になったから、犯人はピアニストだったとか記憶が怪しくなったのかもしれません。

 しかし、今回改めて、夫の不倫に事件後に気がつくアレックスの妻ジャニスのほうに注目して視聴すると、コロンボのアリバイ崩しや犯人との駆け引きとは別の味が、このエピソードにはあります。

 ジャニスは金持ちの娘です。見たところジェニファーよりうんと年が行っているわけでもなくせいぜいアラサー、金髪に空色の目、テニスウエアも似合うすらりとした容姿で客観的にはそれこそアンジャッシュ渡部じゃないけど「何の不満があって浮気なんか」と思う申し分ない美人妻(ちなみに演じるブライス・ダナーはグウィネス・パルトローの母)。

 彼女の母親リジーは資産家で、アレックスが専属を務める南カリフォルニア交響楽団の理事長である。当然アレックスのいまの地位は娘婿だからこそ。リジーはアレックスの指揮者としての手腕は評価しているが、人間性には全幅の信頼を置いていない。金持ちの母親からは、娘の男はみなカネ目当てに映るものだ。この婿は自信家で派手好みで、油断がならないと思ってときどきチクリと釘を刺したりネジを巻いたりしている。アレックスも承知のうえで愛想良くし、リジーのご機嫌を取り結ぶのに余念がない。万が一不倫が知られたらいまの地位も、優雅な生活も失うことはわかっている。ジェニファーに「隠れた愛人はイヤ、奥様に話して」「話してくれないなら私が関係を公表する」と迫られて進退窮まり犯行に及んだのだ。

 開演時間が迫り「ウェルズが来ない、自宅電話も話し中のまま連絡がつかない」との報が楽屋に届く。受話器がはずれているのかもしれないと、アレックスは激怒して(見せ)、すぐに電話局を呼び出してジェニファーの番号を伝え調べさせる。秘書にも尋ねず電話帳もメモも見ないで七ケタの番号をすらすら言った。聞いていたジャニスはハッとする。夫はジェニファーと親密だったのではないか。

 ジェニファー宅から深夜に戻った夫に、ジャニスは「どんな関係だったの」と詰問するがアレックスは取り合わない。仕事仲間には深入りしない、わかっているだろう。「私に我慢してるってこと?」「あなたはなぜ私と結婚したのかしら」。ジャニスは少し前に睡眠薬を服用しようやく効いてきたところで、潜在的に抱えて来た不安がおもてにこぼれて来ている。ジェニファーは若く、才能にあふれていた。夫は惹かれていたかもしれない。ひるがえって自分はどうだろう。日頃は夫は優しく、よく冗談や猥談もし自分を楽しませてくれ、愛し合っていると信じて疑わなかったが、ジェニファーに比べたら温室育ちの自分は退屈で凡庸な女なのではないか。ジェニファーに無くて自分に間違いなくあるものと言っては金だけ、それも自分のカネではなく母親の財産だ。夫が魅力を感じているのは自分が相続するはずの財産だけではないのか。

 持てるものがあまりに多いと、自分に“付いている価値”に比べて、自分が“持っている価値”が低いように思われて落ち着かなくなるのです。ジャニスもおそらくは名門寄宿学校から名門女子大に進み、欧州遊学などもして箔を付けただろうし、指揮者夫人となったいまも週一のテニスレッスンなどしてシェイプアップにつとめているが、理事長としてオケを差配する母親と、夫との間で日頃からひそかに神経をすり減らしている。

 コロンボは「カミさんが先生の熱狂的なファンで」とアレックスの自尊心をくすぐりながら、「サインがもらえたら」を口実に豪邸を訪ね、固定資産税や使用人の話から年収を割り出し、自動車修理工場にも高価なスポーツカーを褒めながら自分の(おなじみの)ボロ車で押しかけて、アレックスの暮らしぶりを探る。工場の車の保管場所、侵入できる窓、犯行現場への往復は可能だ。往復した距離だけ走行メーターも歴然と上がっている。

 アレックスに致命傷を与えたのは、やはり現場に落とした花でした。犯行帰りで指揮台に立ったときの録画のビデオでは、アレックスのタキシードに花はありません。しかし指揮を終えて楽屋でジェニファー自殺の報を聞き現場に駆けつけ、出て来たところをテレビ局のインタビュアーに囲まれて答える映像では、なぜか花をつけている。「現場のピアノの下に、犯行の時に落としたのを拾ってつけた、その時しかない」とコロンボは問い詰める。アレックスは「違う、演奏が終わったあとでつけたんだ、あのときは混乱していたから」「妻がいつも新しいのを届けてくれるから」と、あろうことかいちばん夫の不倫を信じたくないであろう妻に意味ありげな視線を送り下駄を預ける。

 そして「奥さん、奥さんのご記憶もそうですか、終わったあとにお付けになりましたか」と、コロンボもジャニスにボールを投げるのです。

 ジャニスの答えは「いいえ、・・あとからはつけなかったわ」「アレックス、ほかのことならあなたのために何でもしたけれど、でも、これだけは・・」

 ・・コロンボはジャニスをテニスコートに訪ねたとき、あの花はジャニスが庭師の手を借りずに作った花壇で、コンサートで夫の胸を飾るために栽培していると、彼女が誇らしげに語るのを聴取しています。ジェニファーに愛人がいたようだと話すと、急に表情を険しくし「夫はお役に立てないと思います」「演奏家と個人的なお付き合いはしません」と憤然と立ち去った様子から、彼女がひそかに抱く夫への疑念も察した。

 アレックスは土壇場で妻が自分を庇ってくれるほうに、コロンボは愛が本物だからこそ裏切りを許さないであろうほうに賭けた。アレックスの負けでした。

 浮気はしたけれど、君を失いたくないから彼女のほうを排除しようとしたんだよ、僕は君を選んだんだよと、アレックスは伝えたくて目配せしたのかもしれない。しかしジャニスは“私に付いている価値”しか見ていない夫の一面を、すでに察してしまった。水が盆からこぼれていなかった時間に戻ることはもうできないのです。

 気休めのように夫は「僕は有罪だ・・でも君を愛していた、いまわかった」「証言のときそれを思い出してくれ、いいね」と言い置いて警官に連行されていきました。

 心ならずも、自分がとどめを刺す役回りとなりしばし茫然としているジャニスにコロンボは「・・お察しします」と声をかけ、もうひとりの警官に「お宅までお送りして」と指示します。

 部屋を出るジャニスの胸には、「夫の言う通りです、あとで付けたんです、見ました」と答えれば、夫を救えただろうか?との自問自答が去来していたに違いありません。共犯同然となるが、夫は感謝してくれるでしょう。しかし、その夫と、この先もずっと、水のこぼれた世界で、嘘を共有しながら生きていく未来を、ジャニスは描けませんでした。

 あるいは、せめて妻の手でとどめを刺されたくて、アレックスはコロンボの詰問に「話しなさい」と下駄を預けて来たのかもしれない。そう考えるほうが、ジャニスは救われるかもしれません。

 オープニングクレジットで、Special Guest Star扱いになっているリジー役のマーナ・ロイが、さすがの貫録でドラマを引き締めます。戦前は謎の女的な役を得意としていましたが、戦後はシリアスな作品で賢い女性、誠実な人妻役を多く演じ、このエピがアメリカで放送された1972年には60代後半だったと思いますが、サテンのイブニングドレスも、都知事並みのあざやかなグリーンの、マリン風スーツもよくお似合い。

 リジーはひとり娘ジャニスに、随所で支配的な言動も垣間見せつつ、ジェニファーの自殺が三面記事で報じられると、財団理事の一人で新聞社の主筆らしいエヴァレットが配信社の幹部と昼食をとるクラブで待ち伏せ、「いい所でお会いできたわ」と偶然を装って、今朝秘書に作らせたというジェニファーの名を冠した奨学金の議案を見せ、記事に書くよう促します。「有名人ですからゴシップは仕方がないけれど、出ないに越したことはないでしょう」「あの人はうちのオーケストラには来たばかりで、身内というわけではなかったわ」と、言葉巧みにオケのイメージが悪くなる報道を封じます。

 このあと、ジェニファーの隣家に住む少女の目撃証言でジェニファーの前彼=オケのトランペット奏者ポールが聴取を受ける羽目となり、理事会で彼の処分が取り沙汰されたときのリジーの対応もお見事。

 「オーケストラは娘のジャニスと同じ私の宝、どちらかでも傷つける者は容赦しません、例外は認めません」と断言するリジーにコロンボは舌を巻き「ベネディクト先生でも?」と尋ねます。リジー「それこそ許せませんね」。コロンボはこれで、アレックスの危うい立場が改めてわかり、鍵を握るのがジャニスであることも確かめたはずです。

 音楽家とその世界が主役となるエピですが、劇中音楽はオケの演奏場面より、むしろポールが副業で演奏するジャズクラブの音、隣家の少女が習うバレエ教室の曲への切り返しがいちばん印象に残りました。これも今回の視聴での新発見。

 あと、アレックスの豪邸の使用人役で『ベスト・キッド』シリーズのミヤギ師匠でおなじみパット・モリタの顔が見えました。

 未確認なのですがリジーにクラブで待ち伏せされる理事エヴァレット役は『ポリス・アカデミー』シリーズの金魚鉢校長でおなじみジョージ・ゲインズだったような気がする。アレックスにジェニファーの遅刻や、自殺で発見されたことを知らせる秘書兼マネージャーのビリー(ウィリアム)役は、シリーズ後半のエピでこのブログでも一昨年の放送時に書いた『秒読みの殺人』のフィルム映写技師役だった人のように見えましたがどんなもんでしょう。正しい情報をご存知のかたはぜひ指摘してください。

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刑事コロンボ『秒読みの殺人』 ~パンチでピンチ~

2019-01-06 19:20:55 | 海外ドラマ

 『刑事コロンボ』シリーズ放送開始50周年だそうで、昨年暮れから人気投票BEST20エピソードをNHKBSプレミアムで毎週土曜に放送中です。

 1970年代からですから、再放送・再々放送はもちろん、レンタルビデオの時代になると見逃しエピの補完ができたこともあり、人気投票で上位に来るような回は二度も三度も視聴済みなはずなのですが、改めて放送されているとやっぱり見てしまうし、見るとやっぱり面白いですね。

 いま、“これまでの生涯に見たTV番組オールタイム・ノンジャンルランキング”をもし個人的に挙げるとしたら、五本の指には入ると思います『コロンボ』

 放送がある日には「『コロンボ』は最初っから見てないとねー」と時間前に用事を済ませて待機するということが普通にできた数少ない番組だし、「やっぱり事件モノ警察モノはアメリカ」「テンポ(の速さ)が違う」という、その後のエンタメコンテンツ選びの基準ができたのも『コロンボ』からだった。

 5日放送『秒読みの殺人』(今回の人気投票で13位)も印象深いエピのひとつで、テレビ局の視聴率争いや、編成における局内パワーゲームがサブモチーフになっており、記憶では70年代のかなり前半のほうだった気がするのですが、調べるとアメリカでの本放送が78年(昭和53年)2月、日本での初放送は翌79年1月だそうです。

 捜査の過程でコロンボが聞き込み相手に「甥っ子がステレオ売って8ミリ映画作るって言い出してさ、コッポラ監督に憧れて壁に写真貼ってる」と言うくだりがありました。フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザーPart Ⅱ』は74年、『地獄の黙示録』が79年に公開されています。

 再見すると、本筋の計画殺人→コロンボによる解明と追及以上に、犯人と被害者の周辺事項の描写が、アメリカのポスト・ベトナムの70年代後半という時代を映していて興味深い。

 事件や手口も、犯人のキャラも、コロンボシリーズの錚々たるラインナップの中では特別複雑でもスケール大でもなく、手ごわいほうではないのに記憶に鮮明に残っているのは、一見本筋にあまり関係なく尺稼ぎのようでもある周辺部分に、侮れない精彩があるためでしょう。 

 主人公=犯人のケイ(キャサリン)・フリーストンは東部に本社のあるテレビ局のLA支社に勤めるプロデューサーで、支社長マーク・マキャンドル―のチーフアシスタント。

 マークは有能で、NY本局に栄転の内示を受けた。長年恋人関係でもあったケイは一緒に本局に招かれるか、残留ならマークの後任支社長に昇進できると思っていたが、「君はアシスタントとしては最高だ。だが決断ができない。まとめるだけ、そこが違う」「まとめるだけじゃ(トップになるには)駄目なんだな」と、マークから関係の終わりを告げられる。

 マークは特に不実なクズ男ではない。ケイの仕事ぶり、男性部下に対する物腰、彼女に向ける彼らの視線など、端々のシーンを見る限りマークの評価は的確である。引導を渡す代わり慰謝料兼手切れ金として新車をプレゼント、ブラディ・マリーのグラスにキーを忍ばせるときの手のアップに指輪はなく、不倫でもない。引導から一夜明けてオフィスで顔を合わせたときも、来訪したお偉方にわからないようケイに「大丈夫?」と別れのショックを気遣っている。

 しかし長年TV制作のパートナーとしても、女としてもマークを支えてきたつもりのケイの怒りはひそかにおさまらず、マークがオフィスの休憩室で一人になる時間を利用して、お偉方相手の試写中に抜け出し射殺。銃はエレベーターの天井に隠す。隣のオフィスで徹夜仕事を命じられていた男性部下はすぐに銃声を聞きつけて、心臓に被弾し息絶えたマークを発見。ケイはあらかじめ用意した秒読みのテープで自らをカウントダウンし、次のリール交換の瞬間までに間一髪映写室に戻って、“銃声の時刻にはここにいた”というアリバイを作る。

 捜査に乗り込んできたコロンボに、ケイは局に送り付けられてきた脅迫の投書の束を見せ、「共産主義、独裁主義、人種差別・・暴力、妊娠中絶・・なんでもテレビのせいだと言って来るんです」と、思想犯の犯行を示唆してミスリードをはかりますが、コロンボはマークがソファで遠近両用眼鏡を頭上にあげたまま死亡していることから「ホトケさんは犯人の顔をよく知ってた、眼鏡を下ろして見ようともしなかった」と、早くも局内の、マークと親しい人物に的を絞っていた。

 ケイがエミー賞を受賞するほどの敏腕Pでありながら、現場のスタッフや監督からは一目置かれつつも煙たがられていること、マークがNY本局にケイを後任として推していなかったこと、そのマークがケイの頭文字をナンバープレートに冠した新車を購入していたこと、ケイの生まれ育ちが貧しい母子家庭で(NYの重役から臨時支社長を命じられ、高揚と不安に揺れるケイが、廃屋となったかつての自宅に深夜立ち寄り、そこに秘書から場所を聞いたコロンボが訪ねてくるシーンあり)、強い上昇志向で今日までのし上がってきたこと・・等周辺要素を地道に拾ったコロンボは、当日映写室にいた技師から「リールの交換までの間はずっと室内にいなくても、パンチ穴がサインとして画面に出るから、タイミングを知っていれば交換できる」と聴取する。

 次いでマークのビーチハウス(ケイと最後の一泊して別れを切り出した場所)で、クリーニング上がりで届いたブレザーがケイのネーム入り=マークとケイがここで半同棲していたことも突き止めた。

 こうなるとあとはどうコロンボがケイにとどめをさすかなのですが、そこに至る近道は意外な所から開けた。

 ケイは担当する生放送バラエティーに、かつて友人以上の関係にあった女優ヴァレリー・カークを押し込んでいたが、ブランク明けのヴァレリーはプレッシャーに耐えられず薬物に溺れて現場に穴を空け、ケイはやむなくまだ上の許可を得ていない、事件当日試写中だった自局制作のスパイノワール映画を穴埋めに放送させる。

 電気修理店でこの放送を偶然見たコロンボは、技師から「映写室に戻ってきたらすぐこの場面だった」と聴取した拳銃自殺シーンが、まさにリール交換のサインである2回のパンチ穴の直後であることを知り、ケイはずっと映写室にいたどころか、交換の直前に戻ってきたに違いないと睨んだ。

 “拳銃つながり”でもうひとつ、こちらはコロンボから仕掛ける。凶器の銃がまだ局の建物内にあると確信して、エレベーターシャフト内の天井からいち早く探し出したコロンボは、同型の銃をわざと下からシルエットが見える位置に仕込んで、ケイと世間話をしながら乗り込む。確かに見えない位置に隠したはずの銃がまる見えでケイは愕然とする。

 世間話に調子を合わせながらどうにかコロンボをやり過ごしたケイは受信機のアンテナを使って懸命に天井板を持ち上げ銃を回収(ケイ役の女優さんが、大人の白人女性としては顕著に低身長で、持っていたファイルと畳んだコートを踏み台に、シャフトの天井の高さに手こずる演出が良い)、車で遠出して側溝に捨てるが、それはコロンボが仕込んだダミーだった。

 ヴァレリーの失態を庇うためのケイの“決断”は、散々な低視聴率という最悪の結果に終わり、自局が大枚はたいた映画を粗末につかった(そもそも試写を犯行のアリバイに利用しているし)ことも上司の逆鱗にふれて、ケイは解雇を言い渡される。

 直後にコロンボから“ケイが乗る前/下りた後のエレベーターの天井の画像”と、本物の凶器の銃を突き付けられ、リール交換のアリバイも崩され、映写室の手袋の硝煙反応を知らされたケイは、「終わったらホッとする、肩の荷を下ろした気がするってよく言うけど、全然違う、その反対よ」「あなたが連行なさるの?すぐに連れてって、私負けないから」「戦って、生き残ります。それが私の生き方」と、笑みさえ浮かべて退場する。

 コロンボシリーズの中では、そんなに手ごわくコロンボを翻弄するほどの力量ある犯人ではありません。シロウトが見てもここが杜撰だな、ここからバレそうだなと思ったところから案の定バレていく、自滅しそうに見えた通り自滅して行くケイですが、1979年=いまから40年前の初放送と思って視聴すると、“男社会(激烈競争のテレビ界)の中でやたら頑張った女性が、頑張り方を間違えて墓穴を掘って行く”ドラマとしてなかなか秀逸です。

 LAの放送局らしく、支社長のマークはじめ管理職は広壮なオフィスを連ね、オフィスの前室には秘書たちが並んでタイプを打ち電話応対をしている。こういう秘書は長年勤続しても“ベテランの秘書”になるだけでしょうが、それでも花のテレビ局オフィス、当時のスクールガールにとっては憧れの職種だったはずです。もちろん女性管理職はケイだけです。

 ましてや生放送スタジオの現場に場面が移ると、監督も調整室も男ばかりで、女性スタッフはタイムキーパーだけ。例によって暇潰しの様に調整室に訊き込みに来たコロンボに技術ディレクターが「テレビ業界で一番始末に負えないのは、ぜんぶわかってる女性なんですよ」と半笑いで答える場面が象徴的。

 ケイが頑張れば頑張った分だけ浮き上がり人望が遠のいていく。試写の前、重役たちがオードブルをつまみながら次クールの出演タレント交渉について冗談交じりに話しているところへ、ケイが開始を告げに入ってくると、微妙に空気が変わる場面もあります。いつの世もどんな状況でも、男というものは“女に手の内がわかられている”のが不快なのです。そこはかとない逆風を感じてはねのけるためにケイが残業の指示、現場からのSOS対応にと頑張ると、さらに嫌われていく。

 そして、70年代に初見のときはよくわからなかったのですが、ケイが根はバイないしはレズビアンであることが、この年代でよく放送できたなと思うほど、かなり明確に表現されています。

 数字至上主義のはずが、薬物の前歴持ちで過去の人になった女優を、現場の不安は再三耳に届いていたのに生放送に押し込み、いよいよ立ち行かなくなると社運を賭けていたはずの映画を穴埋めに使ってしまう。冒頭、別れを切り出したマークが「お互い最終的には愛情で結ばれていたと思うんだ、仕事やゼニカネを離れてさ」「僕は与え、君も与え、それで満足だったはずだ」と言いますが、ケイこそ愛が無かった。愛があるように装って、“アシスタントとしては最高だが、まとめるだけでは駄目”な分は、愛で下駄をはかせてもらってトップに行けると信じ、女の武器でマークを騙していたのはケイのほうだった。

 ケイは愛を裏切られたからマークに殺意を抱いたのではなく、策の底を見られたと思ったから完全犯罪で消すことを企てたのです。

 危なっかしくハラハラさせる犯人で、しかも同シリーズの女性犯人の中では屈指の美人だったにもかかわらず、ケイが最後まであまりかわいそうでないのは、微動だにしない“自分大好き”“自分以外愛さない”根性が透けて見えるからでしょう。

 ところで、脚本家三谷幸喜さんが自他ともに認めるコロンボフリークで、このエピソードから『古畑任三郎』の“さよなら、DJ”(=桃井かおりさんのおたかさん)を着想したことは有名ですが、ケイの最後までへこまないうすら堂々っぷりは“しばしのお別れ”(=山口智子さんのフラメンコ華道家)、 犯人が自己評価に夢を持ち過ぎで、殺された男のほうが実は冷静正確に評価していたという点では“哀しき完全犯罪”(田中美佐子さんのズボラ女流棋士)に反映していますね。

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