イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

フーダニット

2016-01-24 02:16:06 | 芸能ネタ

 「誰が悪いのか」。

 いわゆる犯人探し的な見地で情報を渉猟するのは好きじゃないのですが、少なくとも、最少でも、"スリップ"だか"スワップ"だかの、各メンバーには罪はないと思います。

 "落ち度"はあっても"罪"はない。法治国家ですから法に触れない限り、職業選択の自由も、選択しない自由も、選択を変える事由も、幸福追求の権利も保障されているわけです。どんなに"浅はかな判断""間抜けな選択"だったとしても、「アサハカ」「マヌケ」という罪状の犯罪はない。バカやらかす自由だって存在するんです。もちろん、やらかした結果がわが身を直撃するリスクは自己責任だが。

 誰が悪いのか?じゃなくて、誰がいちばん"謝罪"すべき事由を多く持っているか?と考えたらどうでしょう。媒体から拾い集めた情報だけでは断言できませんが、媒体で呼ばれているところの"女史"、"スワップ育ての親"なる女性マネージャーに、月河はいちばん「もっとどうにかならなかったのか」と思います。

 月河は芸能界っちゅうところで働いた経験はありませんが(あったりして)、会社組織に所属し雇われて使われて、汗を流し神経をすり減らして、対価に規定の賃金をもらうサラリーマンってのは、何業界でも基本は共通だと思う。

 "スワップ"は彼女が在庫から発掘し、必ず売れる、売りたいと見込んで磨き上げて世に送り出し大ヒットさせた商品です。産みの苦しみはあったけれども市場で徐々に類似品に無い個性や長所を買われてゆき、多くのファンに好かれてお金を投じてもらえる、会社の看板商品に成長した。開発責任者である彼女は会社の功労者です。称賛とともに、社内では妬み嫉み僻み、嫌がらせや足引っ張りにも遭ったでしょう。出る杭は打たれる。甘んじて受けねばなりません。

 彼女が自分の仕事に誇りを持ち、我が手で一から育てたヒット商品を愛しているなら、いつか自分が何かの原因で会社を辞したり休職を余儀なくされた場合をも念頭において、自分なき後もその商品が末永く支持され看板商品たり続けられるような体制を、社内に作っておかなければいけなかったと思う。「自分不在でも支障ないように日頃からしておく」は組織人間の基本常識であり務めです。あたら当たって売れっ子になってしまったがために、社内で壁ができ彼女とスワップだけが"特別待遇"の"外様(とざま)"扱いにされてしまった。この状況を打開する責任は、他の誰よりも彼女にあったはずです。

 スワップに関する事もろもろ、自分以外わかる人が誰もいない、誰もコントロールできないという状況、さらには自分がいなくなれば本気でスワップをサポートする者が誰もいないという状況だけは全力で避けなければならなかった。売れる前でも売れた後でも、時間が足りなかったはずはない。四半世紀です。

 他方で雇い人のマネージャーひとり管理しきれず、「スワップ売れて稼いでくれてるんだからいいか」と彼女の独走と孤立を看過し現状追認し続けた会社首脳部の怠慢及び能力不足も上等ですが、会社というものはいつの世も、どれだけ大企業でも、一流でも老舗でも、"利益が出ている状態"に弱いものです。儲かっていれば何でも曲げるし、何でも押し通すし、何でも見て見ぬふりをする。

 唐紙の最初の一枚は、やはり彼女が開けるべきだった。彼女しか開ける人はいなかった。スワップに"儲かる商品"以上の思いを抱いていた者が、もし社内に居たとしたら彼女以外あり得ないからです。スワップ成功で図に乗り、"傲慢""私物化""手柄の独り占め""お山の大将"化することを、この世でいちばん自戒しなければならなかったのも彼女だからです。

 そして報道によれば彼女、58歳だそうです。嗚呼。こんな芸能界トラブルの話題で、まとめ役としてではなく震源地として、月河より年齢のいってる人が出てくるとは思いませんでした。四半世紀何をやっていたのか。

しかも、ここの有名な会社首脳部は同族企業で、この彼女のさらに親世代のご夫婦らしい。四半世紀どころじゃなく何をやっていたのか。芸能事務所経営者として雇用主としてどうかというより、大人として頼りなく、見識なさ過ぎじゃないか。

 見識ないのも、勘違い傲慢も怠慢にも、世間様を騒がすご迷惑にも、適齢期というか許容可能年齢みたいなものはあります。みんなムダに年くい過ぎだ。

 そう考えると四十男が揃いも揃ってうかうかのスワップメンバーなんか"罪"ないじゃないですか。うかうかしていただけなんですからね。

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メリーさんの羊たちの沈黙

2016-01-22 02:08:51 | 芸能ネタ

 そもそも先週「1人残留、4人独立」の報を初めて見たとき、ホントかぁ?と非常に疑わしく思ったものです。どこかの媒体の飛ばしじゃないかと。

 1人でも、4人でも、もちろん2人でも3人でも、"スキップ"だか"スコップ"だか、とにかくおなじみの看板は名乗れなくなるだろうし、そもそも独立したら、看板の名付け親から離反することだから、5人揃ってたって名乗れないわけでしょう。四半世紀掲げ続けた看板を下ろして、新しくどんな看板に掛け替えるにしてもえらいマイナスです。

 しかも、名付けの義理があるだけじゃなく、音に聞こえた"ザ・政治力"みたいなあの事務所を敵に回して独立して何ができるか。無理の残る形でアソコから離れたタレントさんは、軒並み苦戦するか業界から消えています。彼らも四半世紀、"入門期"も含めるとそれ以上の長きにわたってアソコの中でやって来て、わかっていないはずはない。独立すると言ったらしい4人はいったいどれだけ勝算があって言ったのか。残留すると言ったらしい1人も、どんな未来が見えていたのか。なんだかどっちの身になっても共感しにくい話で、一報を"飛ばした"人たちだけが得するたぐいの、愉快犯的デマとしか思えません。

 いっそ"1人残留"でなく、1人(2人でもいいですが)"引退"か"休業"ならまだしもしっくり来ますな。四半世紀、ローティーンの頃からあの事務所に所属して芸能界に居てアイドルをやってきて、男のヨワイ四十、そろそろ芸能人でない、アイドルでない、"スコップ"でない道を歩いてみたいと思ったとしたら至極自然で、健康的ですらあります。

 で、他のメンバーが「△△クンが抜けるなら、もうココで命名してもらった"スコップ"としての活動はできなくなるから、ココ辞めよっか」「辞めよ辞めよ、よそで別の看板でやろ」となったとしたら、四十男が集まって見通し甘めぇなーとは思うけど、まだしもわからないではない。20年ぐらい前にも、1人"卒業"して6人組から5人組になって"スコップ"のまま、という出来事がありましたが、あの頃は全員ハタチそこそこ~20代前半だったしね。

 しかし、全員「芸能活動は続けたい」で一致しているのに、いちばんハイリスクな、芸能活動が狭められる可能性大な選択肢である"分裂"→"脱退"をとるというのは、どうにも得心がいかない。芸能継続や"スコップ"継続は別にして、要するにこの事務所を辞めたい!もう一刻も居たくない!ってほど切実なのかと思ったら、一転「全員残留、生放送で謝罪」とあっさり方向転換したので、ますますわからなくなりました。

 なんとなく、彼ら自身は最初から何の他意も無くて、要するに"育ての親"なる女性マネージャーと、その雇用主である事務所との内輪もめに、ついでに巻き込まれただけの様にも見えてきます。「あのマネが、かねてツノ突き合わせていた女副社長と決裂して、いよいよおん出るらしい」「だったら"教え子"のスコップはどうするんだろう」「一緒におん出るんだろうか」「△△クンは残留を決めてるらしいよ」「じゃあほか4人とは分裂だ」「分裂分裂」「解散解散」・・と憶測が独り歩きしていった的な。あのナマ謝罪時の暗ぁーい、奥歯に物が挟まりまくった様な空気も、勝手に独り歩きした憶測を後追いでフォローしなければならなくなった憤懣やるかたなさと思えば少しはわかる。

 しかし、しかしですよ、何度も言うけど四十男の集まりですよ。四半世紀に及ぶメジャー芸能歴の大きな節目に、こんなに"言わされてる感"が濃厚に立ち込めてて良いんでしょうか。この騒ぎの前の週ぐらいに、やはり広告代理店的商品価値の高い女性ハーフタレントさんが、既婚者のミュージシャンと不倫交際露見で記者会見させられていましたが、彼女だってローティーンからモデル活動をして10数年、もうすぐ32歳です。やることがどう考えても20代前半までのやりクチじゃないですか。雑すぎるよ。どいつもこいつもこんなに"世の中知らないにもほどがある感"まる出しで、この先やっていけるのでしょうか。世間は許すのでしょうか。

 うんと昔の事は知りませんが、女優の関根惠子(現・高橋惠子)さんが舞台をドタキャンして、当時恋人だったらしい作家さんだかとバンコクに逃亡したのは24歳のとき。そのちょっと前に、アイドル歌手木之内みどりさんが、かねて思いを寄せていた既婚のベーシスト兼作曲家さんのもとに"押しかけ逃避行"、そのまま引退を表明したのは21歳。「妻子ある人を好きになったんじゃない、好きになった人に妻子がいたんです」の名言を発したときの白戸家のお母さん・・でなくて樋口可南子さんは23歳でした。

 ムチャやってムチャなこと言うのにも似合いの年頃というものがある。スコップだかの皆さんは、もっとヤンチャしていい時期に草食過ぎたのかな。そう言えば早々と残留意志が伝えられた1人は、あの事務所所属にしては結婚が早めで手(=子作り)も早めでしたな。

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スマんかった

2016-01-20 01:24:11 | 芸能ネタ

 『まれ』の“武功“をいまさら腑分けし大いに吹聴しようと思っていたら、途中でデヴィッド・ボウイさんの死去が伝えられたり、久々震度4クラスの長周期振動が昼休みにドドドと来たりで、人がすでに振り向かなくなった地味な話題に集中するには世の中騒がし過ぎますね。

 あまつさえ、何だ“国民的アイドルグループ”って。「解散回避に国会も歓迎の声」って。

 彼らの積極的な、熱狂的な、萌え萌えなファンじゃないかわり特に反感も怨恨も金銭貸借もない月河ですが、いつの間にそこまで格上げになったんだ?とざらざら引っかかるものはあります。確かにいまだ人気者だし芸歴長いしグループ歴長いし広告代理店的な影響力も大きいけれど、いちタレントさんじゃないですか。かりに解散したって死ぬわけじゃないし、よしんば媒体から全員永遠に姿を消したとしても、すぐに皆さん、他のアイドルかグループに気を移すに決まっているのに。

 大袈裟にし過ぎですよ。大袈裟にすることで得する人が少なからずいるんだろうなと思ってしまう。

 「お騒がせして申し訳ありません」ってタレントさんが公共の電波でナマ謝罪というのもえらく大袈裟な。大袈裟って言うより、ズレてませんか。謝ることでしょうかね。全体主義国家じゃあるまいし、タレントさんが所属事務所からの独立を考え画策したのが、何に抵触するのか。如何な人気者だって、職業選択の自由も幸福追求の権利もあろうに。「お騒がせ」ったって誰か得する人が勝手に情報リークしたからマスコミやネットが勝手に騒いで、マスコミやネットが騒ぐから一般ファンも騒がざるを得なかったので、タレントさんが含むところあって作為的に騒ぎを起こしたわけじゃなかろうに。“謝”はわかるけど、“罪”ではないと思う。

 ただ、彼らの、ことさらアイドルオーラを消しに来たようなお地味スーツにタイの“お詫びルック”を見ていると、「やっぱり”図に乗って勘違い”は全員に少しずつあったのだろうな」という気はします。

 アイドルは単体でもグループでも、商品価値を帯びた商品です。商品価値に関係なく、そこに存在するだけで、自分に何の得がなくてもワーワーキャーキャーもてはやしてくれるのは一般人のファンのみであって、一般ではない業界関係者やお取引先、媒体関係者は例外なくアイドルの“商品価値”にワーワーキャーキャーし、自分たちになんらかの利得をもたらしてくれるからチヤホヤしてくれるのです。

 ところが人気者になって、一般人にワーワーキャーキャーされることに慣れてしまうと、“自分の商品価値”ではなく“自分の存在そのもの”を過大に見積もってしまう。なんたって、業界媒体関係者よりはただの一般人のほうが圧倒的に数が多いのです。彼らの無垢で無心なワーワーキャーキャーに日々浸かっていると、「“どれだけカネを引っ張って来れるか”で評価されているんだなオレは」「仲間のコイツもアイツも、オレと全員合わせて“幾らで商売できるか”次第なんだな」という基本的な事を忘れてしまいがちになるのです。

 5人揃ったグループを維持することがいちばん安泰で効率のいい商売になるうちは分裂解散はあり得ません。「誰得(だれとく)」という言葉がありますが、損する人の人数や損の総量がいちばん少ない方向に、物事は流れ、収まって行くものです。全体主義社会なら別ですが。

 とは言え芸歴四半世紀超、男四十の齢をかさねると、商品アイドルという“得を産み出し続けるシステム”でいることにいささか疲れても来るでしょう。そこでお地味衣装を着て、ちょっと鬱な顔になって、モヤッとしたメッセージを発してみました。

 しかし自他ともにあんまり気持ちのいいものじゃなかった。やはり彼らはアイドル顔でアイドルパフォーマンスをしているのが、一周回っていちばん疲労感もストレスも少ないのではないでしょうか。

 てことはこちらも今回の一連の鬱展開は「なかったこと」として今後のパフォーマンスを消費してあげるのが最大の親切というもの。“消費”にはワーワーキャーキャーも、ツッコみもイジリも含む。とりあえず月河はそうしたいと思います。

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レゾリュシオン(覚悟)

2016-01-15 02:20:46 | 朝ドラマ

 「いつも見てる夢は わたしがもうひとりいて やりたい事 好きなように 自由にできる夢」

・・現在放送中の『あさが来た』OPテーマ曲『365日の紙飛行機』の一節です。

 これを聞くたびに『あさが~』がどれだけ朝ドラとして鉄板で恵まれているかを思う。

 なにしろ封建主義社会の江戸幕末から、文明開化・富国強兵の明治維新時代ですからね。伝統ある京都の豪商の次女として裕福に天真爛漫に育ったヒロインが“やりたい事を、好きなように、自由にやる”だけで、反対だらけ障害だらけ、前例ない、お手本いない、山あり谷あり艱難辛苦でドラマになってしまう、できてしまうのです。

 「女子(おなご)に学問は要らん」「何も知らなくていい、ただお嫁に行けばいい」という時代ですからね。あさ(鈴木梨央さん→波瑠さん)が「パチパチはん!」と愛してやまない、商人の必携=ソロバンを習わせてもらうのすらひと騒動です。嫁ぎ先の両替屋の、返してもらえない前提だった大名貸しを突撃回収し、通貨切り替え取り付け騒ぎで揺れるさなかに経営再建、明治政府の殖産興業政策に先駆けて九州の炭鉱も、蔵を売ってまで金策して買い上げる猛進ぶり、現代に舞台を移し替えたとしても『プロジェクトX』級の注目を集めたでしょうが、幕末明治の因習が根深い大坂の商業界でこれをやるわけです。何処へ行っても叱られ嘲笑され好奇の目で見られ浮き上がりまくり叩かれまくり、それでもNHKヒロインらしく、設定どおりの押しの強さと根性のふとさ、根の明るさで、周囲を説き伏せ薙ぎ倒し、みるみるうちに味方を増やして戦果をあげてゆく。極端な話、演出も何もしなくても、普通に実写映像化するだけで、見るたび溜飲が下がって次回が見逃せない、教科書的な朝オビの連続ドラマに自然とできあがります。

 しかし、これが現代の日本を舞台となるとどうでしょう。女性が“やりたい事を好きなように自由にやる”について、何も文句がありません。全方位大歓迎、夢を持ちなさい、夢に向かって頑張れと、満面の笑みで応援ムード一色です。

 そりゃ日本のことですから、まだまだ根強く偏見も差別も残ってはいます。女性がちょっと本気出すと「女のくせに」と眉をひそめる年寄りもいれば、女と見ると「いいカラダしてんな」「酌をしろ」「オトコはいるのか」と別方面に前向きになるおっさんたちもバリ健在。

 しかしながらなんたって現政権が"女性が輝く社会"推奨です。“一億総活躍社会”押しです。女性が夢を持ち、男性限定だった分野に切り込み参入することに政府保証が付いているのです。同じ戦線で同じ能力の男と女が居たら、女のほうを先に役につけろという"逆差別"すらはたらいている。実態はわかりません。そんなに甘いものじゃないかもしれない。ただ重要なのは、世間がそういう空気の中で回っているということです。女性が夢を持ち夢に邁進することを、カッコいい、進んでる、歓迎し応援すべきこととする同意が、“公的”に取りつけられている。

 いまや女性のサッカー選手もラグビー選手も、ダンプカー運転手も宇宙飛行士も、高級官僚も大臣もいる。女性が何であれやりたい、なりたいという夢を持ったとして、達成できなかったら“能力(適性)不足”か“よっぽど運が悪い”しか理由がない。

 こんな時代背景で、おメメキラキラ新人女優さんの「ワタシ〇〇になりたい!」から転がり始めるドラマを見せられても、その女優さんのあらかじめファンか、“〇〇”の業界関係者やOBででもなければ「あっそ」「やれば?」としか受け止められようがないでしょう。世間が、内閣総理大臣の旗振りよろしく「夢を持て」「輝け」と応援しまくりムードなのですから、何も自分が心をこめて温かく見守る必要はないし、一緒になって悩んだり、うまく事が運べば喜んだりしてあげる必要もないわけです。

 朝ドラ現代ものが概して「まだるっこしい」あるいは「ウソくさい」としらけて見られ、内容も人気も低調に終始しがちなのは、“夢を持つヒロインの向上発展に感情移入する”という、朝ドラの根幹の地合いが作りにくい時代が現代だからです。安倍政権は「デフレ脱却」をしつこいくらい謳い続けましたが、そのおかげというわけじゃないけど“夢に向かって頑張る”という、前近代~昭和前半に輝いていた価値観はインフレ化して紙くず同然になりました。

 「夢に向かって頑張るヒロイン」でドラマが立ち上がらないというジレンマに悩み抜いた結果、『まれ』はヒロインにのっけから「私は夢が大嫌いです!」と言い放たせる暴挙に出ました。

 「夢を追いかけることは家族を不幸にする事」「人生は“地道にコツコツ”です」とも言わせた。ヒロインにまず夢を持たせ、夢実現への努力を描くことで、長年月、何十作にもわたってお話を紡いできた朝ドラが、ヒロインに夢を否定させたのです。注文過ぎる注文相撲です。

 結果、希(土屋太鳳さん)は、夢を追う者のネガティヴな部分だけを具現化したようなキャラの父親(適役すぎる大泉洋さん)と対立→和解→離反とあきらめ・・を繰り返し、本来ならまっしぐらに進んでいいパティシエへの道に背を向けて地方公務員になり、ふとした事件から思い直して辞表を出しやっぱりパティシエを目指し・・と、爽快感・達成感をことさら避け視聴者の共感意欲をわざわざ削ぎに行くような、ねじれ迂回した人生ストーリーを余儀なくされました。

 『まれ』の最大の功労のひとつは、現代もので“ヒロインの夢”を軸に据える事の難しさを、このうえなく端的に、赤裸々に示してくれたことです。「夢が大嫌い」と、日本語的におかしな宣言までさせないと、“夢”で話が作れない。作った結果があの通りです。

 「無理筋を選んだにしてはよくもたせた」とも言えるし、「無理を通して道理をへこましたからあんなことになった」とも言える。将来にわたって朝ドラが続いてほしいと思い、できれば良作を輩出し続けてほしいと願うなら、『まれ』のこの蛮勇は買ってあげなければいけないと思います。

 (この項続く)

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♪未来が~いまは~遠くても

2016-01-08 20:59:26 | 朝ドラマ

 『まれ』の、朝ドラとしてのお手柄はざっくり言って、“朝ドラを現代ものにした場合の難しさを、洗いざらい曝け出してくれた”ことです。

 現代もの朝ドラの全作が“難しい”わけではなく、全作がハズレ作というわけでもありません。しかし、放送開始~3週4週、5週6週と来て、「・・コレ正直、継続視聴ツラいな」と思った作品、あるいは「ツラいと思ってる客が多そうだな」と感じた作品は、ほぼ例外なく現代ものだったのではないでしょうか。

 たとえばまゆげネコ、たとえばラジオぽてと、たとえば蜆汁、たとえばぞめきトキメキ出版、いっそサザンアイランドなど、「はいはいはいはい」と黙認しながら流し見するのが、エピソードを重ねるごと、ゲスト出演者が新参するごとにしんどくなってくる作品。

 大正生まれのヒロインが夫と二人の兄の出征を見送り、国民学校の教師として教え子たちと戦中戦後をけなげに生き抜くあの作品なども、現代時制のインタヴュー形式で、老女となったヒロインが当時を振り返る場面が挟まると、人物が全員異様に長命で、一気に嘘くさく、イタくなりました。

 アイドル業界を舞台にしたあの作品なんかはブームになったし劇中楽曲も売れたし当たり作だったじゃん!というご指摘もありましょうが思い出してください。あの作品の放送は2013年春~秋口で、設定はメインパートが2008年夏から始まり、最終話は2012年夏。一度も視聴者と同じ河岸の現在時制に追いつくことは無かった。つまりは言葉の正しい意味での“現代”ものではなく、近過去もの、それも現在時制の日本人にとって戦争よりも、原爆よりも生々しい、平穏な日常を揺るがした災厄体験である東日本大震災を挟んでいる。形を変えた“戦前戦中戦後もの”でした。しかもなおかつヒロイン母親の回想パートの1984年~89年がインターバルをおいて併走する念の入りようで、現代ものにつきものの“難しさ”から、非常にスマートに自由になれたクレバー作でした。

 そこで最初に戻ります。『まれ』が蛮勇を振るって提示してくれた“現代ものの難しさ”とは何なのでしょうか。

 (この項つづく)

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