イエローフローライトを探して

何度も言うけど、
本当にブログなんかはじめるつもりじゃなかった。

『Yの悲劇』再読再々追補〔完結編〕 ~よーーく考えてみた~

2021-12-01 23:13:07 | ミステリ

 “昔読んで、それきり”な本、特に長編本をひょんなきっかけで再読する経験は初めてではありませんが、その中でもよりにもよって『Yの悲劇』について足かけ2か月もブログで書くとは思いませんでした。

 やはり翻訳ミステリビギナー時代に初読して印象が鮮明だったこともあるし、「人に面白いよと勧められた本(特に小説)が、通読完走して本当に面白かった」という、よくありそうで実は意外に少ない経験をさせてくれたタイトルでもあるからでしょう。

 それにしてもここまでの自分のエントリを読み返して、本格ミステリ古典中の古典作に、我ながらちょっと点が辛いなと苦笑してしまうのは、やはりシリーズの探偵役にしてヒーロー役のドルリー・レーンという人物が基本、好きになれなかったからだと思います。

 舞台で鍛えたたくましい身体能力と美声の持ち主・・と何度も描写されてるけど、基本、白髪ロン毛の老優、お年寄りですからね。当時、翻訳ミステリ開眼二年生か三年生、それも学校図書館で借りてくる、小学館やポプラ社刊の少年向け推理全集(アガサ・クリスティやイーデン・フィルポッツと、少女探偵ナンシー・ドルーシリーズが抱き合わさって全集になってるようなハイブリッドなやつ)に早々と飽きてしまい、角川文庫や創元推理文庫、ハヤカワ・ミステリ(当時はハヤカワ“文庫”はまだ無く、小口が黄色な新書判のみでした)に踏み込んで間もないガキんちょにはアクが強すぎたんでしょうね。

 この時期の月河は、まだ、いまなら金輪際見ない所にもいろいろ夢を見ていて、「シャーロック・ホームズやエルキュール・ポアロはムリだけど、エラリー・クイーンのお嫁さんにならなってもいいな」「となると、リチャード・クイーン警視を“お義父(とう)さん”とか呼んじゃったりするわけだな」と妄想することもありました。

 そんな話を前出のミステリ愛好家の伯父にしたわけではありませんが、伯父がよく「これが面白いよ」とわざわざ『Y』を買ってくれたものだと思います。

 この作品の発表当時=1930年代前半の、(作中探偵ではなく)作家のほうのエラリー・クイーンは、『Y』を“因縁一族のお屋敷もの”に仕立てただけではなく、ドルリー・レーン主役四部作皮切りの『Xの悲劇』は雷鳴と豪雨のニューヨーク、満員の市電車両内で、まさかの毒針をポケットに仕込んだ毒殺で開幕・・と、いま読むと2サスっぽ過ぎて失笑してしまうくらい、舞台装置の絵的な派手さを追求していて、名前は忘れましたが或る邦訳者は「稚気あふれる」と表現しています。

 月河ももう少し、TV刑事ドラマや映画“汁”に浸かり込んでからのミステリ挑戦だったら、ドルリー・レーンのややペダンティックで文字通り“芝居がかった”質感を「良きB級」ととらえ、ツッコミ入れながらもっと楽しく味わえたかもしれません。やっぱり、楽しみ方、興がるポイントの目の付け所が、幼い(実際、年齢も幼かったけど)というか、狭かったですね。

 そんな中でも改めて『Y』の秀逸さとして月河がぜひ特筆しておきたいのは、“動機の(たくまざる)連続性”とでも言いましょうか。

 これまた、いまさらながら世紀のネタバレになりそうなので薄氷を踏む覚悟で書かなければなりませんが、えーとね、あの、“計画犯”?“筋書き犯”の、あの計画筋書きを企画し組み立てるモティベーションとなった激しい怨恨、憎悪が、所謂洗脳にも教唆にもよらず、ほとんどオートマティックに“実行犯”の中にスライドして行っているように思われるところです。直接的に“吹き込んだ”描写どころか、事件前の計画犯と実行犯との間になんらかの(顔を合わせたりすれ違ったりする以上の)コンタクトや人間関係、心理的交流さえあったように思えない。にもかかわらず、実行犯は計画犯の動機になった感情を何の拒否感も、恐れも、抵抗もなく自分の中に取り込んで、「こういうことを自分がやってみたい」と、それこそ稚気あふれる、ほとんど勤勉な情熱をもってさくさくと実行に移している。

 作中、この心理をレーンも、感想戦パートの聞き役であるサム警部やブルーノ検事も詳細に分析はしていませんが、要するに、計画犯の抱いていたどす黒く粘液質な怨恨と憎悪が、もともと実行犯の中にも相似形で存在したのです。

 教唆や洗脳教育はもちろん、会話らしい会話さえ必要ではなかった。計画犯の計画は、計画のまま誰にも知られずに永遠に埋もれる運命だったかもしれないのですが、因縁屋敷の間取りと構造のいたずらで、たまたま実行犯の目に触れ彼に読み解かれるところとなり、彼の中の相似形に即点火し拡張し、計画の平面からあっさり実体を持って立ち上がり、実行に移され実際の犯罪となった。

 設定系図上、実行犯が計画犯の“何”に当たるかを改めて見直し思い返すと、これらの一連の犯罪と、その終結(探偵役レーンが深く容喙関与してのものだった件は月河は是としませんが)は、さらっと書かれているけれどもまさに“因縁”“宿縁”の果てそれ以外の何ものでもなかった。結末でここに気づいて感じる曰く言い難いうそ寒さ、それこそミステリ『Yの悲劇』の最大の魅力で、これだけはいままで延々述べてきたB級だ、派手さ狙いだなんだの論を軽く飛び越えて、いくら強調しても強調し過ぎという事はないと思います。やっぱりすごいよ、『Yの悲劇』。

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『Yの悲劇』再読再追補 ~悲劇のゲキは劇薬の劇~

2021-11-07 21:17:06 | ミステリ

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』、月河が海外本格ミステリビギナーだった初読了時ですら犯人が早々とわかっちゃったってことのほかに、今般再読して改めてもうひとつB級感をそそった点は「探偵、やり放題過ぎ」

 いくら警部と地方検事の信頼リスペクトが(前作『Xの悲劇』内での経緯以降)あつい設定とは言え、いち民間人にすぎない、探偵業の看板掲げてるわけでもないただの引退舞台俳優レーンが、頼みもしないのに警察のほうから事件捜査情報をまるまる持ち込まれ知らされ、現場にも踏み込み放題、当事者にも接触し放題、事情聞き取り放題です。我が日本の『赤い霊柩車』シリーズの石原葬儀社だってこんなに首突っ込まないだろってぐらい、捜査主体と一体化しまくり。

 まぁ法治国家のアメリカ合衆国でもさすがに1930年代前半、フィクションの中だしいろいろ緩かったのかもしれませんが、いま読むとやっぱり所詮は“探偵という体裁の、大人のヒーローもの”でしたね。現実の事件捜査では許されない、小説の中にしかないヒーロー無双ワールドです。

 ご存知の様に本作の作者が別の筆名で先行上梓した『ローマ帽子の秘密』にはじまるシリーズでの探偵役は、ニューヨーク市警刑事部長たる警視を父親に持ち、地方検事とも懇意の、二世タレントならぬ“二世探偵”設定の人物なので、作者自身、現実の警察組織人の職務意識、民間人との距離感がよくわかってなかったのかもしれません。わかってないから書けるってこともあります。

 月河はいまだに特撮ヒーロー、キャラクターヒーロー大好き人間ですからそれ自体には何の文句もなく、フィクションとしてのクォリティを下げるものではまったくないと思っていますが、今回再読してひとつ、つくづく「これはない」と首を傾げざるを得ないのは、探偵の、あの事件の幕の引き方ですね。真犯人を指摘し、真相解明、解説したあとの、事件としての終わらせ方です。

 これこそネタバレ中のネタバレ、ザ・キングオブネタバレになるので注意して書きますが、良きB級感とか、ツッコミウェルカムとかフィクションならではのあり得なさ等々の域を逸脱、脱線転覆大破炎上していると思うのです。

 およそ法治国家における刑事事件探偵が「これをやっちゃあおしまいよ」を白昼堂々やってのけて、しかも法治の守り手たる警察・検察の当事責任者も黙認、むしろ賛同して終わる。越権とか公務執行妨害なんてもんじゃなく、見ようによってはもっと質の悪い犯罪です。まるで自分が神にでもなったのかという傲岸な料簡の、臆面もない披瀝なのに、誰も咎めないのです。

 月河のこの作品初読は、夏休み当時、遠方からの出張で月河家に立ち寄っていた実母方の伯父が月河の本棚に並んだ背表紙を見て「こういうのが好きなのか」、月河「うん、好き」、じゃあ今度これとこれとこれを読んでごらん・・と、近所の行きつけ書店に一緒に行って、棚の高い所から抜いて買ってくれたのがきっかけでした。

 その後はしばらく電話と文通でしか伯父と連絡を取る機会が無かったのですが、月河が「『Y』面白かった」と言ったら、伯父からラストまで面白かったか?」と訊いてきました。言葉はこの通りではなかったかもしれませんが、「面白かったけど、犯人が早くにわかっちゃったから」と答えた記憶があります。「(『Y』の前に読了していた)『フランス・デパート殺人事件』(角川文庫刊。=『フランス白粉の秘密』)みたいに、最後の一行でポンと犯人の名前が出て、そこで終わってあと何もなし、みたいなほうが好きかな」とも言ったと思う。

 自宅にミステリ本だけで棚一個埋まる蔵書を持っていた伯父は、ちょっと笑って、その後は月河に「次はこれを読んでごらん」的な示唆は何も言いませんでした。

 いま思い返せば、ミステリ熟練読者の伯父もあの幕の引かれ方に思うところがあって、ビギナー中のビギナーである月河がどう感じたか興味があったのかもしれません。

 残念ながら、当時の月河は“犯人がギリギリまでわからない”“わかったら超意外な人物で、しかも腑に落ちる”こそがミステリのクォリティ、グレードを決めると思っていたので、探偵役人物の人間性や価値観、生命観、倫理意識、やっていいことといけないことの弁別など、ミステリの“ガワ”“シャーシ”のパートにはさしたる関心が向いていなかったのだと思います。

 今回再読したのももちろんこのとき伯父が買ってくれた角川文庫版(昭和三十六年初版、昭和四十四年十四版)ですが、巻末解説の結びに「・・終章の最後のセンテンスぐらい、私の心にはげしいショックと戦慄と、名づけがたい魅惑をあたえてくれたものは、私の記憶するかぎり、他の探偵小説には見出せない性質のものであった・・」とあります。

 解説者はこの版の訳者である田村隆一さん。1923年(大正十二年)生まれ、言わずと知れた、国語の教科書にも載っている、戦前戦中~戦後から平成に至るまで日本語現代詩の一線で活躍し軽妙なエッセイストとしても健筆をふるった文士です。本作よりずっと以前からアガサ・クリスティ、ロアルド・ダール等の諸作翻訳を手掛けていたかたが、『Y』を訳して、こういう所感を持っていたのです。

 時代かなあ、と思わずにいられません。探偵小説=ミステリって、好きな人はとことん沼になる一方、興味ない人は生涯興味ないであろうジャンルですから、もちろん個人の趣味嗜好もあるでしょうが、月河は「探偵は探偵の仕事をして、それで終了」な作品、物語世界のほうが好きですね。

 探偵がヒーロー無双であるのは構わない。でも、特撮ヒーローと違って、ミステリ、就中“本格”ミステリの探偵が“社会正義”を背負って、なおかつ執行までしてしまうのは、どう考えてもフェアプレイ、そう、ミステリ愛好家が絶対に譲らない“フェアプレイ”のスピリットを毀損することではないかと思えてならないのです。

 (この項もう一回続く)

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『Yの悲劇』再読追補 ~to B, or not to B~

2021-10-29 00:23:00 | ミステリ

 『Yの悲劇』、初読から年月が経って読み返すと、浮き上がるように見えてくる良きB級感の源泉のもう一つは、何と言っても主役=探偵役の、非日常性、浮世離れっぷりでしょう。

 その名もドルリー・レーン。中途失聴の全聾者でありながら完璧な読唇術使いで、引退したシェークスピア劇俳優、ニューヨーク郊外のハドソン河に臨む崖上の、中世城館並みの広壮な邸宅“ハムレット荘”で隠遁生活・・という、嬉しくなっちゃうぐらいの虚構感、「いねーよこんなヤツ!」です。

 前エントリで触れた、ゴシックロマンと貴族社会の国・英国発ではない、USA製のミステリゆえの即物性(裏返しの“本格”性)を、主役たる探偵の惜しげもないロマンチック設定、クラシカルなインテリ風味で取り返してお釣りを出しました。

 初読時の月河は、怪盗アルセーヌ・ルパンから始まってシャーロック・ホームズ、明智小五郎、エルキュール・ポアロぐらいまでは何作も既読だったのですが、レーンの設定やキャラに仰々しさや作り話臭さをほとんど感じなかったのはいま思えば不思議です。

 ただ、彼が『Y』作中時点で設定60歳、“頸のあたりまで垂れている雪のような白髪”(田村隆一訳・角川文庫)等という描写から、序盤は、なんだずいぶんなお爺さんの探偵だな・・と幾分興醒め、“ドキドキワクワク”からは距離のある感覚で読み進んだことは覚えています。初読時は確か昭和45年(1970年)の夏休みぐらいですから、日本人男性の平均寿命は69.8歳、会社の定年は55歳か57歳が多く、六十代に入ると(個体差はあるものの)、結構なお年寄りとみなされ扱われ、本人も老人らしいなりをするのが当たり前の時代でした。

 設定の中の“シェークスピアに関する造詣”と“全聾”は、『Xの悲劇』に始まる四部作の最終巻『レーン最後の事件』で初めて大きな意味を持ってくるので、作者がそこから逆算して造形したのかは、月河の不勉強で不明です。作者エラリー・クイーンはご存知の様に、従兄弟同士ふたりの書き手の共同筆名ですが、二人とも1905年生まれで『Y』発表の1932年には27歳の若造ですから、60歳がどの程度、どんな風に“老人”なのかよくわかってなかったかもしれない。

 「引退した演劇界の大御所」(同訳・同文庫)らしく「背が高く、肉がしまっていて、見るからにピリッとした感じをあたえ」「きびしいくらいの端正な顔には、一本の皺もなく、若さにみちあふれている」「よくとおる声は力にみち・・これもまた、彼の年齢をいつわらせる」(同訳・同文庫)と、なんだかこそばゆくなるくらいのヒーロー感のヴィジュアルに描かれているレーンは、舞台俳優設定ながらむしろすぐれて映像的、映画的な主人公です。

 前のエントリで、“途方もない大金持ちの家で起こる事件”という設定そのものが壮大なミスリード・・という意味のことを書きましたが、レーンの背景やキャリアも、ここ『Y』ではほとんど事件解決に直接影響しません。

 ただひとつ、レーンが本題の事件=ハッタ―老夫人殺害と実験室火災の後、ハッタ―家に警戒待機させていた警官を全員引き上げさせて、真犯人に油断させ、自分は、別件で警察管理下におかれていたハッタ―家お雇い男性家庭教師そっくりに特殊メイク変装し、持ち前の演技力で彼に成りすまして邸内に潜入し真犯人の動向を探ろうとする計画のくだりがあります。

 レーンは家庭教師の声色や所作をまる一日、間近で会話しながら見て身につけ、邸内に住み込む特殊メイクの老職人クェイシーにも会わせて型を取らせますが、変装の出来栄えがあまりに神がかっていたため、家庭教師は思わず「愛する女(=ハッタ―家長女。一族の奇人変人性が、詩の天才という点にだけ集中して現れた幸運な成功作で、唯一の真っ当な常識人)をだますことになる」「彼女にだけはすぐに見破られると思っていたが、こんなに変装がうますぎてはとてもだめだ」と間際で拒否、レーンの計画は不発に終わって、潜入には別の方策がとられることに。

 この家庭教師は、長女の詩才の熱烈なファンだったこととは別に、ハッタ―家の面々とは或る因縁があって、思う所あって家庭教師に志願してきた人物で、レーンはすべて了解したうえで変装潜入への協力要請をしたのですが、彼の長女への想いが予想以上に純粋で堅固だったのをレーンも、読者も思い知らされ、このくだりから70数ページ後の厳しい結末を幾許かは救う光明につながるのですが、本作でレーンの“熟練の舞台俳優”設定が意味を持つのはほぼ、ここだけです。

 こう見てくるとやはり『最後の事件』のシェークスピアネタに持って行くための、ロングパス設定だった可能性が高いですね。それ以外はむしろ、作家クイーンがどちらかというと、当時上り坂の媒体だった映画・映像にコンシャスな嗜好の、揃って27歳という若さに似合いの新しがりな書き手だったことを表しているように思います。

 思い返せば、『Y』に先立つ半年ほど前、クイーンの所謂“国名シリーズ”で月河が初めて通読したのが『フランス白粉の謎』(邦訳題『フランス・デパート殺人事件』石川年訳・角川文庫)で、『Y』より2年早い刊行ですが、これはもうはなから、ニューヨーク五番街カドのデパートメント・ストアの華やかなショーウィンドウ内、電気仕掛けで最新式のベッドが登場すると、なんとデパート社長夫人の血まみれ死体が転がり出る・・という、なんとも映像的と言うか、ストレートにB級外連味たっぷりの幕開け。

 クイーンのミステリは本格の中の本格、論理のフェアプレイで読者に挑戦する純粋謎解きモノで、どちらかというと現代の感覚では古典的過ぎて融通の利かないジャンルの作品と見なされているかもしれませんが、最も“本格”として完成度の高い作のひとつとされている『Y』ですら、いきなり“怪屋敷モノ”で“因縁の一族モノ”、しかも探偵役は元・俳優の、“雪のように白い”ロン毛のスーパーシルバーヒーロー。月河がこれに先立つ1年前ぐらいから嵌まっていた怪盗ルパンシリーズや江戸川乱歩の少年探偵シリーズぐらいの、面白おかしいノリで読んでいてよかったんだなぁと、いまにして思います。当時は月河も、意識が未だ背伸びのガキんちょで、ミステリの“本格”=“大人の世界”“高級”と早合点、勘違いしていました。高級どころか、思いっきりわかりやすくB級だったのにね。

 ここに気がついていれば、意外にあっさり、残りページ数たっぷりある段階で犯人がわかっちゃったこと自体も、「だはは、しょうもねえな」と楽しめたかもしれません。

 (この項続く)

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クイーン『Yの悲劇』再読 ~ハッタりも謎のうち~

2021-10-21 21:24:55 | ミステリ

 エラリー・クイーン『Yの悲劇』は、古典本格ミステリの中では、エドガー=アラン・ポー『モルグ街の殺人』やアガサ・クリスティ『アクロイド殺し』等と系譜を同じくする“意外な犯人モノ”とされていますが、月河は初読時、全441頁(田村隆一訳・角川文庫版)の残り100頁少々で犯人がわかりました。

 「・・なーんだ」って感じの解でした。別に自慢でもなんでもなく、多いと思いますよ、この作品には、そんな読者。

 ・・本格ミステリで、ミステリファンなら最低限タイトルと著者だけは知らない人がないだろうというド古典の作品で、いまさらネタバレ厳禁もないもんだろうと思いつつ書くのが難しいのですが、ホレ、あの、“計画犯”の“計画書”が、探偵に発見され写しを取られ(コピー機なんかない1930年代ですから手書き書写です)作中全文紹介されると、最初の卵酒毒殺未遂を計画書通りの体当たりなやり方で“阻止”した人物、ああアレが“実行犯”だったんだな・・と誰でも察しが付くはずです。

 だからそれに続く、探偵による犯人の(低)身長割り出し、ミスリードのためのニセ証拠の辻褄合わなさなど、謎解きの眼目のパートはかなり体温が引いた状態で読んでいた記憶があります。

 当時は海外ミステリの沼に嵌まり始めてまだ浅かった月河、“冒頭からラストまで、謎の提示・展開と謎解きっきりで全編”“それ以外のオハナシ一切無し”という、すがすがしいまでの“本格”っぷりに惚れていたクイーン作品の白眉ですが、あらためて久々に読み直してみると、“意外な犯人モノ”でありながらそれこそ意外に早い段階であっさり犯人特定できてしまう奥行きの浅さをはじめ、いろんなところでわりとあからさまに“B級感”の漂う、いい意味でも悪い意味でもツッコミどころの多い娯楽作だったことがわかります。

 ちょっと前のエントリでも書いたように、この作品はいきなり“お屋敷”モノ“因縁の一族”モノです。横溝正史さん『犬神家の一族』や『悪魔が来りて笛を吹く』等の、“親の因果が子に報い”式お約束満載ストーリーの一連の作品とも通底するし、いまの感覚で言えば非常に2サス的な、「いねーよこんなヤツら」の中で自己循環、自己完結する世界観です。

 とはいえあくまでUSA製のミステリですから、フロム英国的なゴシック・ロマン性はほとんどありません。お屋敷モノではあっても幽霊屋敷ではない。ゴーストは出ないし、呪いも祟りもありません。

 ミステリビギナーの月河が魅了された新鮮さはここも大きかったと思う。舞台となるハッタ―家は、当時の、新聞中心のマスコミから『不思議の国のアリス』の人物にちなんで“マッド(気狂い)・ハッタ―”と仇名され、「つねにグリニッチ・ヴィレッジの上流社会の境界から一インチだけはみ出している」「いやな連中」(同訳・同文庫版)とささやきかわされる奇矯な一族ですが、なにしろ舞台は英国でもフランスでもなくアメリカ合衆国です。“中世”という歴史のページを持たず、皇帝も王妃も、王侯貴族も存在したことのない国ですから、貴顕の人々同士が血で血を洗う継承権争いや内戦の記憶はない。ハッタ―家の社会的な磁場の強さは「富裕でけちんぼうのオランダ人の先祖から代々受けついできた巨額の資産」「顧問弁護士ですら、財産がいったいいくらあるか、正確に知るものはいない」と、ひたすらカネがもたらすもので、しかも、あろうことか、作中殺害される当主たるハッタ―老夫人の遺言状が(横溝作品のように)紹介されて、その異様な分割条件が一同に動揺を惹き起こすくだりもあるのに、これが事件解明にまったく影響しないときています。

 腐るほどカネがあり、カネで社会的重きをなしているという設定の家と家族を舞台にしていながら、事件はビタ一文カネと関係ないまま起こり、収束するのです。

 言わば、“ものすごい大金持ちの一族で起きた事件”という設定自体が、壮大なミスリードになっている。

 また、“親の因果が子に報い”的な恨みつらみや呪い祟りの連鎖の代わりに、老夫人が二度の結婚を通じて配偶者とその間にもうけた子供たちにもたらした“病毒”=性感染症が設定され、その影響で、家族全員がなんらかの形で心身に異常をきたしているというのもかなり大胆というか、ご無体なB級路線です。1930年代前半の初刊だったから通用したのか、現代だったら当該疾病の患者団体や、専門医の学会から“実態と違う”“患者と家族を貶める”と非難囂々だったでしょう。

(この項続く)

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終わってみればの8月 ~YYガヤガヤ~

2021-09-05 17:44:26 | ミステリ

 「やればできるもんだな」という感想で終わった8月でした。

 なんだかんだで一年遅れの東京五輪は敢行され、近来稀に見る連続真夏日で開催地変更の意味がほとんどなくなった札幌での競歩・マラソンも、少なからぬ棄権者は出しつつも人死にまでは至らずコンプリート。「五輪で感染拡大が収拾つかなくなったらこれこそ中止になるかも」と危惧されていたパラリンピックも、五輪閉会の二週後に予定通り開幕し熱戦が繰り広げられ、日本人選手の感動のメダル獲得報道も続いています。

 台風も大雨も落雷も竜巻も会場直撃はなく、テロ等目立った事件も起きず、医療逼迫で一般都民国民の救急がワリをくうのではとの不安をよそに、関係者の感染事例も、まぁギリ許容範囲でしょう。今日、予定通りなら閉会式を迎えますが、大きく息を吸って、ためてソレッ!と突入してしまえば意外と、浮上するまでは目標がありますから突き抜けられちゃうんですね。案ずるより横山やすし(?)。 

 月河は「まぁ開催絶対反対と言うわけではないから、準備にかかりきりだった人たちが絶望しない程度に盛り上がれば」という微温で対応。スケボーストリート男子の堀米選手や、同じく女子の西矢選手・中山選手の試合?演技?ってか滑走は見ました。ワザはよくわからなかったけど、ピエット・パラデザインのTシャツのカラーリングがきれい。同じもの売ってないかな、と思ったらNIKE製品だそうで、どこも完売、そもそもウチらの地方の店には回ってもきてないとのことでした。

 7月中盤から本当に、うっかりアウトドアに出れば熱中症必至の猛暑だったので、インドアで久々に落ち着いて読書などしていました。十代の頃の初読後、何度か読み直したけど最後に読んだのが何年前になるか憶えてない『Yの悲劇』(エラリー・クイーン)なんか未だに新発見があっておもしろかったですね。初読当時は、物証物証また物証の積み重ねでさくさく行くテンポが快適で「これぞ本格の鑑」と思ったのですが、改めて物語の“ガワ”込みで眺めつつ読んでいくと、これ奇矯な一族が愛憎縺れて暮らす怪屋敷ものでもあるんですね。日本の作品で言えば横溝正史さんの、角川映画などで映像化もされた一連の作品に近しいものがある。アガサ・クリスティ等のメイドイン英国とは違う、USA流の合理主義ミステリの代表と思っていただけに、ここへ来てのこの感触は新鮮でした。

 一連の“悲劇”の底流に流れる、一族の秘密の源泉として“性感染症”の使い方が、やっぱり1932年(日本では昭和7年)刊クォリティなのは、御愛嬌と言っていいでしょう。

 初読の際はこのシリーズ、YZX最後の事件、の順に読んだのですが、この機にまるごと読み返すとさらに新しい所感が湧きそうだな。『Y』に先行すること4年で世に出て、クイーンの本作着想の契機になったと言われるS・S・ヴァン=ダイン『グリーン家殺人事件』もリピートしてみるか。あれは『Y』のハッタ―家以上に、異様な一族だった記憶があるなぁ。本棚を本気で探せば、奥付昭和四十年代の角川文庫や、同じく1970年代の創元推理文庫が出てくる、月河もこういう分野だけは物もちが良いときている。

 年によって多少差はありますが、冷涼地なはずの当地でも、四季の中で、なぜか夏が実態以上に長く感じられるのは、7月と8月が2か月続けて“三十一日ある”月だからかもしれない・・と思う事もある今日この頃。たかが二日違いと言え、この差はじんわり大きいですよ。

 三十日しかない9月、大きく息を吸って夏を突き抜けた直後の2021年は、例年にもまして通過が速そうな。思い立ったらすぐやりましょう。読みましょう。

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