山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

どちらが貧乏人の味方?

2007-07-31 22:06:04 | Weblog
 民主党の圧勝、おめでとう!
 でも、勝って兜の緒を締めよ!の如く、民主党自体が雑多な集団で、憲法改正を強く主張する派もあれば、護憲を貫こうとする派もあるくらいだから、よほど引き締めないと分裂の恐れもあり、また、むろん聖人君子だけからなる政党ではないし、身内から不適切発言をする者や政治資金が不明朗な者も皆無とは言えまいから、やはり叩けばホコリが舞い上がり、「民主党よ、お前もか」と国民から絶望されることすらありうるのである。
 それにしても民主党の地球環境に関する考え方はいかなるものなのか。
 財界や富裕層の味方と揶揄される自民党の方は安部総裁や中川幹事長を始めとした幹部の大半がノーネクタイのラフなスタイルで選挙運動はもちろん、公式の席上でも通し続けたたのに対し、庶民の味方のはずの民主党の方は小沢党首を始めとしてほとんどが真夏の屋外でさえ背広にネクタイという貴公子然とした服装で臨んでいたのが対照的であった。
 まるで、サッカー選手に喩えれば、欧州チームの選手に金髪茶髪が少なく、日本選手に金髪茶髪が目立つのと同じ逆転現象のように思えた。
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20060620
 小沢さん、地球温暖化問題に真剣にとりくむなら、初秋くらいまでは自民党に見習ってノーネクタイ姿に切り替えていただきたい。
 それとも有権者はネクタイ着用の政治家と政党ならば引き締まった好印象を感じ信頼に値すると考えたのだろうか。むろん国民の多くは民主党に対する積極的支持というよりは政府与党の積み重なる失点による消極的支持で民主党を躍進させたのだろうが、幾分かは外見の「見映え」での投票もあったように思える。
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低い投票率、身近すぎる争点、日本が危ない!

2007-07-29 23:23:22 | Weblog
 参議院議員選挙の結果はまさに日本が危機的状況にあることを示しているといえる。
 それは自民党が大敗して民主党が大勝したことを申しているのではない。
 まず、第一に投票率の低さである。
 日本では公職選挙はほとんどが日曜日に設定され、しかもここ何年か以前からは投票時間が午後6時から8時までに延長されたし、「ひらがな候補者」が多くなり、投票に際し記載しやすくなった。
 それにもかかわらず投票率は相変わらず低い。
 第二に今回の選挙の争点は、年金や景気・雇用などどちらかといえば衆議院議員選挙向けのものが大勢を占めており、憲法改正、地球温暖化、原発とエネルギー、防衛、日米関係、中国・南北朝鮮との関係などはほとんど争点にすらならなかった。国民に身近な問題であるはずの少子高齢化問題すら上位にはならなかった。それですら投票率はほとんど向上していない。
 つまり、国家の存亡にかかわる問題に国民は関心が薄いことが今回の選挙でも示され、それが日本の将来(たぶん近い将来)にとって大きくマイナスに作用するのではないかと心配されるのである。

 ※ 写真はギリシァ・アテネのパルテノン神殿。
  http://www.mobi-archi.com/blog/post_28.phpより   
 アテネの民主政治も「衆愚政治」に堕し、アテネの繁栄も衰微へと傾き、やがて都市国家(ポリス)としての独立も失われていった。

 
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昭和の山形の山村と市街地の映画

2007-07-28 23:34:54 | Weblog
 10月の山形国際ドキュメンタリー映画祭の開催を前にしての映画会が来月4日に開催される。2本の映画が上映されるが、いずれもドキュメンタリー映画ではない。
 山形に以前から住んでいる、もしくは以前住んでいたことがある年配層にはとても懐かしい映画であろう。むろん、山形市民でなくとも豪華な配役陣の名前を一目見ただけで、懐かしさでいっぱいになる映画といえよう。
 2本とも山形を舞台とした映画で、一つは近郊の山村を舞台とした『山びこ学校』であり、監督は今井正、もう一つが山形市の中心市街を舞台とした『顔役』で、監督は中村登である。『山びこ学校』は昭和27年の作品で主演は木村功、『顔役』は昭和33年の作品で主演は山形県出身の伴淳三郎であり、山形の当時の山村と市街地の情景が見られるだけでなく、山形弁もふんだんに聞くことができる。
 日時は8月4日(土)の午後2時から『山びこ学校』、4時から「フィルムの中のやまがた」をテーマとしたトークショウ、5時15分から『顔役』、ともに山形市中央公民館。料金など詳しくは同映画祭事務局まで。℡023-666-4480

なお、『山びこ学校』の舞台となった旧南村山郡山元村(現在の上山市山元地区)の現在の風景は下記URLにより見ることができる。 HP『山形市の街並み』より
http://www.yamu.deko8.jp/07-06-23mujinamori/07-06-23mujinamori.html
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日本最高気温の記念日に打ち水

2007-07-25 21:50:41 | 郷土史
 今日の最高気温は31.3度。7月になって初めての真夏日である。
 この7月、山形では地球温暖化というよりは地球寒冷化の感じすらしてならない。でも、ヨーロッパでは異常高温だそうだ。
 この山形では丁度84年前の昭和8年の今日、40.8℃という日本最高気温を出している。“公式には”未だこの記録は破られていない。
 ともかく山形は北国だから冬も寒いし雪も積もるが、典型的な盆地であるがゆえに夏が暑いことでもかなり有名である。40度はともかく、35度を超えることは夏の山形では珍しくない。それにしても今年の7月は涼しい。
 そんなわけで、今日中心街では歩道に打ち水をして路上の気温を下げるというイベントが行われた。
 でも、開始時間とほぼ同時刻に雨が降り始め、とんだ「天のおせっかい」となった。
 さて、当時の新聞(写真「左上」)であるが、次のように報じられている。

昨二十九日の酷熱は驚く勿れ摂氏四十度八、華氏百五度五といふ殺人的厚(※)さで街頭のアスフアルトは融け、飼鯉は?死し、脳病院では特別患者に神経を尖らし荷馬車の馬が心臓麻痺でも起こしさうな国熱ぶり測候所にきくと明治廿三年同所創立以来のものでしかも全国(内地)測候所?歴史的最高レコードだといふ白熱の太陽がもう一尺でも近づくなら生けとし生ける北半球の動物が焼死してしまふであらうしかも右四十八(※)度八といふ温度は測候所の「百葉箱」といふ特別な気温計に現れたもので屋外の照りつく場所だったら百二十二度まで上ってしまった。加藤側溝所長は  いやしや、大した暑さです。前古未曾有、新レコードで創立以来のものです明治四十二年新潟測候所で三十九度一といふのがありましたが四十度突破は珍しいです。ここでも大正七年に三十七度九分のレコードがありましたが今年に比べるとものの数ではないです  と語った  
(※)は誤記のまま ?印は解読不能の文字  

 ※ 写真「右下」(←「左下」の誤り 後日訂正) 山形の土蔵は酷暑期には屋敷内の「避暑地」としても利用された。
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高湯温泉時代の蔵王温泉

2007-07-24 22:18:28 | 建物


 蔵王温泉が観光化するはるか以前の時代の蔵王温泉の写真(絵葉書)が我が家に残されていたので、紹介したい。そのうちの1枚は再掲である。(2006年1月5日の記事)
それぞれの写真をクリックすると拡大します。
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善男善女たちの暴言?の応酬

2007-07-23 23:43:52 | Weblog
 安倍内閣の発足後初の国政選挙である参院選の投票日はあと5日後に迫っている。
 閣僚の自殺や“失言”が相次いだ安倍内閣に対する国民の審判はどう下されるのか。
 それにしても与野党のワクを超えた左右両翼の間では戦後何十年も“悪罵”の応酬が繰り返され続けており、それに関することを主要な争点にしている政党もある。
「左」は「右」に対して「軍国主義者」呼ばわりし、「右」は「左」に対して「亡国の徒」や「国賊」呼ばわりしている。これでは“失言”をはるかに凌駕する確信犯的暴言のようなものであるが、国民は慣れっこになっており、ほとんど問題にされることはない。
 いわばどちらの呼称も国民を死地に追いやる輩(ヤカラ)の意味だから、犯罪人、さらに意味を強めると“殺人者”と見なすのと同然なのである。
 ところが不思議や不思議。ふだんこのような最大級の悪罵の応酬をやっている人たちと個人的に会ってみると、どちら側の人も大半は理知的にして常識をわきまえた人たちで、ふつうの一般市民とそう変わりがない。「渡る世間に鬼はいない」といわれているように、左右どちらの人たちも、それほど恐ろしい感じの人たちではない。
 それなのに憲法や日米関係、自衛隊、外交、靖国神社、歴史認識などでは「天と地」ほどの見解の相違を見せ、激しく対立し、やがて悪罵の応酬となる。
 しかし、それらの問題を離れれば、両者は同じ人間として、また同じ日本人として大した差はないから、それほど互いに不信感を持つ必要はないと思われるのだが・・・。
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自動車産業には震度7弱?

2007-07-21 23:51:25 | Weblog
 今朝読んでいた本(写真「左」)の中に中越沖地震に関連ある記述を偶然見つけた。
 著者の吉田司氏は山形市出身で私の知人でもある。1988年に大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。
 むろんこの本の出版は中越沖地震発生以前の2005年。それにしても柏崎の自動車部品メーカー「リケン」に係わる記述を発見したことは、柏崎での大地震の発生を予言していたかのようにすら思え驚きを禁じえなかった。(←記述を一部書き換え 7/22朝)
 以下に記述を抜粋して紹介したい。

「・・・・田中角栄の初期の事業は多くが理研がらみで進んでいる。彼の故郷・新潟に多くの工場を持つ理研コンツェルン総裁の大河内正敏にどーゆーワケかよく可愛がられたのである。・・・・角栄が戦後「列島改造」をコンピューター付きブルドーザーで強引に推し進めたのは、この大河内理論の実践化みたいなものだったのだ。・・・・角栄の「列島改造」が清い水・青い空、緑の森林を滅ぼす環境破壊だということは「耳タコ」の反省噺だが、それは、もっと深く、山の神・森の神・水の神・海の神・空を飛ぶ妖精・精霊の類すべて、すなわち縄文系「八百万の神々」の風土からの追放や扼殺につながったということを誰も語らない。・・・・」

 つまり故田中角栄元首相は現在の柏崎市内の旧西山町出身であり、柏崎にある「理研」工場が地震被害により自動車のエンジン部品であるピストンリングの生産が生産停止になったため、トヨタを始め多くの国内自動車メーカーも生産停止の影響を受けている。
 「列島改造」のブームが終焉して久しい現在もなお、都市部の「魂」が感じられる歴史的建造物の多くは留まることのない車社会の進展のために解体され続けていることも附記しておきたい。理研(リケン)の工場と自動車産業が激震に見舞われるはるか以前から農山村も大自然も都市の歴史的街並みも激震に見舞われ続けてきたのである。
 ※ 写真「右」はYAHOOニュース内asahi.comより
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婚礼クリスチャン大国ニツポンの風景

2007-07-19 23:11:01 | 建物
 こごはどごだべ? 
 スコーキ(飛行機)さぬって(乗って)こごまで来たわげでないス、田圃のながズデンシャ(自転車)さまだがて(またがって)来ただげなんだげど、すこす(少し)たでもの(建物)がうがぐ(多く)なて来たど思たら、いぎなりしぇいよう(西洋)のおっきな(大きな)おでら(お寺)みだいなのが目のながさ入てたまげですまたのよっすう(驚いてしまったんですよ)。 聞いでみだら、そごむがさりあげっどごなんだど(尋ねてみたら、そこ結婚式を挙げる会場なんだそうだ)。 [→translated by Mr.Daniel Kahl←勿論ウッソー!]

※ 写真はもちろん山形県内の外面のみの教会堂
→ [ヒント] ハナカミ王子の石碑と昭和初期国民的歌姫の生家の近く
           (6月中旬~下旬の記事を参照)
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土蔵は危ない?・・・山形の蔵 旧市街東部(5)

2007-07-18 21:01:57 | 建物

 柏崎の大地震では古い木造家屋や土蔵が数多く倒壊しており、土蔵を危険視する風潮が急速に高まる心配がある。
 それでも土蔵建築の存在感と重厚にして端正な美観が魅力溢れるものであることには変わりがない。ここが日本であり山形である限りいつまでも存続し続けてほしいものである。
「地震に強い建築」だけが錦の御旗になって、日本建築が無粋で巨大な玩具箱でしかないような建物だけにとって替わられるようでは余りにも寂しい。
それにしても山形の蔵は大きな地震が歴史的にも少ない地域にありながら耐震的にも堅固に造られているように思えるのだが、建築家の方の目にはどのように映るのだろうか。
 
 
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蔦のからまる昭和初期耐震校舎

2007-07-16 23:46:41 | 建物
 台風4号が去った直後に柏崎を中心とする大地震が襲った。山形でもかなりグラリと感じた(山形気象台の発表では震度3だが、隣りの市町ではいずれも震度4。)
 むろん中越地方の被害は甚大だが、もし台風と地震が一緒だったら更に深刻な被害となっていたであろう。ともかく被災者にはお見舞い申上げたい。
 さて、昨年は耐震偽装事件がマンション住民らを震撼させたが、日本の耐震建築の創始者にして地震工学、耐震構造の基礎を築いたのが我が山形県出身の佐野利器(としかた)である。彼は明治13年に現在の白鷹町荒砥に生まれ、東京大学工学部で学んだ。
 後に建築工学の日本の権威となり(日本建築学会会長もつとめた)、関東大震災の後に東京を始め全国の耐震建築の推進に尽力した。とりわけ東京の震災復興小学校の建設に力を入れた。
 まもなく山形でも耐火耐震建築が盛んとなり、その草分け的存在が山形市立第一小学校の旧校舎であり、昭和2年に竣工している。
 設計者は秦鷲雄という山形ゆかりの建築家だが、佐野とは親戚関係にあり、当然佐野から豊富な助言指導を受けたと考えられる。平成13年に登録文化財に登録。

※ 写真「上」山形一小旧校舎 「右下」広尾小学校(東京渋谷の震災復興小学校 やはり山形一小と感じが似ている) 「左下」佐野利器

※ 山形一小の内部写真 1月30日の記事(←クリック)
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