山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

開かずの洋館“おくられびと”にならず

2009-02-28 23:56:54 | Weblog
 五年半前に古い建物好きの仲間で酒田を訪れた際に予定外のこの建物を見つけた時は一同感嘆の声を上げたものである。
 でも、近づいてみるといかにも古ぼけて、しかも使用されている様子は伺えず、まさしく開かずの洋館であった。だから、そのすぐ傍でうろちょろしている10名足らずの一団を見かけた通行人にとっては、さぞかし不審な一団か奇人変人の一団に思えたのかもしれない。この洋館が“おくられる”のは時間の問題と思われていたからである。
 洋館だけでない。隣接の老舗料亭風の和風建造物も閉鎖されていたように思えた。この和と洋の二つの建物は一体のものであったに違いない。
 それから五年半の後、映画『おくりびと』がアカデミー賞を獲得したことにより、酒田の有志たちがこの洋と和の建物を同時に保存して、新しい観光の目玉にしようと動き出し始めた。日本人はもちろん、多くの外国の人びとも『おくりびと』を見るだろうから、外国人観光客にも喜ばれるだろうと期待している。
写真のうち、「下右」は関連HPより。その他の3枚は五年半前に撮影
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“おくりびと”としての光姫観音順礼

2009-02-26 22:05:47 | 郷土史
 六番に平清水今年の春花見の折柄に多くの人を殺せしも昔語りと早やなりぬ。頓證菩提其の折に討た果てたる者共をご回向し発起をなし成仏をなすべしと普門品を高々と御読誦なさせられ念仏申させ給ひ。極重悪人無比方便唯称す弥陀佛生極楽南無幽霊浮み給へと。懇に伏し拝む心のうちこそ殊勝なれ。七番に岩波や皆人の歩を運ぶ岩波の誓は尽きじ苔のむす迄。實に過ぎし春此処にて多くの人討ちしも昨日の様に候なり。取り別け菩提を弔ひて得さすべしと安養比丘尼申しければ。姫君聞召誠に誠に此処と聞く懇に弔はんと。女は五障三従の罪深き身其上不思議の事にや人多く殺せし返報如何斗り思ひやられて悲しけれ。打たれし者共今は又修羅の街にち沈淪せんと。御経遊ばせば御声松の嵐に響きて尊さ限りなかりけり。罪生懺悔の功徳にて地獄へ堕ちし輩も浮びつやらんと見えにけり。
 
 いきなり古文調の文面となったが、これは最上三十三観音札所を最初に巡礼したとされている山形城主の娘光姫の物語りを著した『最上三十三観音順礼初』の記述の一部である。(活字化されたのは明治末年。上はその活字本のまま)
 この著書は江戸時代後期の安永年間(18世紀後半)に記されたものであるが、光姫は美貌のゆえに武士たちの争いのもとになり、多くの武士を死に至らせたことを悔やんで彼らの供養のために巡礼を思い立ったと記されている。
 まさに、上述のとおり、幽界をさ迷う武士や地獄に堕ちた者をも浄土へと“おくる”手段としての巡礼を始めたわけである。
 斬り合いで命を落とした武士たちの多くは決して身内の武士たちではなく、強い横恋慕のゆえに姫を拉致しようとした地方豪族に命じられて待ち伏せしていた武士たちであり、山形はそのような者たちをも哀れんで巡礼という思い切った行動を思い立った優しい女性の物語りを生んだことに誇りを持ってよいであろう。
◆写真説明 上記『順礼初』の中で光姫をめぐる武士たちの激しい斬り合いの場面が記された第七番札所・岩波観音
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おくりびと&むかえびと

2009-02-23 13:40:07 | イベント

 山形は今、映画とテレビで大いに沸きかえっている。
 映画については今日アカデミー賞の受賞が発表され、外国語映画(アメリカでは日本語は外国語)部門で山形県の庄内地方が主な舞台となった『おくりびと』が受賞した。
 テレビについてはNHK大河ドラマの『天地人』の視聴率がかなり高い。
 『天地人』の主人公・直江兼続は関ヶ原の戦いと同時期に大軍を率いて山形盆地になだれこんだ。この場面は今年の後半に登場するだろうが、その上杉の2万余の軍勢を迎撃するのが山形城主・最上義光である。
 本木雅弘さんが演じる納棺師が“おくりびと”ならば、意味合いはだいぶ違うが、最上義光は“むかえびと”ということになる。
 兼続は山形城の支城の長谷堂城を攻めあぐねている間に関ヶ原で西軍敗北の報を受けすばやく撤退作戦を始め、山形軍は激しく追撃したが、結果的に最上義光は直江兼続を葬ることなく領地の置賜盆地に送り返した。しかも義光は兼続の見事な撤退作戦ぶりを称賛さえしている。こうして最上義光はこの戦いで“むかえびと”と“おくりびと”の双方を演じたわけである。
 ちなみに、映画『おくりびと』の主要なロケ地となった庄内地方は直江の主君上杉景勝の領地であり、庄内からも多数の上杉軍が山形盆地に押し寄せている。
 まんず、今日はしぇがったの~。
  (↑庄内弁のつもり。※内陸人はあまり庄内弁には精通していない。)
◆写真説明 これらの写真はすべて2003年に歴史的建造物好きのグループで酒田を訪れた時のものである。 ①『おくりびと』の納棺師の営業所となった酒田の老舗料亭附属の洋館 6年前に既に送られる(解体の意味)べき雰囲気であったが、今や世界遺産的存在に ②③『おしん』の舞台ともなった山居倉庫 ④酒田の豪商鐙屋 ⑤旧白崎医院 ⑥本間美術館の庭園 “日本一”の大地主と言われた本間氏の庭園
  ↑ クリックにより画面拡大

※ 10月11日の記事(↓下記をクリック)をも是非ご覧ください。 
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20081011
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炭焼藤太と金売吉次が通った道 ⑫

2009-02-21 23:11:19 | 郷土史
 小白川天満神社
 このシリーズの前回の⑪は2月9日であったから、またもや約2週間ぶりで歩みの再開となる。前回の頭加智地蔵もかつての短冊状(口の悪い者はフンドシ状と呼ぶ)に長い街村の小白川町に在り、今回の天満神社も同じ小白川町に在るのだが、この2ヵ所の間には国道13号の高架陸橋があるため、かつての一体的な街村も分断された感じである。
 この天満神社はその名のとおり学問の神としての菅原道真が祭神だが、同時に日本武尊(やまとたけるのみこと)も祀られている。
 もともとは払鬼神社と称していたようで、「鬼」つまり大和朝廷にとっては夷狄であった先住民(蝦夷とかアイヌとか云々)を払い除けるという意味の神社であったから、朝廷方の軍勢がこの辺りに陣を構えていたのであろう。
 つまり、この辺りで朝廷方と先住民がせめぎあっていたくらいだから、神社とともに歴史はかなり古いことになり、炭焼藤太らが商いのために通過した時代には既に人家もかなり並んでいたと考えられる。
 しかも、古代の官道たる笹谷街道を往き来する物資の出羽国最初の集散拠点であり馬の中継ぎ場としての「最上駅」はこの辺りにあったと目している研究者も居るくらいだから、古代には栄えた所であり、天満神社は藤太の時代には既に地域のシンボルになっていたのであろう。

※社殿の中には学問の神社らしく、オランダ語で記された百人一首の絵馬も掲げられている。 ⇒ 5月10日の記事(←クリック)参照 
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藤原実方卿と笹谷街道

2009-02-20 22:35:49 | 郷土史
 かくて陸奥国司としての任期終了を間近にして藤原実方は現在の宮城県名取市の笠島の地で落馬がもとで不帰の人となった。
 彼は天皇により「歌枕の地を訪ねよ」ということで歌枕の地が多い陸奥の国に下向したが、その一つである阿古耶の松を探し当てたのか史実としての確認は困難だが、千歳山北麓の萬松寺境内には彼の墓と称するものが建っている。
 それが単なる供養碑なのか分骨された墓なのかは不明にしても、もし彼が実際に千歳山まで来たとすれば、陸奥国府と出羽国とを結ぶ官道としての笹谷街道(名取川と太郎川に沿う)を通ったことであろう。もしかしたら、その帰り道の途中に彼が落馬した名取郡笠島の道祖神社の前を通り抜けしようとしたのかもしれない。
 それにしても実方が赴任した当時の陸奥国府は依然として多賀城にあったのか、それとも多賀城は既に国府としての機能を喪失していたのかは不明だが、仮の国府もしくは準国府のような官衙が古墳時代からの穀倉地帯である名取郡に置かれていたとも考えられ、それゆえに笠島の地をも通過したのかもしれない。
◆写真説明「左」名取川 上流を辿ると二口峠または笹谷峠に至り、出羽国に入る。二口峠を越えれば名刹山寺に、笹谷峠を越えれば阿古耶の松がある千歳山に至る。 「右」笹谷街道に今でも残る松並木

※藤原実方については2月13日と16日の記事参照
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崩れ行くものばかり  世も末じゃ~

2009-02-19 23:52:24 | Weblog
 一見、互いに関連のなさそうな写真ばかり。
 猛烈な山林火災・・都市景観・・山村風景・・最近辞任した中川財務大臣・・
 左上の写真は最近猛威を奮い2百人以上の住民を犠牲にしたオーストラリアの山林火災、右上は拡幅された中心市街地の道路による新しい街路景観だが、無粋極まりない駐車タワーが沿道に建造され、街路景観を著しく低下させている。市街地は景観が崩れているだけではない。当然経済的にも地盤沈下と空洞化は激しい。
 左下は山形県村山市の山村集落の景観だが、典型的な過疎の集落で、残された茅葺き屋根の農家も老朽化が激しく、自然倒壊か解体を待つだけの家屋が多い。
 右下は言うまでもなくGセブンでの記者会見で飲酒または風邪薬の飲みすぎで酩酊状態になり辞任した中川財務金融大臣である。
 最初のオーストラリアの山林火災は地球温暖化と気候激変の進展を如実の物語るもので、崩れ行く地球環境を表している。
 つまりは、街は崩れ、農山村は崩れ、自然と国土は崩れ、地球環境は崩れ、経済も雇用環境も世界的に崩れ、地域社会も家族も崩れ、政治も崩れ、個人も毀れている。
 やはり、世も末なのであろうか。
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千年昔の交通事故死 馬から落ちて落馬して

2009-02-16 14:58:21 | 郷土史
 前回記事「かくとだに・・・」の続き
 
 山形のシンボル千歳山の阿古耶の松を訪ねての帰路だったのか、またはそうでないのか、4年前に陸奥国司として赴任した藤原実方卿はこの神社の前を通りかかった時に落馬して絶命した。いわば平安前期のエンジントラブルによる交通事故死である。
 現在も道祖神社と称するなかなか風格のある神社であるが、1010年昔の当時も現在のような立派な社殿を構える神社だったのであろうか。
 道祖神と聞けば、長野県安曇野に多い野ざらしの石碑程度のものを連想するが、これほどの広大な境内と社殿を構える神社だったとは訪れるまでわからなかった。
 土地の者は「親の進める縁談に逆らって好きな男と一緒になって当地に住み着いた女性が祭神ですが、性器をかたどった物を供えればすべての願い事が叶いますから、是非そうなさってください」と勧めたが、そんな下卑た女神にそんな供え物したくはないとばかりに、馬から下りないまま通り過ぎたので、祭神の怒りに触れたのか、馬は暴れ出したために彼は落馬して、それがために絶命した。
 彼の遺体はここから700mほど北に葬られた。また、千歳山萬松寺の彼の墓と称する物があるが、彼の遺言により遺骨の一部が葬られたのであろう。あるいは単なる供養碑なのか。(※前回の記事を参照)
◆写真 ①名取市西部の愛島北野地区にある実方卿の墳墓を離れて南に10分ほどすると山道に入る ②途中、道に迷ったが県道沿いに「道祖神社」の標識があり、そこからほんの1分で鳥居の前に出た ③堂々たる社殿で、夫婦和合、子孫繁栄、五穀豊穣、そしてむろん文字通り旅の安全、悪霊の流入阻止が千年前も祈られていたであろう ④⑤鳥居の脇にある石像は猿か 道案内の神の猿田彦も女神とともに祀られている 工事用の車の駐車が多かった ⑥道祖神社のある丘を下り名取市街地に近い老人ホームの傍にあった江戸時代の民家「中沢家」 ⑦⑧⑨名取市旧市街地(JRの東側)で見つけた土蔵と豪商屋敷
 以上、名取駅を発着点としてすべて徒歩でした。

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かくとだに、実方卿の埋葬地

2009-02-13 21:39:42 | 郷土史
 1月下旬に山の向こうの宮城県に郷土史探訪ででかけた。
 山形市のシンボル千歳山の麓に平安の歌人藤原実方(※注1)の墓があるが、彼の墓は奥羽山脈の向こう側の宮城県にもあるからである。
 実方は陸奥の国司として赴任してこちらに下向したのだが、国内を巡回中に落馬してそれがもとで間もなく死亡したのだという。
 その彼が阿古耶の松を探しに千歳山をも訪ねようとしたとも伝えられている。
 この伝承については実際に千歳山までやって来たという説もあれば、結局は探せなかったという説もあるが、いずれにせよその途中に落馬した(※注2)ようだ。
 彼は三十六歌仙の1人としても有名であり、百人一首の「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしもしらじなもゆる思ひを」の作者でもある。
 山形の墓と宮城県名取市の墓のどちらが本当の墓かというよりは、山形の場合は分骨埋葬と考えれば無理がないように思える。
 ※注1:実方中将とか実方朝臣とも呼ばれている
 ※注2:笠島の道祖神社の前で不敬したために神の怒りに触れたためという
◆写真説明 ①JR名取駅西口を出て10分も歩けば実方中将の埋葬地の方角が望める 新幹線の長大な高架橋も見える ②こんな田園風景の中を歩く ③交通量の激しい県道にさしかかった所に埋葬地の方向を示す案内塔 ④いよいよ近づいた ⑤実方中将もしくは源義家が馬の鞍を掛けたと伝えられている鞍掛石 ⑥農家とビニールハウスの間に入口を示す標識 ⑦薄暗い樹林の参道の突き当たりに“墓”があるはず ⑧柵の中の土饅頭が実方中将の墓 今で言えば県知事の墓がこんな物寂しい所にある事に物悲しさを覚える ⑨彼の埋葬地を後にして道祖神社に向かう 右手が名取市街の方向

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建国記念日、まほろばの里の冬牡丹まつり

2009-02-11 17:34:09 | イベント

「まほろば」という言葉は日本書紀の日本武尊の記事に出てくる古語で、「大和は国のまほろば・・・」という歌は大変有名である。
 それなら「まほろばの里」とは大和盆地のことかといえば、この「まほろば」という古語を使用する地域は全国に数多い。意味は「すばらしい」とか「うっとれするように見事な」とかになるのだろうか。
 今日は建国記念の日。戦前は初代天皇の神武帝が大和盆地で即位した日として紀元節という名で祝われていたが、それに因んで戦後しばらくしてからもこの日を日本国の誕生日として定められた。
 それならば、やはりわざわざ奈良県まででかけたのかといえば、さにあらず。
 ご覧のとおり山形市よりは雪深い高畠町である。確かに高畠町は古墳など古代遺跡が多く、大和平野と似ていないこともない。
 以下、写真で現在同町で開催されている「冬咲きボタンまつり」の一部を紹介したい。
◆写真 ①JR車窓から見える高畠駅の一つ手前の赤湯駅近くの白竜湖
②童話と民話の里に因んだような西洋メルヘン調の高畠駅と駅前広場
③④⑤駅前広場で開催中の「冬咲きボタンまつり」の全景と展示作品
⑥平地に保存されている杉の森 空き地にはケナフが植えられている(高畠駅の南)
⑦ワイン工場の廊下に咲く桜並木 山形県特産の「啓翁桜」
⑧ワイナリーの試飲室 外の駐車場には沢山のクルマがあったので少し気になった
⑨高畠駅で「泣いた赤鬼」がにこやかに?「またおいでください」とお見送り
この駅舎は温泉施設つきで有名 赤鬼の右手に大浴場あり
  ↑ 写真を二段式クリックにより画面拡大
「冬咲きボタンまつり」と高畠町の観光については下記URLをクリック
       http://takahata.info/

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「愛」ゆえに敵方の山寺の覇者に・・・直江かねたん

2009-02-10 17:11:33 | イベント
 ええっ!奥羽の関ヶ原合戦で山形の最上義光と戦った直江兼続が山寺を制覇した?
 そんな馬鹿な!なんて言うなかれ。
 山寺宝珠山を背景にした場所に紛れもない「愛」の字を前立てにした兜をかぶった可愛い顔の雪像が立っている。
 山寺といえば最上家の崇敬が厚く、根本中堂は義光の支援によって大修理を施されている。それも慶長年間だから、たぶん直江兼続と戦った長谷堂合戦の前後のことであろう。史料としては確認が困難だが、おそらくは直江兼続が率いる上杉の大軍が山形城はおろか出城の長谷堂城も落とせないままに撤退したことに対する感謝として根本中堂(国の重要文化財)の大修理を支援したとも考えられる。
 当然、山寺立石寺は山内のすべての僧侶たちを大動員して山形軍の戦勝と上杉軍の退散を祈る大掛かりな祈祷を行ったに違いない。この祈祷の霊験のためか上杉軍は山形盆地から撤収し、山形城と城下は無傷で済んだ。
 しかし、それから409年後の現在、ゆるキャラに変身したかねたんこと直江兼続公は「愛」の字を掲げているがゆえに圧倒的なインパクトを現代人に及ぼし、書店には直江本が溢れ全日本を席巻する勢いで、上杉軍退散を祈祷した(と考えられる)山寺宝珠山の前で「おめでとう第1位」の栄冠まで得たのである。
 ああ、現代は平和なり。
◆写真説明 ①山寺「雪だるまこけしコンクール」に出場して第1位となったかねたん ②今月1日の山寺宝珠山 ③今月10日の宝珠山 2日前も積雪がありながら雪融けが速い かねたんも温暖化には勝てそうもない [※かねたんは12月31日の写真にも鮮明に登場]

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