◆北朝鮮のNo.2、張成沢氏の処刑のニュースは日本国民の多くにも心胆寒からしめた。かなりダジャレになってしまい、張氏には申し訳ないが、山形市南部にあった成沢城も江戸初期には廃城となっている。[写真は国道13号から眺められる成沢城跡]
◆この城は山形城の支城の一つであり、航空写真でみると明白だが、蔵王山系のゆるやかな丘陵地帯から「張」り出した端山(葉山)に築かれている。だが、この城をめぐる賑々しい攻防戦の記録や物語は伝わっていない。
◆東北の関ヶ原、慶長出羽合戦の際も上杉軍(直江兼続が総大将)は上山市の南方で食い止められている。[写真 成沢城跡の旧天守台から西方を望む。上杉軍(直江軍)の陣営が敷かれた菅沢丘陵や合戦が展開された長谷堂城方面が望まれる。[但し長谷堂城は手前の谷柏台地に遮られて見えない] 直江兼続が率いる2万の上杉軍は前方の山岳を越えて山形盆地に雪崩込んだ。また、上杉軍の別動隊は上山盆地にも侵入しようとしたが、失敗。透明度が高い天候の時には朝日連峰の白い稜線が青空に泳いで見える。]
◆最後の城主は山形城主最上家の歴代の家老家の氏家氏であり、夫人は最上義光の娘の竹姫だが、まさしく彼も山形城のNo.2であった。だが、元和8年(1622)に57万石の大大名の最上家の改易に伴い、成沢城も廃城となった。[写真 山形市の中心市街地が眺望できる。ノッポビルの右手前方辺りが山形城二の丸跡。もっと好天ならば、万年雪の月山の雄姿も見られる。左端のビルは山大医学部病院か。]
麓の寺院前から望む成沢城跡の丘陵
成沢城跡の周囲には豪奢な土蔵造りの屋敷が目につく。かつてはここにも小城下町が栄えていたようだ。
・・・これらの写真は3年前の夏に撮影。