山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

いにしへの富の集積地、アッテラザーワ (2)

2010-05-31 23:24:58 | 建物
 JR左沢駅を降りて古い架橋から最上川を眺め、知人宅を訪れる前に少しだけ左沢の街をそぞろ歩きした。この街を訪れたのは2年半ぶりくらいになる。
 その時と比べても街が静かになったように思われるのは前回も述べたとおりである。
 まずは写真説明をすることにしたい。
(1)平凡だが和風2階建住宅は見ていて心がなごむ。
(2)銀行支店だった建物 風格は健在 活用されないのは勿体ない
(3)と(4)豪壮な土蔵と連結した町屋 かつての街の繁栄を偲ばせる

 グループでの左沢の街歩きでの記録と写真は当ブログの2007年の11月3日から16日までの間に6回シリーズで連載しているので、ご覧いただきたし。
 http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20071103
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いにしへの富の集積地、アッテラザーワ (1)

2010-05-29 10:44:48 | 風景

 いきなり、海外のどこかの地名のようなカタカナ表記が標題に現れたのは如何に?
 小寒く澱んだ天候の中、かつて河川の舟運で大いに栄えた左沢にでかけた。
 でも、JR左沢線の発着地である左沢駅を降り立つや、古(いにしえ)の繁栄はいずこに?と涙が出るほどまでに駅前の街路は人通りはむろんクルマの通行すらわずかで、駅前の小さな老舗は閉鎖され、近年まで駅前にあったMaxVallueやコンビニまで撤退し、その跡地利用の貸し駐車すらわずかというような衰退ぶりである。
 それでも左沢は今なお二つの点できわめて個性的で、訪れる者はこの二つを忘れることはない。でも、これだけではあまりにも淋しい。
 一つは「左沢」という地名の呼び方であり、「アテラザワ」と呼ぶ。
 さらに個人流に訛るとアッテラザーワとなり、だから一層アイヌ語風地名らしくなる。
 どうしてそのように呼ばれるようになったかについては色んな説があり、駅舎の外壁にも説明版があるが、この紹介は今回はやらない。
 もう一つは、ローカル線の中のローカル線ともいうべき左沢線の発着駅でもある点である。
 駅前の街の侘しさはともかく、かつての街の繁栄を支えた最上川の流れと景観は以前と変わりがなかった。以下に上の写真の説明を記した。
◆写真説明 (1)古い橋の中ほどから川と河岸を望む(2)この辺りがいにしへ(古)の船着場 舟荷役や商人らをオネエサンたちも待ち構えていたのだろうか(3)みごとな三連アーチ(4)少し上流にあるやな場 
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見ごろのハナ(華)に包まれたハナカミ王子

2010-05-26 11:50:37 | 郷土史
 ハンカチ王子にハニカミ王子。
 どちらの通称も今では古くて、マスコミもほとんどそんな風に呼ばなくなった。
 むろん「ハナカミ王子」なんて呼ばれた人物は今も昔も存在しない。
 私、ブログ主ただ一人がそう読んでいるだけのことである。
 しかも今は盛りの華で包まれた石碑のレリーフに浮かぶ人物の顔はどう見ても“王子”とは言い難い老人の顔である。
 彼こそその昔、天童の人たちに「はなかみ先生」と呼ばれて今でもなお深く尊敬されて顕彰碑のレリーフ像にまでなった高橋英雄である。
 以下、2007年の当ブログの記事より転載。

 彼は幕末の織田家(天童藩主)の御典医の孫として明治10年に生まれたから、いわば地域ではエリートの出と言える。彼、高橋英雄は海外に関心を向け、アメリカ行きの貨物船に忍びこんで米国に渡り、色んな辛い労働をしながらも多くのことを学んだが、帰国後ふるさとの天童に居住した。
 だが、ふるさとの子どもたちの多くが鼻汁をたらしたままの不衛生な状態であるのに心を痛め、「鼻をかみましよう」運動に力を入れたことから後に“ハナカミ先生”と呼ばれるようになった。その他、塀の落書き消し、ローマ字の普及、河川清掃、荒れたツツジ公園の手入れと整備など多方面の社会活動を行い、やがて多くの市民や子供たちにも親しまれ尊敬されるようになった。
 生活は仙人のようだったらしいが、心はツツジのような錦であり、まさに“王子さま”であったと言えよう。
 ◆写真 天童市の舞鶴山中腹のツツジ園と「はなかみ先生顕彰碑」 
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(7 最終回)

2010-05-23 11:45:24 | 風景

 池というには広大な湖沼である下池の背後の丘陵の背後は日本海で、沿岸には2月に訪れた湯の浜温泉とオワンクラゲで人気沸騰の加茂水族館がある。
 前回の記事では「歴史と文化」の人文景観の名所「善宝寺」を紹介したが、今回はこの名刹の近くにある自然景観の名所である「下池」と隣接する都沢湿地をお目にかけたい。
 下池は隣の上池とともに四百年以前から農業用の溜池として活用されてきたが、一帯は樹林の伐採は厳しく禁じられてきたために現在も多様な生態系が残されており、2008年10月にラムサール条約湿地帯として登録された。
 鳥類だけで200種も確認されており、渡り鳥の越冬地としても有名である。また、高館山の麓の海抜はほぼ海面に近い低地でありながら、ブナの原生林で覆われている。
 訪れたのは5月1日であるが、ハイカーたちはまだ桜花鑑賞を楽しむことができた。

 5月15日、戦国末期の城郭としては国内最大級の広さの山形城の三の丸跡地をグループで徒歩で1周してみた。正確には「PartⅡ」であり、前回はかなりゆっくりだったために5分の2程度しか踏破できず、今回は残りの5分の3の区間への挑戦であった。
 まだ、桜が見られるのでかなり遅咲き桜なのかと思ったが、八重桜であった。
 この八重桜の背後は410年の昔、長谷堂城を攻撃していた直江兼続の上杉軍を牽制するために最上義光率いる山形軍の主力部隊が待機参集していた所である。
 昭和30年の当初頃までは土塁と堀が残されていたが、堀の水は汚水のように澱んでおり、その後現在のような公園に変貌したのである。
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(6)

2010-05-19 22:59:12 | 建物

 なんじゃい、これ、単なるイタズラ心なのだろうか。
 でも、こんなことすれば、郵便法とか何とかに抵触することにならない?
 そんな小難しいことはさておき、東北地方有数の名刹、善宝寺の坊さんたちも利用する公共的建造物なのである。[※5月1日撮影]
 写真の画面をクリックすれば、正面外観の全容が現れる。
 それにしても、単なる現代的な和風民家のイメージであり、歴史ある名刹に隣接する景観としては悪いものではない。

 こちらは最近の山形市中心街の気になる景観である。
 真ん中の建物には覆いがかけられているが、このビルは間もなく解体されるためである。
 解体後は左手前の高層ビルに用向きのある人たちのための駐車ビルが建設されると聞いているが、駐車ビルと言えば無味乾燥で無骨きわまりない建造物が多く、周囲の街並み景観まで無味乾燥で無骨にしてしまいがちであり、それゆえにどんな街並み景観が出来上がるのか、大いに気になるところである。
 
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(5)

2010-05-17 18:06:19 | Weblog
 今回は「あれあれ~」が二つ

 あれあれ~、鶴岡市内めぐりしているはずなのに、いつの間にか京都か奈良に迷い込んだみたいである。豪壮な山門や五重塔はまさしく京都か奈良ではないか?
 でも、ここはあくまでも鶴岡市内。
 県内有数の名刹にして巨刹の善宝寺である。
 大漁と海運の安全を祈願する寺として近くの日本海沿岸の漁民の信仰がとりわけ篤い。
 この寺は以前、境内の池に「人面魚」が住んでいるとして連日マスコミを賑わしたことがあったが、現在ではそのフィーバーがすっかり沈静化し、今月当初に訪れた際は人面魚は言うまでもなく、「魚面人」に出くわすこともなかった。
 ↑ 上の写真をクリックすれば山門の拡大画面が見られます。本当に豪華そのもの。

 あれあれ~、5月も後半に入ったのにどうして満開のサクラ並木なんだろうか。
 でも、この写真はサクラ並木を見せるためでなく、障害者ドライバーや高齢ドライバーのクルマの路上駐車スペースが山形市にも設けられたことをお見せするためなのである。
 この駐車スペースについてはNHKテレビの全国向けのニュースでも放映されていた。
 場所は城跡公園と美術館、歴史館、銀行のすぐ近くである。
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(4)

2010-05-15 21:24:01 | 建物

 今日は鶴岡市内と山形市内の蔵をそれぞれ紹介したい。

 上の4コマに分けた写真は鶴岡市中心部に近年開設された古い酒蔵を改装したレストランであり、客の入りも上々であった。(写真クリックにより画面拡大)

 下は山形市中心部の茶舗の土蔵であったが、御殿堰の復原と新築の和風商業テナントビル「水の町屋」のオープンに併せて近々商業施設としての再活用が進められている。
 この3者の取り合わせにより中心市街地に絶妙の景観が形成されたと言える。
※ 5月10日の記事の下部の写真と文面を参照されたし。
 
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(3)

2010-05-13 21:53:21 | Weblog

 山形市の千歳山とほぼ同じ高さの里山である金峯山(きんぽうさん)は幾多の堂宇や社殿からなる一大霊場であることは少しは知っていたつもりであったが、これほどまで素晴らしい社殿があるとは思いもよらなかった。
 文字通り金峯山は明治以前までは奈良の吉野の金峯山(きんぷせん)の流れを汲む蔵王権現を祭る神仏混淆山岳信仰の霊場であった。
 この写真は鶴岡金峯山の中腹にある金峯山神社の社殿であるが、こんな堂々とした社殿は当然本宮とばかり思っていたが、「中の宮」との表示があり、驚いた。
 本宮は山頂にあり、その社殿は国の重要文化財である。[5月1日撮影]

 ここ、オランダの貴族の館(やかた)と前庭で整然と咲き乱れる(矛盾した表現?)チューリップ? ⇒ 山形市内文翔館(手前が旧県会議事堂、前方が旧県庁舎)でした!!
[5月4日撮影]
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(2)

2010-05-10 22:34:33 | 建物
 
 昨日宿泊した農家民宿「知憩軒」からほど近い金峯山の麓に昔懐かしい村役場の建物が庄内平野を見渡しているかのようにたたずんでいる。
 ここには4年ほど前にも知人とともに訪れ、空き家同然で地域の人たちにもほとんど使用されているようにも見えず、保存状態も決して良好にも思えないので、来年再び訪れた時には既に壊されているかもしれないなどと心配しながら山形へ戻った記憶がある。
 でも最近、保存活用の動きもあるとかの報道もあり、まだ“健在”であることが確認できたので是非再訪したいと思った次第である。
 この建物は昭和11年に建てられた旧黄金村(現在は鶴岡市)の役場で、昭和17年に近くの集落出身で鶴岡中学(現在の鶴岡南高)の夜間部に通学していた藤沢周平氏が書記補として勤務していたことで少しは知られている。
 鶴岡市との合併後には支所となり、やがて公民館となったが、近くにコミュニティセンターが新設されるに伴い次第に「空き家」化し、もし倒壊でもしたら隣の保育園の児童の安全が脅かされるからすぐにでも解体すへげきだという声が高い時期もあったようだ。
 でも藤沢文学や映画化された藤沢作品のファンにとってはたまらない魅力的な“史跡”であることは疑いなかろう。

 もし、20年前や30年前だったら、それこそ“時代錯誤”の事業として揶揄どころか激しい非難の対象となっていたであろう事業の完成により山形市の中心市街地の一角が多くの市民や観光客を呼び寄せる力となっている。
 即ち、しばらく以前に暗渠となって以来、市民の目にほとんど入らないでいた戦国時代末期に整備された城下町の用水路で、下流は山形城の堀に注いでいた御殿堰が市民の目に触れる形で復原され、同時に現代様式の店舗を解体して町屋風の複合商業ビルが新築されたことである。
 しかも中心商業街区ながら木造であるのが大胆な試みである。むろん、木造でも耐火の仕掛けがなされているらしい。商業ゾーンは何が何でもコンクリートかモルタル造りというのは神話になりつつあるようだ。
 写真をクリックすれば、御殿堰の前方に奥羽山脈の雁戸山が望まれるが、心憎い光景である。
 
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再び鶴岡へ+山形市内の近況(1)

2010-05-08 12:05:38 | Weblog

 ふるさとの山に向かひて言ふことなし ふるさとの山は有難きかな・・・
という石川啄木の歌はむろん岩手の山のことだが、この写真の山は山形県鶴岡市の里山ながら、この啄木の歌がそのままあてはまるような山容である。[4月30日撮影]
 この山の名は金峯山(きんぼうさん)。
 標高は471mとさして高くはないが山ひだは深く刻まれ、離れた位置から眺めても深山幽谷の風貌を呈している。
 しかもほぼ同じ標高である内陸の山形市千歳山の西側斜面には頂上に至るまですっかり残雪が消え失せている(4月30日現在)のに、斜面が東北部ながら残雪がこれほど多く覆っているのはそれだけ厳しい地理的環境の中に位置しているからであろう。
 深山幽谷の風貌であるだけにかつては山岳信仰の拠点でもあり、今なお霊場として多くの人たちの信仰を集めている。
 ◆撮影場所は鶴岡市内の旧櫛引町西荒屋の農家民宿の近くから

 国の登録文化財である山形市立第一小学校の旧校舎が「山形市まなび館」として4月28日にオープンし、記念セレモニーが正面玄関前の広場で開催された。
 写真の左が化粧直しされた旧校舎の正面玄関のファサード。外面が綺麗にはなったが、歴史ある校舎としての風格が失われたのは淋しく残念という声もちらほら。 
 右が同小学校生徒らの祝賀合唱。子どもたちは「山形だ~いち小学校」と歌っていたが、◎十年前の卒業生である我々は「山形ダイイチ小学校」と歌うよう厳しく指導されたことを想い出した。 
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