山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

まったく久方ぶりの投稿です

2019-11-11 18:46:01 | 建物
二月に旧西村写真館でもロケ撮影された日台合作映画『越年Lovers』が山形ムービーフェスティバルの招待作品として初上映されました。
左が雪国の写真館の娘を演じる橋本マナミさん。右が恋心を露わにできないでいる青年を演じる峯田和伸さん(NHK大河「いだてん」、朝の連ドラ「ひよっこ」に出演)。・・・ムービーフェスティバルのカタログにも用いられた。
本格的封切り上映は来年春のようだ。
むろん台湾やマレーシアでも上映され、その他の国でも上映されそうだから、いよいよ山形の旧西村写真館(大正10年創業)は世界デビューとなる。
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明治の貴婦人の薄化粧 [山形のレトロ洋館の雪景色(その1)]

2016-01-23 23:59:32 | 建物

山形城址公園内の旧済生館本館(明治11年建造)は12月から1月中旬にかけても積雪に見舞われることはなかったが、ようやく雪化粧するようになった。
明治建築の華と称賛されこともあって、その華麗で優美な姿は文明開化期に鹿鳴館での舞踏会に向かう貴婦人のの恰好を思わせる。
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団十郎さん、勘三郎さん、こちらが先輩です。

2013-02-08 18:37:49 | 建物

 これほど更新を怠ったことはかつてないが、ようやく再稼働となった。
 再稼働とは申せ、原発でないから安心なされ。

 でも、上の写真の建物、山形のどこかでよく目にするが、似たような建物がかつて東京にもあったようだ。
 そう、東京にあったのは東京の「和の文化」のシンボルとも言える歌舞伎座である。
 それでは上の写真の建物も歌舞伎のための施設なのか?
 むろん少しだけようく見れば普通の店舗であることがわかる。
 でも、これまた「和の文化」としての和菓子の店である。
 だが、和菓子の他にも洋菓子も販売しているだけでなく、二月だからバレンタイン・チョコも売り出すという。
 さて、この和菓子店は見るからに歌舞伎座のイメージで外観がデザインされている。
 しかも近年解体された東京の歌舞伎座とよく似ている。
 だから、山形のこの和菓子店は解体前の歌舞伎座を模してデザインされたのではないかと多くの人たちは思いたくなるであろう。
 だが、山形の建物は昭和9年の建造であるのに対し、東京の建物は昭和25年の建造である。
 それゆえ、当然、建物としては山形の方が先輩ということになる。
 それでは山形の和菓子店が建造された当時の歌舞伎座はどんな外観であつたかと言えば、この下のさらに下の写真のとおりである。
 やはりすぐ下の昭和25年建造の歌舞伎座の方が山形の菓子店とより似ていると言えそうである。
 現在新たな歌舞伎座が完成を間近にしている。
 そのこけら落としをほぼ目前にして歌舞伎界の超人気俳優が相次いでこの世を去った。
 団十郎さん、勘三郎さん、天界から山形のこの和菓子店を眺めて、在りし日の旧歌舞伎座を偲んでほしい。


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明治天皇が宿泊した老舗料亭を見学

2013-01-24 16:18:31 | 建物

 去る20日に「山形歴史たてもの研究会」のメンバー十数名が昼食会を兼ねた老舗料亭の見学会を行った。
 ここは山形市内「六大料亭」の一つで、薬師町に所在するから最北端であるが、もともとは市役所の近くにあり、その時代(明治14年)に明治天皇が行幸されるということで行在所として建てられ、二日間宿泊されている。
 後に民間に払い下げられて現在地に移築され、料亭として再出発した。
 移築に際しては建材の多くが行在所時代のものが使用され、行在所時代の様式や面影を色濃く残す部屋(「あやめの間」など)も多い。
 見るもの聞くものの多くに感銘したが、終始にこやかに案内してくださった女将さんに深く感謝したい。
 内部見学終了後は「偕楽園」という名の部屋にて和食により昼食したが、その時間帯は歴史たてもの研究会歴史たべもの研究会となった。

※ もっと多くの部屋の写真をお見せしたいが、カメラの不調(むしろ撮影の腕の不調!)によりひどいピンボケが多いので、2枚だけにしました。
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中村勘三郎さんと山形の某寺院

2012-12-28 09:57:44 | 建物

 この記事を見て、「牽強付会」と言いたい人も居るであろう。
 タイトルの如く上の寺院の写真は山形市の中心部にある寺院である。
 この寺院の写真のすぐ脇に亡くなった中村勘三郎さんの顔写真があるが、この寺院と勘三郎さんとは直接的には何の関係もありそうにない。
 でも、この山形の寺院(市内七日町の浄土真宗明善寺)の外観は東京の超有名寺院となんとなくどこかよく似ていないか。
 その東京の超有名寺院と言えば直近では、つまりつい一昨日のことだが、築地本願寺(下の写真)のことを想起する人が多いであろう。
 一昨日から昨日にかけてのTVの画面は故中村勘三郎さんの葬儀一色であり、安倍内閣発足のことをはるかに凌ぐほどであった。
 まあ、事実上の準「国民葬」であったと言える。
 この築地本願寺は勘三郎さんの本葬儀の会場であり、昭和9年建造で、そのインド様式寺院のモデルとされている寺がまさしく山形の明善寺なのである。
 明善寺はほぼ純和風の木造であるのに対し(純和風とは申せ、この外観の寺院はごく稀)、築地本願寺はインドのヒンズー教寺院風の外観であり、しかも大規模なコンクリート造りだという大きな違いがある。
 しかし、両寺院の設計者はともに山形県米沢市出身の伊東忠太博士で、宗派も同じ浄土真宗(西本願寺派)、しかも建築年も同じ昭和9年である。
 更に左右の両脇に塔楼が配置されていることに外観上の大きな共通点がある。
 しかも「生まれた年」が同年であれば「性別」違いの双生児とも言えそうだ。築地本願寺が威風堂々の男子だとすれば山形の明善寺は優しい趣の女子ということになろうか。
 伊東博士は明らかに「同じイメージ」をインド風を東京に、和風を郷里米沢に近い山形市に振り分けて設計したのであろう。
 山形の勘三郎さんファンは明善寺の本堂前にて黙禱したらどうであろうか。
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さようなら、近くて遠い朝日町宮宿 ここも蔵の町だった

2012-12-14 05:37:08 | 建物

 10月に訪れた「近くて遠い町」朝日町宮宿シリーズも今回で終わりとする。
 本当に宮宿は「近くて遠い町」である。
 地図で見るなら朝日町は山形市の西隣の町で、山形市域の西のはずれを越えたらもう朝日町である。しかしやはり遠い。
 同じく山形市の隣の市町としての上山市や天童市にはJRの列車を使えば片道230円。
 ところが朝日町の中心部たる宮宿に行くのに公共交通機関を使えば優に1000円を超える。しかも恐ろしく時間がかかる。
 JR左沢線で左沢までは約50分。左沢駅前からバスに乗り換えて約30分。
 そのバスの本数もひどく少ないし、乗り換えには待ち時間があるから、1時間20分以上は費やす。
 これに対して上山駅や天童駅までは約20分しかかからない。
 どうして宮宿までにはそんなに時間がかかるのかと言えば、山形市と朝日町の間には「白鷹丘陵」があり、最高峰は白鷹山の992mであるが、平坦部の作谷沢高原も標高は500mほどだから、やはりかなりの山越えになる。
 以前は確か作谷沢高原経由の直通バスがあった記憶があるが、とっくの昔にその路線は廃止されている。
 ところが皮肉なことに、そのバス路線が廃止される頃から山形・朝日町間の道路整備が進み、舗装化や拡幅化により朝日町から山形市へのマイカー通勤者が激増した。
 だから、マイカー族にとっては朝日町はさほど「遠い町」ではない。
 でも、クルマを持たない私のような者にとっては他県にでかけるほどの「遠い町」である。
 新幹線を使えば福島県郡山市まで同じ時間で行くことができる。
 なんとも「道路整備が進めばバスが不便になる」とはあまりにも理不尽なことであると言わざるをえない。

 長々と朝日町への交通アクセスの不便さについて述べたが、山形市に住む私のような者にとって不便極まりない「遠い町」である宮宿もかつては賑わいのある栄えた町であったことを偲ばせる豪壮な土蔵が散見できたので、いくつか紹介したい。
 なお、11月7日付けの記事「淋しい街を歩いたら・・・(3)」で紹介した土蔵は割愛する。




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淋しい街を歩いたら・・・(2) これぞ街の第一級の「お宝」

2012-11-03 09:03:49 | 建物

 いよいよ朝日町宮宿の中心部。
 確かそろそろ古い郵便局の建物が現れるはずだが、町の観光パンフレットにも表記されていないのだから、もしかしたら既に解体されているのかなと思って心配しながら、歩いていたら、ついに目の前に現れてくれた。
 とにかく今よりずうっと貧しい時代なのに昔の郵便局にはきわめて個性的な建物が多かったように思える。
 この建物もその一つで、しかも山形県内でも最も交通の便に恵まれない「袋小路の奥」のような位置にある自治体である。
 つまり西村山郡朝日町には以前から鉄道も主要国道も走っていないから経済的ハンディが大きいはずなのだが、それでもこのようにハイカラな建物を戦前に建てている。
 それこそハンディをモノともしないで自力をつけようとしていた心意気が感じられる。
 でも、この建物は現在は郵便局として使われないで、学習塾に転用されているようだ。
 しかし、やはり宮宿の第一級のシンボル的建造物であることには変わりがない。
 現在こそ「私的」に使われているが、好むと好まないにかかわらず「シンボル的建造物」である限り「公共的性格」を有している。
 朝日町役場と観光協会の皆さん、もっとこの建物に光を当ててくだされたし。

 この建物の前の通りを西に進めば最上川の鉄橋にさしかかる。
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崩れた街並みの中の豪商屋敷

2012-09-14 10:25:01 | 建物
 白鷹町の中心街は団体バスの車窓から眺めただけで、それも20年以上も昔のことになるのだが、その際の印象では「小ぶりながらも中心街らしい街並みと賑わいがあった」ということである。
 それが、今回初めて足を地面に降ろして歩いてみたが、下手に道路の「整備」、つまり拡幅や新設をやったためであろうか、どこが中心街かわからないようになっていた。
 つまり、全体として茫漠たる街並み景観になってしまい、おまけにすっかり「街の賑わい」が失われていたのである。
 むろん、外周部の大型店にはやはり駐車のクルマがひしめき、内部は買い物客で賑わっているが、それは「街の賑わい」とは言えない。
その荒砥の中心地というべき箇所で見つけたのが見出し写真の豪壮で個性的外観の土蔵を持つ豪商の屋敷である。
 今でも“豪商”かどうかはわからないし、かなり古びたままで補修もされぬままになっているような感じだが、やはりかなりのインパクトを放っている。
 かつては荒砥もこの建物に象徴されるような富の集積がなされる時代もあったことを物語っている。たぶん、この建物だけでなく、周囲にはやはり幾つかの豪商の建物が並んでいたのであろう。
 しかし今では荒砥のかつての栄華もこの旧?豪商屋敷を遺すのみ。
 確かに土蔵の豪壮さに目を見張ってしまうが、その佇まいに何とはなしにうら淋しさを覚えてならないのである。
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駅前はさぞ賑やか?

2012-09-11 22:17:40 | 建物
 山形県人でありながら我が山形市と西南部で隣接する白鷹町の中心地の荒砥に初めて足を降ろした。
 以前は貸切バスや路線バスで通りかかったことがあるものの、この街を歩いたのは本当に生まれて初めてである。
 それでは山形市方面から直接訪れたのかと言えば、そうではなく、南の方からフラワー長井線により訪れたのである。
 だから、荒砥駅に降り立ったのも初めてである。
 その荒砥駅たるや真新しくデラックスな外観に驚いた。
 これだけ立派な駅舎だから、さぞかし多くの乗降客で賑わっているのかと思いきや、自分を含めてほんの数人だけ。
 着いたのは丁度正午頃だったから、駅前の蕎麦屋か食堂に入るか、コンビニからおにぎりでも買おうかと思って駅前に出たら、それこそびっくり。
 駅前には人家や商店、宿泊施設や郵便局など建築物がほとんど見当たらない。
 駅前広場の前は道路と木立で鬱蒼とした丘陵が見えるのみ。
 いわゆる一般的な駅前のイメージとはあまりにも違い過ぎる。[写真がないのでご勘弁を!]
 これが白鷹町の中心地、荒砥の駅前の様相である。
 だから、荒砥の街らしい箇所に至るには約10分ほど歩く必要があった。
 それにしても、駅前にほとんど建物が見当たらない豪華な駅舎は全国的にも珍しいのではないか。
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片田舎の都市のハイカラ医院

2012-09-07 06:58:14 | 建物
 しばらく歴史的建造物の記事をご無沙汰にしていた。
 長井市にでかけたのも既に2か月近く以前のことになるので、その時に撮ったハイカラな建物を紹介したい。
 長井市は県内でもかなりわかりにくい場所に位置しているし、人口も3万あるかないかの規模である。
 だから長井市民には失礼ながら「片田舎の都市」と呼ばせていただいた。
 でも、長井には今でもまことに和も洋もともに素晴らしい古い建造物がかなり多く残されている。
 ましてや30年以上以前なら、まだまだ素敵な建物が存在していたはずである。
 このことについては長井市に限らないことだが、クルマ社会の本格的な到来以前はどんな「片田舎」の小さな都市や町にも豪壮で風雅な和風建築やハイカラな洋館が軒を並べ、街に彩りと賑わいを演出していたのである。
 この以前は医院だった建物(既に廃業)もその一つで、建造に巨額な投資をしてもモトが採れるくらいに患者が押しかけていたのであるが、クルマ社会の進行により、駐車スペースが少ないなどのつまらない理由で来院を避ける市民が増えて医院の経営が困難になってくるというお決まりのパターンが全国的になってしまった。
 併せてこの医院の近隣も空洞化により空き地は駐車場化かただの更地になり、お蔭さまで(失礼かな?)この旧医院の側面の撮影がやりやすくなっていた。
 ちなみに、この建物の外観はイギリス風と言えそうである。
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