山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

場所は言い難い、癒される風景

2008-06-29 23:51:20 | 風景

今日、梅雨前線の強い雨雲が近づくなか、数人で市内の某所をハイキングした。
 幸い、雨は「振袖振らない」つまり降りそうで降らない状態が続き、まさに心が洗われるような風景を楽しむことができた。
 直線距離でわずか数分の所にはかなりの数の観光客がたむろしているのが見られ、まさに有名観光地と同じ地内なのだが、これらの観光客のほとんどはこの写真の場所に気づかないまま山形を去ってしまう。
 こんな素朴ながら美しい風景もここの観光地のビュースポットの一つであり、市も地元も少しばかりPRはしているのだが、訪れる人はきわめて少ないようだ。
 でも、折角のこの“癒される”風景を多くの人たちに紹介したい気もある一方、すぐ目と鼻の先の超有名なスポットのようになるのは怖い感じもする。
 今日は具体的な場所は紹介しないことにしたい。ただ、背景の雨雲で煙っている丘陵(ここの中腹まで多数の観光客が訪れる)の姿がヒントである。
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恥かしながら囲われの身どす ①

2008-06-27 15:47:11 | 郷土史

 世にも麗しき阿古耶姫の如く美麗な姿の千歳山を背景にして流れるこの小河川の名は「恥川」である。「恥ずかしの川」とも言われている。
 何ゆえにこのような名がつけられたのか興味深いところだが、この地域に伝わる伝説が基になっているようだ。
 平安中期の都の官人で歌人である藤原実方は「かくとだにえやは伊吹のさしも草さしもしらじもゆる思ひを」という百人一首でもよく知られているが、陸奥の国守として現在の宮城県に赴任し、歌枕として有名な千歳山の阿古耶の松を訪ね(終えて?)る途中事故死した。彼は近くに埋葬されたが、千歳山の北麓の萬松寺にも彼の墓がある。たぶん分骨されたのであろう。
 父の死を聞いた娘の中将姫は父の追善供養のためこの地にまでやってきたが、この川を渡る時、長旅で白髪が増えてやつれ果てた姿が水面に映ったのを見て、恥ずかしく思ったのだという。また、一説には、水流がやや深いので、着物の裾を捲り上げた姿が里人に見られて恥ずかしく思ったともいう。
 この伝承が仮に事実だとすれば、実方が客死した10世紀末または11世紀初期の頃の話になるが、当時の恥川と周辺の景観はむろん現在とはまったく異なり、川と両岸の高低の差はほとんどないため、絶えず水流は蛇行のように変化し、その変化の度に両岸を肥沃な豊穣の地にと変えていったのであろう。
 しかし、やはり治水対策は古くからなされていたであろうから、流域は狭められるとともに川底は年々深くなり、ついには写真のように両脇が人工的に固められて間近まで住宅やビル等が建ち並ぶに至っている。
 中将姫自身のような恥川はまさに「囲われの身」になったのである。

※クリックで写真拡大
※藤原実方に関して詳しいブログ「花林~小枝の音色に誘われて」の3月上旬の記事を参照ください。右欄下方の「ブックマーク」にあります。
 
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世界最古の石鳥居「地震なんぞ怖くない!」

2008-06-25 21:50:59 | 郷土史

 6月25日山形大地震説の当否もあと1時間足らずに迫った。むろんこの説は中高生の間でメール等により流布された一種の“都市伝説”として一般に受けとめられている。
 今日の午後3時頃に山形市内の南部を通りがかったが、比較的近い所に日本最古の石鳥居(つまりは世界最古)と称されている2基の石鳥居(ともに国の重要文化財)は当然びくともしていなかった。
 どちらも平安時代中期から後期にかけての造立のようだが、この長い期間に倒壊しないでいたことは当地方がいかにひどい風水害や大地震に見舞われることが少なかったことを証明するかのようだ。
 しかも蔵王山系から流れ下る幾筋もの中小河川や豊富な地下水とそれらの水流によって運ばれた養分により稔り豊かな大地となり、最上(もがみ、さいじょう)の地と称されるようになったのだとも伝えられている。
 写真「左」の鳥居は以前周辺の地名が「元木」と呼ばれていたので「元木の石鳥居」と呼ばれていたが、この写真の石柱には「御立鳥居」と記されている。少し離れた山麓の集落「小立」の飛地であったからのようだ。現在の地名はこの鳥居にちなんで「鳥居が丘」となっているが、かつてはのどかな田園地帯の中に屹立して竜山山系を御神体のようにしていたこの鳥居の周囲は現在すっかり市街地化してしまい、鳥居を通して山の姿を拝見することは困難になった。
蔵王成沢の鳥居は12世紀初期の造立のようだが、鳥居が丘の鳥居は少し古く、伝説上当盆地を来訪したとされる都の歌人藤原実方やその娘中将姫の時代に近いのかも知れない。もしかして、くぐったのかも・・・。これについては後日にあらためて論じたい。
  写真をクリックすれば説明の文字も拡大します。
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厳しく悲しい、厳美渓

2008-06-23 23:51:46 | 風景
 平泉と観光コースがセットとして長年親しまれてきた岩手県南部の名勝、厳美渓は今や地震による2次被害の危険のために人々の立ち入りが禁止された。
 地震の被害は人的を含め南隣の宮城県側の方が大きい。
 それにしても、新潟県といい、宮城県といい、どちらも我が山形県の隣県だが、どちらも何度も大きな地震に見舞われている。
 山形県、特に内陸地方は「最上」(もがみ)と呼ばれているように、地震被害など天災が少なく稔り豊かな地域だけに「最上」(さいじょう)の地でもあるのだが、ここしばらく山形の中高生たちの間で「山形大地震」が25日に発生するとかの話がメール等で飛び交っているのだという。
 たぶんその“大予言”も外れるだろうが、やはり地震が怖いことには変わりがない。
 職場旅行で厳美渓を訪れたのはもう20年近く前になるのだろうか。写真はその時のものだが、ご覧のとおり私の職場仲間を始め観光客で賑わっていた。
 厳美という漢字が使われているが、その景観美は「厳しい」というよりは日本的なきめ細やかなものであったが、尾根を南の方に越えると、この度の地震によりアメリカの大峡谷を思わせるような恐ろしくも「厳し過ぎる」景観が新たに形成されてしまったのである。
 ※「岩手・宮城内陸地震」と命名よりも「栗駒高原東部地震」の方が適当な気がする。
 
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いま山形は湿潤と乾燥の土地柄

2008-06-21 23:45:28 | 風景
 本州の西のはずれの観光地巡りをやったのも既に2ケ月以前のことになった。
 さて、わが山形も観光地には恵まれていないこともないが、山々に囲まれているから自然景観は優れているものの、市街地に至っては見所は点在しており、「面」一帯が見所だらけという箇所は少ない。
 それも市街地ばかりでなく、人間や車が行き交う所は郊外でも牧歌的な農村風景はひどく損なわれてきている。
 写真の上の方は山形市街から南の上山の山間部にあるダムだから、湿潤地帯であるが、そこから降りて国道に入るや否や無味乾燥なタテ看板や安全運転喚起の標識の林立が目に入る。でも、運転者は渋滞でもしないと、これらの看板の文字など見る余裕とてあるまい。他者の車の助手席だから、このような写真が撮れたのである。
 良くも悪くも、これまた現代の「日本的風景」であり、「日本文化」なのである。
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旅行最終地の岩国 ②

2008-06-19 23:18:33 | Weblog

 岩国の観光スポットは錦帯橋周辺にのみ集中しているようだ。
 つまりは、錦帯橋周辺以外には何も見るべき所がないということなのだろうか。
 でも、その錦帯橋界隈だけでも、たっぷりと時間を過ごすことができた。
写真説明 ①吉香公園内の錦雲格(絵馬堂)と城郭の堀 ②牡丹の花園と近代歴史建造物の徴古館 ③旧岩国藩主吉川家の史料館 ④錦帯橋の手前の土産物店兼食事処 ⑤岩国駅前で衆議院補欠選挙のキャンペーンがあり、美しい女性の運動員から翌日の投票をよろしくと頼まれたが「あいにく山口県人ではなく山形県人です」と返答した ⑥岩国城天守閣が望まれるこの地点が岩国の最高のビュースポットのようだ →クリックにより写真拡大
 岩国観光は11時までで切り上げて広島空港に向かい、夕刻には山形の自宅で胡坐をかいていた。
 以上で4月27日から断続的に連載した尾道・柳井・山口・津和野・萩・長門・岩国の旅行記シリーズは終了します。ご愛顧ありがとうございました。

 ↑ 昨年9月7日の台風9号の際に山形市街のすぐ脇を流れる馬見ケ崎川もすごい濁流に見舞われた。これでも勢いが低下した時点なので、のんびりと見物する人も居たくらいだが、今日はついに東北地方で雨が降り始め、岩手宮城内陸地震で土砂による堰き止め湖の決壊が心配されている。
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旅行最終地の岩国 ①

2008-06-18 22:33:45 | Weblog

 4月26日 一気に「陰」から「陽」へ。
 前日は美祢線を挟んで山陰本線と山陽本線を乗り継いで岩国駅近くのホテルに宿泊。駅前界隈はさすがに米軍基地の街で、米兵や家族らしき姿も多く目に付いたが、岩国の観光といえば何と言っても錦帯橋。いわば山口県観光の目玉。
 雪国ならばこんな凹凸の激しい橋など危ないことこの上ないが、さすがに「陽」の地域ならではの橋である。
 写真説明 ①錦帯橋の橋上から吉香公園方を望む ②橋の上から旧市街方面を望む ③吉香公園内の香川家長屋門(県文化財) ④公園内の旧文教施設 ⑤公園内の旧目加田家住宅(国重文) ⑥錦帯橋全景(吉香公園側から) →クリックで画面拡大
 
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長門の海岸散歩する。みすずも詩情浮かばず?

2008-06-17 18:10:19 | Weblog

 前日の記事の続き。。。
 金子みすずは娘時代、仙崎から現在の長門市駅手前の女学校まで通ったそうである。
 私もたぶん彼女が歩いたと思われる海岸沿いの道を歩いて長門市駅を目指した。
 むろん、海は日本海であり、みすずが愛した青海島も望める景勝地で「あった」。あえて過去形で述べたい。
 でも、この本来は景勝抜群のはずの道を現在では徒歩で30分近くも歩く人間など居やしない。なぜなら、この道は既に仙崎と巨大橋で結ばれた青海島に至る幹線道路としてクルマがびゅんびゅん唸り声をあげて疾走する道路と化しており、歩道らしい歩道もないからである。しかもすっかり人工的海岸線と化してしまい、これでは、もしみすずが現代に甦ったとしても、さすがの天才文学少女も詩情など浮かぶものかと思われた。
 金子みすずを記念館のみに閉じ込めるべきではない。[4月25日]
写真説明 ①日本海深川湾の美しい景観を堪能するどころでない コンクリート壁の「交通安全」の文字すらうっとおしい ②テトラポットづくしでも詩心が涌いたらみすずを凌ぐ超天才だ 辛うじて青海島が望める ③無理してでもコンクリート壁越しに眺めれば奥床しい長門海岸の美景を楽しめる ④長門市駅近くで懐かしい顔と対面 お元気そうですな さすが山口県人の血脈 ⑤長門市駅から南に伸びるJR美祢線から見えた日本の高い煙突 厚狭駅で乗換え岩国に向かう →クリックで画面拡大 

 
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金子みすず記念館で2人の山形美人と会った

2008-06-16 20:55:17 | Weblog

 4月25日 東萩駅から山陰本線に乗り込んで長門市に向かったが、「本線」なのにたったの一両。確かに人口希薄地ではあるが、天下の歴史観光都市の表玄関に発着する鉄道ならば、もっと乗降する観光客が多くて然るべきなのだが、東萩駅の内外閑散ぶりも津和野と同様に意外であった。つまり、萩への通勤者も観光客もあまり鉄道を利用しないということなのだろう。これが地球温暖化を主たるテーマとした洞爺湖サミットの開催国の現実である。マイカーやレンタカー利用の観光の隆盛は洞爺湖サミットの精神に反する。

 さて、小難しい説教はひとまず置いて、天才詩人金子みすずの生誕地である長門市仙崎の写真説明に写ろう。
①萩から長門市までの鉄道からは美しい日本海と沿岸の風景が眺められた ②中国地方には山間部も海沿いも赤茶色の瓦屋根の民家が多い ③長門市仙崎の中心街路 ④と⑤金子みすずの生家 金子文英堂という書店であった この裏に近代的な記念館が建っている ⑥仙崎に残る町屋風の民家 ⑦金子みすず、少女時代のおしん ⑧みすずが愛したすぐ近くの青海島 捕鯨の島で、仙崎も捕鯨で栄えた ⑨仙崎の猫の頭の中は詩歌でいっぱい? 鯨の肉を探している? →クリックで写真拡大
※ おしんを演じた女優の小林綾子さんも早、三十半ば。約10年前、山形市民会館で金子みすずの詩を彼女が朗読し、中田喜直氏が作曲したのを山形在住の歌手、松倉とし子さんが唄う会が開かれた。終了後の小林綾子さんを囲む会で私は彼女とほんの少しだけ言葉を交わすことができた。仙崎の金子みすず記念館の販売コーナーで、彼女と松倉さんのCD(写真)を見い出して、山形でのみすずの会を思い出した。なお、松倉さんの家は私の家から徒歩で6分くらいの所であるが、彼女のCDはかなり売れているそうである。
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はるばる来たぜ、萩 ⑤

2008-06-14 17:49:26 | Weblog

 萩の観光は前日の夕方に伊藤博文旧宅などを訪ね、そして4月24日の午前のみだったので、萩の街のことを多く語ることはできない。(伊藤旧宅の後、萩在住の知人の案内で中心街近くの新興商業ゾーンを案内していただいたが、中心街なのに車で溢れかえり歴史ゾーンとは対照的で、吉田松陰がすっかりアメリカ風文化に汚染されている現代の萩の姿を見たら何と語るであろうか?)
 やはり最低3日間ほどは必要でないかと思われた。
写真説明 ①武士専門の医院? ②「泊まれ」の表示がなければ世界遺産の景観 ③先ほど訪れた菊屋の真向かい これはいかにも町屋らしい造り ④菊屋の庭園 上級武士宅を上回る豪勢さ ⑤⑥⑦⑧⑨いずれも武家屋敷の街路景観(ここにも大活躍の貸し自転車君のお姿が) → クリックで写真拡大
 いよいよ萩にお別れ。長門市仙崎に向かう。

 岩手宮城内陸地震見舞御礼 今日6月14日の地震では山形県内もだいぶ揺れた。山形市の周辺部は多くが震度4。でも市内だけは震度3。それでも実感としては震度4に思えた。幸いなことに人的被害は山形市および周辺部ではゼロ。写真の電柱や銅像もかなり以前から危なっかしい状態なのに、少々の地震にはモノともしないで今日も無事そのものであった。ピサの斜塔の原理が働いているのかも・・・。真ん中は、直江兼続が率いる上杉軍との戦闘に出陣する山形城主最上義光の騎馬像 来年のNHK大河ドラマで再現の可能性大
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