山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

前最高実力者の五七日(三十五日)

2010-10-31 21:46:50 | Weblog
 我が家の前最高実力者(※注↓)がこの世から旅立たれたのは34日前のことである。
 ウェブ上において我が家で唯一「顔出し」が許されているのは彼一人(一猫)であるが、彼は「肖像権云々」などと小難しい法律論めいたことを何一つ口にしなかったからでもあるし、ウェブ上で彼の顔や姿を見て我が家に押しかけ、「サインしてえ~」などとおねだりする女性たち(雌猫を含む)も居なかったからでもある。
 逝去(最高実力者様だから「ご崩御」の言葉の方が適切かも)してから34日経ったということは当地方の仏式の供養方式では35日に相当する。
 別名では五七日(ごしちにち)という。前世紀半ばの時代の山形訛りでは「ごすづぬづ」になる。
 今日がその五七日に当たるから、彼の供養の意味を込めて当ブログの「定休日」である日曜日ながら彼の在りし日の愛くるしい姿を当ブログにアップすることにした。
 だいたい4年から5年前の撮影であるが、満18歳直前での死去だから、それでも満10歳を過ぎたご高齢の「可愛いおじいちゃん」であった。
合掌

◆※注:中国では胡錦濤国家主席の後継者として習近平氏の地歩が固められつつあり、事実上の「最高実力者」となったかにも見えるが、さ~て、現在の我が家ではどうか?

◆死去の際の記事もご覧あれ。
 http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20100930 
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変われば変わるものだ

2010-10-30 21:57:42 | 風景
 ここ数日の4日間の寒さは半端じゃねえ。
 それ以前は下着も夏用で間に合っていたが、ついに長袖のシャツにモモヒキに衣替えを余儀なくされた。でなければ、外出時は風邪を引く思いになってしまうからだ。
 上の写真のうち左側はご覧のとおりの入道雲。
 まさしく盛夏の雲だ。
 でも、9月に入ってからの入道雲である。
 その日は9月6日で、気温は35.4度の猛暑日であった。
 以後も25度以上の夏日や真夏日は9月22日まで何度も繰り返された。
 そして今日近くの公園にでかけてみたら、樹木の多くが紅葉と黄葉に色づいていた。
 なんと2カ月足らずで盛夏から晩秋の風景へと様変わり。
 山の方に目を向けたら、山頂あたりは美白の装いですっかり冬支度になっていた。

◆山形中心市街の自転車道に関し大きな動きがありました。
 姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)の記事により閲覧ください。
   特に10月30日の記事↓
  http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20101030
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さあて、こごはどだな所だべ?

2010-10-27 19:04:39 | 建物

 ◇タイトルの訳・・・さあて、ここはどんな所だろう?

 何やらどこかで見たり聞いたりしたことのある固有名詞が並んでいる建物だが、いったいこの建物はどこにある、何の建物なのであろうか。
 固有名詞は左から「ジャンゴ」「蝉しぐれ」「山桜」「おくりびと」「ICHI」「YAMAGATA SCREAM」「スノープリンス」「座頭市」「必殺剣鳥刺し」であるが、どうしてこのような古色な建物をおおっているのだろうか。
 これらの固有名詞は●●好きな人ならひと目見ただけで、共通するのが何なのかがわかるはずである。とりわけ「おくりびと」なら特に●●好きでなくともわかるであろう。
 この建物は明治維新の廃藩置県により武士としての身分を失った士族たちの授産施設の建物で、とりわけ養蚕のための作業所であった。
 場所の名は史跡松ガ岡開墾場で鶴岡市の東部郊外にある。
 この養蚕の作業所は以前は6棟ほどあったが、現在は4棟であり、多くは養蚕、開墾に関する資料や農具などの展示、イベント会場やレストランなどとして使用されている。
 むろん●●とは「映画」のことで、これらのタイトルの映画はすべて庄内地方が主たるロケ地となっており、この建物はそれらの映画に関する資料館として公開されている。
 だから最近では庄内地方、とりわけ鶴岡市の市民は「日本のハリウッド」を自負するようになっている。だが、鶴岡市内にはごく最近まで一軒も映画館が無かったのは皮肉である。

◆写真をクリックすると映画のタイトル部分が拡大します。
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ニッポン国が焼け落ちた

2010-10-23 18:37:06 | Weblog
 30年近く以前のベルリン映画祭で受賞したドキュメンタリー映画『ニッポン国古屋敷村』で刻銘に紹介された上山市内の蔵王山系の山村集落「古屋敷」で先日火災があった。
 この火災については11日にも写真で紹介したが、もう少し写真で紹介したい。
 この映画はは2年に1度山形市で開催される国際ドキュメンタリー映画祭の原点ともいうべきものであるから、この古屋敷集落自体も日本の、否、世界のドキュメンタリー映画界の「整地」であり、また日本の原風景そのものと申してもよいほどなのだが、日常居住する住民も限りなくゼロに近くなり、多くの住居は荒廃が著しく、崩壊間近な建物が少なくない状況であった。
 こんな中で火災が発生し、数棟が全焼した。
 だが、以後、この火災の原因を報じる新聞記事も見当たらず、もはや大のマスコミ各社すらこの日本の原風景の焼失に対して無関心になっていることが感じられた。
 尖閣諸島問題や中国の反日デモだけが日本の危機を象徴しているのではない。
 こんな今やほぼ無名になった山村の火災もまた日本の危機を象徴しているように思える。

●写真は11日の記事の写真と同じく山形市内の知人が撮影

●姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)を閲覧ください。「自転車レーンはなぜ必要か」を連載しています。
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どうもよく似ている=自転車道反対論と反日デモ

2010-10-19 20:48:27 | 時評
 社会的不満やストレスが蓄積されると特定の事物が反発心の対象となりがちだ。
 俗に言われる“うっ憤晴らし”が激しく行われ、群集による過激なデモや暴動にまで発展することもある。
 だから、彼らにとって目障りなものはなんでも“うっ憤晴らし”の矛先になりがちである。
 尖閣諸島をめぐる日本側の対応に対する非難のデモが中国各地で頻発しているが、それも中国共産党中央委員会というきわめて重要な会議が開催されているさなかであるために、学生など中国の若者たちの日ごろのうっ憤を中国政府に向ける(これは自殺行為)代わりに日本を向けているものと考えるのが自然であろう。
 さて、次に日中関係という巨大な世界から山形といういと小さき世界に目を振り向けると、自転車道が社会実験として設置されている中心商店街の商店主たちから自転車道に対する激しい反発の声が沸き上がり、即座撤廃を求める署名運動や、行政と地方議会に対する自転車道廃止要望の陳情・請願などの運動が行われている。
 むろん、一方で自転車道に好意的な商店主も少なくないようだ。
 自転車道(レーン?)廃止派は自転車道によりクルマの渋滞がひどくなり、クルマでの来街者が中心商店街を避けて郊外の新興商業ゾーンに鞍替えする傾向が進み、来店者数も売り上げも大きく減少していると言うのである。
 しかし、彼らとて「自転車道」と「売り上げの減少」との因果関係を科学的に述べているわけではない。かなり感覚的な印象を語っているにすぎない。
 確かにクルマでの来街者の目には大して利用度が高いわけではない自転車道がかなり「目障り」に映り、その不満を商店主や店員たちに語ることは少なくないであろう。
 でも、以前とて有名無実化した両脇の自転車通行帯に駐停車していたバスやタクシー、荷捌きの貨物車、一般の乗用車を避けるために車道の中心部分を走る自転車が彼らクルマ利用者にとってはきわめて目障りで仕方がなかったはずである。
 今度はボラード(棒杭)の列柱で立体的に区画された自転車道になって「車道中心部への飛び出し自転車」がなくなったのに、その自転車道を走る自転車がさほど多くはないためにクルマ利用者が犠牲を強いられたような感覚に陥り、「渋滞の深刻化」を商店関係者に語るようになって、商店主の中には「売り上げ額減少」の要因を自転車道に求めるに至ったのであろう。
 でも、これらのクルマ利用者が歩道での歩行者や自転車利用者の安全と快適さの確保にさほど配慮しているとはとても思えないのである。
 渋滞の要因を自転車道(レーン?)を求めるのは筋違いである。
 これでは中国の若者たちが日ごろの憤懣を中国政府自体に向けるのを避け、尖閣問題での日本の対応に向けているのとさほど変わりがないように思える。
 渋滞の要因はクルマ自体であり、その一つがあなたのクルマなのである。
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80代天才少年画家の遺作展

2010-10-14 14:38:15 | 建物

 79歳から83歳で逝去するまでの3年数ヶ月の間に山形市内を始め山形県各地のレトロ建築を描いた絵画展が現在文翔館(旧山形県庁舎)ギャラリーで開かれている。
 ほとんどが百円の市販のペンでフリーハンドで描いたというから凄い。
 既に高齢になっていたものの、少年のような純真さで一心不乱に描き続けたペン画の総数は約350点。いずれも細密に描かれているが、ふつう3~4日につき一枚の速いペースで完成させたという。
 今回は山形市内中心部の現存・解体前の商店や公共施設など数十点を展示している。
 開催日時など詳細は上の画面をクリックにより拡大してご覧あれ。
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ああ無情!日本の崩壊を見る思い

2010-10-11 22:31:47 | 建物
 昨日の新聞を見て驚愕。
 あの、日本の原風景とも言える山里がまた一つ消滅しようとしている。
 一昨日の火災による民家など3棟の焼失は山里の崩壊を如実に物語っている。
 火災の原因はまだわからないようだが、ただでさえ定住者がごく少数で、所有者は他所に暮らしている家屋や所有者すら居ない完全に遺棄されてしまった家屋も多い。
 朽ち果てているだけならまだよい。倒壊寸前の家屋も幾つかある。
 一昨日焼失した建物は所有者は居るが普段は他所で暮らしているらしい。
 その日はたまたま所有者が訪れていたようだ。
 この深い山懐の山里は三十年近く以前のドキュメンタリー映画『ニッポン国古屋敷村』がベルリン映画祭で受賞したことにより遠く海外の人々にも存在を知られた村落である。
 そしてこの映画は山形国際ドキュメンタリー映画祭の開催を導く原点となる。
 だから昨年はアジアの若手映画監督たちが多数訪れているほどだ。
 いわば日本のドキュメンタリー映画の“聖地”とも言えるのだ。
 しかし、既にこの映画の中で村びとたちは経済成長が進むにつれて村が足もとから寂れ行くことをあきらめ半分語っていたように、定住者は既に少数となっていた。
 でも、この山村は戦前までは養蚕や薪炭などでかなり繁栄していたようで、かなり豪壮な土蔵や母屋を構えた家屋敷が多く残され、かつての栄華を偲ぶことができた。
 しかも源氏の落武者(※注:平家ではない)が開いたという伝承すらあるだけに、昨年までは「みやびの里」の気分にすら浸ることができた。
 この古屋敷村はまさしく「ニッポン」そのものであった。
 こんな山里ながら賑わいのある元気な村であり、人々の暮らしを支え、そしてニッポンを支え続けてきた。
 ところがこの度の火災によりニッポンの崩壊を暗示するかのような状態になった。
 むろん、このようなニッポンそのもののような山里は全国各地に存在するが、多くは崩壊寸前にある。多くはいずれもいと小さき集落でしかないのだ。
 でも現在のニッポン国はこれらの小さな山里すら救えないでいる。

※古屋敷集落についての過去の記事 
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/s/%B8%C5%B2%B0%C9%DF/1

◆写真は山形市内の知人が撮影 ほぼ全焼だが、まだかつての豪壮な形を留めている土蔵 でも涙を誘う姿だ
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まほろばの高畠紀行(6)

2010-10-09 22:39:36 | 風景
 高畠町にでかけたのは9月も中旬。
 今頃高畠の田園地帯の風景を写真で紹介するのはそれこそ賞味期限がとうに過ぎたと言われてもやむをえない。
 しかも「七色の虹」については既に以前に一度記事にしている。
 だが、やはりその時の感動をもう一度少しでも他の人たちとも分かち合いたい。
 写真の「上左」は9月15日にも紹介した相森山の北側から見た山容。 いかにもまほろばの里高畠に相応しい景観の可愛らしい小さな山である。古墳跡のようにも見える。
 「上右」は相森山の南側から見た山容。市街地化が進んでいた。
 「下左」は市街地から高畠駅に向かう途中の農村部で見た虹とコスモスのコラボ。
 「下右」は同じく虹とコスモス [9月20日の記事でも同じ虹を紹介]

   ↑ 写真をクリックにより拡大画面が見られます。
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まほろばの高畠紀行(5)

2010-10-06 23:47:57 | 建物
 
 高畠町の同じ中心街でも昭和レトロを強調した店舗等が多い部分(前々回記事参照)のすぐ隣りの部分では街並みがかなり異なり、新しい建物が多い。
 だからと言って「現代風」というわけではない。
 むしろ「和風」を強調した外観の店舗や事務所などが並んでいる。
 銀行すら和風の外観である。
 だから、昔懐かしく親しみを感じるということになりそうである。
 でも、何とも違和感がある。そして、よそよそしくすら感じられる。
 それはどうしてなのか?
 ともかく人の姿が少な過ぎる。クルマの通行すらまばらである。
 だから「賑わい」がほとんど感じられない。
 これが大金を投じられて作られた地方の小都市の「街づくり」の“成果”である。
 和風なのに親近感が感じられないのは当然のこと、単に「新しくピカピカ」だからだけではない。
 何よりも道路が拡幅されたために向かい側の家並みが遠くなったためではないか。
 道路が広くなればなるほど沿道の建物が凝った造りになっても、その道路の幅員に沿う高さの建物にならないと、街並み景観は平板にしか感じられなくなるのである。

◆シリーズ「自転車レーンはなぜ必要か」は下記姉妹ブログによりご覧ください。
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