山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

知らない街で見つけた土蔵

2007-09-28 23:29:47 | 建物
 先日の夕に歩いた箇所からすぐ近くで豪壮な土蔵が目に付いた。
 既に夕刻なのに背後の青空も白亜の壁面もまぶしかった。
 このあたりは昔は半分農村的だった所のようで、広い屋敷が多い。
 屋敷が広いだけでなく、土蔵も構えが大きい。
 かなり裕福なお宅なのであろう。
 それにしても日本の土蔵(クラ)とは不思議な存在だ。
 決して単なるWarehouse(倉庫)ではない。
 屋敷内では主屋や母屋以上の強烈な存在感があるものだ。
 母屋の外観が印象に残ることはなくても土蔵の外観なら印象に残ることが多い。
 ともかく見知らぬ街でこんな土蔵を目にすると楽しくなる。
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知らない街を歩くのは心地よい

2007-09-27 22:22:45 | 風景
 わが山形市のすぐ近くの小都市なのにほとんど訪れたことがない街もある。
 先日、有名な祭礼を取材に訪れたついでに、祭礼の人々で混雑する地帯をひと時離れてまったく歩いたことがない通りを歩いてみた。
 やはりウソのように人影もめったに現れないばかりか、車の通行もほとんどない。
 夕暮れも近い時間帯だったので、静かな街の風情は一層情緒を加えつつあった。
 聴こえるのは、堰川の流れのせせらぎと遠くの祭礼のかすかなざわめき、そしてわが足音だけであった。

山形国際ドキュメンタリー映画祭まであと一週間 
    → 7月4日、9月4日、20日の記事を参照
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上杉・直江軍の野営地も今は住宅地

2007-09-25 23:56:22 | 郷土史
 長谷堂戦線も膠着状態が続く中も天下の名将直江兼続が率いる置賜盆地の上杉軍は留守政景率いる伊達の軍勢までが間近に迫っているために極度の緊張を強いられていたに違いない。
 ピラミッド状の富神山の東南部に広がる菅沢の丘陵一帯を直江の軍勢は野営地としてすぐ東南に最上軍が立て篭もる長谷堂城を、そして東北東方面に山形城を望まれるのだが、山形城は霞につつまれて見えない日が多く、作戦も立てにくかったに違いない。
 それゆえ山形城は「霞ガ城」とも呼ばれるようになったという。
 さて、関が原の戦いの決着(9月15日)はどうなったのか、両軍ともに大いに気になっていたはずだが、まだその知らせは届いていない。
 上杉軍が陣幕を張るはるか昔は古墳群が形成され、そして今ではすっかり現代的な住宅や福祉施設、郊外型病院が建ち並ぶ地帯となった。 (→続く)
 
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奥羽の関ヶ原戦線膠着す

2007-09-24 21:45:16 | 郷土史

 わがパソコン不調につき当ブログ更新ままならず、要修理のため今後しばらく我が家の最高実力者(※)愛用のパソコンを気遣いつつの使用による更新となりそう。(※ 家内もしくは娘もしくは哲学者風の猫)

 今から407年の昔、関ヶ原の戦いは9月15日の一日で勝敗がついたが、それを知らずに名将直江兼続(※)が率いる約2万の上杉軍は同じ15日に山形城の支城の長谷堂城への攻撃をを開始した。今は黄金の稲穂が波打つこのあたり(写真「上」)は長谷堂城兵からの鉄砲と弓矢により上杉兵の血で染められ、長谷堂城はなかなか陥落しなかった。
 9月24日、最上義光の山形軍応援のため仙台からかけつけた伊達軍が至近の須川河畔まで進出し、ついに戦線は膠着状態となった。(⇒続く)

 ※ 2009年度の大河ドラマの主人公に決定
 ※ 写真「上」南西方面から望む長谷堂城跡(左が山形城方面)  「下」長井市の豪商屋敷 このあたりの多くの農民が上杉軍兵士として出陣した。(→クリックで拡大)
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山形で世界一周の一週間を!

2007-09-20 23:13:01 | イベント
 山形国際ドキュメンタリー映画祭の開幕まであとわずか2週間に迫っている。
 つい先日の9月4日にはこの映画祭にゆかりの深い佐藤真監督が自殺するというショッキングな事件もあり、関係者は沈痛な思いをしていたようだが、それでもこの映画祭に期待を寄せている人たちは山形市の内外に多い。
 むろん、全世界の作品が上映される(インターナショナル・コンペティション)が、この映画祭の大きな特色はアジア各国の映画が多数上映され(アジア千波万波)、アジアの映像作家が世界にはばたく登竜門となっていることである。
 また、今年はドイツ映画の特集、山形ゆかりの映画、貴重な科学映画、8ミリ映画に関する特集なども予定されている。
 まあ、「映画で世界一周」が可能な一週間(10/4~11)と言えそうだ。
 山形は漬物王国だが、「映画漬げ」になてみでけらっしゃいっス~(映画漬けになってみてくださいねえ)。(※写真は前回の2年前のもの ポスターは今回)
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若者は政治と社会に挑まない

2007-09-19 20:49:42 | Weblog
 団塊の世代やそれ以前の世代の者にはまことに昔懐かしい写真が2つ。一つが昭和35年の日米安保反対闘争で国会を取り囲む洪水のようなデモ隊の人波であり、もう一つが東京大学安田講堂の塔屋に籠城する反体制過激派学生たちと放水している警官隊との対決の写真である(確か昭和43年)。
 あの頃の学生や若者たちには硬軟の違いはあるものの、また事の良否は別にして政治や社会に対して真正面から体を張って挑んだ者が多かったのだが、彼らの子どもたちの世代は既に骨の髄までのリモコン世代。身辺にはリモコン装置が溢れている。
 リモコンがあれば、寝そべりながらもチャンネルや音量を、空調については室温や風向きなどを思いのままに変えられる。もはや彼らにはリモコンなしの生活などは考えられない。だが、政治や社会はそうはいかない。リモコンは効かない。だから手を出す気にはなれない。
 かくしてリモコンに慣れきった現代の若い世代はリモコン装置が開発されていない政治や社会に対して挑もうとはしなくなったのである。
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明治~昭和前期の超高層建築、三層楼

2007-09-17 23:59:38 | 建物
 幕藩体制化下でも天守閣が見られなかった山形城下民にとって、明治11年に竣工した済生館病院の三層楼は新しい時代の新しい形の天守閣といえよう。
 この文明開化期の“天守閣”はまさしく超高層建築として、また単に高さがあるだけでなく、きわめて独創的で個性的な外観により昭和30年当初まで山形市街地のシンボル、ランドマークとして君臨してきた。
 でも、やがてすぐ近くに4階建てと5階建てのデパートが建てられ、高さにおいて現代ビルに譲るようになった。

※ 「左」明治13年発行の木版図絵(部分)「右」昭和10年代のスナップ写真
※ 済生館三層楼については9月13日の記事も参照ください。
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真夏日に源氏の秋祭り

2007-09-15 23:42:25 | イベント

 ↑「上」丘陵の頂に鎮座する寒河江八幡宮  「下」流鏑馬

 ↑「上」寒河江市街東部でみつけた酒蔵  「下」大規模な神輿パレード

 9月15日とは全国どこでも八幡神社の祭礼日である。
 とりわけ山形市の西北にある寒河江市の八幡神社の祭礼はスケールが大きい。
 八幡神社と言えば源氏の守り神。もともとは大分県の宇佐八幡が本社で、京都の岩清水に進出し、鎌倉に鶴ヶ岡八幡宮が建てられてから源氏や鎌倉幕府の権威を尊崇する各地の土豪たちが競って八幡神社を創建するようになった。
 寒河江を支配した大江氏は鎌倉幕府の重鎮大江氏につながる名門のゆえ、寒河江の地に壮大な八幡宮を建立したのは当然といえる。
 ここの八幡宮には全国的にも珍しい流鏑馬(やぶさめ)の行事が伝えられており、今日も多くの参拝者や観光客、カメラ愛好者で賑わった。
 また、夕刻からは祭礼にあわせて数多くの神輿や灯篭風の擬似神輿が市街地を練り歩いた。八幡宮という一つの神社の祭礼というよりは、宗教色が薄められた寒河江の町ぐるみのイベントとなっていたことは明らかであった。
 それにしても今日は猛烈な暑さで当然真夏日であり、熱気のうえに熱気が重なり、ふだんは静かな寒河江の市街も夜遅くまで猛暑に包まれていた。
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戦後の山形を見つめた済生館三層楼

2007-09-13 22:26:18 | 郷土史
 上の写真は2つともひどい画質だが、戦後の山形と済生館三層楼を雄弁に物語る貴重な資料である。特に三層楼は山形の文明開化を象徴する建物であるが、激動する近代と現代の歴史に翻弄されてきたことを訴えている。
 左の白黒写真は丁度62年前の9月13日付けの山形新聞に掲載されていたものであるが、数人の男たちは連合軍部隊が山形市に進駐する前に偵察に訪れた調査団の一行である。彼らは山形版“どんど晴れ旅館”とも言うべき後藤又兵衛旅館(←クリック)に宿泊している。その後19日に米軍は本格的に山形県内に駐留することになる。
 右のカラー写真は49年前に山形市がロケ地となった伴淳三郎主演の映画「顔役」の1シーンに現れた三層楼であるが、外観の色は現在と大きく異なり青っぽい。また、三層目の部分は圧縮されているが、これは戦争中米軍機による爆撃の目印になるのを避けるために解体されたためである。13年前にここを視察した米軍人たちはこのことの説明を受けたのであろうか。(本来および現在の三層楼の姿←クリック)
 なお、同じ紙面には米軍の本格進駐を前に山形県民に対する注意と心構えを呼びかけるコラム記事が掲載されている。
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道端で見つけた“美しい国”

2007-09-12 22:15:22 | 風景

  針のムシロよりもハナのムシロ
 やはり今の日本は何が起きてもおかしくなくなっている。
 閣僚の相次ぐ失言や不祥事に関連した交替、公務員による年金着服、子どもたちにまで広がる残忍かつ奇怪な事件の数々、最強横綱の精神疾患・・・等々。
 家族は毀れ、小地域社会は毀れ、自治体財政は毀れ、街並みは毀れ、中央政界はご承知の如くガタガタ状態。こんな中、安倍首相の突如とした辞意表明。
 いかにも「あ~、ツカレタ~!」という感じだ。むろん、日本社会が疲れきっている。
 政界だけでなく日本社会全体が針のムシロだらけ。今の日本に針のムシロの上にどっしりと腰をすえるサムライは皆無だ。首相どころか町内会長すら引き受け手が居ない。
 こんな中で「美しい日本」を叫んでも雑音にしか聴こえない。
 でも片田舎に足を運んでみたら、路傍にハリのムシロならぬハナ(花)のムシロが広がっていた。(写真は山形市内の山寺地区にて 2003年撮影 クリック→拡大)
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