山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

旧製糸工場見学と再びイザベラ・バード史跡へ(3)

2013-03-25 23:28:58 | 旅行、小旅行

イザベラ・バードは完成して間もないこの西洋式の二連石橋の上で蔵王の雄姿を見つめたであろう。ここからいよいよ村山盆地が開けて行く。世界史的旅行家イザベラ・バードゆかりの数少ない構築物である。この景観を守らなければ!!

イザベラ・バードが歩いた旧街道と並行して走る山形新幹線。彼女が渡った堅磐橋は右手に隠れている。この手前の農地に巨大建築物が建つという計画があるようだが、ここは丁度、村山盆地の入口。新幹線の車窓からの眺めが心配になる。

この狭い農地に巨大建造物が建つなんて信じられない。背後の里山の景観もすっかり隠れてしまうことだろう。

上山市の中心街には旧家の長屋門が残されており、右手には空き室を活用したミニ・ギャラリーが開設されていた。そして向かい側には山形板お好み焼きの「どんどん焼き」が食べられる喫茶店があり、そこで休憩した。
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旧製糸工場見学と再びイザベラ・バード史跡へ (2)

2013-03-22 16:52:14 | Weblog
旧製糸工場の棟と棟との間にはまだ残雪がうず高かった。

いかにも製糸工場の棟らしいが、近年はメンマ工場として使われていた。

旧製糸工場を離れた某所で見かけたサングラスをかけた二宮金次郎氏と白銀の蔵王

国道13号から望まれる蔵王の雄姿。白銀が青空の中で泳いでいるような優美な眺めであった。

 続く いよいよイザベラ・バードが渡った二連アーチ橋が登場
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旧製糸工場見学と再びイザベラ・バード史跡へ(1)

2013-03-19 14:33:36 | 旅行、小旅行
 
 一昨日の上山へのグループツァーは感動に次ぐ感動であった。黄砂の飛来など感じさせない抜けるような青空の中に浮かび上がる早春の蔵王の白銀。そして「読書の春」で勉学にいそしむサングラスの二宮氏(次回の写真を楽しみにして)。そして広大な製糸工場の遺構と山形盆地入口の近代化を象徴する西洋式の石橋など、様々な感動の連続であった。
この日は上山まちづくり塾主催の旧製糸工場の見学会に我が歴史たてもの研究会が団体参加したのだが、まずはかつて製糸業で栄えたお宅(蟹仙洞博物館)で当主のお話をうかがう。豪華な雛人形たちにも迎えられた。
 当主の話では、大正期の製糸工場の建物がそのまま残っているのは全国でも珍しいということである。

 中国明代漆器の展示棟前のサンルームから庭園越しに三吉山を望む。
 昔は庭園の向こう側には住宅がなく、上山のシンボル「三吉山」をすっぽりと庭園の借景に取り込むことができた。

 H家(蟹仙洞博物館)の元の表玄関。屋根はスレート葺き。国の登録有形文化財

 製糸工場に付帯の元の繭蔵。4層の巨大土蔵。青空に白壁が映えていた。
 このようにビルディングのような巨大な土蔵は山形市内では見られない。

 続いて旧製糸工場と二宮氏の石造など ⇒ 次回に続く
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江戸初期の山形にフランシスコ会が布教

2013-03-14 21:07:45 | Weblog
 新しいローマ法王にアルゼンチン人枢機卿が選出され、フランシスコ一世となった。この名は中世イタリアの聖(サン)フランシスコ(フランチェスコ)の愛の精神を伝える者の意味がある。
 最上氏改易後の鳥居氏の山形藩領内にキリスト教を伝道したディエゴ神父はフランシスコ会修道会の宣教師であるが、彼は弾圧が激しくなった西日本から酒田・最上川・須川経由で船町に上陸して布教した。西山形のピラミッド状の富神山山麓近くの寺院には異国人神父のものと伝えられている遺骨が安置されているが、彼もフランシスコ会の宣教師、或いはディエゴ神父自身であったのかもしれない。
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優美な分水嶺を仰ぎつつ・・・

2013-03-11 15:22:19 | Weblog
 二年前の今日は忘れもしない東日本大震災が発生した日。
 朝から午後2時過ぎまではごく普通の一日であったが、突然大きく揺れだし、それが異常に長い時間であった。なんとか揺れがおさまり、街の方にでかけたあたりから三月には珍しい吹雪となった。[今朝の山形も吹雪であった。]
私はいつも優美に波打つ山形市街地東方の山並みを眺めるのが好きだ。この山並みは蔵王連峰の北の方に連なる雁戸山と神室岳の稜線で、まさに山形・宮城の県境であり、日本海側と太平洋側との分水嶺でもあるが、その稜線のこちら側はほとんど人的被害(※注)はなかったのに対し、向こう側は地獄のような悲惨な光景に満ちていたのである。
こうしてあの大震災以降は写真のような雄々しくも美しい山並みを仰ぎ見るにも鎮魂の気持ちをも含めてになってしまう。
 ※注 地震関連死の犠牲が2名
 [文面、写真ともFacebookと同一です。]
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坂上田村麻呂も征服できなかった東北弁。しかし・・・

2013-03-01 07:03:03 | Weblog
 少しアカデミック(?垢出ミック)で長たらしい文章になったが、ご辛抱のうえ最後まで目を通していただきたし。[たぶん期待薄だろう。]
 右に古代日本史上の人物の肖像画、左に誰がしかの墓碑のようなもの。この二つは勝者と敗者を表している。
 つまり、平安初期に東北地方の蝦夷勢力は朝廷軍の将軍坂上田村麻呂に完全に制圧されたとされている。だが、どっこい蝦夷文化の象徴とも言うべき東北弁は近代に入ってもしぶとく生き続け、つい20~30年前までごくありふれた会話であった。しかしその後は何とか訛りは残っても蝦夷風言語の語彙は高齢者の間からすら欠け落ちて行く一方であり、どんな山村部でも子どもたちの会話はすっかり東京風となり、今や蝦夷風言語、つまり東北弁は絶滅危惧種となっている。「ナマラナイト」も東京風言語の前では暖簾に腕押しのようなものでしかないようだ。
 坂上田村麻呂だけでなく、前九年・後三年の役での源頼義・義家、平泉藤原氏を滅亡させた源頼朝、奥羽を掌握した豊臣秀吉、会津を始めとする奥羽各藩を制圧した薩長中心の官軍さえ征服できなかった蝦夷弁を急速に衰弱化させた現代兵器は何なのか。今なお頑なに東北弁を語り続ける東北人が存在するなら田村麻呂に抵抗した蝦夷の首領の阿弖流為(アテルイ)軍の残党の子孫なのか。もし、東北地方からすっかり東北弁が消え失せたら、京都の清水寺境内のアテルイと彼の参謀モレの供養碑の傍らにもう一基墓碑が設置されるのであろうか。
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