山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

東京谷中界隈の歴史スポット巡り

2012-01-29 11:36:31 | 旅行、小旅行
 
 谷中は庶民の街でもあるが文化人の街でもある。上の建物は彫刻界の巨人平櫛田中氏の邸宅とアトリエ(左) たいとう歴史都市研究会が管理している 通常は非公開(時折イベントで公開)だが、HK氏の好意により内覧もできた

 1月22日の午前は横浜根岸の洋館つき住宅を見学し、午後は東京の谷中界隈の街歩きをやった。
 案内してくださったのは「たいとう歴史都市研究会」のHK氏。
 谷中といえば、谷中墓苑と寺院群だけでなく、庶民の生活の匂いが漂う街として町屋造りの古い商店などが点在し、映画「三丁目の夕日」を彷彿とさせる路地が入り組み、「古き良き昭和」を求めて街歩きする人たちが増えているようだ。
 だが、一方で「古い木造建築は防火防災上きわめて危険」とみなす風潮も特に行政の間で強まっている。
 それでも古い木造の建物の良さを訴えて保存・活用の活動を行っている人たちもある。
 その中の一つがこの「たいとう歴史都市研究会」である。

  ↑ ①活動拠点でもある喫茶店カヤバ 客の出入りはかなり頻繁であった ②旧市田鄭 現在は数名の学生が住み込んで維持されている ③「間間間」さんけんま 尺八のワークショップなどがなされている ④谷中墓苑内にある徳川慶喜公の墓域 ◆たいとう歴史都市研究会については下記ホームページhttp://taireki.com/map/index.html

 むろん「たいとう」とは台東区のことだが、とりわけ谷中を中心とした地域の木造建築に関しての活動であり、実際に4棟の建造物の保存・活用を手掛けている。
 それでHK氏にはそれら4棟をすべて案内していただいた。
 それだけでなく、途中、ごく近隣の寛永寺の本堂や東京芸術大学入口、谷中墓苑をも訪れることができた。
 最後に活動拠点でもある喫茶店「カヤバ」に戻り、会幹部のSA氏ともしばし懇談した。

  寛永寺の豪華絢爛な唐門 鶯谷駅の近く 南向かいは東京国立博物館

◆山形市中心街の自転車道の問題を姉妹ブログで論じているので、こちら(↓)もご覧いただきたい。
     http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k
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横浜で見つけた「ふるさとの家」

2012-01-27 00:12:33 | Weblog

 幕末以降、日本でいち早く近代化・洋風化の波が押し寄せた横浜には当然現代にもその名残のある建物が点在している。
 しかし洋風化だけが横浜人の目指したものではない。
 外国人との交流を意識すればするほど「日本的なるもの」の追及をも怠らず、建造物にも日本美の深化が進められた。
 その傾向を如実に表しているのが横浜に点在する「洋館付き和風住宅」である。[山形市内でも幾つか現存する。]

 先日、横浜市の根岸駅から降りて10分ほどの所に建つ2階建ての洋館部分を連結させた素封家の旧宅を訪れた。
 現在はNPOが管理運営を委託された公共施設として無料で内覧できる。
 旧邸宅部分の石垣の上には菜の花が咲き誇り、尖塔のような洋館部分は地域のシンボルのようでもある。
 でも、この旧宅の大半を占める和の部分は細部に至るまで日本建築の美が示されており、見応え充分で、昔の当主に招待されて訪れた外国商人たちも和の建築文化の良さを堪能できたのではないか。

 
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冬景色  高さ東北一と高さ日本一

2012-01-24 18:27:27 | Weblog

 しばらくぶりの上京。正確には首都圏詣で。
 一昨日は東京はまったくの通り過ぎで、最初に降り立ったのは横浜の関内。
 むろん、山形は雪景色一色。
 この雪景色は珍しくも栃木県北部まで続いた。
 昨日の夜からは首都圏でも若干の降雪があったが、正午前後は暗雲の中、伊勢崎、野毛山界隈の街歩きを敢行。
 
 上山駅を離れると間もなく「東北一の高さ」(※注↓)の住宅ビルが一面の雪原の中に里山を背景としてにょっきり立ちすくんでいるのが見えた。
 そして、横浜の野毛山公園からは雪で覆われた部分が拡がった「日本一の高さ」の富士の山を望むことができた。
 でも、青空が背景ではないので、それほどくっきりとは見えず、写真では決して鮮明には写ってはいないはずである。

※注:41階建てのマンション。仙台でこの階数を上回るマンションが建設されたかどうかは不明。ともかく田園風景が拡がる風景の中に突如このような超高層ビルが現れるから、間近の国道を走る車の乗員は「何じゃ、こりゃ!」と叫んでしまうことが多い。いわば「ナンジャコリャ・タワー」とでも呼ぶべきかもしれない。

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自転車利用者不在!?の自転車道論議(1)

2012-01-17 22:36:14 | 街づくり

  ↑ 写真1 ローカルニュース(NHK山形)の出だし

 今日のテレビ・ローカルニュースで山形市中心部で約三年前に始められた「自転車道社会実験」の今後について国土交通省は地元の3商店会に対して3つの案を提示したことが報じられた(写真1、2、3は当ブログ。写真4、5、6は下記姉妹ブログ)。

↑ 写真2 ホテル内での国土交通省(向かって右側)と商店会

 第1案は、現在のように片側に双方向の自転車道を設けるが、自転車道と車道との立体的区画のために縁石を連ねる。そして、図のように自転車道と歩道を狭めて荷捌き車両のスペースを設ける。
 第2案は、車道の左右部分にそれぞれ一方向の自転車道を設け、第二案と同様に縁石と荷捌き車両のスペースを食い込ませる。
 第3案は元通りの自転車道でなく車道の両脇に車道との立体的区画がない自転車レーンに戻すことである。

 以上の3案に対して沿道の各商店会はどれを選択するか決定して意向を国土交通省に伝えるのだという。
 従来の商店会の自転車道に対する反応であるが、特に某商店会は自転車道はクルマでの来街者に大いなる不便を与え、客足と売上の減退を招いた(ただし具体的な統計数値は不明。公表もしていないようだ。)ということで、自転車道の「即時撤廃!」を強硬に主張してきた。
 むろん、国土交通省としては地元商店会の意向を無視した形で自転車道について「社会実験」から本格的な施行へと移行することは憚られたからであろう、今日の商店会に対する3つの案の提示となったのであろう。
 しかし、自転車道の今後の在り方の決定について大きく抜けた点がある。
 それは肝心の自転車での来街者徒歩やバス等での来街者の意見を聴取する姿勢が見えないことである。
 また、地元の自治体、すなわち山形市役所(それこそ自転車道の間近)の意向も見い出せないないのも気にかかる。

なお「自転車利用者不在の自転車道論議(2)」および写真の4、5、6は下記姉妹ブログ(本日1月17日付け)によりご覧いただきたい。
http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k  また、上記のブログでは2009年の11月から自転車道についてのシリーズを連載しているので併せてご覧いただきたい。。

↑ 写真3 3年前の11月に「自転車道社会実験」が始まった当初の様子
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穂希もなでしこらしく、そして山形県のホマレ

2012-01-13 07:20:08 | Weblog
 なんか使われていそうもない古風な木造建造物の写真と左右の二人の人物の写真の取り合わせ。
 これでは何を示しているのかわからないのも当たり前。
 でも、左右の人物なら知らぬ者はいないはず。
 そう、左はやっと「大和なでしこ」らしい姿になったホマレ様。
 あの、茶系統に染色したヤマンバ風のぼさぼさ長髪のためにとても「なでしこ」らしさが感じられなかった彼女もようやく「なでしこ」らしい姿を全世界に示せたのは嬉しいことだ。
 日本女子サッカーチームのワールドカップでの優勝にどうも単純に喜んでばかりいられない気分であったのは生まれたままの緑の黒髪姿の選手がマレで茶髪が圧倒的に多い彼女たちに「大和なでしこ」がイメージされる名が与えられていたためで、「日本女性らしさ」を意味する「なでしこ」とひどいミスマッチが感じさせられ、このような感じを持つ者は決して私、ブログ主だけでないことは色んなホームページの書き込みで知ることができた。
 サッカーは確かに強いのだが、これだけではとても「なでしこ」らしいとは言えぬ。
 個人的に日常生活において茶髪金髪を楽しむくらいなら自由かもしれないが、少なくとも「日本」という国家の代表として国際舞台に登場する以上は頭髪の染色はできるならやめてほしいものだ。
これは日本の総理大臣や外務大臣、国連大使が茶髪で国際会議に出てほしくないと思うのと同じなのである。
 さて、この昔懐かしい事務所ビルを思わせる木造建造物は山形県尾花沢市の中心街にある。ただしこの写真は一昨年の秋に同市を訪れた時の撮影なので、今現在はあるいは解体されて消え去っている可能性がある。
この建物、中心街にあるだけに尾花沢では以前は中心的な役割と街のシンボル的性格を担っていたはずであるが、“老朽化”や駐車場不足ということでかつての機能を別の場所の新しい建物に移転させたのであろう。
 しかし、耐震性を含む若干の補強とお色直しをすれば再び街のシンボルとして蘇生することができ、芭蕉関係の遺跡とともに尾花沢のホマレとなることができるはずである。
 えっ、既に「尾花沢のホマレ」が出現している?  そう、確かに然りである。
 尾花沢の空気を吸っていたのは小学生くらいまででしかないが、写真の右側の男性こそ「なでしこジャパン」のワールドカップ優勝に導いただけでなく、国際サッカー連盟から最優秀監督として顕彰された佐々木則夫監督であり、現在尾花沢市は祝賀ムードで包まれている。まさしくこれまた尾花沢のホマレとなっている。

 まさか茶髪を禁止されたくらいで「技」と「士気」が低下するわけではあるまい。
 茶髪が多数派の状態ではたとえロンドン五輪で金メダルを獲得したとしても心の底から喜べないのだ。
 スポーツで世界を制覇しても「日本女性らしさ」「日本文化の行方」が心配になる。日本国民の誰しもが心の底から声援できるようになるためには茶髪を控えるように願いたい。でなければ「なでしこ」の枕言葉を返上し、改名を勧めたいものだ。

まあ、「心の狭い」人物のぼやきと受け取ってもらっても構わない。
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雪景色の池泉回遊式庭園

2012-01-06 10:16:33 | Weblog

 57万石の最上氏が改易により山形から去って以降22万石から5万石の中小大名の左遷地に堕した感のある山形藩にこれほど壮大で優美な池泉回遊式庭園を備えた大寺院が維持されてきたとは驚きである。
 その大寺院とは山形地方の真言宗の触頭(統括寺院)であった宝幢寺であるが、神仏混淆の寺院であつたために明治維新政府の神仏分離令により住職が神職を選択し、廃寺となった。
 以後、現在の公園敷地(茶室等の建物を含む)の約10倍もあった境内や付属樹林・農地の大半が切り売りされ、本堂を始めとする多くの寺院施設も解体され(※下記参照)、庭園と庫裡を残すのみとなり、昭和20年代後半に山形市に移管されるまで荒廃の一途を辿るのみとなっていた。
 それでも宝幢寺という名は戦後もしばらくまで市街地図の表記などに使用されていた。
 藩政時代の寺領の石高(幕府つまり徳川将軍により承認されたいわゆる朱印高)は1370石というから京都の大寺院なみの財政力である。
 この宝幢寺は公的性格を持つ寺院として国家鎮護と藩の繁栄・安寧を祈願するのが主たる任務の寺院であったから、歴代藩主による支援が続き、宏大な庭園は藩主松平氏により寄進されたとされている。
 しかし、松平下総守が寄進者だったとしても藩主としての石高はわずか15万石で、後の松平大和守の場合は更に減って10万石でしかなかった。
 いわば既に中小大名でしかなかった彼らにあれほど宏大で優美な庭園の作庭を支援(寄進)できたとは考えにくい。
 また、市内薬師町にある薬師堂は明治末に解体された旧宝幢寺の本堂が移築されたもので、その巨大さに圧倒されるが、宝幢寺の境内にはその他にも大きな建物が甍を並べていたことを考えると、庭園を含めた寺院全体の維持のための財政支出は膨大であったと思われる。
 しかも、松平氏以降の山形藩の石高は更に縮小されて最後の水野氏の時は5万石になっていた。
 城郭と殿館はむろん家臣住居の維持や補修もほとんどできない中で宝幢寺に藩主だけが支援するのは不可能であったはずである。
 つまりは藩主だけが支援したというのではなく、山形藩の近辺の幕領や山形を去った大名の飛び地(陣屋が管理)、更には城下の豪商らによる支援もあったと考えられるのではないか。
 いわば宝幢寺は山形地方全体の共有財産であったのである。

 旧宝幢寺庭園(もみじ公園)は現在山形市随一の紅葉の名所として市民に親しまれているが、雪景色の眺めもなかなかである。
◆下の写真は清風荘(旧庫裡 国の登録文化財)の広縁の窓越しに眺めた庭園
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元日2題(その2) 自家製のおせち料理で家族団らん

2012-01-01 23:18:03 | Weblog
 年末から帰省していた親族とともに自家製のおせち料理を囲んで、朝昼兼用の食事をしながら、しばしの団らんを行なった。
 自家製とはいっても、むろんほとんどが家内の手によるもの。腕によりをかけてというのはこのことであろう。
 毎年いくらかは自家製のおせちは作ってくれてはいたが、今年は品目は格段に増えたため、かなり豪華な気分の新春食事会となった。
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元日2題(その1) 氷点下6度の中、60歳の乙女たち頑張る!

2012-01-01 18:00:05 | Weblog
 今年最低気温の氷点下6度。今日が元日だからこの記録は何度か更新されるであろう。でも、彼女たち3人はこれからもこの姿で頑張り続けることは間違いなし。 彼女たちがこの場所に立ち始めた時は水もしたたる御年頃の21歳であったと思われる。
 台座の裏面には1973年と記銘されているから、彼女たちの年齢は今年で満60歳になるわけだ。
 御年60歳、とうねん(10年)とっても50歳なのに39年前のプロポーションはそのまま、肌の艶もなめらか。でも、酸性雨や排ガスなどによる若干酸化のきらいがあり。
 それにしてもこの厳寒の雪景色の中でのすっぽんぽんの姿を見せつけられると、こちらがいくら厚着しても寒気がしてくる。
 北山形駅前の小便小僧なら当然冬の衣装で身を包まれるのだが、山形市民の誰一人も既に中高年の彼女たちに防寒着を着せてあげようとはしない。
 でも、「いいのよ。私たちは私たちで頑張り続けるから。」「震災の被災地の皆さんのことを思えば、これくらいのことなんでもないわ。頑張れ東北!」と言っているようにも思える。

◆山形市民会館入口前の3人の乙女像(いずれも推定60歳) 背後のビルは新築の医師会館
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