山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

浅井三姉妹でなく最上三姉妹(6) 竹姫(2)

2011-02-28 18:16:30 | Weblog
竹姫については氏家尾張守光氏の妻であり、また最上家改易とともに氏家夫妻は長州の萩藩にあづけられたことだけが知られているのみで、彼女自身がどのような人物であったかまでは一切知られていない。
 それでも元和8年(1622)の最上家改易まで竹姫と氏家光氏の夫妻が日常どこに住まいしていたかは城下絵地図により知ることができる。
 それによると山形城三の丸内で、二の丸東大手門のすぐ手前が夫妻の屋敷であったようだ。そこは現在は元の県立中央病院の跡地となっている。その屋敷の広大さは他の家臣たちの屋敷の広さをはるかに凌いでいる。※上の写真参照
 現在浅井三姉妹の末娘の江姫を主人公としたNHKの大河ドラマ『江』が放映されており、彼女は3度結婚し、その3度目の夫が二代将軍の徳川秀忠であるが、最上三姉妹の末娘と思料される竹姫についても「3度の婚姻」説が伝えられている。
 その3回の婚姻の相手とはすべて氏家尾張守(先代)の3人の息子とされている。
 その説の主は山形市の郷土史家の草分けとも言われる故KK氏であり、そのうち2名が駒姫の菩提寺である専称寺の住職経験者(還俗者)というのである。それによれば、先代氏家尾張守には3人の息子があったが、長男も次男も竹姫と結婚して死別している。しかし、最上家系図に記された氏家尾張守(光氏)は成沢道忠の息子で先代の氏家尾張守の養子となったのであり、先代氏家尾張守(守棟)の息子が戦死したため養子になったというのが正しいと思われる。
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いよいよ春の陽気が・・・

2011-02-24 22:45:20 | 風景
前々回では「どこかで春が・・・」というタイトルで記事を掲載したが、それから既に五日目。その際に「ここ二、三日」と書いたから、もう一週間ほどは春の陽気が続いたことになる。
 また、2月4日の記事でも雁戸山の写真を掲載したから、今回の雁戸山の写真とを見比べて、山肌の雪の状況とを見比べてほしい。
 今回の写真は昨日の撮影だから、19日の間隔をおいての雪の状況の違いになる。
やはりどうやら山肌を覆う冠雪もだいぶ減少していることは確かである。
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浅井三姉妹でなく最上三姉妹(5) 竹姫

2011-02-21 23:55:34 | 郷土史
 最上家関係の系図は8通りほど知られているが、たいていは「氏家尾張守妻」として記され、「竹姫」としてではないが、最上義光の3人の娘の第一番目の位置に記されているから、あたかも長女のようであるが、実際はむしろ末娘の三女と思われる。
 長女の松尾姫は延澤城主の子息(後に城主となる)に嫁ぎ、二女の駒姫は豊臣秀次のもとに輿入れしたものの、三条河原にて秀吉により惨殺されてしまった。
 そして竹姫であるが、成沢城主の氏家尾張守に嫁いだ。
 松尾姫も竹姫も父義光の重臣の中の重臣に嫁いだわけだが、二人とも必ずしも常時それぞれの夫の居城である延澤城や成沢城に居住していたとは思えない。
 竹姫の夫の氏家氏の城は山形城に至近距離の成沢城であるが、山形城の絵図を見ると、山形城三の丸内の、しかも二の丸東大手門のすぐそば(元の県立中央病院敷地)に広大な屋敷を与えられており、竹姫もそこに住まいすることが多かったと思われる。[同じことは松尾姫の場合についても言え、延澤氏の山形屋敷も三の丸内の西北部にあった。]
 つまり、二人の姫はともに他家に嫁いだとはいえ、父が住む山形城本丸のすぐそばに住むことが多かったようである。

※写真は成沢城跡公園の旧本丸広場から望まれる山形市の中心市街地 霞城セントラルビルがひと際目立つが、その辺りは三の丸部分で、二の丸と本丸はその背後右手前方
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どこかで春が・・・・・

2011-02-19 23:31:43 | 風景
  最上三姉妹の記事は今回はお休み。

 今なお朝夕の寒さはかなりのものだ。
 だから日中の陽射しは柔らかでも、早朝の裏通りはがちがちに凍りついた雪道のままだし、夜の歩行は凍結によりすべって転倒の恐れもある。
 でも、ともかく北国山形でもここ二、三日の昼間は晴れ間が広がり、至る所で雪解けの様相が感じられる。
 繁華街のある表通りはすっかり雪は消え失せ、城址公園の堀の水も温み、水鳥たちがのどかに弧を描いている。

※ 写真は霞城公園北門近くの土塁と堀 
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浅井三姉妹でなく最上三姉妹(4) 駒姫(2)

2011-02-15 17:49:33 | Weblog
駒姫は豊臣秀次によって強く京に来てもらいたいと所望されたのだが、はたして九戸の乱の鎮定後に秀次が山形に立ち寄ったかどうかについては確たることは言えないものの、実際に九戸城の近くにまで軍を進めていたことは確かなので、山形まで寄る可能性がまったくなかったとまでも言い切れない。
 彼が山形で駒姫を実際に見たかどうかにかかわりなく、駒姫がすごい美少女である噂は彼の耳に入っていたことであろうし、前年に駒姫の父の最上義光が京都に訪れた時も直接に義光から駒姫のことを聞いており、遠い奥羽の美少女をなんとか自分のそばに引き寄せたいという思いを募らせて奥羽の奥地での乱の鎮定に赴いたのかもしれない。
 秀次が奥羽の地に来た時は駒姫はまだ11歳でしかなかったから、彼女が京に輿入れしたのは15歳になってからであったが、不運なことに秀次に会いもしないうちに三条河原の惨劇の当事者として秀次の他の妻妾や子供たち38人とともに無残に殺害されてしまったのである。
 なお、当プログでの駒姫に関する記事は下記の年月日付けである。
 2008年12月13日  同年12月14日  2010年12月6日

◆写真説明 駒姫の菩提を弔うために山形城下に移築されたと言われる専称寺の山門と本堂 本堂は元禄期の建造だが、東北一の巨大伽藍といわれる
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(3) 駒姫(1)

2011-02-13 03:21:49 | 郷土史
 最上義光の次女の駒姫は戦国時代末期の姫君たちの中でも最も悲劇的な運命の姫と言うことができそうである。
 1月から放映なっているNHK大河ドラマ『江』にあやかり多くの出版物が売り出され、中でも主人公の「お江の方」を特集した単行雑誌が多く目に付くが、その中には同じ時代の関連人物として駒姫のことが2ページにわたり記事となっている。
 むろん駒姫とお江の方が京都あたりで直接対面したという史実はほとんどかんがえられないが、徳川将軍の妻という近世初期の女性として最高の地位にまで昇りつめたお江の方と最も悲劇的な運命の中に露と消えた駒姫はなるほど好対照である。
 この駒姫については当ブログでも過去に何度か記事にしているので、“復習”として再度お読みいただきたく、下記に各アドレス(URL)を列記している。
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20061120
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20081211
http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20081212
   次回に続く

◆写真説明 駒姫の菩提を弔うために山形城下に移築されたという専称寺の本堂の大屋根が家並みの中に一際威容を呈している。背景の山並みは雁戸山(蔵王連峰北側部分で背後は宮城県側)
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(2) 松尾姫

2011-02-09 22:26:59 | 郷土史
 山形城主で初代山形藩主になった最上義光には家系図などから3人の娘が確認される。
 しかし、家系図では今日伝えられている名前が記載されているものはない。
 明治以前の武家の家系図では嫁ぎ先が記されていることによって人物が特定されるものの、ほとんどは名前が記されず、「女子」とか「女」とだけ記されているにすぎない。
 それゆえ最上義光の娘たちについてもすべて今日伝えられている松尾姫、駒姫、竹姫の名がそのまま記されている家系図はない。
 ただ、長幼の順序はここに記載の通りであることは確かと考えてよい。
 今回は長女の松尾姫を紹介するが、彼女については昨年11月に当ブログにて記事にしているので、下記アドレス(URL)をそれぞれクリックのうえご覧いただきたい。
◎11月20日の記事  
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101120
◎11月22日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101122
◎11月24日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101124
◎11月27日の記事
  http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20101127

◆上の写真は松尾姫が嫁いだ延沢氏の居城「延沢城」の城山 国の史跡 [再掲]

上の記事には直接関係ありませんが、姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(下記URL)をご覧ください。
 相撲界の八百長メール事件にちなんでクルマ社会の問題を記事にしています。
  http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20110209 
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浅井三姉妹でなくて最上三姉妹(1)最上義光の3人娘

2011-02-07 23:42:55 | 郷土史
 一昨年のNHK大河ドラマは我が山形県に大いに関係のある直江兼続が主人公の『天地人』であったが、今年の大河ドラマの『江』も少しは山形の郷土史と関係及び関連性があると聞けば、多くの山形市民はかなり意外に思われるかもしれない。
 主人公の「お江の方」は浅井長政の3人の娘の末娘で、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の夫人となった女性であることは言うまでもないが、秀忠の“隠し側室”つまり正式に公認されていない側室ともいえる「お静の方」の位牌が置いてある寺が山形市内にある。
 そのお静の方が産んだ子が後に会津若松城主松平家の祖となった保科正之であり、お江の方の子で3代将軍となった家光の幕政を支えた有能な補佐役となっている。
 なぜお静の方の位牌所の寺が山形にあるのかと言えば、子である保科正之が会津若松に国替えになる以前に山形城主になったことがあるからである。
 それはそうとタイトルの最上三姉妹のことであるが、当然、浅井三姉妹から連想されるという意味で、山形城主最上義光の3人の娘たちの存在も紹介すべきと思われるからである。
 最上義光の娘といえば駒姫の名がダントツに知られているが、駒姫の他にも姉として松尾姫、妹として竹姫の名も挙げられるのである。
 次回では長女の松尾姫について紹介したい。

◆写真は山形城跡二の丸部分 3人の姫たちはここで生まれ育ったのか
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たまには「癒し」の風景写真を

2011-02-04 06:21:30 | 風景

 どうも当ブログは「硬派」に属していると見られているせいか、最近はコメントすら寄せる方がきわめて少なくなったように思える。
 でも、たまには見つめているだけで、すがすがしくなるような写真を紹介するのもよいのではないかと思い、わが山形の東の風景を彩る雁戸山(蔵王山系北部)の冬景色を撮影した。
 私のカメラの腕はまさしくド素人の中のド素人であり、カメラもいわばバカちょん(差別的言辞?)デジカメゆえに画質もさほど良好とはいえないのだが、被写体自体がそれらを超克するほど綺麗であったと思われる。
 雁戸山は標高自体はさほど高くなく、蔵王主峰の熊野岳の1841mをだいぶ下回る1484m程度であるが、その切り立つ山容はアルプスを思わせる。
 しかも市街地にも近いために、市街地景観とのコントラストも絶妙である。
 また、こちら側は当然山形県だが、背後が宮城県であり、太平洋側と日本海側に跨る山だと思うとスケールが大きい気分にも浸れるようになる。
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