ああ、このシリーズについてはしばらくご無沙汰しておりやんした。
確か、前回は2月9日であったから、前回およびそれ以前の内容についてはその2月9日およびそれぞれの月日により再読願いたい。
伊達政宗の母が政宗の居城から出奔して郷里の山形に住むようになった動機はむろん、晩年の前年になってようやく仙台の政宗の膝元に呼び寄せられるまで、かくも長年山形に滞在した理由も不明であるが、やはり興味深いところであり、今後の研究に期待するところ大である。
母である義姫が山形への出奔以来子の政宗との関係がまったく疎遠であったかと言えば決してそうではなく、親子としての情愛あふれる手紙の遣り取りがあったことはよく知られているし、とりわけ直江兼続の大軍が山形盆地に押し寄せてきた時、彼女は政宗に対して援軍を大至急差し向けるよう激越な懇願状を送り、政宗もそれに応えて援軍を派遣している。その援軍はさほどの人数ではなかったが、山形勢の士気を大いに高めことは確かである。
むろん、長谷堂合戦の際は彼女は戦火を避けて山形城に避難しているが、戦後はたぶんここ悪戸に戻り、阿弥陀像に祈るなどのひっそりとした生活をおくっていたように思える。
彼女が岩出山城から出奔したのは文禄3年(1594)で45歳か46歳の時であり、仙台の政宗のもとに戻ったのが元和8年(1622)で74歳か75歳の時であった。
この間はなんと28年もの長い年月であるが、たぶんやはり一度も岩出山や仙台に戻ったことはなかったと考えるのが妥当であろう。
実際にここ悪戸の里に彼女が住んだ年月が延べで20年以上だとすれば、それこそ立派な史跡と呼ぶべきであろう。 終わり。
※写真は西側から望む悪戸集落 集落の背後には蔵王連山や奥羽の山並みが望まれる。 この山並みは山形城や城下に住む場合よりも眺望が効き、政宗が住む仙台領に想いをはせるには格好の地であった。当時、彼女が日参した阿弥陀堂も集落からやや離れた農地にあり、参詣を兼ねて仙台領を偲んでいたこどあろう。
確か、前回は2月9日であったから、前回およびそれ以前の内容についてはその2月9日およびそれぞれの月日により再読願いたい。
伊達政宗の母が政宗の居城から出奔して郷里の山形に住むようになった動機はむろん、晩年の前年になってようやく仙台の政宗の膝元に呼び寄せられるまで、かくも長年山形に滞在した理由も不明であるが、やはり興味深いところであり、今後の研究に期待するところ大である。
母である義姫が山形への出奔以来子の政宗との関係がまったく疎遠であったかと言えば決してそうではなく、親子としての情愛あふれる手紙の遣り取りがあったことはよく知られているし、とりわけ直江兼続の大軍が山形盆地に押し寄せてきた時、彼女は政宗に対して援軍を大至急差し向けるよう激越な懇願状を送り、政宗もそれに応えて援軍を派遣している。その援軍はさほどの人数ではなかったが、山形勢の士気を大いに高めことは確かである。
むろん、長谷堂合戦の際は彼女は戦火を避けて山形城に避難しているが、戦後はたぶんここ悪戸に戻り、阿弥陀像に祈るなどのひっそりとした生活をおくっていたように思える。
彼女が岩出山城から出奔したのは文禄3年(1594)で45歳か46歳の時であり、仙台の政宗のもとに戻ったのが元和8年(1622)で74歳か75歳の時であった。
この間はなんと28年もの長い年月であるが、たぶんやはり一度も岩出山や仙台に戻ったことはなかったと考えるのが妥当であろう。
実際にここ悪戸の里に彼女が住んだ年月が延べで20年以上だとすれば、それこそ立派な史跡と呼ぶべきであろう。 終わり。
※写真は西側から望む悪戸集落 集落の背後には蔵王連山や奥羽の山並みが望まれる。 この山並みは山形城や城下に住む場合よりも眺望が効き、政宗が住む仙台領に想いをはせるには格好の地であった。当時、彼女が日参した阿弥陀堂も集落からやや離れた農地にあり、参詣を兼ねて仙台領を偲んでいたこどあろう。