山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

淋しい街を歩いたら・・・(1)

2012-10-29 23:22:37 | 街づくり

 西村山郡朝日町の“中心部”の宮宿を歩いてみた。
 やはり小さな町であるがゆえにご多聞に洩れず中心部の街路は淋しい限りで、歩行者の姿はむろん、クルマの走行もほとんどない状態である。
 むろん、廃業したり空き地になった箇所も少なくなく、街並みが崩壊しつつある箇所もかなり見受けられたが、下の写真のように中心商店街らしい街並み(店舗の建物が連続)が残されている箇所もあり、ほっとする。
 やはりこの街も行き交う人々で賑わっていた時代もあったことがうかがえる。
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新宿を出たら商店街、否、商業ゾーン

2012-10-25 05:39:01 | 風景
 日本の原風景を想わせるような新宿(前回および前々回の記事に掲載)を出たら、見た目にはなんともつまらない景観が現れた。
 商店街ならぬいわゆるロードサイドの「商業ゾーン」である。
 さて、「商店街」と「商業ゾーン」はどこがどう違うのか。
 ちょっぴり「哲学論争」みたいになるようだが、そう、やはりこの「商店街」と「商業ゾーン」との違いを探ることは「街づくり哲学」を深めるのに有益と思われる。
 よほどの大都市でもなければ、どこの地方都市はむろん、小さな町ではいずこも商店街は寂れはて、大型店が多数立地する郊外型商業ゾーンのみが拡大するという現象が見られる。
 人口が1万人を大きく下回るここ西村山郡朝日町でも例外ではない。
 このような景観は100年後には「産業遺産」にでもなるんだべが(なるのだろうか)?
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ここも新宿のど真ん中

2012-10-22 21:11:39 | 旅行、小旅行
 
 前回記事の「警備所」からほんの少し北に歩いたところで、どでかい二階建ての民家が見えてきた。
 近づけば近づくほど、その壮大さに圧倒されてしまう。
 むろん、50階建てのような超高層ビルではないが、それでもすごい巨大建築に見えるから不思議なものだ。
 この建物は昔養蚕を生業としていた農家であったようだ。
 ここも当然「警備所」と同じ「新宿」のど真ん中である。
 でも、念のため、シンジュクに非ず。
 アラジュクである。
 山形県西村山郡朝日町大字新宿の中心地である。
 ブナの実が不作のため、「クマに注意」が必要な新宿である。
 そして、再び「警備所」を振り返ると、小粋なデザインが施されているのに気付かされる。 

 それにもう一つ。美しい白壁の土蔵がある家。↓
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ここは新宿のど真ん中

2012-10-18 14:58:21 | 旅行、小旅行
 この古風で奇抜な建物の背後の隠れた箇所に「クマが出没、注意」の立て看板があった。
 でも、ここは新宿のど真ん中である。
 つまり新宿の中心部にもクマが出没するようになったということである。
 確かにこの小塔のような建物の正面には「所備警宿新」と記されているが、現代では「新宿警備所」ということになり、紛れもなくここは新宿なのである。
 ところが、地域住民はここのことを「アラジュク」と呼ぶ。
 やはり新宿は新宿でも国際人が交流する街の新宿でないことはわかった。
 でも、ここの新宿は住民とクマとの交流?がなされる新宿である。
 さて、「警備所」と書かれているが、どんな警備だったのであろうか。
 クマを警備する施設なのか、火の元を警備する施設なのか、たぶん昔は後者であったと思われる。
 ところで、この新宿とはどこにある新宿なのか?
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イザベラ・バードが歩いた二連アーチ橋

2012-10-13 06:33:13 | 郷土史
 
 清掃工場の建設候補地となっている農地のすぐそばに日本の近代史を象徴する構築物がある。
 それが上山市川口地区を流れる前川にかかる明治11年3月に竣工した堅磐橋(かきわばし)である。
 むろん、明治以前の日本には石造りの橋はほとんど見られなかった。
 まさしく石造りのアーチ型の橋の建造は日本の近代化・欧風化を象徴する事象であり、堅固な石橋は重い馬車や重い建材や穀物を輸送するのに不可欠な交通インフラである。
 山形県内、特に上山市界隈にはこの種の石造りのアーチ橋(めがね橋)は数基現存する。
 しかし大半が1連だけで、2連はこの堅磐橋だけである。
 その意味だけでも堅磐橋は貴重であると言わなければならない。
 それに加えてこの橋が完成して間もなくの同年にかの有名なイザベラ・バードが通り、上山の温泉街に向かっている。
 むろん、この橋はかつての羽州街道に架けられてているから、まさしく「歴史の道」の上に架けられた「歴史の橋」である。
 しかし、・・・・(↓ 写真の下に続く)

 この堅磐橋のすぐ向こう側に武骨な外観の清掃工場が建てられたら、上の写真のような武骨でしかない景観に変貌するだろう。
 たぶん、清掃工場の建設によりこの橋までが壊されることはないであろうが、ともかく歴史的景観が壊され、ますます忘れ去られてしまうことだけは確かであろう。
 えっ、そんな歴史的景観が破壊されたって「痛くも痒くもない」って?
 それに、大気汚染の心配もないとお役所のお墨付きだから、いいではないか、という声も聞こえてきそうだ。
 だが、自然景観と歴史的景観の破壊は「日本全体をゴミのような景観」にしてしまいかねないのだ。
 現代人が量産した「ゴミ」の蔓延は同時に日本の国土全体を「ゴミ的景観」にしてしまうようだ。
 まさしく、たかがゴミ、されどゴミである。
※ 写真の清掃工場は某都道府県の某市の清掃工場
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色気のない景観どころでなくなるかも・・・

2012-10-08 11:42:06 | 街づくり

 一見のどかな田園風景。
 でも、ここのすぐそばには山形新幹線も通るし、国道も通り、やがて東北中央高速道路との接続も見込まれるから、今でもかなりの交通騒音が鳴り響いている。
 そして、ここは413年の昔、関ヶ原の戦いに連動して北上しようとした上杉軍と最上軍が激突した古戦場のすぐそばであり、史跡としての雰囲気もある。

 その歴史的背景と関係があるのかどうか、この田園地帯のすぐ南側の道路沿線に戦国武将たちが掲げるような幟端が立ち並び、何かを訴えている。
 ようく見たら、「清掃工場建設反対」と記されている。
 つまり、このすぐ近く、というよりは、この田園ゾーンがそのまま新しい清掃工場の候補地となっているということである。
 一見しただけでは広々とした空間だが、もし本当に清掃工場がここに建設されるなら、山形市・上山市・中山町・山辺町の2市2町で構成されている「広域環境事務組合」が建設するのだから、かなり巨大な清掃工場となる。
 建設反対派の主張の主なものには「大気汚染に伴う農産物に対する風評被害」と「景観破壊」の二つがある。
 だが、前者に対しては設置側は「安全は科学技術的に完全に保証されている」と盛んにPRしており、それゆえ「大気汚染を心配する必要はない」としているから、地域住民はこれを「信じるか信じないか」で態度を決めることになろう。
 一方の「景観破壊」については確実性はきわめて高く、このことは誰しも否定し難いのだが、近年の日本人と山形人は景観についてはきわめて鈍感である。
 つまり景観など破壊されても「生活の安全」にはほとんど関わりないとする感覚である。
 しかし、ここの景観は単なる「のどかな田園風景」「古戦場の近くという雰囲気」だけにとどまるだけでなく、いわば第一級的歴史的遺産が存在しており、もし、ここに巨大な清掃工場が本当に建設されたら、この歴史的遺産の高い価値が大幅に削がれ、山形県・上山市にとって大きな損失になることは確実なのである。
 その「第一級的歴史的遺産」とは何か、次回の記事で紹介しよう。

◆新しいブログ『山形街なか大正レトロ館』を紹介します。
 山形市の本町にある大正10年建造の「旧西村写真館」の保存の取り組みに特化したブログです。ご愛顧ください。
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上杉景勝重臣の次男たちの殉教遺跡

2012-10-01 22:18:39 | 旅行、小旅行
 数年前に人気のNHK大河ドラマ『天地人』で主人公直江兼続とともに上杉景勝に仕えた甘粕景継という武将が活躍していたが、彼の次男はキリシタンとして殉教している。
 米沢には一説によれば1万人ものキリシタン信徒が存在していたという。
 これは城主の上杉景勝がキリスト教信仰者に寛容であつただけでなく、上杉氏の前の米沢城主の蒲生氏郷がキリシタン大名であったことも影響しているのかもしれない。
 しかし全国的に幕府によるキリシタンに対する取り締まりが激しさを加える中で、米沢藩もそれに逆らうことは困難となり、領内の信徒で棄教しない者を処刑することとなった。
 その信徒たちの指導者格が甘粕右衛門(洗礼名ルイス)で、合計57人もが処刑され、多くは現在の米沢市役所の西方の北山原で刃により露と消えた。
 その刑場が発見されて遺跡として整備されるようになったのは昭和になってからのことである。
 なお、戦前の昭和史を賑わした甘粕正彦は彼の一族の子孫でもある。

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