山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

義民の霊よ安かれ・・・・・・五巴神社(上山市牧野)

2006-06-16 06:31:48 | 郷土史

↑ 上山城下民の実力行動に呼応したかのように牧野村を始めとする村方でも農民たち約3千人がここ見ル目原という原野に集結した。その標柱。

 ↑ 左の巨大な石碑が慰霊碑、右が五巴神社の社殿

 ドキュメンタリー映画の巨匠故小川伸介監督の作品で1986年製作の『千年刻みの日時計・・・牧野村物語』の中に五巴(いつつともえ)神社の由来が描かれている。
 この神社は打ち続く凶作と米不足のため延享4年(1747)に上山藩領内でほぼ同時に発生した百姓一揆と町方の打毀し騒動の首謀者とされ翌年処刑された5人の霊を祭神としている。
 町方の2人は打首、村方の3人(うち2人は父子)は打首・獄門(晒し首)となり、まさに身命を投げ打っての犠牲的義挙として村民に長く密かにか足り伝えられたが、彼らの刑死の後に数多の怪異現象が発生したらしく(「五巴」とは巴状にからんだ5人の霊を表したものであろう)、一揆や打毀し首謀者たちの慰霊と崇敬のための祭祀施設の建立など幕藩体制下では許されるはずがなく、明治になってようやく父子の屋敷跡に石碑を建立し、大正11年に社殿の建立が可能となった。
 まさに成田市にある宗吾霊堂(※)の山形県版と言えよう。

 ※江戸初期に農民の窮状を救わんと将軍に直訴しようとして刑死した木内惣五郎(佐倉宗吾とも言う)を祀る真言宗寺院

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1 コメント

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昔はヒドイね… (京都のたつや)
2015-01-23 01:34:19
悲しいとしか、言えない話ですよね・・・、殺されるのを覚悟で、みんなの為に行動を起こしたのでしょうし、テレビドラマの時代劇なら、殿様が許してくれて、ハッピーエンドなのでしょうけれど、封建時代はそうはいかないのですね。
こういう話を聞くと、昔は本当に人権なんて無かったんだなぁと思います。

せっかくの文章に、ミスタイプと見られる部分があるので、お伝えします。
「密かにか足り伝えられたが、」とありますが、「密かに語り伝えられたが、」ですよね。
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