山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

北国の都市の“残雪”

2009-12-30 23:04:11 | Weblog
「残雪」という言葉が表題にあるように、今日も年末にしては温暖な一日であり、先日の気まぐれ的な降雪による二十数センチの積雪もだいぶ融けて、繁華街はむろん、裏通りもほとんど長靴姿で歩く必要はなくなり、ほんの僅か“残雪”が見られる程度である。
 それも除雪車が道路の脇に積雪を押し込めて築かれた人工のミニアルプスであったのがすっかりしぼんだ状態になったものが多い。
 えっ、残雪というからにはもう春がすぐそこまで近づいているの?
 そのとおり。
 あとわずか一日と少しで「新春」なのである。
 明日から明後日にかけて再び降雪があるようだが、もしかしたらこれも「名残雪」になるのかもしれない。
「名残雪」でなくて再び「どか雪」になるのだとしても地球的規模の異常気象の偏在の一つの現れとも言えそうである。
 ◆写真は山形地裁の前庭(ここでもつい先日裁判員裁判が実施された)
 
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イヴの夜、何故か教会でも灯りが・・・

2009-12-24 23:10:00 | イベント

 商店街では寺院の坊さんたちがChristmasの文字列の前で念仏や般若心経の斉唱をする山形では今日はまさにサンタクロース婆さん(※注)の誕生日前夜祝賀のためにケーキやワインを買い込む市民の姿が多く目に付いた。
 夕暮れになると街中が色んなイルミネーションで華やかに彩られ、クリスマス気分が否応なく高まる。このような光景を見る限りあたかも日本はクリスマス大国になった感がある。
 ちなみに日本でのキリスト教信徒の数は在日外国人を除けば総人口の1%も満たないらしいし、その中でも熱心な信徒は決して多くを占めてはいない。
 それでも街が華やかに彩られると信者でなくとも楽しい気分になるものだ。
※注:キリスト教世界で「サンタ」の称号がつくのはたいてい女性であり、例えばサンタ・マリア、サンタ・モニカ、サンタ・バーバラ、サンタ・ルチア、サンタ・アンナ等々である。したがって、サンタクロースはお婆さんということになるはずだが、街角や保育園などでのイベントに登場するのはなぜか白髭のズサマである。
 ◆写真 ①一般住宅でもまばゆいイルミが ②かつてのお役人様の城(重要文化財旧山形県庁舎文翔館)にもイルミとライトアップ ③あれれ、ヘエ~、教会でもクリスマスをやってんのか? あだりまえだべず。クリスマスの本家は教会だもの。大正3年建造の老舗教会 ④教会の地味さと比べ商店街のイルミは派手派手が極まれり
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(4)

2009-12-22 15:38:13 | 郷土史

 政宗の母である義姫が政宗のもとを離れて山形に出奔した時期は彼女が政宗の毒殺計画に失敗し、かつ彼女が溺愛していたとされる次男の小次郎が政宗により惨殺された直後(1590)と考えられていたが(仙台藩の正史である「貞山公治家記録」に記述)、その当時は政宗の居城が会津黒川城(後の会津若松城)と米沢城の二つであったが、平成になって発見された史料(※注)によると4年後の文禄3年であったことが記述され、これが現在では彼女が山形に出奔した年代を知る有力な史料とされている。[※注:政宗の幼少からの学問の師、虎哉禅師の手紙]
 つまりこの文禄3年における政宗の居城は岩出山城であり、彼女が政宗の居城から出奔したのは会津黒川城からでもなければ米沢城でもなく、岩出山城からということになる。[12月2日と4日の記事参照 特に4日の記事http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20091204
それではどうして彼女(義姫)が岩出山から出奔したのであろうか。
義姫が岩出山まで政宗と一緒だったということは政宗毒殺未遂事件の史実性を疑わせることにもなる。政宗のもとから身を隠すには事件の直後しか考えられないから、4年も後となると、毒殺未遂事件とは別の理由を推察するしかなくなる。続く
 ◆写真は義姫が住んだ悪戸集落内を流れる小河川 現在この集落にはかなりの数の豪壮な土蔵や母屋を構える旧家が多く目にとまり、歴史の里であることがうかがえる
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壊れるばかりのコップの中の嵐・・・COP15

2009-12-19 21:01:44 | Weblog
 地球温暖化対策のCOP15コペンハーゲン会議は会期切れ目前にして「大荒れ」の様相である。当ブログのこの記事が投稿される時にはどのような結果になっているかはわからないが、ともかく先進国側と途上国側の対立は深刻そのものである。
 COPとはConference of Partiesの略で、そのうちPartiesとは条約締約国であるからConferenceの会議と合わせて「締約国会議」の意味となるが、その締約国とは具体的には「国連気候変動枠組条約」を締約した国ということになる。
 しかし、この国際会議に出席した国々の代表たちはすべて地球温暖化がもたらす気候変動の危険性を充分に認識して会議に臨んでいるはずなのに、条約を反故にすらしかねないほどの対立の激しさはきわめて理解し難いものがある。
 これでは「締約国会議」つまりCOP自体も、また「国連気候変動枠組条約」ももともときわめて壊れやすいものであったと言わざるをえない。
 壊れやすいガラスのコップならば丁寧に扱わなければならないのだが、コップの中に異質な成分が混じって危険な化学反応を起こしやすい状態の液体を入れたのと同じようなものと言えよう。
 まさにCOPの内部はコップを破裂させるような危険な状態にあるといえよう。
 COPの破裂はそのまま地球の破滅を招くと思うのは考え過ぎなのであろうか。
 クルマから自転車と公共車両への転換のために目に見える形で努力しているデンマークでの会議開催においてさえ怪しい雲行きになっているのだから事態はまさしく深刻であると受け止めなければならない。

●姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)を閲覧ください。地球温暖化問題を記事にしています。
 
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(3)

2009-12-17 23:54:00 | 郷土史
 この道はいつか来た道。
 義姫がよみがえってこの道を歩けば、きっとそう感じるに違いない。
 むろん、彼女がこの地に住んでいた時代は屋根が赤いペンキで塗られていたはずはないし、こんな豪壮な土蔵が建つほど土地の者が豊かであったわけはない。
 だが、この地で彼女の警護の責任を担っていた山形城主最上義光の家臣加藤掃部左衛門はむろん武士で、その後代々この集落の名主をつとめた家系の祖であり、彼の分家がこの集落を中心に散在している。
 直江兼続率いる2万の上杉軍が山形盆地になだれ込んで、この集落のすぐ近くが戦場になったがために掃部左衛門は戦死している。
 上杉軍の山形盆地侵入の報を聞いた掃部左衛門は当然すぐに義姫をこの地から出して山形城に逃れさせたはずである。
 兄の義光は伊達家の仙台城から少しでも遠いこの地に妹を住まわせたものの、まさかこの地が戦場のすぐそばになるとは思いもよらなかったであろう。
 だが、この地が上杉兵に荒らされたことはなかったようである。

●姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)を是非閲覧ください。
地球温暖化対策のためのCOP15コペンハーゲン会議に関する記事です。
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厳粛な聖歌?!が響く 街角

2009-12-14 08:16:19 | Weblog
 「伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里」シリーズはちょいとお休み

 CHRISTMASの横文字が商店街を埋め尽くす中で、ジングルベル、ジングルベルなどのきらやかなメロディーが聞こえるかと思いきや、なんと厳かこの上ない男性合唱のメロディーが聞こえてきた。
 グレゴリオ聖歌? 否、どうも違う。
 耳に入るのは、Nam-Amidabu,Nam-Amidabu,Nam-Amidabu,Nam-Amidabu,Nam-Amidabutsuの韻律の連続である。
彼らのすぐ目の前には、やはりCHRISTMASの文字が並んでいる。
 今年の山形県内には「義」と「愛」の文字があふれたが、Jesus Christは全人類の罪の救済のために自分の身を十字架にゆだねた。これはJesusの全人類に対する「愛」の表出であったが、Nam---を唱える男たちの行為も歳末助け合いのための「愛」の行為のようである。
 なんとも日本的なコラボレーションである。
 微笑ましいというべきか、嘆かわスいというべきか・・・。
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(2)

2009-12-12 22:46:06 | 郷土史
 何の変哲もない盆地の集落だが、その集落に迷い込むと何とはなしに一瞬タイムスリップしたような感じがするから不思議だ。
 なんと、その集落は伊達政宗の母にして最上義光の妹の義姫が政宗のもとを離れて長年住まい続けたと伝えられている集落であるためか、歴史ある地域としての風格を感じてしまうからかもしれない。
 集落の真ん中に至るとかなり広い農地が開けているのも意外である。
 この土蔵のある屋敷のごく近くに義姫は住んでいたようである。
 なぜ彼女が山形城内や城のすぐ近くの城下町ではなく、城からかなり隔絶した離れ里のような所に住まわせられたのかはよくわからない。 続く
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(1)

2009-12-10 07:40:11 | 郷土史
 伊達政宗は強し、されど母も強し
手前には建設機械、上部には送電線、右手には鉄塔も見えるなど、全体として決して麗しい景観だとは言えないが、部分的にトリミングすれば、鎮守の森が見えるなど麗しい農村景観となろう。[須川沿岸の山形市西公園見晴らし塔より]
 後方には丘陵が連なっているが、建設機械と鉄塔のすぐの前方の集落があるあたりは概して平地であると申すべきであろう。
 その集落こそ天下人の秀吉や家康にまで怖れられた奥羽の暴れん坊で戦国末期の武将の中でも一際強烈な個性を天下に知らしめた伊達政宗の母が隠れ住んだと伝えられている村である。
 否、隠れ住んだというよりは、兄の最上義光の命により「押し込められた」里と申すべきなのかもしれない。
 その集落は悪戸と称する山形市村木沢地区の一小字であるが、山形盆地の真ん中の低地を南北に流れる須川の川縁に位置し、須川西部の他の集落からは多少の距離がある「離れ里」でもある。
 しかし、慶長五年(1600)この里にも大きな戦火が迫っていた。 続く

※ 彼女がこの里に住まうに至る経緯については次回以降に記します。
 
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半年前の紅屋敷

2009-12-08 20:19:14 | 建物

 一昨日オープンした「紅の蔵」は来館者でごった返しているが、約半年前に内覧の機会を得た時にはまことに静まりかえっていた。
 豪壮な複数の土蔵を構える蔵屋敷が多かった山形の中でも有数な豪商だった○谷(マルタニ)長谷川家も戦後はしばらくひっそりした時期が続いていた。
 それでも「紅」という文字が付き、実際に紅花を中心とした上方との商いで繁栄したというからには、建物の内部もすべて華やかさで彩られているのかと思って屋敷内に足を踏み入れたのだが、建物自体は確かに堅固で広壮なな造りでありながら、概して「地味」であるというのが内覧しての印象であった。
 それがヨーロッパの豪商ならば、部屋という部屋は隙間無く装飾で埋め尽くされているのであるが、日本の、そして山形の豪商は武士にならい華美に陥ることないように「質素」を旨としていたからであろう。
 「商人町山形」の伝統の基礎は武士の長たる最上義光によって築かれたと申して過言ではない。だから、最上氏が改易後も巨大城下町を担う心意気は城下民の間で代々明治に至るまで継承され続けたのである。
 ◆写真 ①左から荷蔵、座敷蔵、母屋(東門より) ②母屋、店蔵北棟 ③店蔵南棟のタイル壁面、母屋、斜め向きの玄関、座敷蔵(西門より) ④玄関前坪庭と東門に通じる小道 裏画面 ①玄関の引戸 ②母屋の座敷 ③店蔵南棟の内部 洋館みたい ④荷蔵南棟の前にて
◆感謝 当日の内覧会を企画してくださったKさんに感謝申し上げます。
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歴史遺産活用時代の幕開け

2009-12-06 23:46:59 | 建物

 明治時代建造の土蔵などからなる豪商屋敷がリニューアルされ新たな観光的商業施設として今日オープンした。
 もともとは江戸時代に当地方特産の紅花を中心とした取引で財をなした豪商であり、明治以降も山形市内有数の資産家として存続してきたが、現在の当主は市内の他所に現代的な居を構えていたため空き家となっていたが、山形市が借り受けてこの度ようやく「山形まるごと館・紅の蔵」として発足する運びとなった。
 現在この屋敷には旧の店蔵2棟と旧荷蔵2棟、歴史的有名人を接待した迎賓館役割を担っていた旧座敷蔵の計5棟の土蔵造りの建造物と町家風の母屋が残存して利活用されることになったが、ごく近年に都市計画により背割り道路が切られたために更に2、3棟の土蔵があったようで、もしこれらも含めて存続していたら、もっと奥床しい歴史的遺産となっていたことであろう。
 表側の旧店蔵は喫茶と洋食コーナー、母屋と座敷蔵は蕎麦処、奥の2棟の土蔵は観光情報と土産コーナーとなつており、庭の部分はイベントなどに利用される。
 今日はオープンということで、記念品プレゼントもあるため、来館する市民で押すな押すなの大混雑であった。
 これが一過性に終わらず、今後も永続的に観光客や市民で賑わい、かつて「東国の大坂」とまで繁栄する商人町として名を轟かせていた城下町山形の歴史の奥行きの深さを味わってもらえるようであればよいと思う。
 ようやく行政もそれぞれの土地の歴史遺産を利活用しての中心街再興に取り組むようになっているが、この紅の蔵のオープンはそのスタート地点とすべきであろう。
 このすぐ近くにもここ数年の間に取り壊されて殺風景極まりない貸し駐車場となった土蔵や瀟洒な店舗も数棟あったし、解体が心配される歴史的建造物も散在している。
 できれば、これらかつて山形の中心街を彩ってきた建物が極力存続できるような環境形成の取組みが更に強化されるよう願ってやまない。
 ◆写真 ①11時オープンなのに9時半には市民の行列 ②裏庭では和太鼓演奏 ③正午近くには行列も消える ④新設の背割り道路側に造られた裏門 ⑤隣地の貸駐車場側から見える座敷蔵と荷蔵 ⑥2棟の華麗な店蔵が並ぶ正面 手前が「社会実験」中の自転車道 ※車列が途切れるのを狙って撮影したが、通常はクルマの通行は頻繁
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