山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

徳良湖そして尾花沢旧市街

2010-11-30 07:10:18 | 風景

 延沢の東側の六沢円照寺を離れ、広々とした尾花沢盆地の田園地帯を通り過ぎるとやがて徳良湖(とくらこ)に至る。この湖はいわば灌漑のための人造湖で、花笠音頭の発祥の地とも言われている。
 この徳良湖から約20分ほど◇◇◇を走らせると尾花沢の旧市街地に辿り着いた。⇒
前回の記事の設問の回答は◇◇◇である。
 その設問の交通手段◇◇◇については下記姉妹ブログの11月29日記事にも記しているので、ぜひ参照いただきたい。
 『島国ニッポンの山国から』http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k ◆写真 AB:徳良湖 C:尾花沢旧市街 D:徳良湖 E:芭蕉・清風歴史資料館 F:中心市街で見かけた超レトロな木造建造物。既に廃屋のようだが、以前の用途がわかる方は下のコメントに記入くだされたし。
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SENGOKU危うし!

2010-11-27 21:40:07 | 時評

 本日付けの別の記事とは無関係で、SENGOKU38かSENGOKU64か知らないが、タイトルと写真との関係についてクイズとしたい。

 ⇒ 回答は写真をクリックすれば出現せり!
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悲劇の城跡(4)

2010-11-27 18:32:20 | 郷土史
 街村としての旧延沢城下町の背後に典型的な山城であった延沢城跡が堂々たる姿を見せている(前回記事の写真Dおよび11月20日記事の写真)が、この裏側の東北方向一帯に尾花沢盆地が広がっている。
 延沢集落のすぐそばの短いトンネル(写真A)を潜り抜けて間もなく右手前方に円照寺の山門と堂宇が見えてくる(写真B)。
 この寺はなんと延沢城の武将の夫人たちが山越えして集い合った所で、城の女性たちには縁の深い寺であったようだ。そのせいか城主延沢遠江守夫人で山形城主最上義光の娘松尾姫の墓がある(写真Cの左側)。真ん中は延沢城を築いた遠江守の祖父薩摩守の墓である。撮影時、間近にカモシカ2匹の姿が見られた。
 松尾姫はわずか29歳で死去しているから何とも哀れだ。夫の遠江守も父の最上義光もさぞかし悲嘆にくれたであろう。
 この寺を離れて右の方向に向かえば銀山温泉方面だが、この度は左側(西北方面)の徳良湖方面を目指して帰路の途についた。
 後に繁栄した銀鉱の銀山も、この広々とした豊穣な尾花沢平野(写真D)もともに掌握したのが延沢城主の能登守と遠江守の父子であった。
 そこで、一つクイズを与えたい。
 この山深い延沢城跡と円照寺、そして銀山も近い尾花沢平野に至る行程の交通手段は何と心得る? ⇒ 回答は後日

 
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悲劇の城跡(3)

2010-11-24 20:32:43 | Weblog
 この辺りを支配して天童氏と同盟し、山形城主最上義光の北進に抵抗した延沢能登守満延は子息又五郎と最上義光の娘松尾姫との婚姻話を持ちかけられるなどの懐柔策により天童側から離れて最上側に寝返った。
 これにより天童城はあっけなく落城し、最上勢の北進に弾みがついた。
 確かに延沢満延の豪勇ぶりは殊更に有名であったが、最上義光は単に延沢の武勇と戦上手だけに惚れ込んで自分の重臣として引き入れたとは思えない。
 むろん延沢は政治家としても優秀で、延沢城を中核として尾花沢地方一帯の支配を任せるに充分であり、また最上義光自身にとっても尾花沢地方はきわめて魅力的な地域であった。
 最上義光は単に軍略に優れていただけでなく、卓越した行政マンであり、最上家の発展と山形盆地を中心とする出羽全体の発展のためには黄金文化の平泉と畿内を結ぶ湊としての酒田を支配下に置き、最上川水運のインフラ整備のためにも大石田に近く、かつ銀鉱としてきわめて有望な延沢銀山をも背後にした延沢城の城主を重臣に加えることは義光にとっては必要不可欠であった。
 そうでもなければ可愛い松尾姫(駒姫の姉)を戦国大名としてはかなり格下の延沢家に嫁がせようとはしなかったであろう。

◆写真 A:尾花沢市街と延沢城跡の間には緩やかな棚田状の田園地帯が広がる B:街村としての延沢集落 かつての山あいの城下町 C:同じく延沢集落 市が開かれたほど繁栄した城下町であったことを示す町名表示 D:延沢城跡を望む畑にイケメンの案山子が立つ 彼のモデルは延沢能登守か子息の又五郎が長じての延沢遠江守か?
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悲劇の城跡(2)

2010-11-22 23:50:36 | Weblog
 前回の城山をもっと北西方面から眺めると今回の写真のように台状になる。
 この元の山城では武将たちの激しい攻防戦が繰り広げられ、陸奥(福島県)の小手森城でのように篭城した将兵と婦女子まで全員が撫で斬りにされたというような悲惨極まりない事件があったという記録は伝えられていない。
 しかし、この堅固を誇った山城も最上氏の改易以降に廃城と化し、構築物の多くが取り壊されたのである。
 だからこの城の場合、人間たちの悲劇というよりは城自体の悲劇というべきであろう。
 それでは、もう一度問う。この城跡はどこの何という城跡か?

 前回および今回の記事設問の回答 尾花沢市 延沢城跡(霧山城跡) 尾花沢市街地から約7km東南方向 更に東南に銀山温泉 
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悲劇の城跡(1)

2010-11-20 23:50:57 | 郷土史
 もう10日少し前の撮影だから、山の紅葉も既にかなり色あせ、緑の葉もだいぶ落葉しているのではないか。
 ここは国指定の史跡になっているが、この日は地元の人以外で訪れる人もいなかった。
 だが、今を去る390年ほど前までは歴然とした山城で、ここの城主は村山地方から最上地方にかけて豪勇ぶりで名を馳せ、山形城主の最上義光に刃(やいば)を振り向けていた時代もあったが、やがて山形城主から重臣中の重臣として重宝がられた武将父子の里方の居城でもあった。
 城主も豪勇だが、この城も見るからに典型的な山城で文字通りの天嶮の要塞であった。
 だが、元和8年に最上家が近江国へ改易されるとこの城主も城主としての身分を剥奪されて肥後熊本の加藤家預かりとなり、家臣たちの多くは帰農してこの山城は主人(あるじ)無しの城となった。そして、このあたり一帯が幕府直轄地となると城は完全に破却されるに至った。
 ◆問い:この山城の名と城主(父子)の名はそれぞれ何というか。
    ⇒ [回答]は次回以降
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優雅で愛らしい警察署

2010-11-17 20:19:46 | 建物
 戦国時代の末期、山形盆地を拠点に北の方に勢力拡大を図ろうとしていた山形城主の最上義光の前に立ちはだかった武藤氏が城を構えていたのが現在の鶴岡市の大山地区で、酒蔵が多い町として今でも街並みにその繁栄の名残を留めている。
大山は明治になってからも進取の気風に富み、現在も残る明治の洋風建造物はその証しと言えるのかもしれない。
 現在町内会の公民館となっているこの建物もその一つで、旧鶴岡警察署大山分署として明治18年に建てられ、以降「分署」の呼び名で町民に親しまれてきた。
 この大山分署は鶴岡の致道博物館敷地内に建つ旧西田川郡役所と旧鶴岡警察署を手がけた名棟梁の高橋兼吉の弟子で親戚の高橋権吉が中心となって建造されている。美しい擬洋風建築であるのは明らかに師匠の影響と思われる。規模としてはさほど大きくないが、その瀟洒な外観は今なお「街角のシンボル」として異彩を放っているといえよう。
 こんな優雅で愛らしい姿の警察署なら犯罪者を更生させる力があったのかもしれない。
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ボクの四十九日、まさに極楽

2010-11-14 18:37:38 | 風景

↑ クリックで画面拡大
 ボクがこの世を去ったのは9月27日。だから今日はボクの四十九日で七七日だ。
 むろん、約18年の存命中はボクが家の最高実力者だったし、今も飼い主氏はボクに頭が上がらないでいる。
 ところがところが、ボクの使用人たる飼い主氏はボクが日本語を知らないと思ってか、ボクのことを正式な名前を呼ばずに「バカ助」とか「アホ助」などとばかり呼んでいたが、我慢強いボクのことだから平気の平左であった。
 えっ? ボクはほっだい(そんなに)バカでもアホでもないはず。
 ボクがアホやバカなら写真のように新聞など読むはずがないよ。今だって天国新聞に目を通しているから尖閣映像流出事件のことも横浜でのAPEC開催のことも知っているよ。
 ともかく、今は呼ぶ相手も居なくなって飼い主氏はだいぶ淋しそうだ。[※飼い主氏の細君や子どもに「バカ妻」などと呼んでいたら、それこそご飯を食べさせてもらえなくなる。山形が元祖の冷やしラーメンならぬ「冷やしライス」の毎日になってしまう。]
 だから、四十九日の供養ということで山形市内の名勝に案内してくれた。
 山形の紅葉は今が真っ盛り。
 昨日と同じ元の会社社長氏(故人)庭園と旧宝幢寺庭園で(もみじ公園)あった。
 まさに極彩色で、極楽極楽! 天国に負けじ劣らじだ。 合掌。

◆「五七日」の記事は10月31日付けです。前日の記事もほぼ同所の紅葉です。
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どこの金襴緞子? 京都?orヤマガダ?

2010-11-13 20:38:32 | 風景

↑クリックにより画面拡大
 10年ほど前に京都を訪れた時は紅葉が真っ盛りであったが、既に12月の初旬であった。だから温暖化が進んでいる現在では更に紅葉の盛りはもう少し遅れるのかもしれない。そうだとすれば、当然この鮮やかな錦の装いは京都であるわけがない。
 でも、京都ならぬ小京都の風情である。それも「みちのくの小京都」の錦秋の姿である。
 ところで東北地方には「小京都」を自称する都市は一箇所に留まらない。
 我が山形市も小京都を自認している。
 なるほど、山形市には寺院と神社が多く、市街地に清冽な小河川や用水路が流れている。 そこで、紅葉が綺麗になったよ、と伝え聞いて市内の紅葉の名所を巡り歩いてみた。

◆写真(1)山形大学構内のイチョウ並木(2)会社社長(故人)私邸跡地庭園(3)同左(4)専称寺(5)旧宝幢寺庭園(もみじ公園)(6)同左(※注) ※注:宝幢寺は山形城主の祈願所としての真言宗の大寺院であったが、神仏混淆であったため、明治維新政府から神仏分離を命じられ、住職が天童の神社の神官となったため廃寺となった。                                                                            
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正真正銘の米軍白人部隊の山形行進

2010-11-11 11:10:57 | 郷土史

 前回と前々回の記事では架空のアメリカ軍部隊の、それも日系人部隊(全員が俳優とエキストラ)が山形の歴史的シンボルの前を堂々行進した模様を紹介した。
 ところで、正真正銘のアメリカ軍部隊、それも大部分が白人からなる部隊が山形の中心街を行進し、かつ三々五々に街なかを闊歩していたことがある。
 終戦は昭和20年の8月だが、アメリカ占領軍部隊は早くも9月には山形市に進駐した。
 それゆえ山形では彼らのことを「進駐軍」と呼ぶのが普通であった。
 戦前から山形にはアメリカ人の宣教師が居たから中心街の山形市民はアメリカ人の姿や顔を見たことがある人が多かったが、郊外の農山村部では欧米人の顔など一度も見たことがない人が多く、しかも「鬼畜米英」のイメージがあったから、進駐軍が来ることによってどんな酷い目に遭うかわからないと怖れる市民が少なくなかったが、意外に山形の進駐軍の将兵たちは概して素行が良かったようで悪行などの悪い噂はほとんど伝えられていない。
 米軍は昭和29年くらいまでに山形市や神町に残っていたようだが、今では山形の街にアメリカ軍の将兵たちの姿が溢れていたことを記憶している市民自体が僅かになった。
写真説明 「上左」米軍の軍政部が置かれた旧山形商業銀行(米軍撤退後は農林省食糧事務所となり、その後解体され現在は生保の現代ビル)「上右」軍政部の前(郵便局の向かい)を行進する米軍「下左」戦前の旧山形商業銀行の前で集合写真 「十二月八日」の文字が見えるので昭和17年以降の写真 高額貯蓄者たちなのだろうか「下右」七日町梅月堂前を行進する米軍(昭和24年)
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