山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

山形市史と縁ある街を訪ねて(9)+レトロ市街

2012-05-29 06:19:31 | Weblog

 東京都小金井市には「東京江戸たてもの園」という歴史的建造物を集合させた一大施設があり、小金井公園という緑豊かな巨大緑地公園の一角にあるから、いつも大勢の人たちで賑わっているようだ。
 このたてもの園の東部分には「昭和の商店街」を再現したようなコーナーがあり、上の写真の如くである。
 ここには東京都内に辛うじて残されていた歴史的建物だけが移築展示されているから、むろん山形にかつてあった建物はここには存在しない。
 だから、「山形市史」とは「縁ある」建物はない。
 それでも山形の歴史上にかつてあった建物・街並み、それもごく最近まで存在していた歴史的建造物・街並みと対比する素材にはなりうる。
 その、ごく最近まで存在していた歴史的建造物・街並みとは下記の二つの写真の通りである。

 これらの建物群はまさしく山形市役所の至近距離にあるから、常に多くの市役所職員も存在を認識していたはずであり、更にその下の写真の通り「親子レトロ建築学習街めぐり」のようなことも行われていたほど市民にも親しまれていた。
 だが、結果的には現在はもはや存在しない。つまり数年前に道路拡幅により解体されている。
 これでは「都市計画」の名による「都市破壊」でしかない。
 かたや「大東京」、こなた「いと小さき山形」。
 歴史的建造物は「拾われる神」ともなりうれば、「捨てられる神」ともなりうる好例であろう。
 やはり山形山形になるしかないのだろうか。
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山形市史と縁ある街を訪ねて(8)+レトロ写真館(2)

2012-05-24 23:23:18 | 旅行、小旅行

 前回の続きになるが、上の写真は昭和12年建造の東京板橋の旧常盤写真館のアトリエ(写場)。下の写真は大正10年建造の山形市旧西村写真館のアトリエ(写場)である。
 前者は現在小金井市の東京江戸たてもの園の展示物になっているために当然新築同様に化粧直しされている。片や後者は現在も高齢姉妹の居宅となっているから補修の手も行き届かないために多少損傷も見受けられるものの、外部内部ともに今なお大正ロマンの薫りを漂わせている。
 むろん両者には直接の縁はない。しかし色んな面で対比されることはできそうである。

 おまけに、もう一か月以上も前の写真になるが、「たてもの園」の敷地内の花畑があまりにも美しかったので、紹介したい。
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山形市史と縁ある街を訪ねて(7)+レトロ写真館

2012-05-21 07:12:29 | 旅行、小旅行

 宇都宮を離れ、翌日は「東大入り」。
 東大は東大でも駒場キャンパス。
 数年前は安田講堂がシンボルの本郷キャンパスに「一時間入学」。安田講堂内では過激派学生と警察機動隊との関ヶ原の戦いを想起しながら若い東大生たちによる交響楽演奏を楽しんだ。
 その演奏している東大生の中にはエレガントな装いの女子学生も多かったが、「東大にもこんな麗しい女子が居るのか」なんてきわめてセクハラ的にして女性差別的な想いまでするブログ主であった。
 そして先日は駒場キャンパス。この日はむろん知的女子観察に非ずして構内のレトロ建築の観察。
 本郷キャンパスほどではないが、ここにもシンボリックなレトロ建築があった(写真↓)。

 さて、駒場キャンパスを離れて次に近くの旧前田侯爵邸を訪ねる。
 ここも数年前に洋館を内覧したが、その日は和館を内覧した。

 ここが東京のど真ん中とは信じられないくらいの「昼なお暗き」森の中の佇まい。

 上が旧前田侯爵(先祖が加賀百万石の金沢城主)の和館であり、庭園が美しかった。
 冒頭の白亜の洋風建築は駒場キャンパス内でも前田侯爵邸敷地内でもない。
 今回の旅行の4日目に訪れた「東京江戸たてもの園」内にある旧常盤写真館である。
 
 旧常盤写真館は昭和12年の建造というが、上の写真の旧西村写真館(山形市本町二丁目)はなんと大正10年の建造だから十数年も古い。
 現在90歳にほど近い2名の高齢者が居住(十数年前に廃業)しているので、一般人の内覧は難しいが、居住者が高齢者だからこそ創建当時の外観を残したまま今日まで維持できたのであろう。まことに感謝に堪えない。
 昨日も外観をカメラにおさめる観光客?の姿があった。
 
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山形市史と縁ある街を訪ねて(6)+自転車問題

2012-05-16 03:25:40 | Weblog

 上の写真もまた宇都宮市の街路風景だが、これがどうして「歴史」と関係あるの?
 むろん「過去の歴史」とは無関係だが、これも「未来の歴史」の上では貴重な資料になりうる。
 注目していただきたいのは歩道上で歩行者とスレスレの状態で走っている自転車についてである。
 ここ宇都宮は市街地交通の在り方について現在画期的な取り組みに邁進中である。
 それは「LRT」、つまり次世代型路面電車の導入計画のことである。
 だから左側の車道にはそう遠くない未来にLRTが走っていることであろう。
 しかし、現在においては事「自転車」政策においては山形市と比べてさえかなり遅れていると言わざるをえない。
 下の写真は当ブログの姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」でも何度も触れた山形市中心市街地の自転車道であり、3年前の11月から「社会実験」として試行され、賛否両論が市民の間で沸騰し、その結果車道の両側に設置のうえ歩道の一部を削減して荷捌き車両の停車スペースを設置するという「改変案」が沿道の3商店会に了承されたので、たぶん今年度後半から工事が行われることになろう。
 この山形市の自転車道の問題は将来『山形市史』の改訂版を刊行された場合に当然記事として掲載されるに違いなかろう。

 さて、LRT導入後の宇都宮市では自転車道も設置されているのであろうか。

 ※ 山形市の自転車道の写真では走行している自転車の姿が見えないが、ふだんは少なくとも1、2台は走っている。それでも車道のクルマの数と比べれば依然として自転車の数が少ない。
 この自転車の数が少ない状態のために、自転車道「即時撤廃」論者にとっては「少数の自転車のためにクルマの渋滞がより深刻化」⇒「それゆえ商店の客足が減少」ということになっていた。
 むろん、「客足の減少」については具体的な数値は示されていない。
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山形市史と縁ある街を訪ねて(5)+日本一の植木市

2012-05-11 23:59:12 | Weblog
 
 下野国(現在の栃木県)の「一の宮」はどこ? むろん日光東照宮だべ。んだて(だって)世界遺産の関東地方で最大級の神社だべした(だからではないか)。
 ブブ~! 残念でした。東照宮は江戸時代の造営。
 一の宮とは古代、中世のもの。
 ところで「一の宮」を発音すると「イチノミヤ」。
 容易に「ウツノミヤ」が連想される。
 この写真の神社は「二荒山神社」。「フタラサン神社」と発音されるのだが、「ニコウサン」とも発音できる。
 つまりは「日光山」である。やはり世界遺産の日光と関係ありそうだ。
 確かに日光にも二荒山神社がある。
 この日光の二荒山神社こそがもともとの下野国(現在の栃木県)の一の宮なのだ。
 でも、多くの人々は日光と聞けばどうしても東照宮を想起してしまう。
 その東照宮のすぐ近くにあるのが二荒山神社なのである。
 それならば「ウツノミヤ」は日光にあってもよかったことになる。
 しかし、たぶんイチノミヤの分身がこの写真の位置にあったら、ここがウツノミヤになったのかもしれない。
 ともかく、関東平野の真っただ中ながら、このあたりだけが高台になつている。
 山形城下の場合、城下の南北を二分する“大社”である鳥海月山両所宮と六椹八幡宮のうちの六椹八幡宮の親神社とも申すべき公害の高台に鎮座する柏倉八幡神社がごく最近社殿・拝殿ともに消失したのはひどく残念だ。

 この神社は源頼朝の直臣であった安達藤九郎盛長の伝承が多く残る土地の総鎮守であり、文字通りの源氏の守護神である。上の写真のこんもりとした森の部分が八幡社である。背後のピラミッド状の山とともに霊気を感じさせる景観である。

 さて、去る8日から昨日まで自称「日本三大植木市」の一つが山形市内で開催された。

 でも、山形でもマンションが増加し、戸建て住宅でも「庭に植木」よりも「庭に駐車場」を求める家が激増する中、植木業者の出品はかなり減少しているように思えてならず、むしろ中高生などの若者向けの食べ物屋のテント店が増えているようだ。

 この植木市は上の写真の薬師堂の祭日の一環として催され、400年の伝統を誇る。
 薬師堂の枕詞(まくらことば)として「出羽国分寺」が付く。
 聖武天皇の奈良時代からこの国分寺がこの地にあったとは思えないが、とにかく「一の宮」ならぬ「出羽一の寺」ということになる。

 数々の出店の中でも子どもたちや若者たちに最も人気のあるのが恒例の「おばけ屋敷」である。(写真は3年前の撮影)この日も中からきゃーきゃーという声が響いていた。
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山形市史と縁ある街を訪ねて(4)+働くクルマ大集合

2012-05-06 07:11:07 | 旅行、小旅行

 宇都宮市は戦災に遭っているから歴史的建造物が少ないのは当然なのだが、県庁の方向に歩いていたら、高層の県庁に向かってすぐ右側にレトロなビルがあるのに気付いた。
 このビルの存在はまったく知らなかったので、これを見つけて儲け物と感じたのだが、それにしても宇都宮市の観光案内パンフのどこにも書いていない。それだけ宇都宮の官民ともに歴史的建造物に対する無関心を示しているようだ。
 そのせいか、むろんビル内には観光客らしき姿は皆無で、勿体なく感じた。
 このビルは昭和初期に建造された栃木県の旧県庁舎で現在は「昭和館」と称している。
 これに比べれば、我が山形の旧県庁舎は山形市のトップ級の観光スポットとなっているから、立派だと言うべきであろう。[↓]



 働くクルマ大集合in YAMAGATA
昨日は「こどもの日」ということで、山形市の中心市街地では「働くクルマ大集合」ということで、建設用重機や消防車、給水車など色んなクルマが大通りに集合し、大勢の親子連れの人気を集めていた。

 一方、城跡公園にもクルマがあふれていた。
 桜の花びらがすっかり落ちて、今や新緑に覆われているし、公園内では特に市民的イベントがあるわけでもないのに、こんなにクルマの駐車が多いのは何故なのかと思っていたら、やはり親子連れの出入りが多い。そうだ、彼らの多くは「働くクルマ大集合」に向かっているのだ。
 それなら、これらのクルマは「働かないクルマ」ということになる。
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山形市史と縁ある街を訪ねて(3)+山形の豪雨

2012-05-04 07:52:16 | Weblog

宇都宮城は「吊り天井事件」で嫌疑をかけられた城主、本多正純が最上家改易に際し山形城明け渡しに駆けつけたということだけで山形と関係があるのではない。
 山形城主は最上家以降、鳥居氏、保科氏(下の写真参考)、幕府領と目まぐるしく替わったが、慶安元年(1648)山形に入部した松平忠弘はその20年後の寛文8年(1668)に宇都宮に転封されている。
 つまり、こんなところにも山形の歴史と宇都宮の歴史との間には関連があるのだ。

 ↑ 山形城跡公園(霞城公園)内の「高遠桜」 会津松平氏の祖、保科正之が信濃高遠から山形城主として入部したことに因んで植樹された。他の公園内の桜よりは開花が少し早いので、観桜会があった先月28日には既に新緑が多く噴き出していた。保科正之は三代将軍、徳川家光の異母弟で、彼の母の位牌は山形市の浄光寺にある。

 昨日(5月3日)に山寺にでかけた。好天ならば、山形の中心部よりは数日開花が遅いので、桜は見頃になっているはずだが、生憎の暴風雨で、多くの花びらが地上に落ちて散らばっていた。上の写真は山寺駅前の旧山寺ホテルの庭の枝垂れ桜。この日は同所でフルート演奏会があり、枝垂れ桜の艶やかな開花を愛で楽しみながら演奏を聴けるはずだったが、外の風雨が激しいために廊下の障子戸も閉めての演奏会となった。むろん、この枝垂れ桜も花びらの多くが落下していた。
 山形県側はこれでもかなりましな方で、宮城県など太平洋側はもっとひどい風雨で、昨年の大震災・巨大津波に続いてまたもや大きな災厄に見舞われている。

 この旧山寺ホテルの裏側を流れる立谷川の流れも激しい濁流となって恐ろしげであった。 
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山形市史と縁ある街を訪ねて(2)+山形の桜

2012-05-01 06:42:32 | 郷土史
 
 これは北関東随一の人口51万人の“大都市”宇都宮の市街地観光の目玉となっている大谷石造りのカトリック教会堂である。
 そして次の写真(↓)は宇都宮市役所の展望室から眺められる宇都宮城跡公園である。

 宇都宮城と言えば名高い「宇都宮吊り天井事件」で譴責された当時の城主、本多正純のことが想起されるが、彼は徳川家康の側近中の側近、本多正信の子息としてしばらく江戸幕府初期に幕府内で権勢をふるった人物であり、山形城主の最上氏の改易の際に改易作業の指示のために山形にかけつけている。
 彼は幕府から出羽の庄内に追放される憂き目にあっているが、この「吊り天井事件」なるものは後世の創作によるもので史実にはないものとして宇都宮市民には理解されている。

 宇都宮城は明治維新後破壊されたうえ、城跡はすっかり荒廃していたが、近年本丸部分が土塁と堀、二棟の櫓(やぐら)と城壁が“復原”され、城跡公園として整備された。
 訪れたのは4月20日。桜は終わり頃となっていた。

 だが、城跡公園として整備?されたのはよいが、上の写真の珍妙さにはどうしても違和感がある。土塁の下にトンネルがあるが、これまた「吊り天井事件」と同様に史実とはかけ離れたものである。
 土塁の向こう側の高層ビルは宇都宮市役所であり、「いざ鎌倉!」否「いざ宇都宮!」としいう場合、つまり大災害が発生した場合、宇都宮市役所職員が避難する市民をこの城跡広場に即座に誘導するための利便のためにトンネルを通したのである。
 つまり、宇都宮城の歴史ではここには城門はなかったが、市民の安全安心のためには史実に逆らってでも城跡広場と市役所とを直結するトンネルが必要とされたのである。
 まあ、宇都宮城は武士のための城から市民のための「民主的城郭」となったわけである。

 さて、山形の桜も今朝あたりはほとんど葉桜状態になったが、3日前は満開。満開から葉桜への移行が猛スピードであり、これも異常気象の現れと言うべきか。
 最後に満開の桜花と同様に「華も盛り」のあでやかな「山形舞子」の姿を紹介したい。(↓)
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