山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

「愛」から「友愛」へ。「愛」も「友愛」も!

2009-09-28 07:05:21 | Weblog
 NHK大河ドラマ『天地人』も終盤を迎えた。
 直江兼続の最後の大戦(おおいくさ)であった「奥羽の関ヶ原」からの撤退も完了し、これからの兼続の重点施策は米沢の街づくりを中心とした「内政」の充実に移行することになり、「愛」の字を前立てとした兜がテレビの画面に登場することはほとんど無くなるに違いない。
 それでも上杉神社に展示されている「愛の字の兜」は米沢市の第一級の宝物として多くの米沢市民に大切にされ、、また、今後もしばらくは“拝謁”もしくは“拝礼”に訪れる若い“歴女”たちで賑わうであろう。
 さて、鳩山由紀夫首相は国連で盛んに「友愛」を日本語のまま連発した。
 彼は国際関係ではむろん、内政においてもこの友愛の精神を施政の根幹としていくということの決意表明のようでもある。
 今年は日本国中には「愛」の字が溢れたが、これからは「友愛」という単語が溢れることになろう。
 ともかく「愛」も「友愛」も大いに結構である。
 でも、日本の行方が「変」にだけはならないように望まれてならない。

◎9月29日付記 映画『ニッポン国古屋敷村』の上映と現地見学ツァーご案内

 当ブログの6月1日から17日までにシリーズ『二つの落人集落・・・ニッポン国古屋敷と萱平』で紹介した上山市の山村集落「古屋敷」の現地ツァーと映画上映会(国際ドキュメンタリー映画祭の一環)が下記により実施されますので、ふるってご参加くださいとのことです。ツァーは要事前申込み(下記メールアドレス)。

◎見学ツァー申込み先 「古屋敷村の保存を考える会」
    メール・アドレス furuyashikimura@gmail.com
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長谷堂城から上杉軍陣営地を見下ろす

2009-09-25 08:23:21 | 郷土史

長谷堂城跡城からは直江兼続の2万余の上杉軍が陣を営んだと言われる菅沢(すげさわ)丘陵と上杉軍の撤退に際して追撃する最上軍との激しい攻防戦が展開されたピラミッド状の富神山を見渡すことができる。
 それにしても、よくもまあ城山から一目瞭然の位置に上杉軍は陣営地としたものである。城山と菅沢丘陵の間には広い平坦な水田地帯が横たわり、城山を攻撃しようとする上杉軍の動きが手に取るようにわかられるはずなのに、どうしてこんな不利な場所に陣営地を設営したのかも不可解である。
 それでも菅沢丘陵からは長谷堂城はもちろん、好天の時には山形城方面の眺望も良好だから、作戦を練るには好都合だったのかもしれない。
 ともかくも菅沢からの豊穣な穀倉たる広大な山形盆地の眺望は上杉勢の征服欲を駆り立てるのに充分であったに違いない。
 上杉氏の米沢入部以前の伊達氏も山形盆地に対する思いは同様だったようで、伊達稙宗や政宗の父の輝宗なども山形盆地に軍事進出している。
 しかし、長谷堂城を攻め落とせないままに関ヶ原での西軍の敗北を知ってやむなく2万人の大軍を撤退せざるをえなくなった。その経路は最上領に侵入した時の逆方向で、富神山山麓~白鷹高原経由での米沢盆地への帰還であった。
 その撤退作戦において総大将の直江兼続は殿軍(しんがり)を買って出たが、富神山山麓・中腹においての最上軍との激しい戦闘ではカブキ者の前田慶次郎の奮戦は語り草として有名となっている。
 ◆写真 [表画面]は長谷堂城山中腹から望む水田、菅沢丘陵、富神山 [クリックで現れる裏画面]は東側から望まれる菅沢丘陵と富神山(ピラミッド状)
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裸山から一斉銃撃。泥田に上杉兵の屍。

2009-09-22 23:15:16 | 郷土史
 天下の「智将」直江兼続が無名の長谷堂城を攻め落とせなかったのは何故なのか、多くの歴史家や歴史愛好家にとって大きな謎のようである。
 山形城の支城、長谷堂城を攻撃した兼続率いる上杉軍は一般的に2万人、或いは2万3千人と言われており、それに対する長谷堂城兵はせいぜい1千人余であったようだ。
 もし、2万人という上杉軍本隊の数が本当だとすれば(※現在はデモの警備などで警察官を1千人出動させるだけでも大事業である)、僅かな守備兵しか立て籠もっていない小さな城山を攻略することくらいは容易であったように思える。
 しかし、兼続は敢えて総攻撃はやろうとはしなかったのではないか。
 それでは、その2万人という大軍を引き連れてきたのはどうしてなのか。
 それは、最上と伊達に対する「示威行動」つまりデモンストレーションの意味合いが大きかったのではないか。 少なくとも「西軍の勝利」の報を得るまでは「威圧」行為のみを続ける方針であったと思われる。
 関ヶ原での石田三成方の西軍が必ず勝利する確信がないままにいたずらに自軍を消耗させる軍事行動は当初から控えようとしていたと思われる。
 つまり、長谷堂城に対する攻撃は決して全軍挙げての総攻撃ではなく、「小出し」程度の攻撃で、最上方と伊達方の動静を探り、そして関ヶ原(東西両軍が必ずしも関ヶ原という特定の場所で激突するとは限らなかった)での勝敗の情報いかんでの対処法を考える上でも大軍勢を温存させておく必要があったのではないか。
 長谷堂城が容易に落城するならば、むろんそれに越したことはない。
 だが、最上氏の本拠たる山形城を攻略するにはかなりの消耗戦を強いられるし、たとえ攻略に成功したとしても、万一西軍が敗北した場合のことを考えると、更に伊達勢と徳川方との戦いに振り向ける軍事的余力がどれだけ残っているか不安要因が大きい。
 だから、西軍の大勝利の情報が届き、その情報が確かであると確信した時点で一気に長谷堂城と山形城に総攻撃をかけようと考えていたのではないか。
 上杉軍の山形攻撃の動機が置賜郡と庄内地方との連結のためには最上領の奪取が不可欠だからと多くの識者は語っているが、それも西軍の勝利なくしては最上領支配の持続は不可能であったに違いなかろう。
 長谷堂の城山からの銃撃に倒れて流血を泥田に染めた上杉兵は大軍温存の「捨石」であったと言えそうである。南無阿弥陀仏。
 ◆写真 長谷堂城跡 現在はすっかり樹木におおわれているが、当時は敵軍の見通しの確保のためにほとんどの樹木は伐採されていた。手前の水田(昨年10月23日撮影で稲刈り後)も当時は兵にとっては動きにくい泥まみれの深田であった。
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天地人効果で晴れ上がる

2009-09-20 22:19:44 | 郷土史

↑[上]長谷堂城跡城山広場の市民と観光客 [下]山形市街地(山形城跡)方面

「天」は晴れ渡り「地」は稔り豊かにして「人」は浮き浮き気分の一日であった。
 しかし、NHKの大河ドラマ『天地人』では主人公直江兼続の最後の大きな戦いである長谷堂合戦の模様が本日放映されたが、山形市民の期待を裏切るかのように、山形城主最上義光はドラマの画面に登場することはなく、長谷堂合戦には直接かけつけもしない伊達政宗が登場するというちぐはぐな展開であった。
 やはり最上義光は歴史ドラマの上ではマイナーな存在でしかないようだ。
 それでも山形での「天地人効果」はかなりのものであり、昨年までは一部の歴史ファンなどの「知る人ぞ知る」存在でしかなかった長谷堂城跡を訪れる観光客は今年になってから急増し、今日は連休中の「長谷堂城祭り」ということもあって城跡の周辺と城山の頂上広場(旧本丸)は空前の人だかりであった。
 TVドラマでの最上方に関する放映自体は結局はまことにそっけないものであったが、大河ドラマに少しでも採り上げられる「可能性」だけで、これだけのフィーバーぶりになったのだから、まさしく天地人効果である。
 できれば、最近流行気味の言葉になるが、その効果が今年限りでなく、来年以降も「持続可能」なものであってほしいものである。
下の写真 関ヶ原で西軍の敗北を聞いて退却する上杉軍と追撃する最上軍との死闘が展開された富神山(左側のピラミッド状の山)と上杉軍の本陣が置かれた菅沢台地(新興住宅地となっている)。手前の稲田こそ両軍将兵の夥しい鮮血が流された激戦地で当時は深田であった。 ※クリックにより画面拡大
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歴史スポット巡り依存症の勧め

2009-09-18 21:32:19 | Weblog
 Nori-P被告の保釈と謝罪会見の報道が日本中を席捲した。
 鳩山内閣の発足が前日だから、もし彼女の保釈と重なっていたら、テレビ画面と新聞紙面はどうなっていたことであろうか。
 彼女が以前に覚醒剤常用のためか頬がこけながらもハイの気分で「鳩ポッポ」を歌っていた画面が何度か放映されたが、むろん鳩山内閣実現の暗示ではあるまい。
 ともかく“N容疑者”と“N被告”では語感がかなり異なり、“昇格”の感じだ。
 さ~て、写真は山形市からそう遠くない西村山地域有数の巨刹だが、なんと麻薬のコカインと間違えられそうな名称の寺院でもある。
 だからといって無論コカイン・パーティーの会場となるわけでも、コカイン依存症者の治癒支援の寺院でもない。やや巨刹ではあるが、ごくありふれた寺院にすぎない。
 でも、この寺院の歴史ある落ち着いたたたずまいをしばらく眺めていれば、心が癒されるように感じるのだから、Nori-Pさんたちにもこれら自然と融合した歴史スポットめぐりを勧めたいものである。
 私自身にとって歴史スポットめぐりは一種の依存症であるが、この種の中毒の罹患ならば薬物に対する関心など入り込む隙間など生じないのである。
 さ~て、次はどこを訪れようかな~などと思うだけで、わくわくしてくるものだ。
 ◆写真 大江町にある巨海院(コカイイン)の山門と庭園の池 [左下]合成麻薬MDMA使用疑惑の押尾学被告 [右下]謝罪会見のNori-P被告 法子が「法」の裁きを受ける 
 
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おとぎの国に立つ玉砕の山城

2009-09-17 12:12:42 | 郷土史
 
 前々回の記事の続きになるが、300人ほどの最上方の将兵が立て籠もって直江兼続が率いる2万人もの大軍の猛攻と立ち向かい玉砕(若干脱出した生存兵もあったとも伝えられている)したといわれる畑谷城は白鷹丘陵の臍の部分に在るが、南側の畑谷地区も北側の簗沢地区も高原の中の小盆地のため、まことに可愛らしい「おとぎの国」に浮かぶ山城といえる。
 だが、ここで凄惨な殺戮が行われたことを忘れるべきでない。「愛」と「義」の直江兼続とて戦闘においては容赦しなかったことを物語る。
 ◆写真[上左]城跡中腹から望まれる畑谷集落。雨のため白鷹山等は見えず。[上右]本丸跡に向かう見学者たち [下左]山頂の本丸跡(好天ならば山形市街も望める)[下右]畑谷城将江口五衛光清と戦没者供養の墓(山麓の寺院境内)右手の墓石に3つの穴があるが、置賜風であり、上杉軍の犠牲者も供養しているようにも思える。
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スパルタ王と奥羽の関ヶ原

2009-09-14 23:44:25 | Weblog
 いよいよNHK大河ドラマ『天地人』も関ヶ原の戦いに近付いた。
 しかし、主人公の直江兼続は西の関ヶ原で戦ってはいない。
 上杉討伐のために北上した徳川軍は石田三成方が蜂起したという報を聞いて、急遽引き返し、そのまま関ヶ原方面に向かった。
 そこで直江兼続を総大将とする上杉軍は徳川軍を追撃するかわりに最上義光が城主の山形に向けて2万人以上といわれる大軍を進めた。
 直接兼続が指揮する主力軍は山形盆地に入る前に白鷹高原にある山形城の支城の畑谷城(山城)を攻撃したが、籠城していたわずか300人余の最上軍の将兵たちは大軍の猛攻により玉砕したと伝えられている。
 畑谷城を突破した上杉軍は山形盆地に下ると、山形城攻撃の前に最上方の長谷堂城の攻撃を始めたが、長谷堂城をめぐる戦いは10日間以上にも及んだ。
 奥羽の関ヶ原とは長谷堂合戦を中心とした一連の戦いのことである。
 最近はその『天地人』効果で、県外からもかなりの観光客が畑谷城址を訪れるようになったが、私も先日ミニ・ツァーで本丸跡がある山頂まで訪れた。
 そこで、古代ギリシァの詩文とそっくりな詩文が刻まれた碑を見つけて驚いた。
「旅人よ行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に、我等命に服してここに伏すと」
 ラケダイモンとは古代ギリシァの都市国家スパルタのことである。
 紀元前5世紀に強大なペルシァ帝国がギリシァに大規模な攻撃をかけたが、狭隘な地形のテルモピュライ(テルモピレー)にてスパルタ王レオニダスが率いるわずか300人からなるスパルタのファランクス(重装歩兵密集隊)がペルシャの大軍との奮戦空しくレオニダス王を始めとして全員が玉砕した。
 上の詩文はその故事を詠んだものである。
 スパルタ軍の戦死者は約300人。
 同じく玉砕した畑谷城の最上軍も約300人であった。
 さて、畑谷城跡の本丸に立つ石柱の碑文は以下の通りである。
「旅人よゆきて伝えよ最上のために戦いたおれし者を」
◎写真[左上]スパルタ王レオニダスと武将(映画より)[左下]畑谷城跡の丘陵「右」畑谷城跡本丸に立つ詩碑
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炭焼藤太父子が通った道 ②

2009-09-12 21:28:11 | 郷土史

 伝説上の人物ではあるが、健脚な炭焼藤太たちは、蔵王の山懐から寒河江・白岩方面まで炭や金の商いのためにでかけるのに容易に1日のうちに到達できたはずである。
 それが文明の利器たるパソコン画面のうえではいったい何ヶ月かけたら寒河江方面に到達できるのであろうか。
 このシリーズが前回で再スタートしたのが8月24日であり、薬師堂から今回の両所宮までのわずか約2kmに何と19日も要したのだから、あきれたものである。
 ようやくここに辿り着いたところで、炭焼藤太たちはしばらくここで休息する。
 ここは当時も豊かな地下水が湧き出る所なので、渇いたノドを潤したうえで、自宅の裏山から持参した金塊を洗ったことから、この地域から西北方面一帯が「金井」の地と呼ばれるようになったという。
 ◎写真 ①現在の鳥海月山両所宮の随身門 ②明治時代後期に撮影された随身門 奥床しさがだいぶ異なる ③現在も湧き出る地下水 わざわざ遠方からポリタンクに汲みに来る市民が絶えない ④湧き水でできた境内の池
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国際レベルの映画とヤマガタ

2009-09-10 00:59:05 | Weblog
 左の写真はどこか外国の大都市のような感じだが、右側の写真は山形の人間ならどこのどんな建物かはわかるはずである。
 それにしても、左右の写真との間には何の関連があるのやら・・・?
 そして今回のタイトルは「映画」と大いに関係がありそうだ。
 まずは、闇夜に浮かび上がる電光スルメのような奇怪な建物が何の建物であるかを紐解いてから今日のナゾを探っていくことにしよう。
 この建物は学術教育機関の建物であり「映像学科」という部門もある。
 もう、おわかりと思うが、まさしくゲイコウ大の建物である。
 それでは左の写真に映されている外国の大都市の名は何と言うのであろうか。
 セント・ローレンス川沿いのフランス語の街である。でもフランス国内の都市ではない。えっ、そのフランス語の街とゲイコウ大との間には何の関係が・・・?
 昨日この国際都市で開かれている映画祭でヴィオンの妻~桜桃とタンポポ~という日本映画が監督賞を受賞したというニュースが飛び込んだ。
 このニュースにより大いに沸騰してすっかり茹で上がったのが「電光スルメ」の館である。
 実はこの受賞映画の監督の根岸吉太郎氏こそが山形市内にある電光スルメ館の映像学科長なのである。
 それだけではない。アカデミー賞外国語映画賞に輝いた『おくりびと』の脚本を手がけた小山薫堂氏も電光スルメ館の企画構想学科長なのである。
 その『おくりびと』の舞台もロケ地も山形県内であることは申すまでもない。
 さらに、『ヴィオンの妻』の主演の浅野忠信氏の出演作品も山形県関係が多い。
 ジンギス汗役で出演したカザフスタン映画『モンゴル』は2007年に外国語映画賞にノミネートされており、『おくりびと』受賞のために道を開いたも同然であった。
 吉永小百合主演の『母べえ』では主人公宅に出入りする人物として出演したが、徴兵により山形連隊に入隊ということで主人公のもとを去る。
 また、今年上映の『剣岳』では山形県出身の測量士役として出演している。
 前回の記事では山形国際ドキュメンタリー映画祭について予告したが、むろんこの映画祭には世界的映画人が参集し、世界的映画が数多く発信されている。例えば、2005年出品の『ダーウィンの悪夢』は山形市の姉妹都市オーストリアのキッツビューエル市出身のザウパー氏の作品だが、これまたアカデミー賞にノミネートされている。
 
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国際ドキュメンタリー映画祭まで30日

2009-09-08 00:26:44 | イベント
 見出しの映画祭がいよいよ来月10月の8日から開催される。
 だから、あと1カ月である。
 この映画祭は山形市制100周年を記念して1989年に第1回が開催され、以後隔年開催により今年で第11回目となる。
 インターナショナル・コンペティションの15作品とアジア千波万波の19作品を中心に、100本以上が6箇所の会場で上映される。
 この期間は山形の中心市街地は数多い外国人や県外からの映画ファンの各会場へ行き交う姿で大変に賑わい、一躍大国際都市へと変身する。
 色んな言語が飛び交うから、ヤマガタ語もそれらの言語の一つのように思えてくる。
 なお、この映画祭についての詳細は、下記URLによりご覧あれ。
 http://www.yidff.jp/home.html
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