山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

「まほろば」から「アルカディア」へ

2009-05-28 22:43:23 | 郷土史
 いよいよ文殊様にさようならである。
 高畠の東部丘陵地帯一帯を地元では「まほろばの里」と呼んでいる。
 なるほど、古墳などの古代遺跡そして亀岡文殊や阿久津八幡など古い歴史の寺社も多く、優美な丘陵がたたなずく様は大和の景観と似ていないこともない。
 でも亀岡文殊堂を後にして往路と別の高畠高校に至る道を徒歩で進むと、一面ののどかな平たい田園風景が広がり「まほろば」の様相とは若干異なる景観になる。この置賜盆地のまばゆいばかりの豊穣な景観にみとれた19世紀の英国人女性旅行家のイザベラ・バードは「東洋のアルカディア」と呼んでいる。ここは置賜盆地の東部であり、彼女はここを歩いてはいないが、やはりここも当然アルカディアと呼ばれて然るべきであろう。
 来月の前半にも是非高畠の史跡を訪れたい。伊達氏ゆかりの史跡である。
◆写真「上段」左から、門前の坂道を振り返る、門前町は30年前ならもっと風格のある美形だったろうに 「中段」門前町北部分、平地に不思議な丘陵のような樹林のような景観、いよいよ文殊山ともお別れ(この山容のように鋭い頭脳になりたい)「下段」文殊山はいよいよ遠くに、平地に火山岩のようなものが
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文殊様も観音様も蔵王権現も

2009-05-25 23:29:44 | 郷土史
 高畠の亀岡文殊堂を抱える寺の境内がこんなに奥深く広大だとは思わないまま訪れたので、かなり驚くとともに感動すら覚えた。
 これでは単なる寺院や仏閣というよりも「一大霊場」と申した方が適当である。
 会津地方を中心に東北各地に布教の足跡や伝承を残している東大寺の僧であった徳一上人が大同2年(807)に開山したと伝えられている。
 境内には有名な文殊堂ばかりでなく、華麗な鐘楼堂や観音堂もあり、文殊の知恵ばかりでなく、観音の慈悲にもあずかれることになる。
 文殊堂が一番奥の堂宇かと思っていたら、その背後には蔵王権現の社殿まであった。かつては湯殿山の行者が近くに住んで伊達政宗の母に懐妊祈祷を依頼されたのだが、現在は蔵王信仰となっている。
 ここには上杉家の家老(現代で言えば首相)の直江兼続や前田慶次らが歌会に訪れている。
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草くん状態以上?の判事さん

2009-05-21 22:19:22 | イベント
 法服に身を包んだこの判事さん、実は昨日に法服を着せられて今日から“正式”に判事としてスタートしたばかり。
 消防の出初式よろしく、勢いよく記念の祝賀放水。
 でも裁判官たる者、公共の広場で白昼堂々と立ちションなどやってよいものか。
 これでは某超人気芸能人の行為以上に問題化してもおかしくないはず。
 しかし、彼は昨日大勢の笑顔のうら若き女性たちに囲まれた中で「愛」の字の直江兼続の軍装から裁判官の姿に着替えさせられたが、これは今日の5月21日に裁判員制度がスタートするのを記念しての変身とあいなった次第である。
 ※ 多くの若い女性たちとは近くの洋裁専門学校生のことであり、場所はJR北山形駅前である。
 彼は確か今年で満52歳だから後期中年のオヤジのはずだが、未だに幼児とみなされ、オマワリさんのお世話にならずに済んでいるのである。
 ※ 写真の右の建物は山形地方裁判所
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奥深い学問のホトケ

2009-05-20 23:16:22 | 郷土史
前回記事に続く
 受験のために神仏に祈るという経験がまったくない人生の自分だから、亀岡文殊堂なんて精々ありふれた文殊堂を一回り大きくしただけのものかきと思っていたが、境内自体も広大で、杉木立に挟まれた傾斜のあるゆるやかな長い参道をしばらく歩き上らねばならなかった。しかも、文殊堂と別当寺院の本坊の他にも 豪壮華麗な堂宇も建ち並ぶ、まさに「一大霊場」である。
 ●写真 ①いよいよ正面に山門が見えてきた。背後の山が文殊山 ②③④しばらく長い参道を歩くと前方の高所に豪壮な堂宇が見えてくる。しかし文殊堂ではない。この参道を歩き通す参拝者はごく稀のようだ。たいていは、かなり山の上の方の駐車場から参道の中程に入る。でも、クルマ依存は果たしてご利益、とりわけ精神的ご利益をもたらすものとは思えない。別当寺院の本堂のすぐ前に寺院関係者の自家用車が数台駐車し、霊場としての雰囲気がぶち壊されていた。
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いよいよ高畠の亀岡文殊堂

2009-05-17 15:32:25 | 郷土史
[前回記事の続き]
 文殊堂へは高畠駅で下車してレンタサイクルにて向かおうかとも思ったが、駅に置いてある観光地図では徒歩でも30~40分程度で行けそうな描き方なので、徒歩で向かうことにした。
 亀岡文殊堂は確か山ふところにあるはずなのだが、高畠駅前から見える丘陵地帯は田園地帯のかなり向こうであり、観光地図ではまったく距離感がつかめず、やはりかなり遠くて時間がかなりかかることを覚悟の上で歩き始めた。
 現代で高畠駅から徒歩で亀岡文殊堂へ一人で向かったのはおそらくは自分一人だけではないかという自負心を支えとして往復を歩き通した。
 でも、歩くことによって高畠の駅近辺や道路事情、工場の配置、農村風景などをつぶさに目にすることができ、また、目的地の文殊堂に行き着いた時の感動はひとしおであり、収穫が多かったといえる。
 ◆写真 「上左」あと15分ほどで文殊堂 なかなかの優れた田園景観のはずだが、ビニールハウスが多くて良好なカメラアングルが得にくかった 「上右」文殊山の山麓の門前町 車社会の到来以前は賑わっていたに違いない 年の後半には合格祈願の受験生を乗せた多くの車が通り過ぎるだけ 「下左」ここに行幸中の明治天皇が休憩したらしい 「下右」置賜特有の古民家が目についた
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伊達政宗の懐妊が祈祷された里山

2009-05-12 22:56:07 | 郷土史
 数日前のことになるが、高畠町にでかけた。
 高畠町といえば、高畠石、有機農業、ブドウとワイン、泣いた赤鬼と童話の里、そしてアタマを良くしてくれる菩薩様の町として知られている。
 さて、先日目指したのは、その「アタマを良くしてくれる菩薩様」がおわす所であり、その菩薩様が祀られている堂宇は写真の頂上あたりがやや鮮鋭な里山の山懐に在る。
 でも、その菩薩様はさほどのスーパーパワー(超能力)を持っているとは思えない。
 なぜなら、人間が3人集まって知恵を出し合うとその菩薩様と同等の知恵を産み出すことができるからだという。
 それならば、わざわざ遠い山懐まででかけずとも、誰でも良いから3人に集まってもらって、その3人の集団に向かって祈りを捧げれば東大受験もわけなく合格できることになるはずである。
 確かに、3人ほどが集まって知恵を出し合えば「優れた知恵」が産み出されるであろう。
 でも、なかなか人間というものは何人集まっても、単に自己主張し合うだけか、何も意見を言わないかのいずれかであって、実際は「優れた知恵」を産み出すまでには至らないのが普通である。だから、人間はアテにできないので、遠い山懐の菩薩様の所にまででかけるのであろう。
 でも、私が先日写真の里山の山懐まででかけたのは、伊達政宗の母(山形城主最上義光の妹)が文武両道に優れた男子が懐妊できるよう、堂宇の側に住む修験者(法印)に祈祷を頼んだと伝えられている場所だから、実地の雰囲気せ接してみたかったからである。
 その菩薩様の名前は申すまでもないであろう。
 このブログでは以後、断続的にこの霊場への訪問記を連載したい。
 
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県会議事堂での鎮魂虚しく?オバケ大活躍

2009-05-09 21:12:00 | イベント
 ええ? これ初詣?
 そう! 確かに初詣みたいな参拝者たちの人だかり。
 でも、下の写真は緑したたる季節の写真である。
 そして、初詣の時にオバケは活躍しないのが普通。
 ところがところが、上の建物はかつて短い年月ながら県会議事堂として使われたことがある。
 どう見ても寺社建築にしか見えない建造物だが、確かに県議会の議場として使われたという歴史を有している。
 この建物は明治維新までは神仏混淆の真言宗の大寺院「宝幢寺」の本堂であったが、維新政府の神仏分離政策の強行により、住職は神道を選んで天童の神社の宮司へと転身したため、宝幢寺は廃絶し、堂宇はすべてただの空き家となった。
 その後、近代建築の県議会議事堂が建造されるまでの間、この旧本堂は議場として使われたわけである。その際は、椅子を置いたのか、それとも古いタタミの上に正座や胡坐をかいて議事をやっていたのかはわからない。
 宝幢寺は現在の東原町にあったが、明治44年の市北大火により薬師堂が焼失したため、県会議場として使われた旧宝幢寺本堂を解体のうえ現在地に運び、新しい薬師堂として再建した。
 昨日から明日までは薬師堂の祭礼に併せて400年の伝統の大きな植木市(下の写真の右側)が開かれている。その薬師堂の祭礼は山形県内でも最も盛大な祭礼で、多くの人出で賑わい、多くの屋台や露店が並び、オバケ屋敷の中からは子どもたちの「キャーキャー」という声が漏れ聞こえてくるのも風物となっている。また、薬師堂の裏側はかつての庭園で、市内では貴重な緑地である(下の写真の左側)。

※ クリック(二段階)により写真画面拡大
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やまでらな小さき松島 ②

2009-05-06 21:52:35 | 郷土史

 前回に続く 松島の雄島が「奥州高野」なら真言系の霊場ということになるが、山寺の宝珠山は天台宗の霊場である。でも大自然を仏道修行の場としている点ではまったく同様であるし、岩場の多い屏風のように切り立つ里山を霊場としている点ではやはり真言密教系の広島尾道の千光寺と山寺立石寺とは似通っている。
 また、雄島が元来「御島」と呼ばれていたのは都の貴人から千本の松を寄進されたことに因り、そこから「松島」の名が湾一帯に広がったようであるが、山寺の宝珠山も岩場が多いゆえに松の木が多く植生している。
 松は古来より神聖視されがちな樹木であり、それゆえに松が多い場所は霊場としても適切と考えられたのであろう。
 雄島の修行僧たちは常緑の松の間に広がる海面を見つめ、かすかな潮騒と潮の薫りが漂う微風を体に感じながら、大宇宙から霊気を頂いたに違いない。
◆写真 ①岩をくり抜いたトンネルを出ると霊気漂う岩窟群 ②雄島から望まれる松島群 ③島の南端に近い所に建つ「頼賢の碑」を覆う鞘堂 14世紀初めの建造で重要文化財 ④代表的な松島の景観 ⑤またもや岩窟群 ⑥雄島の南半分 手前は松島海岸の砂浜 ↑ 二段式クリックにより写真画面が拡大
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やまでらな小さき松島 ①

2009-05-05 16:47:43 | 郷土史

 先月、海の山寺ともいうべき松島の雄島を訪れた。
 仙石線の松島海岸駅から歩いてもわずかな時間で辿り着くことができたが、それほど目立つ島ではないから、駅からこんな近くにきわめて風光明媚にして深い歴史のある霊場の小島があるとはつい最近まで知らないでいた。
 松島は山形からも比較的近いのだが、観光で訪れたのはそれこそ何十年ぶりとということになる。
 しかし、ただ単に観光目的というよりは、ある種の引き締まった心がけで訪れたというべきであろう。
 というのは、いと小さき島ながら、島全体が「霊場」というべき景観と雰囲気に満ちているように思えたからである。
 実際に訪れてみて、やはり「やまでらな」、つまり山寺のような小島であり、多くの岩窟に卒塔婆や石仏、五輪塔などが収められ、また岩壁には経文のようなものが刻まれているなど、まさしく仏教の聖地ともいうべき島であり、「奥州高野」とも称されたようであるが、「山寺な」ばかりでなく「高野な」霊地ということになる。
 山寺も里山たる宝珠山全体が奇岩怪石でおおわれて、それらの岩場が天台僧たちの修行の場であったように、雄島も島全体が岩場であり、しかも瑞巌寺の奥の院として死者の霊が集う所という点も山寺と似通っている。(続く)

写真 朱塗りの小さな橋は渡月橋という。「下左」の左側が雄島 「下右」島に入るなり浅い岩窟が出迎えてくれる ↑ クリックにより画面拡大
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街なかの蔵シック 

2009-05-03 09:39:18 | 街づくり
 バロック・バイオリンにチェンバロの演奏が和風のクラシカルな建物の中で響く。
 ここは街なかのリフォームにより再生された土蔵の中。
 木の香りがふんだんに漂う中でヘンデルやバッハのメロディーがよく調和する。
 さほど広いスペースではないはずなのに聴衆は50人以上はおったように思える。
 それでも、ささやかな室内コンサートであり、バイオリンとチェンバロの響きは直に聴衆にも共鳴したようにも思えた。
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