山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

復興支援したいのですが・・・

2011-05-31 23:18:49 | Weblog

 東の正横綱と西の正横綱
 
 東北地方の文明開化期の建築遺産を代表するものとして、東方は石巻市の聖ハリストス正教会会堂(写真「上」)、西方は山形市の済生館本館(写真「下」)を正横綱と呼ぶことができるであろう。

 この度の大震災の際、済生館もかなり揺れたようであり、塔楼部分は天空に弧を描くようだったとも管理スタッフの方から聞いているが、漆喰壁面に若干の亀裂が見られた程度であったのに対し、石巻の教会堂は津波の直撃を受けて大破したものの、幸いなことに倒壊だけは免れたようである。
 私(ブログ主)も2年前に訪れてメルヘン的な外観に親しみを覚えたのだが、大震災と津波で滅失したのではないかと心配でたまらないでいたところ、新聞記事でなんとか倒壊だけは避けられた(下の写真。関連HPより)ことを知った。

 でも、再建(大修築)は容易なことではないだろう。
 そこで、私もほんのわずかながらも(ほんの雀の涙、否、蟻の涙)資金的に支援したいと思うのだが、どこに送金すればよいのだろうか。また、再建を目指す市民組織のようなものはあるのだろうか。
 石巻市の文化財担当課や直接管理の石森章太郎マンガ館(被災写真の背後のドーム状の建物。間には打ち上げられた船が)などに問い合わせてみようかとも思う。

◆姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」(←クリック)をご覧ください。
   原発問題とクルマ社会との関係を多数論じています。

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震災後、初の仙台訪問

2011-05-26 23:42:04 | Weblog

 親族の家を訪ねに仙台を訪れた。
 仙台は近いし、交通の便もよいので、時々でかける。
 だが、大震災後は初めてになる。
 震災から約一か月間は仙台空港が津波で閉鎖になったし、東北新幹線も東北線も普通になっていたために、山形空港利用により仙台の親族などの救援や見舞に訪れる人たちで山形・仙台間の高速バスは増便に次ぐ増便でも超満員であったが、昨日は山形から仙台への高速バスも乗車率は半分以下程度になっていた。
 訪問先の親族は夫婦ともに70歳代だが元気であり、生活もだいたい元に戻っていた。
  しかも幸いに家屋の損傷もごく軽微であったが、近所には屋根瓦が一部崩れ落ちるなどかなりの損傷の姿をさらしたままの家屋もあった。
親族の家を訪れる前に仙台駅近くの高層ビルの展望室にのぼり、津波被害が甚大であった太平洋沿岸方面を見渡したが、好天ながらあいにく靄のために視界が良好ではなかった。むろん、視界が良好でもガレキや建物の破壊などまで見えるわけではないが、見渡さないではいられなかった。[一番上の写真]

 親族宅訪問を終えて、徒歩で10分以内の史跡を訪れた。
 伊達政宗の霊廟の「瑞鳳殿」である。
 この建物自体には損傷がなかったが、周囲の石塔や五輪塔などは多くが倒壊したが、瑞鳳殿の周囲だけは元通りに立て直され、参観できたが、仙台藩の二代、三代藩主の霊廟の周囲の石塔等の立て直し工事は完了していないため、入り口前の扉は閉められ、参観はできなかった。
[すぐ上の写真]
 昼なお暗き深い森の中に静まる神域を後にして仙台駅前まで歩き通した。
 晴天だが、気温はさほど高くないものの、直射日光を直に受けるとさすがに暑い。
 だが、仙台駅前に至る青葉通りは生育した並木の緑葉が道路の上を覆いかぶさるように生い茂っているので、ジャケットを着たままで歩いてもほとんど暑さを感じない。
 まさしく並木は「天然クーラー」の役割を果たしている。
 「節電」も結構だが、都会の暑さを和らげるにもやはり樹木の役割は大きいことを実感できた。 [下の写真]

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超美人に迎えられた街歩き

2011-05-24 10:36:04 | 旅行、小旅行

 つい先日、9人ほどで山形市街地の某所で街歩きをやった。
 晴れ女、晴れ男が多いグループだが、あいにく降雨がなかなか止まず、「中止」すら考えたが、真冬ではあるまいし、「山形は今日は雨だった・・」の気分で街歩きを決行した。
 むろん、当初の予定のコースは大幅に変更・削減して、市内でも格式がきわめて高い寺院をメインの訪問先とした。
 本堂は以前大改修が施されたが、構造と素材は桃山時代・江戸初期のままであり、本堂に入ったら「桃山美人」(写真)が出迎えてくれた。
 この本堂の建物は最上家が山形城主であった時代までは山形城内の書院であったが、最上家の改易後に現在地に寺院本堂として生まれ変わったという。だから板戸の超美人(というよりも超美天女)は最上公や重臣たちにも微笑んでいたようだ。

 確かに本堂内には各所に「書院造り」の意匠が施されている。
 でも、この部屋では藩政時代は護摩祈祷が行われていたようである。

 次の寺院訪問の途中には町屋や土蔵が散見されたが、ここ10年ほどの間に街並みはだいぶ壊れて空き地が目立つようになり、多くは青空駐車場と化していた。 
 山形には白い漆喰の土蔵が多いが、この土壁露出の土蔵もなかなか味わいがある。

 そして、次の寺院の境内に入ったら、色彩がとりどりのツツジが咲き誇っていた。
 この寺院は三代将軍徳川家光の腹違いの弟である保科正之ゆかりの寺であり、つまり母のお静の方の菩提所である。
 彼女は二代将軍秀忠に愛されたものの「側室」であったたわけではない。側室としての認知を阻んだのはたぶんお江の方なのであろう。
 たぶん、お静の方はこのツツジのように美しい女性であったのであろう。

 さ~て、以上の二つの寺院は山形市内のどこにある何という名の寺院なのであろうか。

 おまけに、保科正之も居城とした山形城二の丸堀端に咲いていた水仙の写真


 ◆以上は「癒し系記事」だが、下記アドレスの「硬派ブログ」もご覧ください。
  http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k
   原発とクルマ社会との関連などを論じています。
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昇り行く緑のゾーン

2011-05-20 23:43:36 | 風景
 権現造りの神社にたとえるなら、この山は拝殿に当たる。
 拝殿の向こうにはご神体が安置されている本殿がある。
 この拝殿に相当する山の名は「龍山」。
 蔵王連峰の主峰熊野岳の前立てといえる山である。
 山形市の中心市街地方面から東南方向に見えるのがこの龍山だが、県外から訪れた人たちの多くがこの龍山を蔵王の主峰と勘違いするようだ。
 勘違いするのも無理がないくらい山容は堂々としている。
 でも、標高は案外低く、熊野岳の1841mに対して龍山は1370m程度でしかない。
 今日も五月にしては夏のような暑さで28度台にまでなったが、まだ山頂近くには残雪が眺められた。
 その残雪が見られる山の上部は薄紫色に見えるが、その薄紫色が占める山肌の部分が日ごとに狭められているのがわかる。
 むろん、山の下の方は緑一色だが、麓あたりは濃緑色で、上に行くに従って淡い緑となり、山の上部の薄紫色にとって代わろうとしている。
 全山がさわやかな緑色に衣替えするのも間もなくであろう。
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大津波を想定? 陸奥の政庁は高台にあった

2011-05-16 23:37:57 | Weblog

 二年前に宮城県の国指定史跡の多賀城跡を訪れた。

 訪れる前のイメージでは平地に広がる史跡と思っていたが、実際に訪れてみて、かなりの高台に設置されていたことがわかった。
 多賀城市もこの度の大津波でかなりの被害を受けているから、やはり古代にも津波の被害と不安はかなりあったものと思われる。
 古代の陸奥の政庁であり軍事拠点でもあった多賀城の造営にあたり、津波が及ばない高台を立地として選んだのかもしれない。
 政庁跡に立てば、仙台平野方面を一望に見渡すことができ、文字通り陸奥のキャピタル・ヒルに立つ気分に浸れる。

※関連記事は下記をクリックによりご覧ください
   2009年1月22日の当ブログの記事と写真
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400年伝統の福幸市(復興市)

2011-05-10 21:45:52 | イベント

大震災、超巨大津波の被災地の多くの地域では復興を目指した市の開催が盛んだ。
 これを「復興市」とか「福幸市」とか自称して景気づけを図っている。
 しかし、この記事の写真はそれらの被災地の復興市ではない。
 むろん山形市内での恒例の植木市である。↓

 でも、この植木市は最上義光公の時代からの伝統行事であり、言い伝えによればこれまた一種の復興市のようであり、それが現代まで400年間も続いてきているのだから、日本国内でも「最古の部類の復興市」ということになる。
 その400年前には山形の城下で大火があり、樹木も多く失われたために植木市が始められたということのようである。
 しかし、建物は燃えても樹木自体は燃えにくいはずであるから、山形城内の建物や城下町の再建のために多くの樹木が伐採されたために植林の再生を為そうとして始められたとも考えられる。↓

 ところで、最上時代の火事として伝えられるものとしては、元和3年(1617)3月8日に発生した城下の大火であり、光明寺以下多くの寺院も焼失し、長谷堂合戦で物凄い形相で戦死した上杉方の武将上泉主水の首塚の崇りであるとの流言までが広がったとも言われている。
 だから、その大火は最上義光公の死去の3年後で後継の家親公急死の3日後になるから、植木市の由来で伝えられている「大火」と同一であるとすれば、植木市の始まりは義光公の時代どころか家親公時代のことでもなく、孫でわずか13歳の義俊公の時代ということになる。
 むろん、これでは家臣たちにとっても城下民にとってもあまりにもの不吉続きのために心は沈みがちであったために、「頑張ろうヤマガタの大きな掛け声とともに城下再興のための植樹運動が始められたのであろう。

◆写真説明◎一番上は植木や草花の露天市=「日本三大植木祭」の幟旗も見える ◎二番目は[上左]若者で賑わう縁日市 なぜか「広島」の文字が。むろんここはヤマガタ[上右]一番目と同一の拡大[下左]植木を物色する市民[下右]薬師堂裏手の池端で満開の八重桜 ◎三番目は[上左]薬師堂裏手の池[上右]国分寺薬師堂 植木市は薬師堂の祭礼の一環として始められた[下左]薬師堂前の新緑がまぶしい樹林帯[下右]恒例のお化け屋敷 少女たちの恐怖の黄色い声が響く
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のどかな光景があれば、悲惨な光景もあり

2011-05-07 21:58:48 | 時評

 た~か~く泳げや・・・
 これは山形市内中心街の光景。まことにのどかにして平和そのもの。

 一方の写真は悲惨そのもの。
 これは、奥羽山脈の向こうの太平洋沿岸の光景なのだろうか。
 あまりにもこの度の巨大津波による破壊のつめ跡の様子と似通っている。
 でも、ここは海辺の近くではなく、内陸も内陸。
 しかも、津波ではなく、ちゃんと「竜巻」と記されてある。
 だが、この竜巻の猛威により、複数の原子力発電所が危機一髪のところで、自動的に停止したという。
 原発があるなら、やはりここはFukushima?
 No! こごは内陸だずう、て、ちゃんとゆてんべな(きちんと言っているではないか)。
 これは、アメリカ合衆国南部の竜巻被害の模様でした。
 Fukushimaは大地震と超巨大津波に直撃されて機能停止。
 アメリカでは竜巻で原発が自動停止。
 竜巻は地球温暖化と大いに関係あり。
 ゲンパツも竜巻もいわば共に人間が作ったもの。ああ、恐ろしや、怖ろしや。
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人災で衰退し、天災で壊滅的被害の街

2011-05-02 22:11:08 | Weblog

 未曾有の巨大津波のため広範囲の市域が壊滅的な被害を蒙った宮城県石巻市には一昨年に訪れただけだが、写真(再掲)の建物はどうなったのであろうか。
 一昨年1月23日付けの当ブログの記事と写真(↓ 再掲)では石巻市は16万人の人口を有する宮城県第二の都市でありながら、クルマ社会の進展と、あたら仙台市に近いために中心市街地からは人影がすっかり消え失せたことを紹介した。

 そして、今年の3月には超巨大津波により市内の各地で甚大な被害に見舞われている。
 中心市街地の衰退は明らかに「人災」であるが、これまた「想定外」のことであったと言えるのであろうか。
 上の写真の建物や街並みがどうなったのか、ご存じの方は下のコメント欄にて教えていただきたい。むろん石巻市民の方にならすぐにでもこお答えいただけると思う。
 
 ◆一昨年の石巻市についての記事の文面
   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20090123  

   http://blog.goo.ne.jp/rekishi-huukei/d/20090127 
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