山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

謎解きの街歩き ①~⑦[解答]

2009-06-30 13:01:13 | Weblog
 ①から⑦までの答えは、東根市の天然記念物「大ケヤキ」の界隈。

① 東の杜酒造資料館の東隣に威容を構える素封家の城郭のような土塀 
② 大ケヤキの西北部の小さな沼 たぶん昔は溜池か。ともかく地下水が豊富。
③ 東根のかつての目抜き通りに立つ旧医院の建物。現在はブティック
④ 大ケヤキのすぐそば(つまりは東根小学校のすぐそば)のレトロな木造公民館
⑤ 東の杜酒造資料館の西隣にある養源寺門前の板塀
⑥ 和式食事処「梅が枝清水」の蔵座敷2階から見える内庭 酒造資料館の北 
⑦ 酒造資料館の旧酒蔵 現在は多目的ホール

次回からも「謎解きの街歩き」 ⑧より数回
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謎解きの街歩き ⑦

2009-06-29 16:26:43 | 建物
 今回の周遊街歩きもいよいよ振り出し地点に戻り、門内を見学することになった。
 そこで我らグループのご一行は全員感嘆の声をあげた。
 古い土蔵を見るのは慣れた人たちであるが、こんな奇抜な意匠の土蔵があるのに気付いたのは初めてであり、また今後もこんな奇抜な意匠の土蔵を目にすることはほとんどないであろう。まさに「鄙(ひな)には稀なる」土蔵である。
 なんと斬新なデザイン!とは思ったものの、説明の方の話によれば、高齢の彼の記憶でもだいぶ以前からそのようなデザインだったらしい。
 やはり、鄙には稀なる、そして戦前?!には稀なる意匠であると申すべきか。
 むろん、以前は私的財産で、地場産物の生産施設であったが、現在は公共施設として郷土資料の展示やギャラリー、講演会場としても利用されている。
 さて、こごはどごだべ?
 そして、今までの写真の場所はそれぞれどごだったんだべ?
  ⇒ 回答は、次回
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謎解きの街歩き ⑥

2009-06-27 21:11:26 | Weblog
 鉄格子と金網が張り巡らされている窓から外の下の方を覗いたら美景が広がっていた。目にも鮮やかで潤いのある日本庭園である。
 こんな美景が眺められる刑務所が山形市の近くにあったとは驚き?
「塀の中」にこんな潤い空間があるならば「懲りなくなる」のも当然かも・・・。
 でも、やはりここは法務省管轄の施設ではなかった。
 塀は塀でも高くて部厚いコンクリートの塀ではなく、さう高くない板塀である。
 やはり純然たる民間の、しかも歴史ある建物と屋敷である。
 ここは以前は当地域の某素封家の屋敷であったが、現在は蕎麦や和食を提供する店となっており、大広間や蔵座敷が和式のレストランと化している。
 この日は県外観光客も多く、麩入りの蕎麦もおいしかった。
 この鉄格子のある部屋は蔵座敷の2階であり、古い蔵書がぎっしりと並び、知的関心の高さが伺えた。
 それはともかく、さ~て、こごはどごだべ?
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謎解きの街歩き ⑤

2009-06-26 23:07:10 | 建物
 我らご一行様はぐるりと辺り一帯をそぞろ歩きしているうちに、振り出し地点に近づいたようであるが、振り出し地点に集合しスタートしたばかりの頃はそこの近くにこんな風格充分の黒塀があったとは気付いていなかった。
 でも、ご一行様は振り出し地点にはすぐに戻らず、この黒塀の脇道を左に折れて昼食会場に向かった。みんな歩き疲れたし、腹ペコ状態になっていた。
 この黒塀は戦国時代の城主の菩提寺だそうだ。
 さ~て、こごはどごだべ?
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謎解きの街歩き ④

2009-06-25 23:41:53 | 建物
 この街のシンボルともいうべき天然記念物の巨木のある城跡にさしかかる坂道の左手に郷愁を誘うような木造の建物が見えてきた。
 この地区の公民館らしいが、地区民以外からも親しまれるような建物である。
 たいして大きな建物ではないが、存在感は充分である。
 この街の他の街路にはほとんど人の姿は見えないが、このあたりだけは珍しく人の姿が多く目に付く。しかも県外からの団体さんが多い。
 観光果樹園が賑わう季節だということと、巨木を見物するためのようだ。
 さ~て、こごはどごだべ?
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謎解きの街歩き ③

2009-06-24 20:37:17 | 建物
 城砦のような素封家屋敷や土蔵屋敷長い黒塀、豊かな緑の生垣などずしりとした和風の街並みを歩いていたところが、旧目抜き通りにさしかかったら、こんな素敵でハイカラな洋風建造物が目の前に現れた。
 見るからに医院のような建物であり、やはり以前は確かに医院であったが、現在はブティックになっている。
 しかし、通り抜けるだけのクルマの走行はあるものの、歩く住民の姿、とりわけ若い女性はほとんど見られないから、こんな寂しい街路沿いで商店を営むのはかなり厳しいのではないかと他人事ながら心配になってくる。
 それでもクルマ社会の到来以前は、この街路も中心商店街としてそれなりの人出で賑わい潤っていたはずである。
 頑張れ、この街の歴史ある洋館! 頑張れ、可愛らしいブティック!
 さ~て、こんなハイカラな街のシンボルを擁する街はどごさあるんだべ?
 
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謎解きの街歩き ②

2009-06-23 22:56:38 | 風景
 前回記事の写真の場所からさほど遠くない西の方に歩くと、このような水辺がある。
 この池のほんの少し東方にもこの池よりやや大きめの池、というよりは沼があるが、その沼のすぐ南には当地域の老舗の小学校がある。
 この写真の池からの眺めもそれこそ緑豊かで、とても“老舗の小学校”、つまりはかつては当自治体行政区域の中心小学校だったことになるから、いわばこの辺りは旧中心市街地だったことになるが、とても“都会”のイメージの所とは思えない。
 ともかく、この界隈は豊かな緑と豊かな水辺の地帯であり、歩くだけで心身が現れるような清々しい気分になってくる。
 写真の池の前方の木立の中の上背の高い樹木は「日本一」の○○○だそうであり、その樹下には多勢の観光客が集まり、その樹木を見上げていた。
 さ~て、この水と緑の街は、どごだべ?

◆他のホームページの紹介 当ブログにブックマークしている下記ホームページを見ていたら、多くの雄大な写真の中に我が家ではなく「我が家方面」の写真(下の写真 ただし、上の部分をトリミングのうえ縮小)を見つけたが、ともかく我が山形市はビルが林立した中にも大自然に包まれた街であることが実感できる素晴しい写真であるので、下記URLにより当該写真を見つけて我が街と大自然の雄大さを堪能していただきたい。
http://www.yamu.deko8.jp/09-06-15cyuoic/09-06-15cyuoic.html  href="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/60/3d/f823db5be08bbf0cff16e83d0b95aef6.jpg">
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謎解きの街歩き ①

2009-06-22 22:47:55 | 建物
 ここは山形県内にして、しかも山形市からもさほど遠くない。
 でも、天下の名城で日本百名城にも挙げられている山形城でさえ見られない銃眼の狭間のある長大な土塀のある城など山形市の近くにあったであろうか。
 ところが、この長大な土塀は復原された城のものではない。
 純然たる民家の屋敷の土塀であり、いささか驚きである。
 当然、この地のかなりの資産家の屋敷である。
 この屋敷に限らず、この辺りにはかなり豪壮な土蔵や母屋、土塀や風格充分な門を構えた屋敷が多い。そのかなりの部分がY家を名乗る。
 なんと彼らの祖先は関ヶ原の戦いと同じ頃に山形盆地で繰り広げられた直江兼続が率いる上杉軍との戦いで大活躍した勇将志村伊豆守光安の重臣だったが、最上家の改易により武士をやめ、この地に移り住んだといわれている。
 さ~て、こんな凄い屋敷を構える素封家の多い街は山形県内のどこであろうか。

 しばらく、このような謎解きのシリーズが続きます。
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1918年に命を失った若者

2009-06-19 21:58:40 | 郷土史
 新型インフルエンザは南半球で蔓延しつつあるのに反し、日本では幸い死者や重傷者が出なかったために、「怖いもの」という感じがしなくなっている。
 でも、豚からの感染という点でほとんど同型と申してよいインフルエンザの世界的大流行(パンでミック)が「スペイン風邪」という名で世界を覆った時は全世界で2千万人から4千万人、そして日本でも四十数万人ほどが死亡している。
 むろん、山形でもかなりの犠牲者が出ている。
 その一人が蒔絵の下絵と伝えられているこの小鳥の絵を描いた人物である。
 彼は蒔絵師として既に10代にして頭角を現していたが、残念ながら大正7年(1918)に山形をも襲ったスペイン風邪により命を失っている。
 わずか20歳の若さであった。
いかに医療水準が低かった時代とはいえ、やはりインフルエンザは恐るべしである。
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二つの落人部落・・・ニッポン国古屋敷と萱平 ⑪

2009-06-17 21:46:25 | 郷土史
 古屋敷と萱平の2つの“限界集落”をグループで訪れたのは先月下旬であったが、“視察”を終えて町場に降りてから感想と今後の方策を述べ合い、また、かつ元は古屋敷の住人で現在は町場で暮らしている年配婦人の昔話を聴いた。
 彼女は、夏の川辺で無数の蛍の灯りが群舞していた様子や小学校の高学年になって約7kmも先の里にある本校に通うために真冬の雪深い山間の道を他の村の子どもたちと一緒に歩き通したことなどを楽しい想い出として語ってくれた。
 むろん戦前の話になるが、生活はそれなりに充実していたようで、彼女の話からはそれほど貧苦に喘いでひもじい思いをしたようには感じられない。
 なによりも小さな村落ながらも子どもたちや若者も多かったことが山村での生活をも楽しい想い出として語ることができたのであろう。
 それが今や子どもたちはむろん、老人の姿すらほとんど見られなくなっているばかりでなく、民家も次から次へと消滅または崩壊の一途を辿っている。
 しかもベルリン映画祭で受賞したほどの名画『ニッポン国古屋敷村』の舞台やその他の劇映画、テレビドラマのロケ地にまでなりながら、この村落はまさしく文字通りの“限界集落”と化してしまったのである。
 でも、この地の自然景観を含めた集落景観は貴重な歴史遺産である。
◆写真 上の3枚は『ニッポン国古屋敷村』の登場場面とロケスタッフと村びととの交流場面 下は町場の集会所での“視察”後の意見交換会と旧居住者の語り(あえて画面を暗くしています)

 このシリーズは終了します
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