山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

見たことあるような建物だが・・・

2010-01-30 23:58:58 | 建物
 今日はまともな記事を登載しようと考えていたが、午後から会合があり、遅く帰宅したため、有り合わせの写真をネタにクイズ形式の内容にした。
 たまたま手元の雑然とした所で画質が劣悪な建物の写真を見つけたが、建物そのものは山形市に現存するが、そのかなり以前の別の場所での姿として貴重なものなので、当ブログにて紹介するのが相応しい素材と考え、登載することにした。
 確かにこの建物の形態は今でもよく見かけるのだが、こんな市街地の真ん中らしき所にあるはずはないし、建物の塔屋の部分の形は現在のとはかなり違う。
 また、建物の色彩も現在の記憶にある色彩とはかなり違うようだ。
 さらに場所もこんな所にあったのか、と驚かれる市民や県外の愛好者の方も居られよう。
 さて、この正面のきわめてユニークな形の建物は何の建物で、どんな用途に使用されていたのだろうか。さらに、両脇の建物はそれぞれ何の建物なのであろうか。
 山形に長く住む市民ならおわかりになるのではないか。
 また正面の塔型建造物の現在地はどこに在るのだろうか。
 
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(7)

2010-01-26 22:55:34 | 郷土史
 政宗の母である義姫(お東の方)が政宗が朝鮮出陣などで長期に留守の岩出山城から出奔して山形までやってきた動機はいったい何であったのであろうか。
 むろん、息子の政宗の不在ゆえに生じる伊達家や城内での人間関係や岩出山という慣れない土地での居心地の悪さがあったとしても不思議ではない。
 兄の最上義光も夫人ともども山形を留守にして京都に滞在していたばかりでなく、朝鮮出陣を控えて肥前名護屋まで出かけていたのである。
 それでは山形での「一大事」とは何なのか。
 むろん、城主である義光夫妻が留守であること自体も「一大事」である。
 兄の義光が留守の間に山形では何が起きるかわかったものでない。
 さらにそれに加えてもう一つ最上家にとっての「一大事」が控えていたのである。
 おそらくは実家思いの義姫はそれらの「一大事」のことが気にかかって仕方がなかったから山形までかけつけたのであろう。
 山形では義光の愛娘で義姫の可愛い姪である駒姫が関白豊臣秀次への輿入れを目前にしていた頃である。
 義光夫妻が留守の間に駒姫の「嫁入り仕度」などの婚礼の準備をしっかりとしておくには叔母である自分が出向く必要があると考えていたに違いない。
 また、豊臣家に嫁ぐための心得なども伝えておきたかったのかもしれない。
 しかし、その後、義光が山形に、また政宗が岩出山に帰ってからも義姫が政宗のもとに帰らずに山形にとどまり、郊外の寒村に住まわせられるようになったのも謎と言うべきであろう。

 ※写真は義姫が厚い信仰を捧げた阿弥陀堂(山形城郊外 村木沢悪戸)
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厳寒期、降れば降るほど消え行く積雪

2010-01-23 23:03:27 | 風景

 今日は厳寒期らしく小雪が舞い散る底冷えする寒さだ。
 でも、街にはほとんど積雪が見られない。
 それなのに最近はほとんど毎日降雪に見舞われる。
 だが、雪が降れば降るほど以前にまとまってできた積雪が消え行く感じだ。
 街に積雪が見られないのなら、史跡の日本庭園ならうっすらとした雪化粧をしているのではないかと思って、その庭園にでかけてみた。
 ところが、日陰の園路には薄い残雪が見られたが、池の周辺はほとんど冠雪していないので雪模様の名園を撮影できず、わずかに気落ちしてしまった。
このような北国山形の厳寒期は珍しい。

 ※ 写真は山形市内東原町の旧宝幢寺庭園(もみじ公園)
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(6)

2010-01-21 22:30:57 | 郷土史
 義姫が政宗毒殺未遂事件と小次郎惨殺の直後に政宗のもとから山形に向けて出奔したのではなく、その約4年後に岩出山から出奔したとする説が有力になっていることは既に述べた。
 その彼女の子である伊達政宗の居城は米沢から会津黒川(若松)へ移ったかと思えば、程なくして再び米沢へ戻ったが、それもほんの束の間で、ほとんど秀吉により強制的に岩出山に移転を余儀なくされた。
 それは天正19年(1591)の8月であったが、落ち着く間もなく、翌年の1月には京都に向かい、3月には文禄の役(朝鮮出兵)のために肥前名護屋に出陣し、さらにその翌年の文禄2年(1593)には渡海して朝鮮で戦っている。その年のうちに帰国してはいるが、翌年は京都に滞在し、岩出山に帰ったのは文禄4年の夏のことで、それもほんの束の間で、8月にはまた上洛した(関白秀次追放事件の関係)。
 だから、母である義姫(お東の方)も政宗の居城の移転に伴い岩出山に転居したわけであるが、頼りにしていた政宗は岩出山をほとんど留守にしており、しかも慣れない土地での居住に途惑うことが多かったのではないか。
 一方、同じ頃、実家である山形の最上家においても兄の義光は政宗同様に京都や肥前名護屋に出掛けておったが、義光夫妻が留守の最上家では「一大事」が迫っており、岩出山の義姫は城主夫妻が長期に留守の山形のことが気がかりでならなかったに違いない。
 その「一大事」とは何であったのか、次回で述べてみたい。
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3年前の一小旧校舎内部(再掲)

2010-01-18 20:54:45 | 建物
 現在、外観と内部の一階・地階部分のリニューアル工事がおおよそ完了した山形市立第一小学校の旧校舎の利活用について検討が進められているが、当ブログでは3年前でも内部の模様を紹介しているので、その時の写真の一部と本文を再度掲載したい。

 つい先日、登録文化財である山形市立第一小学校旧校舎の見学会と歴史的建造物の保存に関する講演会が同校内で行われた。
 関東大震災の後、防火防災に優れた堅固な校舎の建造が全国で相次いだが、現存するものは既に稀となり、それゆえ貴重な昭和初期(昭和2年建造)の鉄筋コンクリート造りの校舎として市でも保存の意向を表明したが、活用策はまだ固まっていない。
 講師(文化庁出身の大学教授)はこの旧校舎について、天井も高く小学校というよりは高校の校舎みたいだと述べていたが、私にはそれ以上に軍の司令部のような重厚さが感じられた。
 また講師は、欧州と比べて日本に街なかの歴史建造物が少ないのは木造が多いからと考えられているが、それは大きな誤りで、欧州でも木造の歴史的建造物は数多く保存されていると述べておられた。
 さらに場所を変えての懇親会で、地中の埋設物(ありふれた土器の破片でも埋蔵文化財と言われている)の発掘に力を入れる以上に、日常的に市民の身近で目に触れる地上の歴史的建造物の価値を再評価して保存に力を入れるべき時代ではないかと語られていた。
 ※ 外観(旧校舎正面)の写真は「城下町やまがた探険地図」(←クリック)を参照
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(5)

2010-01-16 17:07:57 | 郷土史

 しばらくぶりでこのシリーズの再開となった。

 政宗毒殺未遂事件を史実とした場合、その事件の直後に義姫が会津黒川(現在の会津若松)から実家の兄最上義光のもとに逃れ、南館を経てここに匿われたという話は納得しやすい。
 だが、新資料の発見により実際に政宗のもとから出奔して山形にやってきたのはその数年後、政宗の新居城の岩出山からであるとの説が現在有力になっているものの、彼女の山形への出奔の動機が何であるのかは不明としか言いようがない。
 その推測はまたもや次回以降で行うこととして、今回は彼女が山形の地で落ち着いた悪戸の里で今なお優美にたたずむ小さな「鎮守社」を紹介したい。
 この神社は「白山権現」と称するが、これまた彼女を匿って護った加藤掃部左衛門が大きく関わった伝承が残されている。 ⇒ 写真をクリックにより「縁起書」が現れます。
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風格と綺麗さと

2010-01-14 20:35:41 | 建物
 国の登録有形文化財に認定されている山形市立第一小学校の旧校舎は昭和2年の建造だが、耐震補強を中心とした大幅な改修工事が施されていたが、ようやく一階と地階の部分の内装工事がほぼ完了し、来年度早期の利活用開始に向けて動き始めている。
 写真のうち左下のみが改修後の外観であり、あとの3枚は改修以前の外観であるが、いずれも蔦(つた)が建物の壁面を広くおおっている。
 緑の葉が鬱蒼となっている盛夏の時期も、また紅く色づいた晩秋における外観もまことに我々市民の目を楽しませてくれたものである。
 これに対して改修後の外観は蔦がすべて刈り払われているだけでなく、壁面全体が真新しく化粧直しされてウヅグスグ(美しく、綺麗に)なっている。
 だが、どうも風格や味わいに欠け、クールに感じられるだけでなく、美しく変身したはずなのにかえって「お色気」が失われてしまったように思われるから不思議である。
 文化財としての建造物ではあるが、もともとコンクリートによる地味な色合いの建造物であるから決してホットな感じがする建物ではなかったものの、年月を経るごとに風格が増してきていたことも事実である。そして風格が増すごとに観る者にとって親近感と愛しさも募ったのであるが、このたびの復原改修により一気に風格と親近感が奪われてしまったような感がある。
 私も、昭和初期の鉄筋コンクリート建築として貴重な建造物であるがゆえに「保存」を強く望んできた者の一員であるが、補強工事が施されて半恒久的になり、かつ外壁が原状に戻りながら、むしろ親しみにくいクールな外観になって途惑いを禁じえない。
 まことに勝手な話ではあるが、文化財の保存とはやはりなかなか難しいものである。
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日本最大級の露店市「山形初市」

2010-01-10 23:55:26 | イベント

 すわ! 自転車利用者にとって大切な自転車レーンを車道と立体的に区画する縁石と棒杭の列柱が今朝になったらすっかり取り外されていた。
 ※ ⇒ 姉妹ブログ「島国ニッポンの山国から」の同日付けの記事を参照
   http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20100110 ←クリック
 でも、安心していただきたい。
 縁石と棒杭の列柱が取り外されたすぐあとは今日の記事の写真の通りになっている。
 
 今日はクルマはむろん、自転車の通行も排除して、歩行者だけの通行が許される一日なのである。
 このイベントは400年の伝統を誇る「山形初市」であり、露店市としては全国でも最大級のものと言えるかもしれない。
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どちらが使用前、使用後?or BEFORE,AFTER?

2010-01-09 16:45:21 | 建物

 設問が二つ

 新年早々街を歩いていたら写真の建物がイメチェンしていた。
 [第一問]
 上の左右の写真は同じ建物であるが、どちらが使用前で、またどちらが使用後なのであろうか。つまりはどちらかがBEFOREであり、AFTERという設問になる。
 つぎに[第二問]
 この建物はどこにある、何の建物なのか。

 第二問については写真をよく見れば、すぐお分かりいただけようが、ややこしいのは第一問についてである。
 どちらも使用前であり使用後であるとも言えるからである。

 向かって左の写真では対象物が真新しい感じがするのに対して、右の写真では古色蒼然としているが、風格充分であって、それなりの味わいがある。
 この建物は山形市立第一小学校の旧校舎であり、登録文化財であるが、むろん現在は校舎としては使われていない。
 この意味では「使用後」の言葉は右の写真に当てはまる。
 創建から約80年ほど校舎として使用されて役目を終えたからである。
 しかし、建物の化粧直し、またはリニューアルの場合は、古い以前の状態がBEFOREであり、新しい状態がAFTERとなるから、当然化粧直し後の状態である左の方がAFTERということになる。
 ただし、このリニューアル後の旧校舎がどのように活用されるかについては現在検討が進められており、まさしく「使用前」の状態である。
 山形市では中心市街地の三つの新名所のひとつとして街の賑わいの再興の拠点となるよう考えているようだが、ともかくも有効な活用がなされることを願ってやまない。 
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これぞ本当の後期高齢者福祉

2010-01-06 23:39:20 | Weblog
 ああ、外は雪がふりしきっているが、さほど積もってもいないようだ。
 12月の30日まで積雪はほぼゼロだったから、我輩が外から帰って家の中に入っても家の廊下などはさほど足跡で汚れなかったのに、雪は降ってもすぐ融けるから、家の中は我輩の足跡だらけだ。
 でも雪が降るだけ寒いから、家の中に暖房設備があると暖かくて過ごしやすい。
 我輩のシッポの後方にはコタツがあり、前方にはヒーターがある。
 ヒーターが点いている時はヒーターの前で休むし、ヒーターが消えている時はコタツにもぐりこむ。
 ああ、我輩ももはや後期高齢者。
 でも、飼い主たちは我輩を童顔で若作りだと言って可愛がってくれるが、年のせいかすっかり猫背になってしまった。[←あっだり前(当たり前)だべした、猫だもの。お前、ほっだなごどゆ(言っ)て、やっぱりとす(年)だなあ。]
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