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JR中山駅を降りて西の丘陵地帯に向かい、眺望が良くなった所で「中山城跡」の表札が待ち構えてくれる。
ここが慶長5年(1600)に米沢を拠点とした直江兼続が率いる上杉の軍勢と最上義光を総大将とする山形軍とが激突した「慶長出羽合戦」のうち上山城を攻略しようとした上杉軍右翼部隊の約4000人が集結した拠点である。
以前は石垣なども見られたのだが、現在では深い樹林と鬱蒼と伸びた草に被われて足を踏み入れることなどほぼ無理な状態であった。
現在こそ上山市に組み入れられているから「山形県村山地域」になっているが、昭和の大合併以前は「置賜地域」であり、歴史的に順に伊達氏、蒲生氏、上杉氏の支配領域であったが、この小盆地と中山城は置賜郡の最北部であり、山形方面を攻撃するにしても、また逆に山形側から置賜方面を攻撃するにしても必ず通過せねばならない軍事的要衝であった。
ここに集結した上杉の軍勢はすぐさまに山形側の上山城を攻略しようと出陣したが、彼らがどのような運命に遭遇したかは次回以降で述べたい。
※7月16日の記事『誰が上杉軍が隠れた「かくれ石」を隠したか』を参照されたし
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