山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

バンクーバーに結集したのは全世界の右翼?

2010-02-27 11:55:04 | Weblog
 建国記念の日や天皇誕生日などの国民の祝日に家の門や玄関に「日章旗」を掲げると、こちこちの保守主義者とみなされたり、ひどい時は「右翼」の家だとまで言われそうであるが、このような日にも絶対に日章旗を掲げない人でさえオリンピックの会場では大っぴらに「日の丸」を振り、顔の額にも日の丸を描いた鉢巻をしめ、頬にも日の丸のシールを貼るなどして日本選手の競技に声援をおくっている姿がテレビの画面に数多く登場する。
 まるで「にわか仕立ての右翼」になったかのように観客席には日章旗があふれている。
 でも、むろんバンクーバーの競技会場では日章旗だけが目に付いているわけではない。
 星条旗や五星紅旗、大極旗、ユニオンジャック旗、縦に青白赤や緑白赤、横に赤白青や黒赤黄などの各種の三色旗、開催国のカエデ旗などまことに多彩な各国の国旗が競技会場の観客席では入り乱れている。
 むろん、それぞれの国の選手を応援するために振られるのであって、他国の選手に応援するためではない。
 いわば全世界の右翼?がカナダの西海岸に結集したかのようである。
 でも、それぞれの国旗を大振りする人たちの多くは日常的に政治や右翼的思想とはほとんど無縁であることだけは確かのようである。それにしても、五輪マークの入った旗を振る人がほとんど居ないのはオリンピックの現状であろう。
 また、例えば我が山形市出身の加藤条治選手に対して山形県旗や山形市旗を振ったら山形県や山形市の宣伝にもなったであろうに、むろんそのような姿をテレビ画面ではお目にかかることはなかった。まことに野暮ったさ満点の記述でしめることになった。
  ※写真はインターネットニュースより
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4年前と54年前の冬季五輪と山形

2010-02-21 23:37:22 | 郷土史
 四年前(2006年2月11日付け)の当ブログの記事「三冠王がダウンヒルした三宝荒神」より

 今朝、トリノ五輪が開会された。
 思えば、猪谷千春氏が日本チーム選手として冬季五輪で初のメダル(銀)を獲得したのは丁度50年前で、同じイタリアのコルチナ・ダンペッツォでの大会においてであり、日本中が大いに湧き、スポーツだけでなく、日本全体が先進国の仲間入りが間近であることが確かであることを実感させるほどであった。
 彼が出場したのはアルペン種目であったが、その際の金メダリストがオーストリアのトニー・ザイラー氏で、彼はこの大会で三つの金メダルに輝き、三冠王となり、やはり世界をわかせた。彼は映画俳優としても度々銀幕の中で名スキーヤーとしての雄姿を披露した。
 ザイラー氏は1960年に映画『銀嶺の王者』の撮影のため蔵王に滞在し、山形市民をワクワクさせた。
 彼がこの蔵王の難コースを暴れ回ったのも46年前にもなり、山形の歴史の一コマを飾ったのであった。
 コルチナ五輪から50年目のトリノで山形出身の加藤君は金メダルに輝くのか。

[写真] 銀嶺は蔵王連峰内の三宝荒神山 頂上から右手下がザンゲ坂で付近は樹氷原 


 そのトニー・ザイラー氏も昨年8月に逝去され、トリノ五輪ではメダルを逸した加藤条治選手は今年のバンクーバー冬季五輪では500mスケートで銅メダルに輝いた。
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21世紀はスポーツ職人技の世紀

2010-02-18 23:56:34 | Weblog
 またまた不可解な写真の組み合わせ。
 両脇の二つの写真が冬季オリンピック関係であることはわかるのだが、なんで真ん中に山形の明治建築の写真があるのかについてわかる人はまず居ないであろう。
 左側はこの度銅メダルに輝いた加藤条治選手で、山形出身であるからこのご当地ブログに登場するのは不思議ではないが、右側のロシアペアのうちの女性(川口悠子選手)は日本出身ながら、むろん山形には無関係である。
 それでも、3枚の写真に共通するものがあるから敢えて一緒にしたのだが、3枚の写真に共通するのは「職人技」である。
 真ん中の建物は「明治建築の華」とか「明治建築の東の正横綱」とまで呼ばれている古い公立病院であり、現在は公園内に移築されて市の郷土館となっている。
 竣工は明治11年であり、基本は洋風建築だが、和風の意匠と技術もふんだんに加味され、多くの宮大工が建築に携わっている。
 それゆえ、明治の伝統的建築職人の技の結晶ともいえる。
 だが、20世紀に入ると急速に「ものづくり」の機械化が進み、手作業を基本とする「職人技」は衰微の一途を辿るようになる。
 一方、人間の職人技は別の形で、即ちスポーツの世界で伸張するようになった。
「職人技は神業」とまで言われるものだが、この度のバンクーバー五輪における各種の競技を見れば見るほど、死と隣り合わせのようなアクロバット的な競技が多く、その中でもミスなくメダルを勝ち取った選手の技もまさに「神業」としか言いようがない。
 加藤選手のスプリントもまさしく職人技に磨きに磨きをかけたものであり、スミルノフ・川口ペアの「銀盤上の人間皿回し」の技も磨きに磨きをかけた職人技の結晶である。
 職人技は時間において1秒の100分の1の単位であり、また空間においても1mmの100分の1の単位でなされる極微の世界の技である。
 スポーツ選手たち、とりわけオリンピック出場を目指す選手たちはいずれも「極微の世界」に挑戦し続けているのである。
 こうして、テレビ等で観戦している一般人は「感動」を与えられるのであるが、一方、建築など物造りの世界での職人技は間近で見られなくなっただけでなく、文化財となったほんの一部の物件を除いては容赦なく解体されたり廃棄されているのは悲しい。
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2位でいけなくはありません!

2010-02-16 23:13:43 | Weblog
 さ~て、今日のトップニュースのテレビ画面から拝借した「日本国民にとって、まっことおにメデタイ」場面にどこかでかなり見覚えのある美熟女の御顔が混入している。
 そう、上の3人はバンクーバー五輪スピードスケート500メートルでのメダル獲得者である。左は銀メダルの長島圭一郎選手、真ん中は金メダルの韓国選手、右が我が山形市出身で銅メダルの加藤条治選手である。
 長島選手も加藤選手も金メダルを逸したことにやはりかなり悔しい思いをしているようであるが、それをなだめるために“画面混入”したのがその美熟女なのである。
 昨年の民主党主導で国政関連事業に大なたをふるうための「事業仕分け」でスーパーコンピューター予算案に対して、何が何でも世界の最高レベルのものでなければならない必要は認めがたいという意味で「2位ではいけないんでしょうか」というセリフを吐いたのが彼女である。彼女はまた、他の分野の国政事業に対しても果断に大ナタをふるい、泣く子、否、並び居る鬼官僚たちをも震えあがらせた。
 考えようによっては、1位も2位も、そして3位とてほとんど大差がないのは確かではないか。ほんの微々たる差異で「レベルの差」を痛感する必要はない。
 いずれの選手もそれぞれの国や故郷の英雄であることには変わりがない。
 ともかく競技を終えた選手の皆さん、お疲れ様。

下記姉妹ブログのURLをクリックすれば、加藤条治選手の実家がある丘陵方面の写真が見られるとともに、彼の足腰が強くなった理由が理解できます。
http://blog.goo.ne.jp/ezoben-k/d/20100216
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えっ!これが「紅の蔵」?

2010-02-12 06:55:09 | 建物
 蕎麦屋さんに置いてある小さな観光案内誌を手にしたら少々驚いた。
 表紙と内部の2ページには「お色直し」された山形市立第一小学校の旧校舎の写真が大きく掲載され、どちらにも山形まるごと館の文字が記されている。※写真はその冊子の2ページの部分
 えっ!「山形まるごと館」とは旧紅花豪商屋敷を改装して昨年12月にオープンした商業的観光施設紅の蔵のことのはずなのに、なんで一小の旧校舎の写真にこの名称が付記されているのか、誰しも不思議に思うことであろう。
 でも、この冊子の中味を読んでみて納得した。
 当ブログの少し前の記事(2月3日付け)でも述べたように改装以前(数年前)のその旧紅花豪商屋敷は現在の2倍余の広さがあり、土蔵もさらに3~4棟もあったのだから、以前の状態(※注)のまま活用していたなら、もっと「中味を濃く山形を紹介できた」はずなのだが、現在の縮小されたスペースと建物の数だけでは観光客に豊富に「山形」を体感してもらい紹介するには施設としての規模が小さ過ぎ、「山形まるごと館」の名が名前負けしていると揶揄されても仕方がない。
[※注:屋敷の縮小は屋敷を分断する市道の新設が契機であったように思えるが、その新道路建設の意図はわからない。「紅の蔵」駐車場確保のためであったとも思われない。]
 半分以下に縮小された豪商屋敷に「まるごと館」の名称を与えることには無理があった。
 それなら保存のため改修工事がなされ、利活用が検討されている一小旧校舎にこそ「山形まるごと館」の機能を持たせ、その名を付与した方が適当だったのではないか。
 この冊子『素晴らしい山形』はそれを訴えようとしているように思えてならない。
 その旧校舎を運営・管理する事業者が先日選定された。むろんこの冊子で提案されているのと同じ運営内容になるとは思われないが、できるだけ「山形」を各方面にわたり紹介できる施設になってほしいものである。
 
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伊達政宗の母が住んだ平地の隠れ里(8)

2010-02-09 16:53:56 | 郷土史

政宗の母義姫は岩出山から離れて(以前は会津黒川もしくは米沢からと伝えられていた)ここ村木沢の地に守護役の者のもとに長年住まい続けたわけだが、阿弥陀仏に帰依する念仏三昧の信仰の毎日だったと伝えられている。
 彼女は山形に戻ったものの、兄の居る山形城内にではなく、当初は南館に住んでいたが、やがてここ村木沢悪戸に移っている。
 彼女が信仰する阿弥陀仏像も彼女とともに移ったようである。
 つまり彼女の信仰は阿弥陀仏を崇拝する念仏宗系の信仰だから、浄土宗、時宗、浄土真宗のいずれかのはずだが、彼女の墓のある仙台市内北山の覚範寺もまた位牌がある若林区の保春院(彼女の法名と同一)もともに臨済宗の禅寺である。
 禅宗系の寺院では阿弥陀仏が信仰されることはほとんどないから、息子の政宗は母の信仰を尊重した上で死後の供養を行ったわけではないことがわかる。

◆写真は義姫の住まいのすぐ近くに移された阿弥陀堂(画質が悪く蒙御免!)
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横綱の「品格」、街並みの「品格」

2010-02-05 10:36:30 | 街づくり

 真ん中の人物を知らない人は居ないだろうが、背後の4枚の写真との関連を即座にわかる方は稀であろう。またしても閲覧者のアタマを混乱させかないか心配である。
 横綱の朝青龍が暴行問題を機についに引退に追い込まれた。 
 彼は以前から横綱として、また力士としての「品格」「品性」を問われ続けていた。
 だが、相撲界は朝青龍をめぐる諸問題に限らず、薬物汚染や少年力士に対する暴行死事件を始めとして、かなり以前から体質が問題視され、また外国人力士の上位への多数進出など日本の「国技」としての特性が失われるのではないかとの懸念が国民の間でくすぶり続けている。
 いわば日本の民族的伝統文化の象徴ともいうべき大相撲にこれほどまでに多くの外国人力士が進出している現状に強い違和感を抱く日本人は少なくないはずである。むろん、朝青龍の引退によっても相撲界への外国人の上位進出の波が弱まるわけではない。
 そもそも現代の日本人には伝統文化に対する関心はきわめて希薄であり、相撲界への弟子入りを目指す若者が少ないのもその表れの一つなのだ。※もっとも若者の就職難が続くこの不況期において「メシ」のために力士を目指す青少年が少しは増える可能性もなくはない。
 地方においても「地方の誇り」ともいうべき「品格」ある街並みや歴史的建造物は矢継ぎ早に失われ、その跡地の多くは駐車場となっている。
 写真はいずれも近年に造成された中心市街地での駐車場であり、入り口付近の諸設備が黄色いのが特色なのだが、かつての風格ある街並み景観をひどく破壊しているがゆえにブログ主である私は「黄禍論」と呼ぶことにしている。
 これでは「地方の個性」も「地方の復権」もあったものではない。 
 まさに「利便性」と「安直な収益」の追求しか考えていない現代日本人の性向を象徴する新たな景観として世界遺産への登録を提案したい。
 また、前日の記事をも併せてお読みいただき、地方都市の街並みの「品格」を維持する方策も考えていただきたい。
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「歴史」半減にて「歴史」で繁盛・・・紅の蔵

2010-02-03 23:24:17 | 郷土史

 またもや不可解なタイトルになったが、旧豪商屋敷をリニューアルして新たな観光的商業施設として12月上旬にオープンした「紅の蔵」は明日で丁度二ヶ月になるが、客入りはなかなかのようであり、土・日には洋食コーナーなどはなかなか坐れないほどである。

 国道に面した2棟の店蔵、政財界の要人が訪れたという座敷蔵、そして二階建ての2棟の荷蔵と計5棟の土蔵造りの建物の他に町屋造りの母屋が立ち並び、訪れた多くの市民は屋敷の広大さに在りし日の豪商の栄華をしのんでいるが、つい近年まではさらに3棟~4棟の土蔵と居宅部分があった。
 その失われた建造物の跡地はどうなったかといえば、市道と駐車場と化しており、もはやその部分(広さは紅の蔵の部分とほぼ同じ)に紅花商人の「歴史」を偲ぶことは全く不可能である。◆地図では右側の部分(上が昨年、下は11年前)
 つまり、まさに「歴史遺産」は「半減」したのであるが、この「歴史」活用の新施設を訪れる来館者の多くは裏手にあるその広大な駐車場の利用者であり、この駐車場により「半減した歴史遺産」は賑わいを見せているのだから、なんとも皮肉なものである。
 だが、ここの周辺にはかつてまだまだ見事な歴史的建造物があったのだが、多くは無粋でしかない駐車場か高層マンションと化している。
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