山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

山形ホテル物語 (4)

2013-04-19 23:38:07 | Weblog

 昭和2年に山形ホテル(山形県教育会の宿泊施設?)敷地の西北部に4階建てのタワー型のビルが建てられた。つまり山形県教育会館の誕生で、教育関係者の団体事務、研修会、会議等に使用され、宿泊を要する人は和風旅館の山形ホテルに泊まったわけである。
 昭和2年という年は山形県内最初のコンクリート造りの山形市立第一小学校旧校舎(現まなび館)が竣工したのと同年であり、4階建てのビルは当時としては山形県一の高層建築であった。そして2階の玄関に至る左右の螺旋階段が特色の奇抜なレイアウトでアメリカ進駐軍の目にも止まり、戦後数年間はダンスホールなど米兵の社交場としても使用され、また、映画『やまびこ学校』のロケ地の一つにもなったが、昭和50年頃に解体された。

 大手門パルズ内の教育会館事務所にうかがったものの建物の歴史的資料はほとんど残っておらず、『山形県教育会館史』のみであったが、それによると昭和2年当初、山形ホテルは庭園部分ごとそっくり山形県教育会に買収され、同年中に新館(洋館棟)がわずか3カ月と少しで建造され、10月30日に竣工祝賀会が催されている。会の終了後は庭園で園遊会が開かれた(庭園の大半はそのまま保存された)。新館の施工は東京の石井組が請け負ったが、設計者の記述は見当たらない。[写真の撮影時(昭和40年代)は洋館(左)は各種教育関連団体の複合事務所、和館(右)は「教育会館」の名のままユースホステルとなっていた。でも既にクルマ社会は進行し、和館の塀も壊され駐車場と化していた。]

――名園保存が「教育会館設立と洋館新設」の条件だった――
 山形ホテルが山形県教育会に譲渡されたのは昭和2年で、間もなく洋風の新館が建設されるのだが、同年発刊の『山形県教育』11月号には下記のように記されている。
・・・会館地は旧藩時代より由緒あり貴重なる名蹟として是を永久に保存せんことは心有る人の熱望して止まざりし所、殊に先年閑院宮、秩父宮、高松宮三殿下の御足を止め給ひし御宿舎及御賞覧を賜りし彼の稀に見る名苑は当時のまゝに保管せられこゝに入る教育者・青少年及一般人士に精神的感化を与ふること絶大なものがある・・(中略)・・史蹟保存の所以を以て県及市の助成も得らるゝ・・・
とあり、その名苑は近年に完全に破却されたが、地域の「宝物」に対する認識の差が現代とは大きく異なることに注目したい。
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山形ホテル物語 (3)

2013-04-17 07:03:37 | Weblog

現代の新築ホテルなら山形でさえ低い方での6階建てで、10階を超えるホテルも珍しくない。だが、この「山形ホテル」はわずかに3階建て。木造だからこれ以上の高層はやはり当時としては建築上困難であったろう。それでもこの「わずかに3階建て」ながら、この威風堂々ぶりと風格、貫録。それなのに今にも浮き立つような軽快なリズム感はなぜなのか?
裏を返して言うならば、現代の高層建築は図体だけは巨大だが、旧山形ホテルのような重厚さは感じられないのだ。

木造三階建ての建造物は明治時代は山形ではむろん東北全体でもまれではなかったのではないか。それゆえその威容はさぞかし壮観であったに違いない。しかも北側の広い日本庭園は宿泊者はむろん一般の山形市民にとっても素晴らしい潤いと癒しの空間であったに違いない。
 ところで、この和風ホテルは確か昭和40年代の後半までは存続していた記憶があるが、その頃はユースホステル「山形教育会館」としてであった。この名称を聞くと現在地がどこかお分かりになる方が多いのではないだろうか。

写真でお分かりのとおり、この「山形ホテル」であるはずの建物はかなり早いうちに「山形県教育会」の建物となっていたようである。確かこの建物は料亭「のゝ村」の創始者の野々村氏が四山楼の経営が順調になってからこの地に和風ホテルとして建造したと記憶しているが、はたして「山形ホテル」の名はいつ頃までに使われ、また「山形県教育会」の名との併用もあったのか、そして経営体に変化があったのか、さらに戦後にユースホステル「山形県教育会館」となった経緯などを調べてみたいものである。
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山形ホテル物語 (2)

2013-04-15 23:47:04 | Weblog

このホテルは風雅で大小の池を備えた壮大な日本庭園があったことが大きな特色であるが、この庭園は必ずしもホテルの開業に合わせて造園されたとは言えない。というのも、この地には江戸後期の山形城主秋元氏の菩提寺である泰安寺という寺があり、池のある庭園も築かれていたからである。
この池のあたりも今はがちがちのコンクリートで塗り固められた広い駐車場となっている。

こんなに緑空間が豊かであったのに、今ではすっかり潤い空間からは程遠くなっている。
ちなみに、この庭園の樹林の右手の背後あたりに明治11年に竣工した済生館の医学教師として赴任したオーストリア人のローレツ博士の宿舎があり、連日珍しい異国人の出勤や帰宅の様子を見たい山形市民の人垣ができていたらしい。

山形ホテルの母体は現在の老舗料亭「のゝ村」であり、明治39年に現在地に建造された。その「のゝ村」の前身の野々村家には明治12年に明治の元老伊藤博文が訪れ、二階から周囲に山々が眺望できることから「四山楼」と名付けられた。明治末年の大火で焼失後の半年後に再建されたが、大正12年には東側に現在の「のゝ村」が建てられている。
 ◇今日の写真は現在の「のゝ村」(『山形歴史たてもの研究会』のHPより)
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山形ホテル物語 (1)

2013-04-13 05:53:35 | Weblog
 すっかり更新を怠っておりました。
 Facebookで連載した「山形ホテル物語」を当ブログでも連載いたします。

 山形ホテル・・・? 聞いたことがあるような無いようなホテルの名前だ。しかもすっかり和風の建物。こんな宿泊施設が山形市街地にあったことを覚えている市民はきわめて稀になっているのではないか。 でも、この建物が昭和40年代までに在ったことは確かであり、庭園や樹林の一部も残っていた。 こんな「水もしたたる」良き景観が今では半分ほどががちがちにコンクリートで塗り固められた平面と化してしまった。

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