昭和2年に山形ホテル(山形県教育会の宿泊施設?)敷地の西北部に4階建てのタワー型のビルが建てられた。つまり山形県教育会館の誕生で、教育関係者の団体事務、研修会、会議等に使用され、宿泊を要する人は和風旅館の山形ホテルに泊まったわけである。
昭和2年という年は山形県内最初のコンクリート造りの山形市立第一小学校旧校舎(現まなび館)が竣工したのと同年であり、4階建てのビルは当時としては山形県一の高層建築であった。そして2階の玄関に至る左右の螺旋階段が特色の奇抜なレイアウトでアメリカ進駐軍の目にも止まり、戦後数年間はダンスホールなど米兵の社交場としても使用され、また、映画『やまびこ学校』のロケ地の一つにもなったが、昭和50年頃に解体された。
大手門パルズ内の教育会館事務所にうかがったものの建物の歴史的資料はほとんど残っておらず、『山形県教育会館史』のみであったが、それによると昭和2年当初、山形ホテルは庭園部分ごとそっくり山形県教育会に買収され、同年中に新館(洋館棟)がわずか3カ月と少しで建造され、10月30日に竣工祝賀会が催されている。会の終了後は庭園で園遊会が開かれた(庭園の大半はそのまま保存された)。新館の施工は東京の石井組が請け負ったが、設計者の記述は見当たらない。[写真の撮影時(昭和40年代)は洋館(左)は各種教育関連団体の複合事務所、和館(右)は「教育会館」の名のままユースホステルとなっていた。でも既にクルマ社会は進行し、和館の塀も壊され駐車場と化していた。]
――名園保存が「教育会館設立と洋館新設」の条件だった――
山形ホテルが山形県教育会に譲渡されたのは昭和2年で、間もなく洋風の新館が建設されるのだが、同年発刊の『山形県教育』11月号には下記のように記されている。
・・・会館地は旧藩時代より由緒あり貴重なる名蹟として是を永久に保存せんことは心有る人の熱望して止まざりし所、殊に先年閑院宮、秩父宮、高松宮三殿下の御足を止め給ひし御宿舎及御賞覧を賜りし彼の稀に見る名苑は当時のまゝに保管せられこゝに入る教育者・青少年及一般人士に精神的感化を与ふること絶大なものがある・・(中略)・・史蹟保存の所以を以て県及市の助成も得らるゝ・・・
とあり、その名苑は近年に完全に破却されたが、地域の「宝物」に対する認識の差が現代とは大きく異なることに注目したい。