山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

続く「クルマの大津波」・・・石巻

2013-05-26 09:18:50 | Weblog

 昨日石巻市を訪れた。
 2009年にも同市を訪れたが、震災前にもかかわらず石巻の中心商店街は既に壊滅状態に近く衰退していた。
 以前は人の往来が多かったはずの商店街も歩く人もまばらで、クルマすら走行はまことに少なかった(上の写真は2009年撮影)。
 その主たる要因が昨日解ったような気がした。
 それは下の写真にあるような郊外型の巨大なショッピング・モールが2007年にできあがっていたからである。このモールだけでなく、周囲には他にも郊外型の大型商業施設が多く、一大商業ゾーンが形成されていた。むろん、郊外型の商業施設には広大な駐車場がつきものである。
 だから多くのクルマが怒涛の如く押し寄せる。
 あたかも海水の大津波の如くである。
 しかし、多くのクルマは中心街は避けて迂回するか、中心街を通過しても素通りだけであるから、中心街は物理的に「クルマ津波」による被害は受けない。
 だが、経済的には大被害を蒙ることになった。
 その「クルマ津波」は大震災以降も止むことなく押し寄せ続けている。
 石巻中心街の衰退はますます深刻化することは間違いない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山形ホテル物語(6)

2013-05-24 07:22:11 | 街づくり

 ◇微笑みのアラ還美女を見つけた◇
 かつての緑したたる市内有数の名園も今では一面が車用族の利便最優先の敷地と化した。これが戦後の“リベラル界”を先導してきた教育関係団体と労働関係団体の発想かと思うとなんとやら・・・。それはともかく、この無味乾燥な景観の中にも潤いの微笑みが見られる。前回の投稿の中でも述べた「アラ6」つまりaround kanreki(アラ還)の美女のお顔である。
 そしてたまたま、早朝からクルマの進入が見られた。旧山形ホテルの後裔である大手門パルズに(たぶん、おそらく、perhaps, maybe)無用で前夜に駐車した車を回収に来たお方を乗せた代行車と見られた。旧山形ホテル時代の遺品たる石灯籠は微笑みの美女とともに車用族の方がたをお出迎えしてくれているのだ。

 水と緑が人びとの生活を潤すとは誰しも言う。特にこれは政治家の口癖である。しかし「言うは易く行うは難し」つまり言行不一致は世の常で、現代では一層顕著。これを如実に示す例が旧山形ホテル(現・大手門パルズ)の名園のな れの果てである。
 藩政時代(山形城主が秋元氏)からの名園は旧山形ホテル(後の山形県教育会館)の和館、洋館ともに解体のうえに第二世代の教育会館の建設のために昭和50年頃に破却され、主要な部分が駐車場化したが、それでも東側に小さな池の部分が残されていた(写真右)。それが大手門パルズの新築の際にすっかり毀されて駐車場化してしまったのである。止めどもなきクルマ社会の進行を教育関係団体と労働団体も抗しきれず、「背に腹は代えられない」とは言うが、哀れなのは「水と緑」である。

 前回の投稿⑭で現在の大手門パルズ建築に際して取り壊された藩政時代からの名園の一部と思われる「小さな池」はかつての山形ホテル時代の写真の池ではなかったかと思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山形ホテル物語 ⑤

2013-05-17 21:01:27 | Weblog

――名園保存が「教育会館設立と洋館新設」の条件だった――
 山形ホテルが山形県教育会に譲渡されたのは昭和2年で、間もなく洋風の新館が建設されるのだが、同年発刊の『山形県教育』11月号には下記のように記されている。
・・・会館地は旧藩時代より由緒あり貴重なる名蹟として是を永久に保存せんことは心有る人の熱望して止まざりし所、殊に先年閑院宮、秩父宮、高松宮三殿下の御足を止め給ひし御宿舎及御賞覧を賜りし彼の稀に見る名苑は当時のまゝに保管せられこゝに入る教育者・青少年及一般人士に精神的感化を与ふること絶大なものがある・・(中略)・・史蹟保存の所以を以て県及市の助成も得らるゝ・・・
とあり、その名苑は近年に完全に破却されたが、地域の「宝物」に対する認識の差が現代とは大きく異なることに注目したい。

  ◇第二世代の教育会館建設で広大な庭園が破却◇
山形の藩政時代からの歴史ある名園がほとんど破却されるに至ったのは県教育会館(第二世代、大手門パルズの前身)が建造される昭和51年のことである(開館は翌年)。
 むろんその際は旧山形ホテル(後のユースホステル)であった和館と昭和2年建造の洋館もすっかり取り壊されている。それでも庭園のほんの一部、すなわち築山の一部分と小さな池(後日写真を投稿)はなんとか遺されていたが、それすら現在ではすっかり失われている。新館建設の理由の一つにはやはり駐車スペースの確保があっことは間違いがない。
 それにしても第二世代の新館建設に際して建主である当時の教育関係団体や市民たちには歴史ある名園を慈しみ、...もっと見る
 
 まるで老舗高級料亭の玄関前。
 今でも残る旧山形ホテルのほぼ「唯一」の遺物。
    巨大な「石灯籠」
 さて、この石灯籠の現在の在り処(ありか)はいずこに?
 ヒントは、この石灯籠の前で「アラ6」の美女が微笑んでいる。
 回答は次回。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ホトケ様もアイドル並みの人気。でもそもそもアイドルとは・・・

2013-05-06 16:12:48 | Weblog
これは御開帳初日(4/27)の様子で、まさにすごい人出であるが、ゴールデンウィークの期間中はやはりかなりの人出であろう。「御開帳」とは言うまでもなく山寺立石寺本堂に鎮座する本尊薬師如来像の厨子が50年に一度開かれて尊像が直接参拝者の目に触れることであるが、この“ご尊顔”を拝しようとする参衆の数の多さと熱気はまさに若手人気芸能人や超人気“アイドル”並みである。
しかし「朕こそアイドルそのものであるぞよ」との声が厨子の方から聞こえてきそうな感じがする。えっ?薬師如来様がそんなことを口にする?そんなことはありえない!でも、如来様の言葉は正しいのだ。そもそもアイドルidolとは「崇拝の対象」とか偶像の意味を持つ。それが現代社会になって本来の意味が薄れ、特に熱狂的なファン層を集める若い芸能人などのことを指すようになった次第なのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

山形とオランダとの太いパイプ

2013-05-04 20:40:38 | Weblog
※ シリーズ「山形ホテル物語」当分の間休止しますが、五月中旬以降必ず再開いたします。

 ここ2~3日のマスコミでは「下から読んでもマサコサマ」のオランダ新国王の就任式への参列の話題でもちきりだが、郷土史の上でオランダと山形とはかなり密接である。
 山形の神社にはオランダ語の百人一首の絵馬が天保年間に奉納されており、既に山形城下民の間でオランダ語熱が盛んであったことを物語る。また村山市楯岡出身で北方諸島の探検家最上徳内は長崎出島オランダ商館のドイツ人シーボルトと江戸で会っているし、彼と交友のある和算の巨人会田算左衛門は山形出身である。
 そしてハーグの国際司法裁判所の所長を務めた安達峰一郎はオランダで国葬に遇せられているが、彼も山形市の隣町の山辺町出身である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする