山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

閑かさや・・・賑わいはどうした、津和野 ⑤

2008-05-31 21:57:29 | 風景

4月24日 今日で津和野見聞記も最終としたい。実際訪れた日から1カ月以上を経過してしまった。
津和野見物は貸し自転車を利用して約4時間と少しであったが、津和野を去る午後3時近くになるまでいずれの観光スポットも閑散としており、何とか記念館等の文化施設は数多いのだが、いずれも経営状況は厳しいと思われた。
 特に、かつて“アンノン族”と言われた若い女性のグループの姿が皆無に近い情況で、“末期中年”or“初期高齢者”としての自分には大いに期待外れであった。
 津和野は歴史と文化の町としての価値はむろん高いが、自然景観が非常に美しい町としても大いに売り出して良いように思われた。
 こんな感慨を抱いて津和野を離れ、次の訪問地の萩に向かったが、直通バスなのに僅かに3名だけの乗車であり、いかに公共交通利用の観光者も少ないか考えさせられた。

写真説明 「上左」警察署も和風の外観 背後に城址の石垣が見える 「上右」旧藩主亀井家の別邸・記念館から望む自然景観 「中左」白鷺の壁画がある小学校 「中右」太鼓谷稲成神社の鳥居のトンネル 「下左」神社からの眺めはまさに絶景 「下右」同じく神社から望まれる津和野の街と円形の山(休火山らしい)
 観光の途中、デジカメのバッテリーが怪しくなり、使い捨てカメラを買って使用したので、画質が異なる。 → クリックで写真拡大
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閑かさや・・・賑わいはどうした、津和野 ④

2008-05-30 23:45:00 | 風景

写真説明 「上左」殿町のそばを流れる川と津和野大橋 「上右」殿町の旧藩校の裏手の風景 「中左」山口線の架橋と背後の津和野城址の石垣 「中右」明治維新期の啓蒙思想家 西周(にしあまね)の旧宅 「下左」森鴎外旧宅 「下右」津和野の大自然を背負う森鴎外の銅像 → クリックにより写真拡大  

4月24日 ここは島根県である。だが、観光ルート上は西の京と言われる山口市や萩と一体になっているので、山口県の一部と勘違いされる場合が少なくないようだ。
 この私も山口市観光を終えて、ここにたどり着き、次は萩に行く計画である。
 4月24日の津和野は連休直前ながら、まだ連休に入っていないものの、観光客の姿がまことに少ないのに驚いたが、世界遺産になった石見銀山に客足を取られたという見方もある。だが、石見銀山のことはさて置いても観光客が減少していることは否定できないようでもある。
 それにしても、こんな小さな町から森鴎外や安野光雅氏など超有名な人物が他にも多数輩出していることは驚きであり、きわめて珍しいことではないだろうか。
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閑かさや・・・賑わいはどうした、津和野 ③

2008-05-29 23:47:39 | 建物

4月24日 津和野駅を降り立ったのは10時頃。だからまだ人出が少ないのかと想っていたが、昼近くなっても相変わらず観光客の姿はほんのまばら。たまに見かける少人数の旅行客はほとんどがマイカーかレンタカー利用らしく、私のような鉄道利用者はまだまだ少数派らしい。というよりは、鉄道利用者はますます大幅に減少しているようで、「エコ・ツァー」の言葉だけが独り歩きしている感じである。これが洞爺湖サミットで地球温暖化対策が主要議題として予定されている日本の現実である。
 ※写真はクリックにより画面拡大
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閑かさや・・・賑わいはどうした、津和野 ②

2008-05-27 23:14:34 | 建物

4月24日 島根県津和野町
「上左」駅から近い街並みは旧城下町ゾーン 商店街だが人通りがない
「上右」金融機関も和風の外観 町民の努力が覗えるのだが、もっと賑わいがほしい
「下左」小京都らしい景観 でも折角の景観保全の努力を日本人は支援してほしい
「下右」ここから武家屋敷ゾーン かつて超有名だったこの錦鯉が泳ぐ水路の街並み(殿町)も閑散 ここで一句「閑かさや水路の鯉も淋しさや」
  ※ クリックで写真拡大
  ※ 津和野街歩きはあと2回 それ以降は萩街歩きと「芭蕉の気分で歩きに歩いた27キロ」のシリーズを交互に登載する予定
  
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築地本願寺と山形、そして月島

2008-05-26 20:34:55 | 建物

↑ 上の写真は明善寺提供 下は関連HPより

 24日~25日、東京 某会合出席のついでに築地と月島の街歩き・・・
 米沢市出身の大建築家、伊東忠太博士の設計した寺院が山形市内にあるが、東京の築地本願寺も同じ昭和9年に彼の設計により建造されている。
 築地本願寺の外観は見るからに日本的ではない。特に中央の本殿は古代インド様式であるが、左右の仏塔は東南アジア風に見受けられる。
 それに対し山形の明善寺は完全に和式の外観である。しかし、それでも一般的な他の寺院とは様式が大きく異なっている。左右に塔楼が配置され、しかも本堂の大屋根の斜面が左右に流れている様式は日本の仏教寺院としては異例である。
 この2つの寺院、インド様式と日本様式という大きな違いがあり、しかも規模においては格段の違いがある。それでも「容貌」が似通い、設計者も同じ、宗派もともに浄土真宗本願寺派(西本願寺派)であり、しかも「生まれた年」が同年であれば「性別」違いの双生児とも言えそうだ。築地本願寺が男子だとすれば山形の明善寺は女子ということになろうか。
 伊東博士は明らかに「同じイメージ」をインド風を東京に、和風を郷里に近い山形に振り分けて設計したのであろう。 

↑「上左」本堂前広場では地域イベントの開催準備中 「上右」まもなく勝鬨橋と月島の街並みが見えてくる 「下・左右」月島の高層ビルの狭間に沢山の“昭和”が息づいていた まさにNHK朝の連続ドラマ『瞳』の舞台そのもの

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閑かさや・・・賑わいはどうした、津和野 ①

2008-05-23 22:28:04 | Weblog

 4月24日、山口市を後にして津和野に向かった。
 津和野観光は萩や山口と一体の観光コースに組み入れられていることが多いが、津和野は山口県にあらず、島根県に属している。
 確か津和野は山陰の小京都として知名度抜群で、アンノン族といわれる若い女性たちでたいへん賑わう所というイメージで訪れたが、「連休直前の閑かさ」とは言え、あまりにもの閑散さに拍子抜けしてしまった。

[写真説明] ①JR山口線の車窓に展開されるのどかな田園風景 車窓の景色は飽きることが無かった ②いよいよ津和野の町が見えてきた ③津和野駅前 駅に降り立つ人もほんのわずかだし、団体バスやマイカーで訪れた人の姿もほとんど見えない ④ここが中心商店街 でもやはり人影はまばら まだ午前の早い時間からかと思ったのだが・・・  (クリックで写真拡大) 次回以降に続く
 
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山形と似て非なる山口の街歩き ⑤

2008-05-22 21:04:58 | Weblog

 西の京、山口の街歩きも雨にたたられ通しであったが、しとやかな街の情緒が一層しとやかに感じられた。 [4月23日]
[写真説明]「上左」山口のシンボル瑠璃光寺五重塔 「上右」山口を「西の京」にした大内氏ゆかりの寺(居城跡) 「下左」中心市街を流れる清流、一の坂川に沿った散歩道と植栽 「下右」一の坂川は大内氏が京の鴨川になぞらえて整備されたというが、こんな小規模な河川でも貴重な親水空間であり、どれだけ市民の心を潤しているかしれない。山口を訪れる際は是非この沿道を散策してほしい。

「左」山口でも和風の伝統建造物が散見された 「右」夕暮れ時のJR山口駅 すぐ裏手に丘陵が控え、高原の駅のようだ
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芭蕉の気分で歩きに歩いた27km ①

2008-05-21 21:51:02 | 郷土史

 昨日の悪天候から一転して好天になったので、かねてから芭蕉の健脚ぶりを検証したく、山形市の中心部の我が家から旧街道を北に向けて歩きに歩いて直線距離にして26km、実質27.5kmを踏破し、村山駅(旧楯岡駅)まで辿り着いた。
 むろん、途中4回ほど小休止したが、8時10分に出発して村山駅には15時22分に到着したのだから、7時間12分の歩行旅であった。
 この距離は、芭蕉が訪れて「閑かさや・・・」の句を詠んだ山形市山寺から大石田までの距離の凡そ3分の2に近い。
 だから、あと3時間余をかければ、つまり19時前には大石田に着くことができるはずであるが、クルマを使わない私とてやはり現代人、こんな長距離を歩き通したのは私にも初めてのことなので、足の掌に靴ずれができたし、足全体に疲れが生じたので楯岡までで打ち止めとした。
 でも、健脚の芭蕉ですら途中まで借りた馬に乗ったようだから、尾花沢(大石田の東隣)を早朝に発って夕暮れ前に山寺に着いたという記述に偽りがないことが私の中途半端な徒歩旅行の実践によって実証できたように思えた。
写真説明 ①山形市内でもほとんど通ったことがない街路(千歳地区沖の原) ②長町三丁目の美しい鎮守の森 ③高瀬川と野呂川の合流地点越しに見える県立中央病院 ④七浦地区の名も無き河川 ⑤七浦地区の狭過ぎる歩行スペース ⑥山形市と天童市の境界に流れる立谷川 ⑦ここから天童市 ⑧天童南部の跨線橋から見た奥羽本線 前方は山形方面 ⑨跨線橋から望まれる天童市のシンボル舞鶴山 (クリックで写真拡大)

※ 山口県旅行記等と交互に継続します。
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日本一の時代雛のまち谷地の街歩き

2008-05-19 18:44:34 | 建物

↑ 白鳥十郎長久は山形城主最上義光に謀殺されたので、400年後の山形市民である我々が墓前で「謝意」を表さないではいられなかった。

 昨日グループ(上の写真の酒蔵のある街角でたむろする不審な?男女の群れ)で「日本一の時代雛のまち」ともいうべき西村山郡河北町の谷地の街歩きをおこなった。
 山形市から北北西に約30kmの所にある人口が約2万人の町である。
 日曜日だが、中心街には買い物などで街を歩く町民の姿がほとんど見られなかったが、毎年4月の初旬には県外、しかも関東、関西方面からの大勢の観光客で賑わうのは6軒ほどの複数の民家で享保雛など江戸時代から伝わる古くも豪奢な雛人形が公開されるからである。(昨年4月3日の記事と写真を参照)
 10時20分頃から歩き始めて、蕎麦屋で昼食し、3時30分頃まで歩き続けたが、色んな発見や出会いがあり、感動の一日であった。

 ↑「A」酒蔵W酒造(A酒造とは別)のレンガ造りの煙突 現在は歴史的シンボル
「B」この2軒私の蔵屋敷でも雛飾りが公開される。だが、道路が拡幅されてクルマが高速で走りぬけるようになり、歴史的街並み景観の雰囲気とそぐわなくなった。
「C」「雛の道」沿いの日本人形を売る店がどういうわけか南欧風 
「D」「雛の道」沿いに「雛の道」に最もふさわしい素朴な民家をやっと見つけた。
   ※2つの写真ともクリックで拡大

※ 山口県旅行記は次回以降に再開します。
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山形と似て非なる山口の街歩き ④

2008-05-17 19:20:32 | 建物
 旧県庁舎があまりにも似通っているのに対し、旧県議会議事堂は外観も内部もまったく異なっていることは上の写真でわかってもらえるだろう。
 山形県議会がカラフルなのに対し、山口県議会は単色である。
また、山口の議事堂の建物は述べ床面積において山形と比べればかなり上回る。

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