山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

可愛い可愛い村役場、今はどうなった?

2006-03-31 06:27:44 | 建物
 丁度昨年の3月末に知人と鶴岡市にでかけた帰路、ここ(旧黄金村、現鶴岡市)に立寄った。やはりその日も時々吹雪に見舞われる寒い日だった。つまり「名残雪」として決して異常ではないというべきなのか、やはり昨年(3月中旬まではかなりの積雪)も今年も異常気象というべきなのか、判断に苦しむところである。  それはさておき、この建物は『蝉しぐれ』などで有名な作家、藤沢周平氏の生まれ故郷、旧黄金村の役場であり、彼自身も鶴岡中学校(現、鶴岡南高)夜間部に通学の時代、昼に書記補として勤務していた「史跡」でもある。村役場としての面影は充分に残されており(昭和11年建造)、郷愁が呼び起こされる建物である。 
 昨年訪れた時は地域の集会所として使われていたようであるが、外観だけを眺めた限りでは使用頻度もさほどでなく、保存状態も決して良好とは言えず、たった一年後の今どうなっているのだろうか、心配である。

 (駐車の車はすぐ近くの保育園の職員の車) 
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内裏雛もびっくり! 4月直前の大雪

2006-03-30 07:30:17 | イベント
 Ado mikka de sugazu date yuuni,kyo wa naedate kodae yugi hutte samui-n-dabega? Hoizu sa sugi-kahun mo arusu,tissue paper eppai eru midai dazuu.
[訳] あと3日で4月だというのに、今日は何だってこんなに雪が降って寒いのだろうか。それに杉花粉もあるし、ティッシュがいっぱい要るみたいですよ。

 昨日エジプトは皆既日食だったが、裏日本は怪奇気象。一昨日は日本晴れで気温も20度近くまで上昇したのに、今日は真冬並みの気候。これでは体調管理も困難。
 江戸時代に京都で生まれ、山形特産の紅花と引き換えで出羽の国に住みついた内裏雛も今ではすっかり山形訛りになり、昨日の雪と寒さに驚いてぼやいている。それでも参観者の前でくしゃみもできないし、貴公子らしい顔つきを保つしかないと頑張っている。

 ↑ 酒田港経由で京から船輸送された雛人形たちが上陸した最上川の船着場は左側(大江町左沢) 三連アーチの橋も季節はずれの雪にけぶる(3/17の記事参照)

 ↑ 男雛の衣装は珍しい舶来のビロード製と五人囃子ならぬ七人囃子(左沢、鈴木仁家)
   ↓ 雪に見舞われる雛飾り会場の豪商屋敷(清野太家 3/19の記事参照) その後はもっと激しい降雪になる。


 以上、「大江のひなまつり」より (3月26日~29日)
  他に、金子仙之助家、錦庵、大江町歴史民俗資料館でも雛人形を公開


 

 
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山形の名建築(21) のむらや寝装店

2006-03-29 07:15:46 | 建物
 郊外に大型店舗の進出が相次ぐ現在でも、山形市の中心商店街はどこかと問われれば、ほとんどの山形市民は七日町大通りと駅前大通りと答えるであろう。
 しかし、歴史的には十日町大通りこそが城下町山形の中心地であった。
 豪壮な土蔵造りの店舗が数多く軒を連ねているのは今でも十日町大通りであり(ただし残念なことに昨年秋には複数の土蔵からなる旧豪商の屋敷がすっかり取り払われて駐車場と化している)、七日町や本町が中心地のようになったのは明治になって県庁、市役所などが建ち並ぶようになってからのことである。
 写真の土蔵造りの店舗も十日町大通りに面しており、そんなに豪壮な造りではないが、可愛らしい塔楼のような部分もあり、人目をひいている。
 明治19年の建造というから、土蔵としてはかなり古い方である。この店舗部分の奥の方にも土蔵造りの棟が連なり、こちらでは時々和洋のコンサートや落語会などが催され、市民にも親しまれている。
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まだまだ現役(2) 老舗料亭、衛生施設、菓子店

2006-03-28 07:03:28 | 建物

     ↑ 七日町にある老舗料亭(三階建ての料亭は珍しい) 

 ↓ かつての花街の女性たちの健康管理をやった建物(今も一般の公衆衛生の事務所として使われている)


  ↓ 昭和初期耐火建築の菓子店(旅籠町)。国道の拡幅のため近いうちの解体が懸念されている。昨日掲載の店舗の隣。9/24-26,3/5の記事を参照ください。


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新シリーズ  まだまだ現役!(1)

2006-03-27 07:23:34 | 建物

 ↑ 宮町にある工場敷地内の事務棟。全国区のメーカーであるが、古い建物は極力大事に使われているようだ。美しく、かつ存在感も充分である。

 ↑ 現在飲食店として使われている昭和初期建造の店舗(旅籠町二丁目)。ただし、道路拡張計画により近いうちに解体されそうである。関連記事9/24-26,3/5を参照ください。

   ↓ 通称栄町通りにある牛肉店(木の実町)。昭和初期の耐火建築。ここも道路拡張により数年後には解体の運命。


 新シリーズとして、現在も店舗や事務所、作業所などとして使われている山形市内の古い建物を今後断続的にでも連載したい。今日の記事が第1回目である。
 ただし、古いままに残存していても、入り口が閉じられたままになって現在営業状態なのかかどうか不明な建物や、保存状態があまりにも悪くて撮影も憚られる建物、また、大きくてど派手な看板で埋められていたり、アルミサッシの窓やサイディングなどで原状の美観が活かされていない建物は除外することとした。
 更に山形に特徴的な土蔵については別個にとり上げることにしたい。
 ともかく、こうしている間にも、閉店したり、解体されてしまう建物が相次いでいるのが山形の(さらに日本の)現状なのである。
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山形の名建築(20) 梅月館(旧梅月堂)

2006-03-26 01:15:00 | 建物
 これが名建築? そう、確かに名建築。しかも歴史的建造物。 ええ? こんな超モダンな建物が歴史的建造物? 聞いてますますわからなくなりそうだ。
 人間で言えば20~30代の若者にしか見えないこの建物は実年齢が当年とって満70歳の高齢紳士なのである。確かに山形市の中心市街地には既に洋風建築も少なからず建ち並んでいたが、どちらかと言えば装飾的で古典的外観が多かった中に大きなガラスばりで無装飾の建物の出現はかなり衝撃的だったに違いない。
 設計は当時新進気鋭のモダニズムの建築家、山口文象である。しかしモダニズム建築家でありながら、彼の手がけた建物で現存するものは和風が多く、この梅月館は数少ない超モダン建築であり、その意味でも貴重である。
 戦時色が強まる中で、このレストランの広い窓から外の街角を眺めながら食事することは市民にとって東京に出かけた気分にさせたに違いない。ここで食事した山形では型破りの超モダンな若い男女も今や既に90歳代か。やはり歴史を感じさせる。
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何とモッタイナイ!(8) ある新聞投書から

2006-03-25 07:33:31 | 街づくり
 ついこの間、地方紙に次のような投書が掲載されていたが、全く同感の至りである。
 丁度その投書の主は知人の女性だったので、本人の了解を得て転載させていだいた。
          

 久々に町の中を歩いていたら、見慣れていた建物がなくなっていることに気づきました。このごろは別に珍しいことではありません。それぞれの理由があってのことだと思います。
 私は地域を訪ねて町の中を歩くのが好きです。歩くことによってその町の歴史や住む人のやさしさが感じられるからです。少子高齢社会が進むことによって、同じように感じる人が増えてきました。住み慣れた町、景色は高齢者だけではなく小さなお子さんにとっても大切なものかもしれません。退職した中高年者のふるさと回帰現象も始まりつつあります。間もなく団塊の世代が定年を迎えます。
 道路を広くして車を大量にさばくことは郊外のバイパスなどにおいては有効かもしれませんが、町の中ではどうでしょうか。車が高速で走り抜けて行くことよりも、住み慣れた町でゆったりと暮らすことも必要だと思います。
 中心商店街の空洞化は、全国どこでも見られる現象ですが、そこに暮らす私たち、そしてその先の子供たちが暮らし続ける町のあり方を住む人みんなで考えてみませんか。どうすれば暮らしやすくなるか、商店街の人も、行政の人も、お年寄りも、勤めている人も、主婦も、子供たちも。みんなで考えれば、町は良くなると思います。このままでは、町は壊れていきそうです。

※ タイトルは「暮らしやすい町を考えたい」
※ 写真は六日町大通り(旧羽州街道)沿いの土蔵を利用した生命保険の営業所だが、今は取り壊されて跡形も見られない。かつてはここでも商家の町屋や土蔵、旅籠などが軒を連ね、城下町としての風情、商人の町としての繁栄の面影を存分に残していた。
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何とモッタイナイ!(7) 旧県庁敷地内の謎の建物

2006-03-24 00:32:27 | 建物
 建物には謎が多い。図体が大きい割合にはいったん消滅してしまうと全く記憶に残らなくなるものも少なくない。
 この手前の建物、外装を綺麗にリニューアルしているが、程なくして解体されている。何と場所は旧県庁、つまり今の文翔館のある県の所有地内にある。確か、この辺には県議会議事堂(現在文翔館議場ホールはその前代の議事堂)があったはず。やはり議事堂として使われていた建物だったのだろうか。
 県庁か県議会事務局にでも出かけて聞けばわかるかもしれないが、その頃に勤務していた人のほとんどは既に退職しているはずと考えれば、やはり面倒。多分すぐに答えられる県職員も稀なのではないか。現在県職員の方や元県職員の方などで記憶がある方は下の「コメント」欄に記載をお願いします。むろん匿名や仮名で結構です。

 ※奥の方の建物は旧山形警察署
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何とモッタイナイ!(6) 町屋の家並み

2006-03-22 07:18:20 | 建物
 「町屋」と聞けば、多くの人京都のそれを連想するであろうが、実際のところは京都でも残り少なくなっており、ましてや「街並み」として複数の町屋が並んでいる所はごく稀になっており、世界遺産の都市京都を訪れる外国人観光客を落胆させるほどである。
 というのも、欧米、特にヨーロッパの都市には百年を超える古い建物が現在も多くが一般市民の住居や店舗として使われており、それが各都市の個性的街並み景観を形造つているのだが、いわばそれがヨーロッパ風の「町屋」なのである。
 話が外国の都市にまで飛躍したが、当然かつては町屋は日本の至る所にあったわけで、山形にも当然城下町らしい「町屋」は少なくなかったし、ほんの稀に現存もしているが、探し出すのに苦労するし、ようやく見い出しても、アルミサッシが嵌め込まれていたり、今にも倒壊しそうだったりと、写真撮影が憚られる場合も少なくない。それでも城下町山形の庶民の暮らしを伝える貴重な建物であることには変わりがない。
  建物も古くなれば当然老朽化して傷みと汚れが増して来る。だが、戦後の日本では補修する職人も激減、素材も調達が困難な環境となり、補修よりは改築。しかも外観は全くの非伝統型となり、街並みは激変し、懐かしさを残す佇まいは皆無に近い。これでは迷子ならぬ“迷爺”“迷婆”になる老人が増加するのも当然。高齢者に優しい街とはとても言えない。

 ◎ 写真は市街地南部の旧街道沿いにあった連続する町屋。撮影は約30年前。
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昨日は仙台、東北大片平キャンパスへ

2006-03-20 07:20:41 | 建物
 山形の同好グループで山脈一つを越えて隣市の仙台にでかけ、東北大学の片平キャンパスに残る明治から昭和初期にかけての大学施設の見学会を行った。
 仙台は戦争末期に爆撃を受けたため古い建物はあまり残っていないが、片平キャンパスには仙台に残る「近代建築」(昭和初期までのもの)の過半数の20棟が現存し、隣りの東北学院大の施設と合わせると、片平は仙台の「近代建築の宝庫」であり、貴重な歴史ゾーンにして建物博物館であると感じた。
ただし現状に至るまでは保存と解体をめぐり関係者の間でも大きな紆余曲折があったようである。

 ※ 写真は旧東北帝国大学付属図書館。現在は東北大学史料館。大正14年建造
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