前2回の投稿で米沢芳泉町の伊藤家について記事にしたが、彼の父祖が山形城主最上義光ばかりでなく、加賀100万石の祖前田利家の親族にして戦国時代随一の傾奇者(かぶきもの)前田慶次と東北アルプス朝日連峰の峰伝いに軍を率いて踏破した直江兼続の側近武将志駄義秀とも関連があることが先日米沢市東郊の堂森善光寺を訪れてわかった。
◆前田慶次は後にこのあたりに隠遁し、埋葬地は定かでないが、供養碑が善光寺境内にあり、また志駄義秀の墓もあると案内チラシに図示されながら、彼の墓を確認できなかった。それにしてもカルタゴの勇将ハンニバルもどきの冠雪の山道を踏破したほどの武将の墓がきわめて探しにくいとはどうしたものか。◆詳細は後日投稿したい。
右は前田慶次か隠棲した堂森(米沢市東郊)の荒神山。道路の正面に彼の供養碑がある善光寺と墓地。中腹に志駄義秀の墓があるとされる。左は前田慶次の甲冑。
「右」私が見つけた米沢風(上杉風?)墓碑。もしかして志駄義秀の墓碑かとも思ったが確認できず。
「左」某HPで見つけた志駄義秀の墓碑。時間が無いことと急傾斜の墓地のために探索を断念。
連なる朝日連峰の尾根 ここに直江兼続が急遽「朝日軍道」を造成させた。尾根の片側のすぐ下は最上領内など他領。この軍道が志駄が統治を任された庄内地方と直江兼続が統治する置賜地方を結ぶ唯一のコース。