山形の過去、現在、未来

写真入りで山形の歴史、建物、風景を紹介し、併せて社会への提言も行う

優美にして激情の韓国舞踊

2008-07-31 20:04:13 | イベント
 竹島の帰属をめぐり現在は日韓関係は緊張状態。
 でも韓国からは地理的に距離のある山形市では韓舞の公演を楽しむことができた。
 否、「楽しむ」というよりはインパクトのある韓国の伝統的舞踊と演奏に圧倒されたと申すべきか。
 昨夜、東北芸術工科大学の本館脇の水上能楽堂「伝統館」でこの公演が開催された。
 東京生まれの“元”在日韓国人女性で現在ソウル在住の金利恵さんが踊り手で、5人の男性楽手が民族楽器を演奏した。
 始めは静かな歩きで入場したが、丁度日本の能の足の運びを思わせる動作だった。
 次第に天女のような優美な舞が演じられ、ついには激しさを増す演奏とともに躍動的な舞となったが、舞の開始から1時間と少し休みなく舞と楽手の演奏が続けられ、そのダイナミックさには興奮すら覚えたが、韓国文化の優雅さとともに韓民族の激しい情念が込められているようにも感じた。
 日本の歌舞音曲にはこれほど長時間にわたるものは極めて稀ではないか。
 韓国に限らず、大陸の伝統的歌舞音曲は夜通し演じられることが多いようだが、それこそ歌舞音曲は「生活そのもの」であったと思われる。

※ 金利恵さんと伝統館の写真は関連HPより(公演中は写真撮影不許可)
  高台にある伝統館は山形の霊峰月山の方角に向けられている
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ずぶ濡れのカズエちゃん

2008-07-29 22:07:44 | Weblog
 カズエちゃんとは女の子の名前のようだが、実は男子の名前である。
 漢字で表記すれば「主計」となる。
 まるで会計検査院の高等事務官のような名前であるが、どうして「カズエ」と読むのかについては宿題となろう。
 ここで言う「カズエちゃん」とは金沢市の主計町のことであり、歴史の街金沢の茶屋街がある所としても有名である。
 私は一昨年の六月に訪れたが、すぐそばを流れる浅野川とともに優良な景観を形成しており、印象が深い。
 その主計茶屋街が昨日の朝に浅野川の数十年ぶりの氾濫により泥水が押し寄せ、ずぶ濡れどころか泥まみれになったという。
 一日も早い復旧が望まれてならない。
写真説明「下左」と「下右」が主計茶屋街 上段の3コマが浅野川と伝統型の木製の橋 「上中」の左手の裏手には東茶屋街 「中左」は北国新聞のHPより
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ジシン満々 直江兼続よ退散せよ!

2008-07-27 23:04:13 | 郷土史
宮城岩手内陸地震に続いて岩手県北部を中心とした大きな地震が相次ぎ、一昨日未明の地震では我が山形市でも久々の震度3を記録した。
 この2つの大きな地震の間にも小さな地震が幾つか感じられたから、また近日中に近くで大きな地震が起きはしないかと心配になってくる。
 でも、山形城跡公園内の最上義光の騎馬像だけは不安定な見かけにも拘わらずやはり安泰であった。それでも震度6強が襲ったらどうだろうか。
 山形の歴史の上で「震度6強」に匹敵する事件と言えば何と言っても「奥羽の関ヶ原」と言われる長谷堂合戦が挙げられよう。
 石田三成の西軍に属する直江兼続が率いる上杉の2万数千の大軍が山形城攻略のため山形盆地になだれ込み、盆地の西南角の長谷堂城周辺で激戦が展開されていた。
 しかし西軍の敗北が伝えられるや上杉軍はすばやく撤収を開始した。
 この騎馬像は追撃戦の開始を指揮する山形城主最上義光の姿であるが、これと同じ雄姿が直江兼続を主人公とする来年のNHK大河ドラマで見られるだろうか。
 山形は長い歴史の上で大きな震災やその他の天災も少なく、戦乱のために町が灰燼に帰したことも記録されていない。
 奥羽の関ヶ原でも山形城下はついに戦火を蒙ることはなかったし、明治維新の戊辰戦争の際も寸前で難を逃れることができたし、先の大戦でも空襲は免れた。
 ああ、今後も山形が震災などに見舞われることがないよう、この騎馬像にあやかって祈りたくなる。
 ⇒ 7月22日の記事を参照
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20世紀最高気温の日に美女軍団が並んだ

2008-07-25 22:27:11 | イベント
 今日、7月25日の午後4時08分、中心商店街に浴衣姿の美女たちが並んで、何かをやり始めた。報道陣に水を浴びせているのだとすれば、ひどい言論弾圧ということになる。だが、彼女たちの表情は楽しげだ。
 水しぶきをかけられているマスコミの人たちも同じく楽しげだ。
 そして覚えたての山形弁で「ヤバツ~イ!」と叫んでいる。
 水滴などをかけられて少し驚いたた時に発せられる山形特有の感嘆言語だ。
このイベントは今年で3回目になるが、この時間に開始されるのは昭和8年の7月25日に40度8分の気温を記録したからである。
 この記録は昨年に多治見市と熊谷市に更新されたが、それまでは日本の最高気温であった。でも、20世紀最高気温という呼び方にしておけば、永遠に破られることはないし、地球温暖化が進展する以前の記録だから凄い暑さであった。
 さて、前回の記事では連日の暑さにうだる猫のことを紹介したが、昨日と今日は
最高気温が30度を下回り、特に今日は昨日から降り続いた雨のためか40度8分を17度2分も下回る23度6分しかなかった。
 雨で濡れている歩道の前に美女たちが並んで打ち水に励んでいた。雨という「天然の打ち水」に加えての打ち水でであった。道路もビジョビジョ、女性たちも美女美女であった。
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うだる猛暑、後期高齢者にはつらいよ

2008-07-23 22:44:44 | Weblog
 いよいよ「20世紀最高気温の日」はあと2日後だ。
 昭和8年のその日に40.8度を記録したが、昨年に多治見市と熊谷市に記録を更新され、山形市民の中には本気で悔しがった人も居たほどであった。
 もし、山形市が今年か近年中に雪辱を果たすのだとすれば、ボクのイノチはどうななるかわかったものでない。
 童顔のボクはこれでももはや完全に“後期高齢者”。
 35度以上の猛暑日はまだ一日だけだが、ともかくほぼ連日真夏日だし、盆地のためか湿気が滞留し蒸し風呂のような暑さだから、老体にはつらい。
 大気は不安定で、時々激しい降雨があるかと思えば、ゴロゴロと雷鳴も響き渡る。
 ボクも暑さから逃れるために少しでも涼しい所を求めて家屋の内外をジプシーのように渡り歩くが、どこでもすぐカミナリ様ではないがゴロゴロと横になるだけだ。
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ⑤

2008-07-22 21:19:47 | 郷土史

 馬見ケ崎川扇状地に発達した山形城下は地下水脈の層に浮かぶ街と前回の④で述べたが、地下ばかりでなく地上にも水分が漂い易い地帯である。
 梅雨明けしたはずなのに撮影した3日前も今日も湿度が高く、盆地なのに向こうの西方の山々の姿は霞んで見えないも同然だ。
 今日の写真の山形城三の丸外郭線(薄緑色の点線)の外側は現在ではすっかり市街地化しているが、江戸期には五日町と上町だけが城下町で、あとは農地または湿泥地であり、標高はこのあたりからやっと城よりは低くなっている。
 遠くに並ぶ桃色の点線は、天下分け目の関ヶ原の戦いがあった時に山形城攻略を目指す直江兼続が率いる上杉軍が進軍し陣営を張った所である。点線の左端が長谷堂合戦が演じられた所で、直江兼続は山形城の方向を眺めようとしたが、盆地一帯が霞でおおわれ目視が困難であったことから、霞が城と呼ばれるようになったと言われている。
 長谷堂城の攻略に手間取っているうちに西軍敗北の報が入り、兼続は山形城攻略を断念して米沢に撤退したのであった。
写真説明 左端は山形テルサ テルサから手前の広場と高層ビル群の地所はかつての東ソーの敷地 右側の青い屋根は市立三中の校舎
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ④

2008-07-21 17:26:01 | 郷土史

 今日は(とは言っても撮影は一昨日)霞城セントラル24階から南の方角を眺めることにしたい。
 手前の左側がJR山形駅ビル(上階がホテル・メトロポリタン)とドコモのビルであり、すぐその右側が駅構内である。また、右端の駐車場のすぐ脇に見える建物が山形テルサの一部分で音楽ホールと職安が同居している。
 むろん前方が南で、そちらに延びているのがJR奥羽本線で米沢・東京方向である。
 薄緑色の点線が山形城三の丸の外郭線で、標高としては左側がやや高く、右側(西側)に移るに従って標高はやや低くなる。
 線路のすぐ右側のビルがJRの社宅だが、昔は地下水が湧き出す湧水地帯で、それゆえ城の濠の水の供給にはまことに適地であった。
 左手のドコモ・ビルの送信塔のすぐ脇の緑地が八幡神社を中心とした寺社地帯で、山形城下町の南の外郭であった。また、寺社がある地帯は清冽な水脈が走っていた箇所で、すぐ内側の旧城下の八日町は酒や味噌醤油などの醸造業が栄え、また、出羽三山信仰の中の湯殿山参詣行者の宿泊で賑わった。
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この更地な~に? 地球温暖化に貢献!

2008-07-18 21:34:47 | Weblog
 当地方も梅雨明け間近。
 昨日は真夏日で、最高気温が35度3分。今日は集中豪雨。
 あと一週間で「二十世紀最高気温の記念日」
 そして8月ともなれば、背筋も凍る話を聞きたくなる。
 ところで、この更地は何だろう。
 ヒントは、以前は新宿の超高層ビルのミニチュア版のようなものが建ち並んでいた所であり、“住人”は睡眠が仕事のような方々ばかりだが、たまには巷をさまよって人々の背筋を凍らせるような仕草をするお方もおられたようだ?
 でも、ここのお歴々の“住居”は最近一斉に何処へか転居させられたようだ。
 そして、ここの多くの部分は道路となり、数多い車が通るようになって地球温暖化に幾分貢献することになりそうだ。
 気候の激変がもたらされれることを予想すれば、やはり背筋が凍る。
今日お勧めのブログ → 深い緑のもみじ公園池泉回遊式庭園と茶道(←クリック)
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ③

2008-07-16 23:29:35 | 郷土史

 山形城が天下の平城であるばかりでなく、城下町の方が城よりも海抜が高い箇所に位置していることは先に述べたが、これらの写真を見ただけで山形城と城下町が典型的な扇状地の広がりの中に築かれたこともわかっていただけよう。 現在、市内の主要河川である馬見ケ崎川は前方左端の山際を流れているが、その分流は幾筋も城下を貫き、そのうち御殿堰と言われる分流は城の濠に水を供給している。 また、至る所から地下水が湧き出し、城下民と武士たちの生活用水となった。 今でこそ地下水は枯渇の情況にあるが、この写真の撮影地たる霞城セントラル・ビルの建設地と周辺一帯を再開発する際に埋蔵文化財調査が行われたが、膨大な数の井戸の跡が発掘されているから、これらは家臣たちの屋敷の井戸だったようだ。まさに山形は地下水層に浮かぶ街であった。
写真説明 薄緑色の点線が三の丸の外郭線 その真ん中の樹林が三の丸の遺構の土塁に生えた樹木群 手前が三の丸ゾーン(二の丸ゾーンの一部は前々回の記事の写真内)で武家屋敷街の跡地(山形駅前大通りを挟む香澄町、幸町) 点線の向こう側が旧城下町 前方右手が西蔵王の竜山、真ん中に千歳山、左手に県境の雁戸山 
→クリックで写真拡大
 
[今日お勧めのHP]鮮やかな紅花と山形弁(←クリック)
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城下町を仰ぎ見る天下の山形城 ②

2008-07-16 04:08:31 | Weblog

 最上義光が山形城の大拡張をするまでの城下町は現在の城南町界隈にあったが、大拡張以後は城東部分に移動させたようである。こうして天下にも稀な城下町ならぬ城「上」町が形成されることになった。 山形の市街地部分は馬見ケ崎川扇状地部分に広がり、東西にゆるやかな傾斜をなしており、山形城は扇状地の突端ともいうべき箇所に築かれたが、濠の水を受給するにも、また地下水や湧水が豊富で武士たちが生活用水を得るにも適当な場所だったからと考えられる。
写真説明 旧城下町東部方面 遠方の山並みは奥羽山脈の神室岳、雁戸山 薄緑色の点線が山形城三の丸の外郭線 その向こうの市街地が旧城下町部分で七日町、本町、十日町 三の丸の外郭線のこちら側には武家屋敷が並んでいた
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